それではお読みします。ヨハレンの福音書14章、8節から14節。
フィリポはイエスに言った。
主よ、私たちに父を見せて下さい。そうすれば満足します。
イエスは彼に言われた。
フィリポ、こんなに長い間、あなた方と一緒にいるのに、私を知らないのですか?
私を見た人は父を見たのです。
どうしてあなたは私たちに父を見せて下さいというのですか?
私が父のうちにいて、父が私のうちにおられることを信じていないのですか?
私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではありません。
私のうちにおられる父が、ご自分の業を行っておられるのです。
私が父のうちにいて、父が私のうちにおられると、私が言うのを信じなさい。
信じられないのなら、業のゆえに信じなさい。
まことにまことにあなた方に言います。
私を信じる者は、私が行う業を行い、さらに大きな業を行います。
私が父のもとに行くからです。
また私は、あなた方が私の名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。
父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなた方が私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをしてあげます。
以上です。
今日はこのところから、「祈りは聞かれる。」と題して、御言葉からお話しいたします。
皆さん、おはようございます。
今日は3月15日で、アメリカではWBCが行われていて、非常に注目されています。
同時に、中東では大変なことになっていて、そういうところではないという気持ちもあるかもしれませんが、御言葉から共に学んでいきましょう。
そのようなWBC野球の大事な場面で手を合わせて祈る人もいれば、
このような世界的な不安があちらこちらで行き巡るときに、やはり祈りたくなるというのが、人の心情ではないかと思うんですけれども、
イエス様の最後の晩餐の時に語られた言葉です。
祈りについて、キング牧師がこのように言っているという自分が広まっているんですね。
祈りは絶望の夜明けに射す光である。
直接彼が言った言葉かわからないんですけれども、彼がこのような思想があったんじゃないかということで広まっていますね。
絶望の夜明けに射す光が祈りだ。
これは本当に、クリシャンはもちろん、クリシャンでない方々の祈りたいという心情を表している言葉ではないかと思うんですね。
そのような神に祈りが届いてほしいという切実な思い、私たちの思いに応える祈りに関わるイエス様の教えから、今日は共に学んでいきたいと思うんですね。
その言葉は先週見ました。
あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさいという言葉と響いていたり、またイエス様がですね、私が道であり真理でありいのちなのです。
私を通していなければ誰一人、父の身元に来ることはありませんという、それらの言葉に応える信仰ですとか、
信仰の実践に関わるようなことが、今日の祈りの約束や言葉と関わっているんじゃないかと思うわけですね。
3つの点から取り上げていきますが、まず祈りを見る前に一番最初にですね、少し難しいと思われる言葉を取り上げていきます。
一番目、イエス様より大きな業を行う、それを一体どういうことかということを見ていきましょう。
14章12節の言葉です。
まことにまことにあなた方に言います。私を信じるものは、私が行う業を行い、さらに大きな業を行います。
ここから読んでみましょうか。3、私が父のもとに行くからです。
実はですね、このイエス様より大きな業を行うと、弟子たちに約束されています。
そしておそらく私たちにもその言葉が投げかけられていると思うんですけど、それはおそらく簡単に言えばですね、イエス様の昇天後に弟子たちが担った働きを指しています。
ご存知のように、聖霊が下って、一日のうちで5千人もの、まあ男性ですけども、人が信じて洗礼、バクテスを受けた。
そして文字通りその後、世界中に福音が広まって、私たちを含め多くの人々が、このイエス様を信じる神の民になっている。
そういうことをですね、簡単に言うと、イエス様よりも大きな業と捉えることができるんですね。
でもことはそんな単純なことと言いますかね、ではないと言いますか、もっと大事なことがあるんですね。
