祈りと感謝
それでは一言お祈りを致します。
恵みと哀れみに富んでおられる、天の父なる神様、あなたの尊い皆を心から賛美を致します。
私たちを主の御前へとまた招いて下さり、あなたを奥義礼拝ができます幸いを感謝致します。
来たれ、たれも重き荷物を抱えている者に主耶穌は安きを与え給わんと賛美を致しましたが、
そうですしよ、あなたは私たちの抱えている重荷の全てに力があり、あなた御自身が共に担い、私たちの人生を共に歩んで下さる主であることを心から感謝致します。
あなたは私たちの罪の全てをあの十字架で担い、すでにすでにと賛美を致しましたが、
すべての代価が支払われ、神の子として下さり、復活の命、永遠の命を与えて下さって、あなたと共に生きる、あなたと切り離されない、その人生へと私たちを招き入れて下さったことを感謝致します。
あなたの霊によって生きるようにと招かれ、私たちが少しずつ解き放たれ、あなたと共に御国を生きる、あなたと共に御国を築く者へとされていることも感謝致します。
神様がどうか、それぞれを使命に生かして下さり、本当に置かれているところの戦い、言えること言えないことを多く私たちは抱えていますけれども、あなたこそが私たちの主であり生きておられる神であることを覚えて、あなたをこのひとときまた仰ぎます。
どうかあなたの御声を聞かせて下さり、あなたの命の言葉によって私たちを励まし、ここからたたしめて下さいますようにお願い致します。
ここに来たくても来れないお一人一人、今も戦っておられる方、おられます。どうか神様がお一人一人のことを覚えて下さり、その中においてもあなたの御臨済を表し、あなたの恵みによって支えて下さいますようにお願い致します。
世界において様々な痛みがあることを見聞きしておりますけれども、世界の誠の王である主御自身の御手がそこに広げられていることも信じて、祈り続けるものとならして下さい。お願い致します。これからの時を御手に委ねます。どうか主御自身が私たちに必要なことを今朝お語り下さいますようにお願い致します。
イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。
塩屋の新学校の歴史
昨日からしおや生会が始まっております。この教会は比較的近いので、関西製書心学校に行かれた方というのは何名かいらっしゃるかもしれません。今回の機会にぜひ行ってもらえたらなと思っておりますが、行かれた方はお気づきでしょう。
自立学校というのは日当たりがとても良好なんですね。最近私はちょっと一つの仕事があって、それのために沢村先生の「迷い子の旅日記」という本を読み返していたんですね。そこには新学校がしおやのあの土地に立った理由が書いてありました。
この関西製書心学校というのは全身は日本伝統体の三陰製書学者と呼ばれるもので、もともと三陰に立っていたんです。ただその一軒家を買った新学校の隣に大きい建物が建ってしまって、日当たりがすごく悪くなったんですね。
日当たりが悪化した結果、次々と学生たちが体調を崩し、最終的に2名の新学生が命を落としたんです。沢村先生はこの事態を受けて、こう祈ったそうなんですね。
「こんな不健康なところで、主に召された尊い青年たちを訓練することは絶えがたいことです。神様どうかこの校舎でもう一度冬を過ごさせぬようにしてください。もしもう一冬ここで過ごすのなら、私は辞職いたします。」と祈ったそうなんですね。
至近難の時代です。ただ主の必要であるならば、それは満たされるということで、日本連動隊は新学校建設を決議いたします。沢村先生は実に30カ所以上の候補地を回って、最終的に行き着いたのが今の塩屋の新学校なんですね。決めた理由は日当たりが良好である。
このところならば、まさに新学生が健康的に訓練を受けられるだろうということだったそうです。そのため、旧校舎、今の新学校の前の前の校舎なんですけれども、その校舎は全部、建物は南向きに建っているんですよ。学生たちの生活できる場所は全部南向きに、横長に建っている建物ですね。
これは今もそうだそうです。沢村先生に聞きました。今もそのことは意識して育てていますと。そのことを思いながら、私はいくつか不勉強だったなと思ったのは、ああそうか、日当たりが悪いと人は死ぬんだということ。でもそれはあるんだろうなと思うんですよ。
