1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. #316 心を騒がせるな 26/3/8
2026-03-08 31:04

#316 心を騒がせるな 26/3/8

ヨハネ14:1-7からの礼拝メッセージ。2026年3月8日録音。

サマリー

本メッセージは、ヨハネ14章1-7節に基づき、「心を騒がせるな」というテーマで語られています。弟子たちがイエス様の不在や裏切り、自身の将来への不安に心を騒がせていた状況を踏まえ、イエス様は「神を信じ、また私を信じなさい」と力強く宣言されました。この言葉は、目に見えない神様と、その神が人となって現れたイエス様、そして共に住まわれる聖霊を信じること、さらにイエス様が用意してくださる天の住まいへの約束、そしてイエス様こそが道であり真理でありいのちであるという真理を通して、私たちの不安を解消し、平安へと導くものであると解説されています。日常生活の中でイエス様との新たな出会いを見出し、その救いを分かち合うことの重要性も強調されています。

導入:弟子たちの動揺とイエス様の言葉
ヨハネの福音書十四章一節から七節です。
あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんあります。
そうでなかったら、あなた方のために場所を用意しに行く。と言ったでしょうか。
私が行って、あなた方に場所を用意したら、また来て、あなた方を私のもとに迎えます。私がいるところに、あなた方もいるようにするためです。
私がどこに行くのか、その道をあなた方は知っています。
トマスはイエスに言った。主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたらその道を知ることができるでしょうか。
イエスは彼に言われた。
私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰も父の身元に行くことはできません。
あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになります。今から父を知るのです。
いや、すでにあなた方は父を見たのです。
以上です。
今日はこのところから、心を騒がせるな、と題して御言葉からお話をします。
皆さん、おはようございます。
今日は3月第2の日曜日、8日ですね。
だんだん日の出の時間も早くなりましてね。
今日は6時6分だったかな。もうすぐ今週中に5時台になるんじゃないかという感じで、春の日差しもだいぶ見えてきました。
今日は少し寒いですけれども、そんな中共に御言葉から耳を傾けることができますことを感謝します。
さて、今日の箇所、順序書始まりましたけど、弟子たちの心がですね、動揺していたんですね。
弟子の仲間の裏切りと挫折ですね。ユダとペテロのことですね。
そしてイエス様が不在になるというその予告を聞いて、動揺した弟子たちにイエス様が語られた言葉が今日の箇所です。
もし私たちが近くでも遠い将来にでも不安を感じて今を生きているなら、まさに聞くべき御言葉だと思います。
礼拝前もちょっとある方と話したんですけどね、本当にこれから日本も世界もどうなるのかと、不安も募るかもしれませんけれども、そんな折に耳を傾けることができればと思います。
第一の点:心を騒ぐ時こそ神とイエスを信じる
3つの点から話します。まず最初はですね、今日は心を騒ぐ時こそ神を信じてイエスを信じるということですね。
その冒頭の御言葉14章1節、皆さんちょっと読んでみましょうか。前にありますから。
あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
このイエス様の力強い宣言ですね。
先日ですね、あるホールに行く機会があったんですね。
そこを歩いている時、大体小学校の体育館の半分か、さらにその半分ぐらいのホールなんか行くと見えますよね、向こうまで。
向こうからですね、3歳ぐらいの男の子がパタパタって走ってきたんです。
そしたら、後ろからですね、お母さんらしき人、お母さんですね、追ってきたんですね。
私からしてこう一線で。男の子は、男の子ってどこ行くかわからない危なっかしさがあります。
パーって走ってきて、私の前を横切ってこっちに入ったんです。
3つ入り口があって、女子トイレと男子トイレと授乳室。
で、パーって行って授乳室に入ったのが見えたんです。
で、お母さん走ってくるんですけど、大きな柱があるから、目隠しになって息子さんがどこに行ったかわからなくなったんですね。
多分そうだろうなと思って、お母さん走ってきて、ここに私の前に来て探してるから、息子さん、ここ探知室、授乳室だよって言ったら、ありがとうございましたって入って行ったんですね。
これ、子供を探す親ですけども、皆さんがね、自分のお子さんあるいは子供の時にですね、夜中に目を覚ましたら、一緒に寝てるはずの親がいないと言って、泣いたりとか不安になる。
あるいはそういう子供と接したことがある、そんなことないでしょうかね。
私も何か記憶に、夜中目覚めたら親がいないということがあってね、もういたんですけど、不安になったことがあります。
