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2025-07-27 27:36

#274 告発者たちからの救い~姦淫の現場で捉えられた女性と 25/7/27

ヨハネ8:1-11からの礼拝説教。(聖書朗読は()まで。導入は()から)2025年7月27日録音。私たちの立場は人の罪を責める側にも、人に罪を責められる側にも成り得えます。しかしイエス様の側にいる時に赦しと再出発のきっかけを得ることができるでしょう。

今日の箇所は、新改訳聖書の脚注にあるようにからまでは、ヨハネの福音書の原本にはなく後に付け加えられたという説が有力です。しかし、その後伝統的にヨハネのこの箇所に挿入されることが一般的となりました。なぜならこの出来事が本当にあったということと、福音書に記されている告発者たちやイエス様の言動と一致するということで受け入れられてきたからです。それらの言動の背景や意味を探求し本質に迫るため次の3つの点を取り上げます。(1.敵対者たちの問題とイエス様の危機()、2.イエス様の名答()、3.再出発の言葉())

原稿を読む https://note.com/nsbc/n/n4f0899912f96?sub_rt=share_pb

サマリー

イエスが宮で教えているとき、律法学者とパリ裁人は現場で捕らえられた女性を持参し、イエスを試みる出来事が描かれています。このエピソードでは、告発者たちの動機が不純であることが強調され、イエスの救いのメッセージが浮かび上がります。イエスは罪を犯した女性をどのように扱ったのかについて考察され、罪の許しと再出発の重要性が強調されます。特に、イエスの言葉によって示された救いと、その後の人生における罪の意識についての理解が深まります。

敵対者たちの告発
ヨハネの福音書8章1節から11節を読みします。イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早くイエスは再び宮に入られた。人々は皆、身元に寄ってきた。
イエスは腰を下ろして彼らに教え始められた。 すると、律法学者とパリ裁人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちにいのちじています。あなたは何と言われますか?」
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。 だがイエスは身をかがめて指で地面に何か書いておられた。
しかし彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 そしてイエスは再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人また一人と去って行き、 真ん中にいた女と共にイエスだけが残された。
イエスは身を起こして彼女に言われた。
「女の人よ、彼らはどこにいますか?誰もあなたに裁きを下さなかったのですか?」 彼女は言った。
「はい主よ、誰も。」 イエスは言われた。
「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」 以上です。今日はこのところから
告発者からの救いと題して御言葉を取り継ぎます。 みなさんおはようございます。
イエスの優れた回答
毎日ですね、本当に熱いという言葉しか出ないほど、本当に熱いですね。 礼拝に来てまで聞きたくないかもしれませんけども。
昨日ですが、福島県の伊達というところで39.9度を記録したそうです。
また今朝、私はNHKをよく見てるんですけども、天気予報、気象予報ではですね、
だいたい関東地方が例年より平均気温、7月の平均気温が5度弱だった。
3度弱、3.5度だから3.6度弱で、それでも大変だということです。
北海道地方の街はですね、6度弱、5.7度ぐらい気温が高いということで、それは本当に異常で、亡くなる方もですね、北海道に出ています。
そんな中ですけども、共に御言葉から学べることを感謝していきましょう。
さて、今日の箇所はですね、皆さんの新海約聖書ですと脚中にありますように、7章の最後の53節から今日の8章11節までは、元々のヨハネの原本にはないということになっています。
その難しい話はちょっと脇に置いておきまして、しかしですね、それは有力なんですけれども、
その後伝統的にですね、このヨハネの箇所に、この箇所に挿入されるようになって、教会の、繰り返しますが伝統の中で受け入れられてきた。
