新約聖書,ヨハネの福音書13章12節から20節をお読みします。
イエスは彼らの足を洗うと上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。
私があなた方に何をしたのかわかりますか?あなた方は私を先生とか主とか呼んでいます。
そういうのは正しいことです。その通りなのですから。
主であり、師であるこの私があなた方の足を洗ったのであれば、あなた方もまた互いに足を洗い合わなければなりません。
私があなた方にした通りに、あなた方もするようにとあなた方に模範を示したのです。
誠に誠にあなた方に言います。
しもべは主人に勝らず、使わされたものは使わした者に勝りません。
これらのことがわかっているなら、そしてそれを行うなら、あなた方は幸いです。
私はあなた方すべてについて言っているのではありません。私は自分が選んだ者たちを知っています。
けれども聖書に私のパンを食べている者が私に向かってかかとをあげますと書いてあることは成就するのです。
ことが起こる前に、今からあなた方に言っておきます。
ことが起こったときに、私が私はあるであることをあなた方が信じるためです。
誠に誠にあなた方に言います。
私が使わすものを受け入れる者は、私を受け入れるのです。
そして私を受け入れる者は、私を使わされた方を受け入れるのです。
以上です。
今日はこのところから、使い合い信仰を守るために、と題して御言葉からお話をいたします。
皆さん、おはようございます。
今日は2月15日ですね。
いろんなことが起こっておりますけれども、
ミラのオルティナオリンピックが開かれていて、
連日そのこともニュースでにぎわっております。
また、昨日今日、新座市というかこの辺りはですね、
春の陽気ですね、3月下旬ぐらいの陽気で、
今日はなんか埼玉は最高気温18度ぐらいまで上がるという、
そんな中で体調、いろいろ難しいこともあるかと思いますけれども、
共に御言葉からまた学んでいきましょう。
さて、今日もですね、
ヨハネの13章の、おそらく過越の祭り、
最後の晩餐と言われているであろう、
そのような場面でイエス様が弟子たちだけに向けて語った、
特別な弟子たち向けの言葉、そしていつも言ってますが、
それはイエス様信じる私たちに向けても語られた言葉です。
そのところから、今日3つのところを見ていきますが、
一番最初はですね、
またいつものように、イエス様が神であり救い主であるという、
ご自分の神性を明かされたというところが、
ここに見えてきますので、そのことを見ていきます。
そして2番目はですね、
よくクリスチャンの中で知られた、
互いに足を洗い合うということについて見ていきましょう。
イエスに習い、互いに足を洗い合うということですね。
そして最後にですね、
信仰を守る優しい配慮の言葉ということで、
弟子たち、私たちが試練に遭うことを見越した、
イエス様の言葉、優しい配慮の言葉について見ていきます。
一番最初はまず、弟子に明かされた神性ということを見ていきましょう。
13章18節19節でイエス様が言われた言葉です。
聖書に、私のパンを食べている者が、私に向かってかかとをあげますと、
書いてあることは成就するのです。
ここから読んでみましょうか。3、4、はい。
ことが起こる前に、今からあなた方に言っておきます。
起こった時に、私はあるであることを、あなた方が信じるためです。
ここですね、背景ちょっと省いてしまいましたが、
簡単に言うと、先週ですね、イエス様がまさにしもべのような入り立ちで、
弟子たちの足を洗って、ペトラが特に動揺した。
そのやりとりから、この足を洗うイエス様の行為は、
イエス様の十字架による罪の清めをですね、表していた。
そんなことを見ていきました。
そして今日は、それがイエス様の模範なんですけど、
その意味を解き証していく中で、またこれから起こることをイエス様が解き証していく中で、
最初の部分は、イエス様の神性が表されている。
今日の箇所でイエス様は、はっきりとご自分が神様から使わされた救い主だということを伝えています。
その顕著な言葉が2つ出てきまして、
私はあるという、今日読んだ、今読んだ言葉と、後で2回繰り返されている主である私という、
主という言葉が、そのイエス様の神性を証しする言葉です。
で、後で見ますが、出自エジプト記でですね、
神ご自身がモーセにご自身を表したときに使われた権限の言葉とリンクしているということですね。
まあそれを去っておきまして、ちょっと出てきましたけど、
昭和のミステリーですね、作品の中で、近代値康介シリーズというのがありましたね。
石坂康二さんの演じと。
で、ちょっとその例えなんですけども、例えばですね、そんな場面なかったんですけども、
