1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. #309 光を信じて歩む 26/1/18
2026-01-18 27:16

#309 光を信じて歩む 26/1/18

ヨハネ12:27—36からの礼拝メッセージ。2026年1月18日録音。

サマリー

このエピソードでは、ヨハネの福音書12章の一節から、イエスの受難に向かう言葉とその信仰生活への影響について考察されています。特に、光を信じることや、弱さからの祈りについての教えが強調されています。また、イエスの罪のない性質と、その神性に基づく人間としての苦しみについても考察されています。イエスに近づくことで得られる希望や、彼の教えに従って光の中を歩む重要性が強調されています。日常生活におけるイエスの存在とその光を信じて歩むことの重要性についても語られています。聖霊を通じて私たちと共にいるイエスの存在を再認識し、その光の道を歩むことの大切さが強調されています。

イエスの栄光をあらわす
ヨハネノ福音書12章27節から36節を読みます。
今、私の心は騒いでいる。何と言おうか。父よ、この時から私をお救いください。と言おうか。
いや、このためにこそ、私はこの時に至ったのだ。
父よ、御名の栄光をあらわしてください。
すると、天から声が聞こえた。
私はすでに栄光をあらわした。私は再び栄光をあらわそう。
そばに立っていて、それを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだ、と言った。
他の人々は、御使いがあの方に話しかけたのだ、と言った。
イエスは答えられた。
この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方のためです。
今、この世に対する裁きが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
私が地上からあげられる時、私はすべての人を自分のもとに引き寄せます。
これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して言われたのである。
そこで群衆はイエスに答えた。
私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、
あなたはどうして人の子はあげられなければならないと言われるのですか。
その人の子とは誰ですか。
そこでイエスは彼らに言われた。
もうしばらく光はあなた方の間にあります。
闇があなた方を襲うことがないように、あなた方は光があるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
自分に光があるうちに、光の子供となれるよう、光を信じなさい。
イエスはこれらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
以上です。
弱さからの祈り
今日はこのところから、
光を信じて歩む、無難して、という言葉からお話をいたします。
みなさんおはようございます。
今日は1月18日ですが、昨日17日は阪神淡路大震災から31年目ということで、
いろいろテレビでもツイートのことをしたりしておりました。
そんな中ですけれどもね、寒い日の中で、
今日は少し、昨日今日日は暖かいですね。
その中ともに守れることを感謝しております。
さて、今日の箇所もですね、先週もお伝えしましたが、
ヨハレナ福音書独特の出来事といいますか、言葉が現れている箇所です。
そんな中でですね、今日は、後でも出てきますが、
受難に向かっていくイエス様の言葉、そこからですね、
私たちの日々の信仰生活に関わる、
糧となるようなことを学んでいきたいと思います。
最初に、栄光をあらわす、挙げられるという特別な言葉に少し触れ、
2番目は、弱さからの祈りということで、イエス様の祈りから学びます。
3番目はですね、光を信じ、光の中を歩むということで、
私たちの日常生活と関わることを見ていければと思います。
まず一番最初ですね、絵が出ましたけども、
天から声がしている場面の絵ですね。
道しなる神様から、私は栄光をあらわしたし、これからもあらわそうということで。
一番目はですね、まずその、栄光をあらわす、挙げられるとは、ということを見ていきます。
ちょっと読んでみましょうか。12章28節。
父よ、御名の栄光をあらわしてください。すると、天から声が聞こえた。
私はすでに栄光をあらわした。私は再び栄光をあらわそう。
ご存知のようにですね、キリスト教とか聖書には、
私たちが覚えておく特別な言葉や言い回しというのがありますね。
その言葉を知っておけばですね、私たちの聖書理解とか信仰生活が深まるわけです。
日常的な例としましてね、この医療用語のエビデンスという言葉がありますね。
エビデンスなのか、エビデンスなのかって思って、こまちでやってますけども。
それはですね、本来は科学的根拠、根拠という単純な言葉です。
でも、医療的な専門用語としてエビデンスがあるということを言うとですね、
この一言だけで受けている治療とかですね、