そのように頼りにしている人がいない、いなくなるということは、私たちの心を揺さぶりますよね。
まさにイエス様が、これから去っていくし、あなた方は私のところについてこれない。
13章の34節でしたか、こう言ってますよね。あなた方は、私は去っていくけど、私を探すことになります。
しかし、私が行くところに、あなた方は来ることができません。
弟子たちの不安がどれほど大きかったかっていうことが想像つくと思うんですよね。
頼りにしているイエス様がいなくなってしまう。
さらに、先ほども言いましたけども、私たちの中から裏切り者が出て、イエス様が渡されるんだ。
さらに弟子の筆頭であり、もしかしたら他の弟子たちが頼りにしていたペテロでさえ、
あなたが行くなら死んでもついてきますと言ったのにもかかわらず、あなたは私のことを知らないと3回も言うんだよと言って、
その弟子筆頭の挫折を予告された。
実はそういう文脈の中で今日の言葉を語られているんですね。
どれほど弟子たちの心が騒いでいたかということが皆さんに想像つくかと思われます。
他の弟子たちもですね、ペテロと同じように、自分が将来イエス様がいなくなった後、
簡単に言うとやっていけるのかな、そういう不安があったんじゃないかと思うんですね。
自分の心もとなさに、私もそういうとこありますけど、将来が不安になるっていう弟子たちのそんな思いがあったんじゃないでしょうかね。
先ほども少し申し上げましたけども、世界の情勢を見るにつけ、あるいは日本の育成を考えるにつけ、将来不安を感じたり、心が騒ぐことがあるかもしれません。
そんな弟子たちと、そして私たちにイエス様は力強く宣言しているんですね。
あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
なぜこれが、将来に不安を感じている、よりどころのであるイエス様がいなくなってしまって、自分の心もとなさに不安を感じている弟子たちの心の処方箋になるのか。
そんなところを少しだけ考えますけども、イエス様はですね、目に見えない神様が人となって、弟子たちの前に現れているわけです。
だから弟子たちの心境になって考えると、あなた方は目に見えない神様を信じてきたし、信じていますね。
そして心が騒いでいるけども、今目に見える私を神として信じなさいという、そういういのち令にもこの言葉は約束の言葉として聞こえるんですね。
当然、心騒いでいるならば今まで通り神を信じなさい。そしてその神である私を今見ているんだから信じなさいという、そういう強いメッセージになっています。
当然今まで言っていますが、私たちにとっては弟子たちと同じようにイエス様を見ることができませんが、先ほど示しましたが、イエス様のことはマタイの一書23節で
インバネレの神、インバネレ教団なんていう話があると先ほども知ったんですけど、インバネレの神と言われています。
どういう意味ですか、インバネレの神。
神が共におられる。イエス様というのは目に見える神であるけれども、共におられる神だということにこのインバネレという言葉が記されています。
ですから今私たちは目に見えないけどイエス様は私たちと共におられるんだと信じることができるわけですよね。
さらにこの後ですけども、国別説教の中で、助け主を使わします。いつまでもあなた方と共に済むためですと言って、
聖霊がイエス様が天に帰られた後、下られて信じる私たちの心に、私たちと共におられる神、慰め主、励まし主としておられるパラクレートスという、
聖霊が今文字通り私たちの中に住んでおられる、共におられる神だという、そういう約束があるわけですよね。
ですから今私たち心の不安を覚えるとき、将来に思いを馳せて、自分の頼りなさにおいて不安になるときにですね、心を騒がせない。
そのために共におられるイエス様、共におられる聖霊様を信じ続けていく。
それが分かりきったことですけれども、それがどういう意味かということをですね、今こそまさにかみしめて日々味わっていく。そんなときじゃないかなと思うわけですね。
第二の点:住まいの約束
さあそういう共におられる神について、意味を考えかみしめ味わっていくんですけれども、イエス様はですね、続けてなぜこの約束が弟子たちに私たちに必要なのか、意味があるのかということを語っているんです。
それが2番目、住まいの約束ということにつながっていくんですね。
14章の2節3節でこう語られました。
なぜ心を騒がせずに、父と私を信じるべきかということで、こう言っています。
私の父の家には住むところがたくさんあります。私が行って、あなた方に場所を用意したら、また来て、あなた方を私のもとに迎えます。
私がいるところに、あなた方もいるようにするためです。
このようにイエス様は神を信じて、心を騒がせる必要がないという理由を、住まいという観点から語られているんですね。
たまたま先日、興味深いニュースを耳にしました。
群馬県が日本で一番移住したい県に選ばれた、舞橋市。
昨年2月の調査で1位になったんです。
それまでは4年連続静岡県だったんです。
それなのに群馬が1位になったと言ってですね、群馬ちゃんも喜んでるんじゃないかと。
この改挙の理由が何でか聞いたことあります?