その映画の最初のシーンで、近代値さんが事件現場に急いでいるときに、大事な手帳をですね、道端に落とす。
そのときに前から来たですね、名もない男性がその手帳をポッと渡して、そして去っていくシーンがあったとしましょう。
で、実はその、よくミステリーなんかでありますけど、ふと出てきたこの人がですね、事件を解く鍵になる。
で、架空の話ですよ。最後の事件が解き明かされるクライマックスで、その手帳を拾った男の人が出てきて、
その人がこの事件解決のためにですね、近代値康介と一緒に演じると。
で、その男性がですね、引退した刑事で、そしてその男性を演じていたのがこの三船俊郎だった。
そんなことをちょっと連想してみてください。
よくドラマ見てるとね、何気ないとこにですね、有名な俳優が出てくると、
あ、この人は後から鍵になる人物だなと思うわけ。
これ昭和の話ですけど、令和の今にも通じるように置き換えますとね、名探偵コナンという映画がありますね。
コナン君もですね、やはり事件を解決しようという時にですね、走ってる時にぶつかった女性がいた。
その女性がですね、後々事件を解決するこの大事な人物であって、
その、よく映画でアニメでよくあるのは、大事な人物をですね、俳優が演じている。
その女性はですね、後で事件を解決する鍵となる人物をですね、
まあ天美由紀さんがですね、演じていた。そんな場面があるかと思います。
まあちょっと、あえてこんな話してみたんですが、なぜこんな話をしたかと言いますと、
実はそれと似たことが、今イエス様が弟子に語った言葉の中で明確にするからなんです。
実はイエス様はですね、今日の弟子たちにご自分のこれからのことを表した中で、こう言っていますね。
実は弟子たちはこの後、試練にあってつまづくけれども、やがてあなた方は私が、
まさにモーセが荒野で出会った、このイスラエルをエジプトから救出した神である。
そのことをやがて知るようになると、イエス様は今日の場面で言っているんですね。
なぜそれが言えるかというと、先ほど言いましたが、2つの大事な言葉が今日の場面で見て取れるからなんです。
ヨハネの12章19節で、このイエス様は先ほど言いましたが、
この裏切りが起こった時に弟子たちはですね、私はあるということを信じることができると言っています。
この私はあるという言葉は、ギリシャ語のエゴエイミーであって、
ステイジヴィトキの3章14節の言葉が再現されているんですね。
このモーセが柴を燃える火の中で、神を聞いてやり取りをした中で、
あなたはどなたですかと聞いた時の言葉はこれですね。
神はモーセに仰せられた。私はあるというものである。また仰せられた。
あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。
私はあるという方が、私をあなた方のところに使わされた。
神学的な用語で、ケンゲン、ケンビ教のケンに現れると書いてケンゲンという言葉があります。
それは神様がご自身を表す時に使う言葉ですが、
ここでエジプトの神がご自身をケンゲンされた。
その時に私はあるというものだとモーセに伝えた。
その言葉が今日イエス様が弟子たちに自分のことを明かす時に語った言葉と同じなんです。
そしてもう一つの言葉。
イエス様は12章の13、14で2回もご自分のことを主であると言ってますね。
主である私が足を洗ったんだからあなた方もそうすべきです。
2回わざわざ言っています。
実はその主という言葉、ギリシャ語のキュリオスという言葉ですが、
エジプト紀の6章でモーセはご自分を主なる神であると神様から知らされた。
もう一つのケンゲンの言葉だったんですね。
神はモーセに語り彼に仰せられた。
読んでみましょうか。
私は主である。私はアブラハム・イサク・ヤコブに全能の神として現れたが、
主という名では彼らに私を知らせなかった。
簡単に申し上げますと、全能の神、エルシャダイということでアブラハム・イサク・ヤコブに自分を現したけれども、
ここでは主という名であなたに自分を現す。
これは救出する神だというニュアンスが、救い主の主ですけれども、
民を救うというニュアンスが強い言葉で、
そのことをあなた方は経験して私が主なる神であることを知るであろうという言葉なんです。
そしてもうお分かりになったと思いますが、
イエス様はここの弟子たちに対して、私は主なる神であると伝えているわけなんですね。
前から何度も繰り返していますが、イエス様は群衆に対してですね、
ご自分がはっきりメッシアだとか、この執エジプトの時に現れた神だということを言ってきませんでした。
なぜか、それは彼らがローマから暴力的に解放する勇ましい救い主である。
ダビデの再来、軍事力によってイスラエルをローマから救出するメッシアだということを期待していたので、