その約束の中には、私たちもこの業を行う、担うものとして数えられています。
で、その時に何が大事かというとですね、私たちがじゃあどういうことなんだろうかということで、その言葉、ことを解く鍵はこの赤字になっている、私が父のもとに行くからですという言葉が一つの鍵です。
どういう意味か。
つまりですね、このイエス様が父のもとに行くということの中には、ある事柄が含まれていますが、皆さん、今までの御言葉を学んだりお話を聞いて予想できますか。
平行を受けるという言葉と言い換えられていますけど、それはまさにこれから私たちがお祝いしようとするイースターとかここにはありますよね。イエス様の十字架と復活と昇天ということが父のもとに行くからですということに含まれています。
なぜこの言葉が鍵になっているか。
それはですね、このイエス様が一年のことを通して父のもとに帰ったということで、新しい時代が到来したということなんです。
新しい時代。
それと比べてと言いますかですね、イエス様は当然この和座という言葉に含まれていますけれども、地上の生涯で、ヨハネの福音書では特にイエス様のしるしが書かれていましたよね。
カナーの婚礼の水を葡萄酒に変える奇跡から始まって、ラザロのよみがえの奇跡まで7つだったかな、とにかくそのしるしがたくさんあった。
それが和座なんですけれども、それは何を意味していたか。
その和座は目に見えない神様の存在を明らかにして、そして目に見えない神様の祝福が起こっているということだからですね。
そしてやがてイエス様によって救いが到来する、あるいは永遠のいのちを信じる人が得るということを指し示していた。
それがイエス様の地上の和座でした。
けれども、それだけではもう十分ではなかったわけです。なぜか。
実はイエス様の救いの和座が完成する。
信じる人が永遠のいのちを実際に受けるのはいつかというと、イエス様が地上の生涯を終えて、天に還られた後ですよね。
なぜか。十字架によって罪の贖いが成し遂げられて、天に復活して天に昇られた。
そして聖霊が下った。
つまりイエス様がこの地上の生涯の間では成し遂げられなかったというか、実現しなかった救いの和座。
永遠のいのちを受け取れるというその祝福が、イエス様が地上の上に登った後に、私たちのために、私たちがそれを享受できる。
そういう新しい時代が来たわけです。
ちょっとまだ楽しくなりましたけれども、とにかくイエス様の十字架と復活によってなされた、永遠のいのちの救い、神の祝福は、イエス様が天に昇られた後に、聖霊が下ったこともあって、私たちのものになった。
そういう意味で、弟子たちも、イエス様を信じている今の私たちも、広い意味で、イエス様よりも大きな和座を行っているとか、体験している。
そして、そのイエス様がなしたことによって、私たちは、また福音を述べ伝えて、新たにイエス様を信じる人が、私たちは教会を通して起こされていきますよという、そういうイエス様が天に帰ったことによって、救いが完成して、地上で実現している。
そして、それを私たちが体験して、それを伝えて、救われる人が起こっている。そういうことも含めて、私たちがイエス様よりも大きな和座を体験したり、行えているということができるわけなんですね。
ちょっと広い意味で言いましたけれども、そういう意味でもし私たちが、皆さんどうですか。ニーザー駅の前に行って、ロボ伝導したら5,000人信じますか。そんなことあればいいと思いますけど、できませんよね。
でも今言いましたように、イエス様によって成し遂げられたことを実際に体験できている。それを伝えることができるという意味で、私たちはイエス様より大きな和座に預かっているということができるわけなんですね。
そしてその祝福の意味に私たちは、今度は弟子のようにイエス様を証しする、福音を証しする、救いがここにあるよ、いのちがここにあるよと人々に述べ伝えることができる。そういう意味で、大きな和座をイエス様によって私たちができると考えることができるわけです。
ちょっとスライド見せるの遅くなりましたけど、もう一回読みますね、まとめてあるから。
十字架と復活によって、罪の許しと永遠のいのちへの救いが実現し、定例が下り、その祝福が信じる人々に実際にもたらされました。そしてその祝福を受けた者、私たちが救いのメッセージを告げ知らせることができる。
そのことが、イエス様よりも大きな和座を行うという言葉に要約されているのですということですね。これが今の点です。