東京近郊の人が、群馬に行けば東京に帰れるからそこに住みたい。
なぜなら、東京の地価が、住まいを買うにあたっての価格が上昇しているからだ。
だから東京で住む、家を買いたい人は買えないから、群馬に住みたいという人が多くなっている理由だそうです。
こうやって、若い世代については、今いるところに住むのか将来どこに住むのかということを考えたり、あるいは不安になるかもしれません。
あるいは、私の世代なんかはね、将来どこに住むのか。
次の住み家はどこかということで考えたり、不安になるかもしれないですね。
そんな中にですね、イエス様は、先ほど繰り返してますが、
イエス様がいるところとしていたイエス様がいなくなってしまって、そこに行けない。
そして自分たちが裏切る弟子のように頼りにならないんじゃないかということで、将来の不安を覚えている弟子たちにイエス様はこういう約束をされたわけですね。
まさに、あなた方の住まいを備えたら迎えに来ますよ。
将来の住まいや居場所を不安を解消する約束としてイエス様は述べられたように思うんですね。
で、天国とは一体どういうことなのか。
天国よりどこ一のおいでって歌われましたけどね。
ある学者はですね、こんなこと言ってますね。
天国とは私たちが家を持ち、市民として住む場所なのです。
私たちが地上で知っている住まいと同じように具体的で確かなものなんですよ。
言ってしまえばどういう形かわからないんです。
でも私たちが地上で予想するような実際の住まいと具体的で確かなものなんですよ。
そして、ヨハネの福音書ではですね、いくつか特徴がありましたけど、その一つとして冒頭から
これ覚えてます?道地と御子の親密な関わりを何度も言ってますよね。
私と道地が一つだとか、一番最初に道地と御子がロゴスという形ですけど、共にいた。
そういう道地と御子の親密さを繰り返し教えています。ヨハネの福音書は。
そしてイエス様が復活したら、そこの道地の下に戻って天に昇っていってしまうと言っているわけですよね。
つまり道地と御子の親密な関わりの中に、そこにまた入ると言っているんです。
しかし今日のこの約束を見れば、私たちをその道地と御子の親密な関わりの中に迎え入れる。
そのために将来迎えに来るんだよ、そういう約束なんです。
今出したからもう一回繰り返しになってしまいますのでもう一回言いますけど、ヨハネの福音書では冒頭から宣言から始まって
父なる神と御子イエス様の親密な関わりについて繰り返し教えられてきました。
そしてイエス様は復活してその場所に戻っていきます。
でも今日の14章2節3節の言葉で、イエス様は私たちをその交わりに迎え入れるために将来迎えに来るというそういう約束をしてくださっているんですね。
第三の点:道であり真理でありいのちである
しかしですね、弟子のトマスが言いました。
主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。
これを読んでみましょうか。
どうしたらその道を知ることができるでしょうか。
弟子のトマス。トマスの特徴分かります?