なぜかというと2つほど理由がありまして、1つ目の理由は、これはおそらく実際にあった出来事だったと言われているんですね。
まあ、詳しく言いませんが、エルサレムの神殿のイエス様が教えている時に実際に起こった。
そして2つ目はですね、皆さんも気づかれたように、イエス様の言動とイエス様の告発者の言動が、他の福音書と矛盾しない、まさに一致した内容だ。
そういうことからですね、キリスト教の福音的なと言いますか、正統的な伝統の中で、ヨハネのここの場所に入れるということで、受け入れられてきています。
そんなところからですね、この箇所もですね、今までの箇所と同じように、ここにある言動を探求していくとですね、いろんな本質に突き当たります。
そして、彼らの言動の意味、そして背景を知って、その中身をですね、私たちに差し迫ってくる、学ぶこととかですね、教訓を得られればと思っています。
3つの点からですが、最初はこの敵対者たちにどんな問題があったかということを、そしてイエス様にどんな危機があったかということを探っていきます。
そして2番目はですね、このイエス様が答えた回答がどれほど優れたものであるかということで、イエス様の冥答ということで見ていきます。
3番目はですね、イエス様が女性に語った言葉から、再出発の言葉、私たちにも向けられた花向けの言葉ということで見ていきたいと思います。
前後してしまいましたけれども、このような有名な箇所なのでですね、たくさん美術的なモチーフになっています。
イエス様が神殿で教えられたときに、この姦淫の現場で捉えられた女性が目の前に連れてこられ、1番目、敵対者たち、敵対者たちの問題、そしてイエス様の危機ということを見ていきましょう。
それに該当する御言葉ですね、8章の3節から5節を抜粋してみました。
律法学者とパリ裁人が、姦淫の場で捉えた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。
先生、この女は姦淫の現場で捉えられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちにいのちじています。
あなたは何と言われますか?という問いですね。
告発者のうちの律法学者とパリ裁人、皆さんも今までご存知のように、イスラエルの宗教的なリーダーであり、政治と裁判の中枢にいた人たちだったと思われています。
詳しく言うと律法学者というのは、旧約聖書の文字通り書かれた律法から、生活にそれをどう適用するかという具体的な掟を作る人たちだった、研究する人たちだったと言われています。
そしてパリ裁人というのは先週見たように、少なくとも613の具体的な日常に関わる掟があって、それらを生活で実践していた人ですね。
律法学者の中にこのパリ裁人という人たちが含まれていたわけです。
そんな中で、告発者たちの言動を深掘りすると問題が見えてきます。どんな問題かというと、まず彼らの動機が不純でした。
神様の正義や、また神様の憐れみということをこの女性に適用するためではなくて、こう書かれていますね。読める方、前の彼らはから読んでみましょうか。
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。
この通り動機が不純であったということが大きな問題です。
そして、そこからこういうことをすると大体間違いを起こします。
彼らが信じて従うところの律法に反した行動をとっているということをもう少し深く見ていきましょう。
まず、現場で捉えた、簡易の場で捉えたということは目撃しているわけです。
そうすると、他の律法では、その当事者に警告を与えなきゃいけないんですね。
今、いろいろ話題になっている隠し撮りする習慣誌なんかありますけど、隠し撮りしないで、まず警告を与えなきゃいけなかったけれども、おそらくそれはしていなかったと学者も言っています。
そこが落ちるのがわかります。
今、参照しませんが、新明記22章の22節、いわゆる孟静の律法によれば、もしこの相手の男性が既婚者であれば、両方とも死罪にあたると書いてあるんです。両方とも殺されなければいけない。
ですから、この場合、相手の男性もイエス様のもとに連行すべきでしたけれども、女性だけしか連れてこなかった。
ここにも、広く言う律法の違反があったわけです。
さらに、この場合、処刑の方法は石打ちと書いてあります。しかし旧約聖書を見ても、これは石打ちという刑ではなくて、ただ殺されなければいけないと書いてあるんですね。