とっている医療品にその効果に科学的な根拠があるということですね。
薬なら臨床のね、経験された方もいると思いますけど、きちんとした臨床試験を経てですね、
効果がある薬だということで、エビデンスがある薬だというふうに言えるわけです。
こういう一言で、本来の単純な意味から踏み越えてですね、専門的な言葉になって、一言で意味を表すという言葉。
それは当然聖書の中にもあるということで、今見ていくんですけども。
その一つはですね、栄光を表すという言葉ですね。
この栄光を表すという言葉は、先週も話しましたが、イエス様の十字架を表すわけです。
そしてそのイエス様の十字架から始まる復活と天の御座に着座されるという、最終ゴールがですね、天の御座の着座というところに至りますので、
その十字架とそこに至るまでの一連の出来事を栄光と言います。
そしてもちろんですね、ヨハネの福音書の中で証拠としてのしるしと言われていましたが、
イエス様が神に使わされた救い主である、御父と一つであるということを表すしるしとしての奇跡もですね、
それをなさったしたということが、栄光を表すということです。
ですから今、父なる神様がですね、私はすでに栄光を表した、再び栄光を表そうという言葉の意味にはですね、
これまで父なる神様はイエス様の証拠としてのしるしを通して栄光を表した。
これからは十字架とそこから始まる栄光を表すという言葉でした、意味なんですね。
そしてさらに、こういう宣言なんです、この言葉は。
天からの声、父なる神様の声は宣言でした。
それは、いよいよ時が来て十字架のあがないの業がこれから始まる。
この受難は父なる神様の御心であるという。
受難はあってはいけない出来事かもしれませんが、それは十字架のあがないの神の御心の業だ。
そして今まで見てきましたが、イエス様の逮捕が免れたのは時が来なかったから。
でもいよいよ時が来て、イエス様が問われられる時が来た。
それは十字架への時だ、そういう意味で父なる神様がここでそういう声を発したということが一つあります。
そしてもう一つは、あげられるという言葉です。
これは先ほどの根拠と同じで、あげられるという言葉だけを持ってイエス様の十字架を意味するわけですね。
3章を見るとですね、
モーセが蛇をあげたように、人の子もあげられなければならないという言葉が出てきます。
そのようにあげられるというのは、イエス様が十字架にかかるという意味ですね。
ですからこの32節の言葉、私が地上からあげられる時、私は全ての人を自分のもとに引き寄せますというのはですね、
イエス様の十字架を信じる人が救われるという意味でありますし、
そして後にイエス様と共に栄光を受ける、そういうことを予兆している言葉という意味があるわけなんですね。
最初の点、簡単に触れましたけれども、何が言いたかったか。
実はですね、このような聖書の特別な用語とか言い回しを私たちが知っておくと、私たちの信仰が豊かになる。
あるいは人から説明されなくても、聖書を読んだ時にこれだという気づきがあって、聖書理解が深まっていくわけなんですね。
よく聖書の中ですね、特に新約聖書の中でこういう教えがありますよね。
知識において成長しなさいとか、愛には知識を加えなさい。
ホロサイビトの手紙の1章9説とかですね、フィリピンの1章9説とか、第二ペトロの1章5説にそんな教えがあります。
私たちは信仰は大事ですけども、そういう知識を持つと信仰理解や信仰も深まるということを、こんなことを最初の点から覚えておいていただければと思います。
それで2番目ですね、私たちのさらに信仰生活と関わることを見ていきましょう。
光を信じて歩む
弱さからの祈りというところを見ていきます。
今日の12章の27節から28節前半ですね。
ちょっと長いですけど読める方、頑張って読んでみましょうか。
イエス様の言葉ですね。
今、私の心は騒いでいる。何と言おうか。
父よ、この時から私をお救いくださいと言おうか。
いや、このためにこそ、私はこの時に至ったのだ。
父よ、御名の栄光をあらわしてください。
この祈りね、あるキリスト教の用語みたいなことで何か思い浮かびません?このお祈り。
何とかの祈りってあるじゃないですか。
ゲツセマネの祈りですね。
実はこれはゲツセマネの祈りのヨハネ版だと言われています。
またイマルコルカにある。
実はこのイエス様の祈り。
ここからですね、こういうことがわかるんですね。
イエス様は私たちの苦しみや葛藤と同じものを
神様であられたにもかかわらず体験しておられた。
痛みを覚えられた。
そんなことがこの祈りからわかるんですね。
どういうことか。
十字架が、このためなりがあるんですけども
いや、このためにこそ私はこの時に至ったと言っているように
十字架にかかるべきだということがわかっていながらもですね
できればそれを避けたいという
そのような葛藤がここで見て取れるわけです。
この透き通ったワイングラスね、見たことあるかと思います。
江戸切子とかそうと思ったんですけど、これがわかりやすいかな。
この透き通ったガラスコップのようにですね
イエスの神性と人間性
イエス様は罪がない、清いお方ですね。
でもこの透き通ったガラスのように罪のない
聖なる神なるイエス様です。
でもこの、皆さんどうですか?