悲観者トマスのトマスですけど。
トマス、ヨハネの福音書最後に出てくるじゃないですか。
私はイエス様の釘のハットに指を差し入れないと信じません。
それで見ないと信じないのか、見ずに信じるものは幸いだと言って怪異的な人だったんです。
だからそれと同じように、実はトマスはですね、イエス様が行く父の身元というのはこの地上にあると思ったんです。
だからどうやったらそこに行けるんですか。その道を教えてください。
そこについていきますという、そういう意味でこういうたずねたんだと思うんですよね。
まさに地上のこと、目に見えることだけで考えている。
でね、それもしかしたら私たちの言葉の代弁であるんじゃないかなと私は思ったんですね。
まあ、天の住まいがどういうところか分かりません。
どうやってそこに行くのかは分かるけども、はっきり分からないから知りたいという。
まあ悪く言ってしまうかもしれませんけども、もしかしたら本当に地上のことだけに囚われて、天の御国でイエスと共に過ごすということまで思いが馳せられない。
この地上のことで本当に心を煩わせているということの代弁のような発言だと思うんですよね。
じゃあそういう中で、トマスと同じようにもし私たちもこの天の御国へ導かれていくということ、その道についてどうしたらいいかということですね。
疑問を持っているならば、次のイエス様の言葉に耳を傾けるべきではないかと思うんですね。
3番目、道であり真理でありいのちであるということですね。
イエスが言われた、読んでみましょうか。
私が道であり真理でありいのちなのです。私を通してでなければ、誰も地の御元に行くことはできません。
トマスはどうやってこの地上の道を歩いていったらいいんですかって言ったんですけど、イエス様はそれをちゃんと答えてるんです。
私が道だよ、行く先が天だよ。この言葉はとても有名ですよね。
イエス様はここでまさに自分こそが道だと宣言してくださったんですね。
そして、ここの意味は後で詳しく解説します。イエス様が道であるというのは、イエス様こそ弟子たちも信じる私たちを天の御国へ導いてくださる道なんですよ。
そして、父なる神様へと導いてくださる道なんですよ。そういう救い主ですよという宣言なんですね。
そして先ほど言いました、道と御子の親密な交わりに私たちを導き入れてくださる、そういう救い主だからこそイエス様はそこに至る道なんですよという意味なんですね。
実はこの御言葉はある繰り返しになっているんですね。
実はイエス様が道であり真理でありいのちなのですというのをこう分けて考える人がいるんです。
イエス様は道です。なぜならイエス様は真理だからです。そしてイエス様は道です。なぜならイエス様がいのちだからです。
こういうふうに理解できると言われているんですね。
それを少しここでも出しましたけれども、解説します。前後しますけど、これまでイエス様が真事であるとか真理であるというのは、恵みと真事に見せておられたという言葉にあるようにずっと語られてきましたよね。
イエス様が真理であるということは語られてきた。それからイエス様がいのちであるということも語られてきましたよね。私はいのちのパンです。
あと、ヨハネの冒頭でもこの方にいのちがあった。この方は人のいのちの光であった。
こういうイエスが真理であるいのちだということが明らかにされてきましたけど、初めてここで私は何々であるという宣言として、私は道であるというイエス様の正体が明かされてきたんです。
その意味を考えますけど、実はイエス様が真理であるということはイエス様が道であるということと関わりあるということをこういうことで言えるんですね。
そのイエス様が真理であるということにはいくつかの意味があります。特にここに注目したいんですけど、イエス様が真事の神である。この真事と真理というのは同じ言葉です。ギリシャ語のアレーセイヤ。
イエス様が真事の神であるということを意味しています。もう一つは、イエス様は真事の神様を私たちに明らかにするという意味があります。
目に見えない神様がぼやーっとしていたのを、このイエス様を見ることによって、この人の言うこと、この人がなさることを見て、これが本当の神様だというふうに神についての真理を知ることができるという意味で、イエス様が真事だということですね。
そして、だからそのことからイエス様が神に至る真事の道であると言えるわけですね。もう一つはですね、イエス様が、ちょっと哲学的なんですけど、人生の真理を明らかにするという意味からも考えられるんです。
実は神様に作られた人間が、神の家へと導かれることに、人間の本来の目的があるんだ。人間の本来の存在する意味は、神のもとに帰ることなんだという、それが真理だというんですね。
そこに行きたいがために、いろんな心の植え替わりがあって、いろんな道を探ろうとする。
でもその神に到達する、神のもとへ、神の家へ帰っていく真事の道、真理の道こそイエス様なんですよ。
イエス様を信じれば、私たちの存在の目的である神の身元に本当に帰ることができるんですよという意味で、イエス様は人が目指すべき神の住まい、私たちの本来の居場所である神の場所へと導く道なんだという意味があります。
ちょっと難しいかもしれませんね。レジュメを読んで後で考えたり、思い描いたり。そういう意味でここまで言っているのは、イエスが真理であることイコールイエス様が道だということを考えている。
そして2番目、ここは出ていないんですけども、イエス様がいのちであるからイエス様が道であるというのはもうお分かりの通り、私を信じる者は決して死ぬことがなく、私を信じる者はいつまでも生きるというね。