おそらく、先ほど言った細かい後にできた規定の中で石打ちにするということを決めたに過ぎなかったわけです。
だから、孟静の律法と言い過ぎなんじゃないかという説もあるんですね。
さらに、もう少し興味深いことは、実はこのいわゆる学者さんによるとリンチだそうですけれども、私の刑、実際は姦淫の現場で捕らえられた人でもなされなかったというんですね。
あまりにも残酷だった。それから皮肉なことに、こういうことを女性も男性も頻繁にあったそうなんですね。
ですから、実際に殺してしまうということまではしてなかったことが、と言われているわけです。
そういう背景がある中で、イエス様に先生、あなたが律法の教師であればというマクラーがついて、こういう女をどうすべきですかと迫っているんですね。
で、ここで他の福音書にもありますように、イエス様がどう回答しても、罠にかかるような仕掛けになっているんです。
まず、この律法学者たちも、そして私たちも予想できるのは、イエス様が女性を許す、意思打ちにしないという回答ですね。
それがなされると何が起こるかというと、律法に厳しい人たちが、イエスは律法に背いているということで反対するわけです。
そして、その告発者たちと一緒に、イエスを告発する口術になるわけですね。
そしてそれだけではなくて、
今度は、もしイエス様が意思打ちにするといえば、もう皆さん予想しているように、
イエス様を、ある意味深い救い主だと信じている人たちから反発を喰らいますし、また当時こういう律法学者・パリサイ人に対して反発をしていて、イエス様に従った人たちも、当然イエス様に対する反感を抱くようになるわけで、人気が落ちるわけですよね。
さらに、もしイエス様が意思打ちの刑にするといえば、今度は先ほど言った律法に詳しい人たちもイエス様を告発することになるんです。
なぜかというと、さっき言いましたけれども、実際に姦淫の現場で捕らえられても、意思打ちの刑にされてなかったわけですよね。
だから、意思打ちの刑にするといえば、そんなことまでするのかといって、律法を重んじている人たちからもイエス様は告発されることなんです。
そしてもう一個、難しくて顔をひかめてしまうかもしれませんけど、もう一個あります。これはローマとの関係です。
当時、イスラエルはローマ帝国の統治下にありました。
簡単に言うと、このローマ帝国の統治下にあって、いわゆる自治権を委ねられた後に過ぎないんですね、このイスラエル。
その自治権の中で、律法学者・パリサイ人が議員として、法律家として地域を治めていたんですけれども、皆さん聞き続きました?
イエス様がなんでピラトに訴えられたか。
それは、イエス様を十字架につけたいと思っても、彼らには人を死刑にする権限がなかったんです。
つまり、それをやってしまうと、ローマ帝国に対する越権行為になってしまって、彼らはローマから告発されるんですね。
ですから、もしイエス様がここで石打ちにしていいよ、殺してもいいよということになれば、ローマ帝国に対する反逆と言いますかね、越権行為ということで告発される理由がある。
こういう意味で、20、30、40、50の罠が引かれていた。
しかしその背景には、イエス様を落とし入れるための告発者の不正。
彼らは律法を守っていなかった。
現場を捉えたにも関わらず、告発していない。
救いのメッセージ
本人たちに警告していなかったという、そういう問題もあったわけです。
そのような背景がある中で。
じゃあ、2番目、イエス様の回答を見ていきたいと思います。
2番目、イエス様のいのち頭。
そういう問いかけに対してイエス様はどうしたか。
6節ですね。ちょっと読んでみましょうか。
だがイエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
何を書いたかという議論がたくさんあるんですね。
でも実際はわからないです。
解説書を見ると5、6ページぐらいバーって書いてあるんですけども、結論はわからない。
そういうことよくあるんですけども。
それで、とにかく何をされたかというと、これはイエス様は答える意思がないという。
無視したんですね、彼ら。
現代風に言えば、こういうような告発というか問いかけがあったら、
あなたはそんなことも知らないのか、自分で調べなさいという切り返しが今流行っているようなんですけども、
そんなこともしないでイエス様は沈黙を保たれたようです。
で、まさに今回こそイエス様を告発できるといって、