じゃあ、イエス様よりも大きな和座を行える、体験できるということの続きのようなこと、それが祈りの生活にもつながっていくということで、祈りのことを考えてみましょう。
2番目、祈りを聞きことをなしてくださるイエス様という点を見ていきましょう。
14章13節の前半部分です。
また私は、あなた方が私の名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。
3番目、あなた方が私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをしてあげます。
ちょっと引用セリフ間違えていますが、これ13章の前半と、13節の前半と、ここの部分からは14節全部が引用されています。
なぜ続けて引用しているかということは、これから見ていきますけれども。
この人はですね、誰かというと、日野浩孝先生がとても好きな内村勘蔵ですね。内村勘蔵さんが、祈りについてこのようなことを言っているんですね。
キリスト信仰は絶え間なく祈るべきなり、彼の生いのちは祈祷なり。
現代語に言い換えると、キリスト者、クリスチャンはいつも祈り続けるべきである。祈りこそその人のいのちである。
キリスト者、クリスチャンはいつも祈り続けるべきである。祈りこそその人のいのちである。
そういう言葉になるかと思うんですね。
この今見た箇所でですね、今日の箇所でイエス様はピリポに答えていますね。
イエス様に父なる神を見せてください。
モーセのように神様を見たいんですってピリポが言った言葉に対して、もう皆さん知ってますよね。
イエス様が私を見たものは父なる神を見たのです。
これまでずっと見てきたことをイエス様はある面はっきりと答えられたわけですね。
実はこれはですね、私たちの祈りにとっても良い意味があるんですね。
良い知らせなんです。
イエス様が私が道であるっていうことの中にこの父を見たもの、私を見たものは父を見たものということと、
祈りに関することも含まれていると考えられるんですね。
これね皆さん、双眼鏡とカメラですね。
双眼鏡とか望遠鏡とかカメラで何か見たことありますか?
ぼやっとしてるでしょ。
こうやるとフォーカス焦点があってはっきり見えるじゃないですか。
祈りと似てるんですね。
一般の人もクリスチャンも神に祈るって言うとですね、ぼやっとしてる。
知ってない人もいると思いますけど、特にイエス様知らない人は神に祈ってます。
天に祈りますって言うとぼやっとしてる。
でもイエス様に祈るって言うと焦点がピタッと合うんですね。
カメラとか望遠鏡、双眼鏡の焦点がピタッと合うように、
私たちはどこに向かって誰に対して祈ってるかということを、
イエス様に祈ってるっていうことでピタリと合っていく。
イメージできる。
確信を持って祈れるんじゃないかと私は思うんですね。
皆さんどうでしょうか。
そしてその中でイエス様はさらにこんなことを言っていますよね。
あなた方がですね、私によって求めることは何でもそれをしましょう。
これね、なんで2つの説を続けたかっていうと、
イエス様が2回繰り返してるんです。
あなた方が私の名によって求めることは何でもそれをしてあげます。
あなた方が私の名によって何か求めるなら、私がそれをしてあげます。
ギリシャ語を見るとですね、エゴポイエソーっていうのが14節であって、
エゴっていうのはエゴが強いっていう、私という意味です。
これギリシャ語の愛、一人称の単数主格なんです。
前から何回も言ってますけど、
ギリシャ語っていうのは動詞の形でどうしたらいいか分かるわけです。
動詞の形で主語が性格数っていうのが分かるんです。
だからもともと私という言葉入れないでポイエソーってことだけやると、
イエス様が言ってるって分かるんですけど、
この私というエゴという言葉が入ると強調されてるんです。
他でもない私こそがそれをしてあげますよっていう意味なんですね。
何を言ってるか、
あなた方が私の名によって私に求めるなら何でも私はしてあげますよ。
あなた方が私の名によって求めるなら他でもない、
私こそがあなたのためにそれをしてあげますよって言ってるんです。
これは非常にインパクトのある宣言ですよね。
私たちの祈りの態度や考え方を改めさせるきっかけになるような声、
言葉なんじゃないかと思うんですね。
皆さんどうですか、誰かと話してて正面からその人から、
何でもしてあげるから何でも言ってごらんって言われたらどうします?
じゃああれもこれもこれもって言えます?