そのことを思い巡らしながら、今朝はこの地の塩、世の光の華賞に当たっていましたので、いろいろと思い巡らしながら、ああそうだなと思わされたことは、光というものも、もしくは塩というものも、私たち人間が生きるためにはなくてはならないものなんですよ。なくてはならないものですね。
しかもこの、今日は13節、14節にそう書いてあります。あなた方は地の塩です。あなた方は世の光です。これ、ギリシャ語の元の公文は強調文ですから、あなた方こそなんです。これに合わせた。あなた方こそ地の塩、世の光ですという、そういう言葉の意味です。
いわば、この世界にとって、この地上において、キリスト社である神のことされている私たち一人一人、あなた方こそが、この世界においてはなくてはならない存在なんだ。実はそれがこの歌詞が言っていることです。あなた方こそ、この世界にはなくてはならない存在なんだ。
それほどまでに、いわば神様は、キリスト社である神のことされている私たち一人一人には、大きな期待をかけておられると言っていいのかもしれません。ただ、そう言われると、ああ、荷が重いな、ということを思われるかもしれませんね。
担いきれない使命かもしれない。しかし神様は、担いきれない使命は負わせられません。改めて今朝は、この地の塩、世の光として生きるとは一体何を意味しているのか、そのことをご一緒に注目をさせていただきたいと願っております。
2つのポイントをまた挙げていきますが、先ほど申し上げました1つ目のポイントは、あなた方こそ、地の塩、世の光であるということです。前回から一緒に三乗の説教を見ていっています。前回は1節から12節をご一緒に見させていただきました。
三乗の説教というのは、単に倫理や道徳を教えていることではない。これは神様が新しい業を始めたという告知なんだと前回お伝えをいたしました。その新しい業というのは、神様はイエス様において、イエス様を通して、この世界に新しい恵みの支配を始められたということですね。
その印象を見て、私たちはそれをよく知っています。この世界が目も当てない、傷ついている一人一人にイエス様は近寄って、そこを癒していかれる。高ぶっているものをイエス様に批判される。でもそれは神様の支配ですね。
そしてそのような三乗の説教は、まさにそのような神様の新しい支配に群衆たち、貧しく悲しみを抱える群衆たちを招き入れる言葉であるとも確認しました。
そして神様はこの群衆に対して、聖書でいうと五説ですね。その人たちには地を受け継ぐという使命を与えられますし、地を受け継ぐ使命を持つ者たちは神様の前に心清く、この世界に対しては平和を作る者として立ちなさい。そのように語られました。
これは旧約聖書のイスラエルの姿と重なりますねということも先週申し上げました。神様は暗闇に陥った世界を光を灯すために、アブラハムをはじめイサク、ヤコブ、ヨフセフ、そしてイスラエルの民を選び、世界に光を灯そうとされた。残念ながらイスラエルは堕落しました。しかしイエス様がやってきた。
イエス様はまことのイスラエルとして闇を照らす光として、この地上に神様の恵みの支配を明らかにされていく。そのように実は旧新約聖書というのは一貫したこの世界の回復を願う神様の熱情で貫かれている。
そのことが今朝読んでいただいた17節以降に書いてあることです。イエス様がこう言われるんですね。17節以降。
私が立法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことにあなた方に言います。天地が消え去るまで、立法の一点一角も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ですからこれらの戒めの最も小さいもの一つでも破り、また破るように人々に教えるものは、天の御国で最も小さいものと呼ばれます。しかしそれを行い、また行うように教えるものは、天の御国で偉大なものと呼ばれます。
信者の使命
私たちはよく新約になったら旧約聖書は終わったと思いますが、決してそうじゃないですね。旧約聖書でやろうとしていたことは新約聖書で成就したのです。旧約聖書というのは何かというとまさに神様の熱情のストーリーですね。この世界を救わんとする、私たち一人一人を愛し救わんとする神様の熱情の物語。それがイエスキリストにおいて成就する。そのような旧新約聖書です。
さてですね、そのようなものの中にあるんだということを言いながら、今朝ご一緒に目を向けますのは13節からです。