もう血気盛んに鼻息やらく群がってきた敵対者たちは何も答えないですから、
しつこく問いただしたと書いてありますよね。何人も問いただした。
もしかしたらある学者や博士が言うんですけども、
かえってダマ無視されているから不安になってきたんですね。
自分たちのやっていることが正しいかと。
そんな時に皆さんがご存知で、そしてよく名言集でも出てくるイエス様の回答が出てきました。
じゃあここの太いかぎかっこだけ読んでみましょうか。
あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。
そういう素晴らしい問いかけを逆にして、
そしてイエスは再び身をかがめて、地面に何かを描き続けられた。
これで素晴らしいのは何が素晴らしいかというと、イエス様は石を投げなさいと言ったんです。
だから彼らが言うところの律法に矛盾していない答えです。
しかし条件をつけましたよね。
あなた方の中で最初に石を投げることができる人は、罪がない人ですよ。
さあここで思い出していただきたいんですけども、彼らの罪、具体的な罪が一つ少なくてもありましたね。
彼らの一つの律法違反は、現場で捉えたならば、その現場でその人に注意しなければいけないということ。
もっと広げると、男性を連れてこなければいけないということで、もうせの律法からするとおそらく罪を犯していた。
そういうことが今風の言葉で言うと、彼らの心に刺さったかもしれません。
そしてさらにですね、その罪ではなくて、皆さんも気がつかれたように、
この沈黙の中で、そしてイエス様の回答で、自分が罪があるかどうかを、彼らがもしかしたら、
イエス様の問いかけと年長者の気づき
おそらく吟味する中で、自分は神様と人の前で罪なき者だと言えるのかどうかということを自問自答したのだと思います。
言い切れない自分の姿を、イエス様の問いかけという、投げかけた言葉によって、明らかにされてしまったのではないかと思うわけなんですね。
そこで、気がつかれたと思いますけれども、どういう人が一番最初に身を引いたって書いてありましたか。
年長者からですね。年長者。
年の子って言葉がありますけれども、年の子があるとすれば彼らは、自分は罪人に過ぎないということを人生経験の中で、実は実感してよく知ってたんじゃないかと思うんですね。
ですから、そういう年長者の人から一人二人とその場を立ち去っていったということなんですね。
まあそれが2番目の点です。
最後、イエス様は再出発の言葉をかけられた。3番目、再出発の言葉。
イエスは見起こして彼女に言われた。
ここで読んでみましょうか。
女の人よ、彼らはどこにいますか。誰もあなたに裁きを下さなかったのですか。彼女は言った。はい、主よ、誰も。
女の人よというのは、日本語にはない、女性に対する敬意と愛着を持った呼びかけです。
まあ覚えている方もいると思いますけど、2章でイエス様が自分の母親に対してですね、武道士がなくなったと言った時に、女の人よ、私とあなたにどんな関係がありましょうかと言って、敬意を取りながら母親という距離、関係がありながらも距離を取ってですね、答えた言葉と同じです。
女の人よという敬意と親密さと言いますかね、愛着を持って優しく語られた言葉です。
ここでイエス様は彼女に裁きを下さないとおっしゃったんですね。
私も誰も裁かないし、私もあなたの罪を裁きません。
でも大事なことはですね、裁かないけど罪を不問にしたわけではないわけですね。
そのことがわかるのはですね、この言葉ですね、読んでみましょうか。
行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。
この言葉から彼女が姦淫の罪を犯してきたことを不問にしはしてません。
おそらく学者によれば何人かの男性との関係を持っていたんじゃないか。
ある人に言わせればサマリアの4章の女性との本人ではないですけども、
そういう関わりを連想させるような女性だったんじゃないかと言われています。
とにかく罪を不問にはせず、決して罪を犯してはなりませんと言って送り出したわけなんですね。
ここで大事なことはですね、罪を許すということは神様以外にできないということが明かされています。
他のマルコテスとかマタイにあるように、中部の人が天井から吊り下げられたときにですね、
あなたの罪を許されたとイエス様が言って、周りにいた律法学者やパリサイブとか、
神以外誰が罪を許すことができるんだという出来事がありました。