そういう方もいるかも分かりませんね、ラッキー。
あるいはですね、いざ何でもしてあげるから何でも言ってごらんって
親や友達に言われたら、じゃあどうしようかな、何をしてもらおうかなって。
私だったら真面目に考えるんですよね。
驚いて戸惑って、かえって何を言おうか考えてしまう。
迷っちゃう。何でもしてあげます。
イエス様に言われたら皆さんは何をしてくださいって言いますかね。
私、この御言葉考えてて、どうするだろうなって。
ちょっと語弊がありますけど、もっと真剣に祈らないといけないなって。
答えられるんだかと思ったわけですね。
イエス様に何でもしてあげますって言われたら、
私たちはどんなことでも祈れるかもしれませんね。
何であってもっていう、何でもそれをしてあげますっていうのは
文字通り何でもって書いてあるんです、ギリシャ語で。
私の名によって求めれば、何でもそれしてあげますよって本当に言ってるんですよ。
しかも、私こそがそれしてあげますって言ってるんですよね。
皆さんは何をイエス様に祈るでしょうかね。
まあ、そう言われたら、じゃあ何を願おうかと真剣に考えるかもしれません。
なぜこんなこと言ったかというと、私も含めてこのイエス様の言葉を思い返してですね、
何度でもあるいは真剣に祈ってみてはどうなのかな。
今週そのことを思い出して、イエス様が何でもしてくださるってことを真面目に考えてですね。
真剣にというか、考えて祈ってみたらどうかなと思って。
私にもそういう言葉を投げかけてますけど、皆さんにも共有したくてこの言葉をお分かちしました。
3番目、それと関係してくるんですが、
未知の栄光のために祈りに応えるイエス様ってことを見ていきましょう。
じゃあ何でもしてあげますよっていう中で、イエス様はその方向性になるような言葉を言ってるんですね。
14章の13節の後半部分を読んでみましょうか。
父が子によって栄光をお受けになるためです。
私たちが何でもイエス様に祈り、何でもイエス様はしてくださるっていう時に大事なことはですね、
父が子によって栄光をお受けになるためですという言葉なんですね。
実はここからですね、ここに何でもイエス様はしてあげるよっていう理由がちょっと見て取れるんですね。
ですから簡単に言うと、神様の御名を汚すようなことは祈れないですよね。
神様の御名を汚すようなことは祈れません。どういうことか僕もあえて言えませんけども。
そう言い換えることができます。一方で、じゃあ祈りの答えとして何が神様に栄光をきすのだろうか。
どういう祈りが神に栄光をきす、答えを得られる祈りなのかって考えるかもしれません。
それも簡単な答えはないと思うんですね。もしこういうことがあったとしたらどうします。
神に栄光をきす祈りの十原則。そんな本出したらすごい売れると思うんですよね。
神に栄光をきす祈りの十原則。例えばですよ。そんな本出したら売れると思いますし出ないと思います。
もしそれを本当にやって教えたら、もしかしたらカルトになるような危険があるかもしれないですよね。
その中にお金を100万積んだら答えられるとかって入れたらそういうふうになるじゃないですか。ちょっと言い過ぎちゃいましたけどね。
だから私個人の考えですけど、そういうリストを提示するということは違うんじゃないかと思うんですね。
ただ大事なことというか、興味深いことは旧約聖書、特に執エジプト記の意義の言葉や考え方がヒントになるんじゃないかと思うんですね。
執エジプト記14章18節で神様はモーセに対してこんなふうに言ったんですね。ちょっと難しいかもしれませんが読めるか読んでみましょうか。
アラオとその戦車とその騎兵によって私が栄光をあらわす時、エジプトは私が主であることを知る。
これ何の場面を言ってるかお分かりです。
モーセが手を差し伸べたら水が沸かれてその中にエジプトの軍隊、パロの軍隊が飲み込まれた時の話、それが起こる時の話です。
ここで何が起こっているかを求めるならば、この出来事は神の民の救出劇、救出劇の一場面でしたね。
そしてここで神様の救いが明らかにされる出来事と関係しています。
そしてそれによって人々が真事の神を知り、褒めたたえるようになるんだということがここからわかるわけですね。
ですからこう言えるかもしれないですね。
イエス様は私たちが祈り、その祈りが応えられることによって、イエス様が私を救ってくださった、助けてくださったと知るようになること。
そして神様が今も生きておられ、私たちと共におられることを知り、神様をあがめるようになることを願っておられる。
少なくともこれだけは言えると思うんですね。
だからこそイエス様は私たちの祈りを聞いてことを行ってくださる、ことを成してくださる、それをしようと言ってくださるのではないかと考えられるわけです。
それは私たち一人一人がどうやって体験するかというのは異なる形で体験しますね。
こんなことが正しい例になるか分かりませんが、皆さん誰かの家の誕生会とかに昔呼ばれて家にあがったりしたことはありますか?