それをある面その時は否定するために、ご自分のことを主なる神であるということを明言しなかった。
しかし、先週見ましたが、愛した弟子たちにはご自分の死を予告しながら、
しかしそれでも私は猛勢に現れた主なる神であるということを、ここで力強く宣言している。
そのことをまず確認していきたいと思います。
2番目、もう少し私たちの日常生活と関わりあることになるかと思います。
2番目、イエスにならい互いに足を洗い合うということを見ていきましょう。
その中でイエス様はこのように弟子たちにいのちじられたんですね。
13章14節読んでみましょうか。
主であり死であるこの私が、あなた方の足を洗ったのであれば、
あなた方もまた互いに足を洗い合わなければなりません。
立春が過ぎて、今は梅の見ごろの季節ですね。
そしていよいよ桜が開花すると春が来る。
桜が開花しないと春が来ないように、
互いに使い合ってこその弟子だということをイエス様はここでおっしゃっているんですね。
ここである偶然の話をします。
匿名の女性ですけれども、
この女性が大学4年生のときにも卒業前に、
ある企業に就職の内定をもらっていました。
でも教育関係の学部にいたので、
その人は教育実習に行かないと卒業できなかったので、
ある高校に行って教育実習をしたそうです。
そのときに自分が受け持ったクラスに、
先生にいつも反抗していた女子生徒が本当にいたそうなんですね。
でも若かったせいか知りませんが、
この教育実習生の女性は反抗的な女子生徒と打ち解けて、
親しくなったそうです。
そしていよいよ大体2週間ですか、教育実習が終わった最後の日に、
この先生が教室に来たところ、
この女子生徒が行方不明になってしまったんですね。
クラス中でお騒ぎして騒がしたら、体感の裏にいたそうです。
どうしていたかというと泣いていたんですね。
この先生と別れるのがつらいよと泣いていたそうです。
実はそのときにこの女性は教師であることのやりがいを感じて、
家に帰ってもすぐに企業に電話をして内定を取り消した。
そして今は高校の教師として歩んでいる。
そんなストーリーがあったんですね。
例えば体育で昔は騎馬戦なんかやると裸足でやったりするじゃないですか。
裸足でグラウンドを生徒も先生も駆け回った後、教室に入るときに、
この人気者の教育実習の先生が、「誰か私の足を洗ってくれませんか?」と言うと、
生徒たちはおそらく全員が、「はい、私に洗わせてください。」と言ったかもしれません。
そのときに先生が、「じゃあみんなお互いに足を洗いなさい。」と言ったら、
えーっというかっかりするかもしれませんね。
何が言いたかったかというと、
弟子たちはイエス様に足を洗ってもらいました。
そのときに弟子たちがイエス様に、「私の足を洗ってください。」と言ったら、
喜んでイエス様の足を洗ったんじゃないでしょう。
しかしイエス様が何をいのちじるかと言ったら、「私の足を洗いなさい。」ではなくて、
あなた方は互いに足を洗いなさいと言ったんですね。
これは皆さんご存知のように、足を洗うという文字通りの行為ではなくて、
先週言いました、足を洗うというのは下辺の中でも最も癒やしいとされた、
当時は違法人、あるいは今は抵抗がありますけれども、
成人の男性の奴隷にはさせなかった、そういう癒やしい行為です。
それを互いに足を洗いなさいと言われたわけですね。
弟子たちは戸惑ったかもしれませんが、でもイエス様は、
主である私がそうしたのですから、
あなた方まさに私の弟子であり、私に使わされている身分なんですから、
お互いに足を洗いなさいといのちじたわけなんですね。
神の言葉を取り継ぐ教師としてのイエス様だけではなくて、
互いに足を洗う弟子として私の模範にならなさいと、
イエス様はこの弟子たちに教えたわけであります。
13章15節でこう言っていますね。
私があなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと、
あなた方に模範を示したのです。
そしてそれを知っていて、それを行うなら、あなた方は幸いですとおっしゃったわけですね。
繰り返しますが、
主である、聖書の教師である私があなた方にそうした、
あなた方は私をそう呼んでいる。
そして主であるというのは、先ほども言いましたが、
まさに猛瀬と死の中でご自分を表した、
まさに主なる神である私こそがあなた方の足を洗ったのですから、
あなた方こそもお互いにましてや足を洗うべきですといのちじられたわけなんですね。
イエス様は使える姉妹としてご自分を表した、
ヨハネの福音書ではなくてマルコの福音書の中で、
そのことをこのような表現で言い換えています。
マルコの十章の44節から45節ですね。
あなた方の間で先頭に立ちたいと思うものは、
御名の下辺になりなさい。