拭いてて落として割ったことありません?
落とすとね、どんな綺麗なコップでも割れてしまうように
実はイエス様もこの罪がない清い神様でありながら
人間としての弱さや脆さを体験しておられた。
そういうことがこの祈りからわかる。
実はそのイエス様の葛藤や苦しみがですね
ヨハネの福音書でも言っている神が人となられた。
言葉は人となって私たちの間に住まわれたと
1章の18節だったかな、あるように。
このようなイエス様の葛藤や苦しみがですね
神なるお方が人となられてこの地上を歩んだという意味
と言いますかね、意義を表しているわけですね。
実はこのことをですね、新約聖書のヘブル人の手紙の5章7節で
このイエス様についてこういう表現しているんですね。
このようなゲステマネの祈りだと思うんですけども
イエス様のこの時の心情と言いますか姿というかありを
ヘブル5の7話がこう表現しています。
キリストは肉体を持って生きている間
自分を死から救い出すことができる方に向かって
大きな叫び声と涙を持って祈りと願いを捧げ
その経験のように引き入れられました。
まあそういうイエス様の神でありながら人となる
苦しみを拝見された様子
その祈る様子がここに凝縮されて語られているわけです。
そしてその上でですね、実はこの同じヘブル人の手紙
このちょっと前の4章のところでですね
このように私たちと同じ人間として弱さや苦しみを
イエス様は神にもかかわらず味わうことができたから
私たちは恐れることなく大胆にイエス様に
神であるイエス様に助けを求めることができるという
そういう希望の言葉が生まれてくるわけですね。
何度も引用してますが
私たちの大祭司、イエス様ですね
私たちの大祭司は私たちの弱さに
同情できない方ではありません。
ここから読んでみましょうか。
ちょっと乱暴な言葉かもしれませんけどね。
よくこういうことあるじゃないですか。
病気になった人を友達にするなと。
病気になった人っていうのは
その痛みや苦しみがわかるから
私は丈夫なんですよ。
ちょっと辛いんですけど。
病気を体験した人っていうのは
人の痛みや苦しみがわかるから
そういう人を友にすると
あなたが苦しい時、困った時に
寄り添ってくれますよという意味ですね。
イエス様はだから神であられましたけども
全ての点で私たちと同じように
罪が犯さなかったけど
試みを受けられたわけです。
イエスの教えと信頼
だから私たちが苦しい時や弱い時に
イエス様の前に行った時にですね
私もわかるよと。
そして私たちを助けてくださる。
だから私たちは恐れず
大胆にですね
今天におられましたね。
祈りの恵みの座に近づこうではありませんかと
ヘブル議長は進めています。
皆さん機会があればね
ヘブル議長の手紙13章までかな。
長いんですけどね。
5章くらいまでちょっと読んでみると
面白いと思います。
30分くらいで読みますからね。
そんなことも言っておきましょう。
そのようにイエス様のこの
ヨハネ版の月世までの祈りから
私たち同じ苦しみを
味わわれたイエス様
その姿があります。
ですから私たちもそのイエス様のもとに
大胆に近づくことができるということが
2番目ですね。
3番目
より私たちの
日常に関わることを見てみたいと思います。
3番目。光を信じ
光の中を歩む。
12章の35から36の言葉
そこでイエスは彼らに言われた
もうしばらく光はあなた方の間にあります。
闇があなた方を襲うことがないように
あなた方は光があるうちに歩きなさい。
ここからだけ読んでみましょうか。3
闇の中を歩く者は
自分がどこに行くのか分かりません。
自分に光があるうちに
光の子供となれるように
光を信じなさい。
ちょっと前後しますがね。
なぜイエス様がこのようなことを
言われたかというと
この直前にですね
群衆家というか人々が
簡単に言うとですね