ヨハネの十一章二十五節を言っているように、イエス様を信じれば私たちは永遠のいのちをものにすることができる。繰り返しますけど、ヨハネは深く広く言い直しているんですよね。
永遠のいのちは何ですか。それは神と共に住まうことだとも言い換えられますから、つまり神のもとに私たちが導かれて、そこで永遠のいのちを得ることができる。そういう神のもとへ私たちを導いて、私たちを救うことができるイエス様。
永遠のいのちをそうやって与えることができるイエス様は、永遠のいのちに至るまことの道なんですよという、そういう意味がここに込められているわけなんですね。
結論:信仰生活の醍醐味と実践
人はどうやったら永遠に生きられるんだろうかってね、求めていく。余談になりますけどね、よく昔の共産国なんかに行くと、その銅像が建っているじゃないですか。あるいは王様の像が建ってますよね。何でああいう像を建てるかって、権力者が。
あるいは名をなこすじゃないですか。ジョン・ケネディーなんとかっていうのに自分の名前つけたらどっかの大統領にいるじゃないですか。何でそういうことをするかっていうと、それは永遠に生きたいから。自分の形を残して永遠に生きるっていう証にしたいっていうらしいんですよね。
だから、人には永遠に生きたいっていう願いがあるけども、そこに本当に導くことができるのはイエス様ですよ。私たちはそれを知れている幸いがあるんですよっていうことを今日覚えておければと思います。
3番目はですね、よく知っていることを広く深く皆さんにご説明したつもりなんですけども、このように私が道であり真理でありいのちなのですという言葉はですね、
私たちのイエス様が真理であるからこそ道である。イエス様がいのちであるからこそ道なのであるっていう、そういう新しい時点を私たちに与えるんですね。
イエス様が真理である、いのちであるってことは、イエス様が本当の道だっていう、そういう新しい宣言は私たちの信仰にですね、新しい息吹を吹き込むそういう宣言でもあるんですね。そして私たちの信仰生活を豊かにする宣言でもあるわけです。
先ほども言いましたが、弟子の目の前にいたイエス様は、目に見えない神様が、肉体を取った誠の神様でしたね。そしてそのイエス様はインマネルで共におられる神様。私たちの目には見えませんけど、今、私たちと共におられる神様です。
そして私たちの将来にも関わってくださる神様ですね。私たちの幸いはですね、私たちはイエス様を信じているがゆえに、イエス様ゆえに誠の父なる神様のもとに行くことができている。人生の最終目的を得ることができている、向かうことができているっていう幸いなんですね。
この言葉、イエス様のこの宣言をですね、私たちは日常生活でどういう意味があるのかということをやはりかみしめて、味わって日々を過ごしていくべきではないかと思うんですね。
クリスチャン生活の醍醐味なんですか?いろいろあります。でも今日の御言葉から言えるのであればですね、私たちの日常生活の中に、イエス様が救い主として確かにいてくださったんだな、あの時いてくださったんだなってことに、後で気がつくこと。
あるいは、そういう司令の中で、今ここに救い主としてイエス様がここにいてくださっているんだなっていう、そこに気がつくこと。日常生活の中でイエス様を見ていたユダヤの人たちは、こんなところに救い主がいるはずがないと言って、イエス様を拒みました。
でも私たちはそうではなくて、今いる日常生活の中で、ここにイエス様の救いがあった。あそこで私はイエス様と出会っていたんだ。そんなイエス様が心の中に住んでおられるんだってことにですね、その時気づいたり、後で思い至る。
それはですね、新しいイエス様との新鮮な出会いということが、私たちクリスチャン生活の醍醐味ではないのかなと思うんですよね。
ですからその出会いに気づく日々、そのような日々を過ごしていく。そして、こういうところにイエス様の救いを感じました、覚えましたってことをですね、お互い分かち合えるような、そんな教会であり、お互いでありたいと思うわけです。
この皆さんよく聞き慣れた神言葉を、日々の生活の中で味わいかみしめていき、イエス様と出会っていく。そして、イエス様と自信のある神様を信じてですね、心騒ぐ中ですね、イエス様にある平安を受け止めていく。そんなお互いでありたい、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。旧約聖書の偉人が、神がここにいる、その子に気がついたと言って呼ぶが、あなたを見出して感謝の言葉を述べた、そのことを思い出しますけど、どうぞ私たちがまさに将来の不安を覚えるときに、
自分の心もとなさに不安を覚えるときに、このイエス様を信じ、神様を信じ歩んでいくことができますように。そしてどうぞ、イエス様がお示しになる真理や、イエス様が与えてくださった永遠のいのちの幸いをかみしめることができますように。
自分の歩いている道をどうぞ、イエス様に会って確かめ、救いを実感し、喜びまた分かち合い証していく。そのようなお互いでありますように、教会でありますように、どうか私たちを導いてください。
今日から始まる一週間の歩みも、あなたとの出会いを期待し、あなたにお祈りして、イエス様のお名前によってお祈りします。
それでは一本ほどで結構ですので、御言葉イエス様に応えて、黙祷する時間をお持ちましょう。
31:04

コメント

スクロール