ここから読んでみましょうか。
人の友を使えられるためではなく、
使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、
自分のいのちを与えるために来たのです。
このことを心に留めながら弟子としての歩みを進めたいと思います。
イエス様が先週言いましたが、
究極の愛を十字架に至るまで弟子たちに示されたということですね。
そしてそのことはですね、弟子たちがイエス様に自分がどれだけ愛されているか、
また低くされたイエス様の姿を思い出して、
神なるイエス様がどれだけ身を低くして自分に仕えてくださったんだ、
そのことを知れば知るほどですね、
弟子たちが喜んで率先してお互いに使い合っていく。
そんなことも示唆されているという言葉であることを覚えていきましょう。
最後、3番目。信仰を守る優しい配慮の言葉。
イエス様は詩編に書かれている友の裏切り、弟子の裏切り、
それが実現して私は弟子の中から裏切られるということを予告したわけですね。
これからも予告していきますけど、
それはなぜかということを13章19節で語っています。
先ほど読んだので私だけ読んでいますね。
イエス様の十字架はですね、おそらくまだ十字架でイエス様が苦しんでいるときに、
弟子たちの目にとってはですね、非合の詩であった。不本意な詩であった。
今回ね、オリンピックで今朝もジャンプの選手はね、男子の選手が銀メダルだって悔しくて泣いていましたよね。
不本意だ。本当は金メダルを取りたかったんだけど。
不本意だって泣いておられましたけども、
それ以上に弟子たちが浸水していたイエス様が十字架で死んだ。非合の詩だ。
弟子とはね、死の背中を見て育つってよく言いますよね。
イエス様がこの受難の道を進んでいく。その背中を見てですね、弟子たちもイエス様の足跡に従っている。
そんなときにですね、イエス様の背中に後ろから矢を放つようなものがいた。
そしてその矢がどこから出ているかといったら、一緒に歩いている自分たちの中からですね、その矢が放たれたなんてことがあれば、
弟子たちは本当に驚くだけではなくて、がっかりするのではなかったんでしょうかね。
そして皆さんご存知のように、弟子たちはイエス様が逮捕された後に、まさに蜘蛛の子を散らすように離散していったわけです。
ベテランが3回も死なないといったわけですね。
けれどもイエス様はもうこのときに弟子たちのそんな姿を知っておられたんですね。
だから先ほど言いましたけれども、将来あなた方は私が神なら救い主であることを知るであろうといった。
それは復活から昇天、聖霊が下って、あなた方は私がごとの神であり救い主だということをさせるであろうといったんですけれども。
もう一つこれを予告していた、弟子たちにあらかじめ弟子の裏切りについて語っていた理由があった。
それはですね、ある学者に言わせれば、イエス様の優しいハエルだったと言っているんです。
優しいハエル、どんな意味か。
なるほどと思ったんですね。ちょっと長いんですが、その学者さんの言葉そのまま引用していますね。
後でレジュメに書いてあるので見てみてください。
私たちはこの予告の言葉に優しいハエルの気持ちが暗に示されていることを見過ごすべきではない。
弟子たちはもしこの裏切りの行為が全く予告されないで起こっていたならば、激しいショックを受け、信仰が打ち壊されていたかもしれないのである。
この予告されたことを弟子たちは後に振り返ることで、彼らはイエスがすべてを支配していることを信じ続けることができたのである。
このような弟子たちのつまづきを予告して、イエス様はあらかじめ弟子たちがそれによって信仰を失わないように信じ続けることができるように、
イエス様は犠牲者でなくて、このご自分がすべてを支配している、そのことを信じ続けることができるような優しいハエルに満ちた言葉だった。
そしてもうご存知のようにイエス様は私たちが司令に直面しても信仰が失わないように言葉をかけてくださる救い主。
そのような言葉が聖書の中にはたくさん示されています。
そしてそのことを示す言葉が実はヨハネの福音書のこの後の国別の言葉の中に出てきますので、それを最後に見て終わりにしたいと思います。
ヨハネの16章の33節ですね。ちょっと長いですが最後に読んでみましょうか。
これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私にあって平安を得るためです。
世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
これらのイエス様の言葉を思い出しながらですね、私たちが司令に耐えまた互いに使い合っていくお互いであり教会でありたいと思います。お祈りしましょう。