メシアは十字架に挙げられて
死んでしまうということがないのに
なんでまあ人の子って言ってますけど
メシアが挙げられて死ぬんですか
って言ってるんですね。
それに対して
イエスは答えないで
こういう答えをしています。
さらにちょっと脱線と言いますか
脇道に反れますと
彼らがですね
メシアが死なないといったのは
半分正解で半分間違ってるんですね。
というのは
彼らの勝手な聖書理解で
メシアは死なずに
こないだ言った
ダビデの再来としてですね
ローマから私たちを救うという考えで
これに固まっているわけです。
何が言えるかというと
そこからさっき言ったように
正しい知識をね
やっぱり聖書から
受け取って
その上で彼らも
イエス様をメシアだと信じるべきだった
ということをちょっと言いたかっただけです。
はいちょっと脱線しましたけど
本題ですね
このイエス様のこの言葉
ここでですね
歩くという言葉ですね
これも特別な用語で
キリスト者として
この地上で生活をするとか
天に向かって
巡礼の道を歩く
というような言葉ですね
イエス様を信じ続けて
生きる弟子の道を歩く
ということで
そんな中でですね
この言葉を通して
私たちはですね
この世において
イエス様を信頼して
そして光の子として
イエス様の示す道を
歩いていくように
召されている
呼ばれている
イエスに対する拒否
教えられているわけです。
その前にですね
この直接イエス様の言葉を聞いた
当時の人々にとって
この言葉の意味が
どんな意味であったか
ということで見ていきますけれども
これはですね
イエス様はですね
光としてこの世に来たというのは
目に見えない神様を
人々に解き明かすために来た
そしてイエス様は
彼らの目の前で
いろんな奇跡を行ったり
そして言葉で教えたりしてですね
目に見えない神様について
その目に見えない神様の救いについて
明らかにしたという意味で
光なんです。
でも
闇が来るというのはですね
その目の前にいる神であるイエス様が
十字架にかけられてしまう
取り去られてしまう
そして天に帰ってしまって
彼らはイエス様の言葉も聞けずに
イエス様を見ることもできない
そして闇が来る
だから今私がここで教え語っている間に
私を信じなさいという
そういう意味が
当時の人にとってあったわけですね
皆さん気が付いたように
ここまでヨハネの文書を見たときにですね
たくさんの人がイエス様を拒んできました
アリザイヴィとサイシ達をはじめですね
目の前でイエス様の奇跡を見ても
イエス様を信じなかった
堅くなさがあったわけです
でもね私最近ね
こういうことに思い立ったんですね
彼らはですね
まさか目の前にいるこの男がですね
天地創造を作った神である
唯一まことの神であるなんて
簡単に信じられなかったと思います
彼らが歩いている市場に現れたりですね
その目の前にいるこのイエスという
しかも悪い言葉で言えば
サイシでもラビでもない
どころままの骨か分からない男がですね
まさか天地万物を作った
唯一まことの神だ
簡単に信じられなかったんだと
思い立ったんですね
でそこから3位ですね
自分について考えてですね
穴勝ち私にも似たようなところがある
気がついたんですね
例えばね
私たちはもちろん今イエス様を見ることができません
でもイエス様は
世の終わりまでいつもあなたと共にいるって
マタイの28-20とかで約束してるじゃないですか
インバネールって言うでしょ
共におられるイエス
でも自分を思い返してみるときにですね
そうなのかな
例えば自分がスーパーで買い物してるとき
イエス様の共 Presence
そこにもイエス様いるわけですし
仕事してる職場にもですね
イエス様おられる
あるいは家にいてもですね
そこにイエス様おられるはずなんですよね
あるいは
誰かと話をしているときとか