地の使用、世の光。あなた方は地の使用、世の光。イエス様は新しい神様の恵みの支配を表す者として来られました。イエス様こそはこの世界の地の使用、世の光です。でもここで語るのは私だけではなくて、あなた方こそです。あなた方、すなわち私たち一人一人も使用であり光である。
一般的にこの言葉は有名なので、一般的に全ての人が人間というのは地の使用、世の光なんだというふうに読まれることもありますが、そうじゃないですね。これは神のことされたキリスト社に言っているんです。神のことされたキリスト社、あなた方こそが地の使用、世の光。
ここは複数形で書いてますから、これは教会のことですよね。キリスト社の集いである教会こそ地の使用、世の光。使用とは何でしょうか。使用というのは当時は防腐作用があるものとして重宝されました。それが一番の意味でしょう。
腐敗する世界、世界がどう腐敗しているかなんてことは言わずもがなだと思います。腐敗する世界の実情、その多く深く多岐にわたる様々な腐敗、それをとどめる使命を教会は担っていますよということが語られる。そこに責任がありますよと。
この地域、地域教会として明大に教会は立っています。この地域にもしも痛みがあれば、そこに何かをするのは教会の責任ですね。私たちの目の前に誰か痛み、腐敗があるということが見えたときに、そこに私はどのように関われるか。何でもかんでも関わったらいいわけじゃないですか。
しかし、そこに死を私はどう関わるべきでしょうかと祈り始めるのは、やはり私たちそれぞれに委ねられていることですよね。生きる希望を持てない、死を恐れる人々に対して教会は福音を語ってきましたが、そのように私たちができることは何であるのかということを祈り始める。地の死をというのはそういうことでしょうね。
そして光もまた、なければ生きれないものであると先ほどお話をしました。暗闇を照らす光であるというのはもう皆さん言うまでもないと思いますが、明大に教会というのはこの地域になくてはならないものなんです。なくてはならないものです。神様はこの地域の人々のために明大に教会を置いておられるんです。
あなたがもしも家庭の中でクリスチャンが一人であったとしても、あなたはそこになくてはならないんです。あなたを通してでしか神様のできない業というのはあるわけですよね。それぞれその中に使命があって、目的があって置かれている。
加えて十五節に言われます。イエス様は明かりを灯してマスクを下の方に置いたりはしません。食材の上に置きます。そうすれば家にいる全ての人を照らしますと言われる。
簡単に言うならば隠れないようにと言われるのです。隠れないように隠さないように。これはチャレンジですね。どこでも私はクリスチャンですと一言言い表せば人々の私たちに対する見方は変わるでしょう。牧師ですと言ったら見方がだいぶ変わるんですよ。
でも私たちはある種クリスチャンですと言い表し、そしてあなたを見ることを通して人々は神様を知るのだということ、その責任もまた逃れられないですね。責任重大なんですよ。身が重い。そう言われたら実に確かにその通りだなと思います。
そして二つ目のポイントを見ていきますが、ただ身が重いということはこれは避けられない事実なのですが、一つ間違えてはならないことは、私たちが光として生きるという時にそれは、天の父なる神様があなたを輝かせるということなんですね。それが大事です。
シオンの光
地の塩、世の光、あなた方こそそうなんだと言われる時に、身が重いです。そしてその責任はある種避けようがないことだとも思います。ただし忘れてはならないことは、そうだ、地の塩、世の光なんだ。じゃあ私は頑張っていい人間になりましょう。私は穏やかで輝いているような人間になりましょう。ということを進めているわけではないということです。そうではない。
頑張って塩や光になろうとしても私たちは立てません。というか、私なんか全然できないような気がいたします。そういうことではない。これは一体何を言っているのか。多分十四節というところに大事なことがあると思うのです。十四節。
あなた方は世の光です。山の上にある町は隠れることができません。という言葉があるんです。山の上にある町、これはどこのことでしょうか。おそらく旧約聖書でたびたび示唆されますが、これはおそらくイメージとしてあるのはシオンの山です。もしくは山の上に立つ神の都シオンです。
シオンという町は実際には旧約聖書の中ではエルサレムと重ねて書かれることが多いのですが、しかしシオンという町は何かというと、それは神様が御臨在なさる、神が住まわれる聖なる都シオンですね。そのような場所があると言われる。