あるいはお正月に親戚の家に行ったりしたことはありますか?
そうすると全然しきたりが違うでしょ?誕生日のお祝い方とか正月のお祝い方、その過程によって違うわけです。
同じように私たちがどう祈って、どうイエス様の救いを体験し、どうやって神様を認め賛美するかというのもそれぞれだと思うんですね、人それぞれ。
ですからこれがっていうことまでは私は言えないと思うんです。
ただ確かにイエス様が私を救ってくださった、助けてくださったとしてですね、神様は今も生きていて私たちと共におられるんだなということを知ることができると思います。
これ実例として一つだけ私の体験を言いますね。
3週間くらい前に聞いたこともあるかも、方もいるかもしれないんですけど、スマートフォンを落としたんです。
簡単に言うと3時間くらい探しました。
あそこで簡単に言うと見つかりました。
そのときに、私仕事してることみんなが知ってますけど、仕事中で業務携帯と別に個人のスマホを落として。
前もちょっとそういうことがあって、電話したら誰か出たから出たんで、あ、それ僕のですってやったことあるんですけど、何回電話しても出ない。
今はスマホの中にいろんなものが入っているから、犯罪に巻き込まれるのも怖くて不安だったんですけど、自分が歩いたであろうところをあちこち探してもなくて。
そのとき仕事中になったので昼休みになってですね。
今これ知ってる人がいればね、早くそんなことやれば見つかるよって言われたと思うんですけど、私パソコン持ち歩いてるんですよ。
全部ありのまま言いますけど、AIに聞いたんです。どうしたらいいですかって。
パソコンと、ちょっと簡単に言うとこのスマホとパソコンが連動しているんですね。
そういうふうな状態ですって言ったらですね、AIはすぐ0.1秒ぐらいでピンって。
ここのインターネット、ここのサイトにログインしてくださいってピッてログインすると地図がバーッと出て、ここにありますって出るんですよ。
だからですね、簡単に言うとトイレに行った公園に落っこちました。
もう本当にその通った土の上に丁寧に置いてあって、誰が触った形跡もないんですね。
でも本当にそのとき3時間ですけど、私のミスですけど、お祈りしてですね、
神様は愛の神様だから愛の業以外なさらないと信じてたんですけど、
本当にすぐ見つかってですね、神様って私を救ってくれるんだなってことを実感しました。
その前に落とすなって言われたら終わりなんですけどね。
そういうことで本当にですね、些細なことから大きなことまで皆さん日常生活の中で、
何より私、本当にちっちゃなことですけども、神様の救いを体験できて、
本当に心から神様素晴らしいですって思えたんですね。
そんなことあるかと思います。
すいません、つまらない例かもしれません。
それは私のことは去っておきまして、それぞれによってこういう経験は異なると思いますので、
まさにそのような経験を日々されることが大なり小なりされることがですね、
クリスチャン生活の醍醐味でないかと私は思うわけですね。
祈りを聞いてなしてくださるイエス様に真剣に祈っていく。
神様の救いを知って、神様に栄光を捧げていく。
そんな幸いを味わっていくお互いでありたいと思います。
その上でイエス様より大きな業を行わせていただける。
それが何かということを知っていく。
そういう教会でありお互いでありたいと思うわけです。
最後にこの祈りと関わる聖書の言葉を旧約聖書と新約聖書から一つずつ引用して終わりにしたいと思います。