非常にこのやりとりでイエス様が罪を許すことができる、その権威を持った神であるということが実は明かされてはいるんです。
大事なことはですね、皆さん自転車に乗ります?自転車に乗って教会に来る方いらっしゃいますよね。
今厳しくなっているじゃないですか。青切符。
来年の4月1日から違反をしたら反則金を払うんです。反則金。
反則金を払うということはどういうことかというと、その罪のゆえに本当は検察に起訴されたり刑事罰をあてがわれるんです。
でもそのお金を払うことによって、罪は不問にされないけれども罰は受けなくていいですよ。
そういう意味が反則金ですね。でも違反をしたという事実は消えないわけです。
同じようにこの女性に関して、あるいは私たちに関して、罪を犯してしまったという事実は消えません。
でも何が福音かというと、このイエス様の十字架が反則金のように私たちの罪の贖いですね。
神様に対して叱るべき罰です。
その身代わりの反則金というと、ちょっと軽すぎるかもしれませんけれども、
イエス様が十字架で代わりに罰を受けてくださったので、私たちが罪を犯したという事実が残りますし、
神の裁きの中にあるということも免れません。
でもイエス様の十字架が代わりに、私たちに代わって受けてくださった神の裁き、
そして罪の贖いの行為であるがゆえに、私たちの罪は許される。
罪を犯したとしても、この女性のように行きなさい。
またもう罪を犯してはなりませんよと言って、新たな一歩を踏み出すことができる。
それが福音ですね。
イエスの取り成しと私たちの歩み
イエス様がこの人間の罪の罰を身代わりになって受けてくださるということを、
ヨハネの福音書の冒頭で、バプテスマのヨハネがやってくるイエス様を見て叫んだ言葉がありますね。
1章29節、読んでみましょうか。
2王、世の罪を取り除く神の子羊。
まさに贖いの子羊のように、イエス様は十字架でご自分のいのちを捧げることによって、
この世の罪、私たちの罪を取り除く贖いを成し遂げてくださるお方、救い主だということがここでも示されているんです。
私もそうですけれども、自分の過ち、罪に気づいて決意を新たにして歩みますけれども、
残念ながら、また時に自らの罪に気づき、イエス様の前を立ち去りたい。
もしかしたらこの姦淫の女性もそうかもしれません。
立ち去りたいと思うことが私たちもあるかもしれません。
しかしその度にイエス様の言葉が救いになるんですね。
行きなさい。私はあなたを罪に定めません。これからは罪に罪を犯してはいけませんよ。もう一回行きなさい。
繰り返しイエス様は私たちを送り出してくださるんですね。
そんなことを思い出せればと思います。
そのイエス様の贖いの尊さを、ヨハネが後に教会にあった手紙でこう記しているんですね。
この言葉を最後に読んで終わりにしたいと思います。
ヨハネの手紙第1、2章の1節ですね。最初だけ読みますね。
私の子供たち、私がこれらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。
しかしから言いましょうか。
しかしもし誰かが罪を犯したなら、私たちは道の前で取り成してくださる方、義なるイエスキリストがおられます。
この取り成してくださる方というのは、前の新開薬では道の前で弁護してくださる方が訳されているんですね。
イエス様はご自分で罪ながないをしてくださった。
そして今は神の御前で私たちのために弁護し取り成してくださる。
そのような義なる救い主である。
そのイエス様のことを覚えながら、これからも日々歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは罪を告発する者ではなく、罪を贖う方であり、
またそのような私たちを贖い、そして新たに送り出してくださることの救い主なることを覚えて、
あなたを賛美し、あなたに感謝いたします。
私たちがこの世の旅路を続けていく中で、どうかこのイエス様の贖いの宮座、
またイエス様の取り成しの宮座を覚えながら、日々新しく歩み、
あなたと人々に仕えていく。
そのようなお互いでありますように、また教会でありますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは御言葉に応えて一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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