そして実はこのシオンという都は輝くわけですけれども、シオンという都を神である私が輝かせるという言葉が実はイザヤ書六十章に続いて書かれるのです。
いくつかの先生方によればイエス様のこの箇所というのは背景にイザヤ書の六十章があるのではないかということが言われますので、少しちょっと見たいと思います。イザヤ書六十章。
イザヤ書六十章の例えば一節から三節をお読みいたします。アドベントの招きの言葉で毎回読む箇所ですけれども、こういう言葉ですね。
イザヤ書の六十章の一節から三節をお読みしますとこういう言葉です。
六十章の一節から、旧約聖書の1269ページの下の段にありますが、こういう言葉ですね。
起よ、輝け。まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
みよ、闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民よ。しかしあなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光の内を歩み。王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
ちょっととびとびで申し訳ないんですが、これに類する言葉が続きます。
例えば七節。ケダルの羊も皆あなたのもとに集まり、値映えてのお羊はあなたに仕える。
これは受け入れられ、私の祭壇に捧げられる。私は私の輝かしい家をさらに輝かせる。
ちょっととびまして、九節の最後にも、主があなたを輝かせたからであると言われ、
そして十九節、ちょっと隣のページにいて、十九節にも、太陽はもはやあなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。
主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなるという言葉が、実はこの六十章は繰り返されるんです。
いわば何かというと、神があなた方を輝かせる時が来る。神があなた方の光となる時が来る。
それはいわばイエス様を通して私たちの内に実現をしている、そういう言い方ができるとも思います。
信仰による建設
今の私たちにおいて、あなたの神があなたの輝きとなるというのは一体どういうことでしょうか。
私たちの馴染みあることで言うならば、キリストはが内に来るなりという言葉ではないでしょうか。
いわばそれは、キリスト社というのは、神様が私の内に既に生きている存在なんですね。
これは事実です。キリスト社は、神というお方が私の内に既に生きている存在です。
私たちの支配者、私の体の心も霊も、支配者は誰かというと、もはやそれは自分自身ではない。
私たちの支配者は、神ご神でありイエス様であり、私たちと共に働く聖霊なる神様、キリストの精霊である聖霊なる神様ですよね。
イエス様を信じる前には持ってなかったけれども、イエス様を信じてから私たちの内に確かにあるお方がいる、あるものがあるんですよ。
私たちは聖霊様を内に宿し、内に神様の輝きという神様ご自身を持つからこそ、皆さん経験あるでしょう。
私たちは自分の罪深さがよくわかるようになりますよね。イエス様を知れば知るほど私たちは自分の罪深さもよくわかります。
しかし確かに、それ以上に私たちは聖霊様がいるからこそ、自分の罪深さと同時に神が私たちをどれほど愛してくださったかという事実が豊かにわかるようになってくるんです。豊かにわかる。
そしてそれは先ほどの賛美ではありませんが、既にですよ。既に既に。
光が私の内に生きている。私がそう実感できなかろうと信じれなかろうと、神である光であるお方が私の内に生き始めている。
であるならば、私たちはそのイエス様の輝きをどのように輝かせることができるのか、何度も繰り返し言われることです。
それはイエスキリストについていくこと。私たちでいうならば、聖霊様の導きを否定しないことです。聖霊なる神様が私たちを導くところを否定しない。
実は私はこの箇所そうだと思うんですね。16節にイエス様がこうおっしゃられました。
このようにあなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようになるためです。