教会の外で作業したり仕事をしている
教会に直接関わらないことをしていてもですね
イエス様は私と共にいてくださるんですよね
誰かと話してるときも
あるいは心配ごとに悩んでるときもですね
その心の中にイエス様は
聖霊によって私の中にいてくださるわけですよね
でも何かそんなこと忘れるし
時にですね
そんなことあるのかなって
疑わないといけないんですけども
確信できない
そこまで言っちゃダメですけど
そういうふうに
信じきれてるのかなと思うような
自分の弱さがあるわけですよね
でもそれ自分が
気づかなくても
あるいは
そういうふうに認められなくても
確かにイエス様は一緒にいてくださるし
私の心の中に
聖霊と共に
聖霊によってイエス様が
住んでくださっているっていうのは
動かない事実ですよね
それに気づいたときに
それは彼だろうか
当時の人の目の前にいるイエス様を拒んだ不信心から
今の自分を考えたときに
私の日常生活の中に
どんな時にもイエス様って
いてくださるんだなっていうことに
気がついたっていうことなんですよね
私たちが気づかなくても気づいても
空気ってあるわけでしょ
吸って酸素があるから
私たち生きてるわけじゃないですか
同じように私たちが気がつかなくても
イエス様は私たちと共にいてくださるし
聖霊によって私たちの中に
ご臨在くださって
私たちを生かしてくださっている
そういうことが
もっと素直に大胆に信じて
いいんだなっていうことに
本当に最近思い至ったわけなんですね
ですから
私たちが下を向いて
歩いてた時でも
太陽が空から照らしているように
イエス様はいつも私たちの行く道を
照らしてくださっているわけですよね
だからそういういつもいてくださり
心の中にイエス様がいてくださる
そういうことを
そういう歩みにおいて生きるってことが
光の中を歩み続けるっていうことだと
私は思うし
皆さんもそうじゃないかなと思うわけなんですね
私たちは気づこうで気づかないと
イエス様と共に生かされているし
イエス様の光の内を
歩んでいるわけなんですね
光の中を歩む
その光のあるイエス様に目を止めたり
共におられるイエス様に
思いを馳せて信頼して
まさに光の子として歩んでいくですね
お互いであり教会でありたいと
改めて思うわけであります
最後に先ほどの
ヘグルヴィトの手紙から
イエス様でありをちょっと紹介しますね
キリストは御子であられるのに
王家になった様々な苦しみによって
従順を学び
完全なものとされ
御自分に従う全ての人にとって
永遠の救いの源となりました
ヘグルの5章8節から10節のバスティですね
このように共におられて光であるイエス様を信じていくお互い
そういうことを覚えてまた最後
ヨハネの12章の35節の御言葉を読みましょう
もうしばらく光はあなた方の間にあります
闇があなた方を襲うことがないように
あなた方は光があるうちに歩きなさい
お祈りしましょう
私たちの救い主であるイエス様
あなたのお名前を賛美いたします
私たちはあなたを見ることができませんが
あなたはいつも私たちとともにいてくださり
御聖霊により私たちのうちに
御臨在してくださっていることを感謝いたします
そして私たちの光として
私たちの行くべき道を照らしてくださっていることを
信じて感謝いたします
どうか共におられるイエス様
また私たちを照らす光であるイエス様
そのイエス様御自身とその御言葉に私たちが
目を開かれまた目を止めて歩んでいく
光の中へ歩んでいく
お互いであり教会でありますように
どうか導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
それでは1分ほどイエス様にお答えして
黙祷する時間を持ちましょう
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