良い行いを見て、人々がここに神様がいるんだなってわかる。
でもそれは何かの模範を示したり、そのために励ましたりすることだけではないでしょう。
それをするだけで済むならば信仰なんかいりません。
一般的に道徳的な良いことをしなさいということならば、仏教徒の人もしてます。
教会に通ってないけど、良い人は5万人います。本当に羨ましいくらい、この人本当に素晴らしい人だなという人はたくさんいます。
でもあなた方こそと言われているんです。あなた方こそ、神のことされたあなた方こそ、いやあなた方にしか示すことのできない、
あなた方だけにしか示すことのできるものは一体何なのか。それはあなた方のうちに宿っておられる神様ご自身ですね。
私たちのうちに生きておられる神ご自身でしょう。
その神様によって私は生きている。
そして良いおこないというのは道徳的な善行も含むでしょう。しかしそれだけではない。
私たちは生きることを通して、神様が私たちを通して生きておられるということが示される。
その生き様のことを指すのではないでしょうか。
私たちを見たら、ああ本当に神様が生きているんだなということを知る。
私は三村先生の本を先ほど読んだという話をしましたが、一つ心を震えた場面がありました。
実は新学校建設の話が上がったとき、三村先生は日本電動隊本部に持ちかけたんですね。
当時電動隊の主管をしていたカスバルトン先生がこういうことをおっしゃいました。資金的余裕が一切ない中で。
今は一線の余裕もなく何の目当てもない。しかし祈ろう。そして身胸と分かれば信じて進もう。
今は一線の余裕もなくまた何の目当てもない。しかし祈ろう。そして身胸と分かれば信じて進もう。
その信仰だけで新学校建設を決断した。その場で皆が膝を負って神様の前に祈り始めた。
新学校建築が始まるそうですよという噂だけが立ってお金が全くなかったということを三村先生書いています。
しかし三村先生が父親の土地を見つけました。しかし土地を買うお金がありません。
ただちょうどその時に、お金が入ったんですけどこれ何のために使っていいか分かりませんという人が現れてですね。
じゃあ新学校にということで土地が購入された。じゃあ次校舎を建てなければならない。しかし校舎を建てるお金もない。
一生懸命祈ったそうです。
すると伝道隊のその新年の年会、まさに冬に始まる前でしょうかね。
その時にお金が満たされて校舎を建て始めることができるようになったそうです。
皆様も今の新学校の建築のためにだいぶ献金をしてくださって感謝をします。また祈ってくださったと思います。
実は今の新学校建築の話が出た時も私覚えているのは、牧師会で鴨野先生が新学校を建築しますって話し始めたんですね。
いろんな声が上がりました。このご時世に本当にあそこにあれだけ大きい建物を建てるんですか。
いやいや、他の新学校に曲がりすればいいんじゃないんですか。
祈りと信仰の力
事務所兼用の小さな建物を建てて寮なんか作らずに教室だけあればそれで十分じゃないですか。
いろんな意見が上がりました。
ただ先生がその牧師会でこうおっしゃられたんですね。
私たちはフェイスミッションのはずですと。不安があるのはわかります。
でも皆さんまず祈りませんか。そして覚えてます牧師たちはそこでみんなで祈りました。
それは新学校を建てるべきかを含めてですけれども祈りました。
皆さんも祈られたでしょう。
結果この2月の末に新学校すべて建つことができました。
借金なく建ちました。これは驚かれました。
なかなかそんなことはできない。
でも神様生きておられるなあということをそこで表されたのだと思います。
私こういう証する時にいつも気をつけなきゃいけないなあと思うのは
単純化しすぎてだから全部うまくいくって話ではないかもしれない。
ただ事実なんですよ。事実として祈り、主が身宿とされるならば進む中に
でもそれは満たされていく。起きてくる。
そういうことを通して私たちは知るんです。
ああ主は本当に生きておられる。主は生きておられる。
地の死を世の光。そうなるのではなく私たちはそうされているお互いです。
不完全さと神の期待
しかし荷が重いですね。荷が重い。
キリスト社に教会には責任があると言われたら荷が重いです。
しかしじゃあ私たちは何をするのか。地の死を世の光ですという言葉を前に
私は不完全で欠片あるものでとてもそうはなれていませんというふうに自分を責めるのか。
そうではないはずです。
むしろ不完全で欠片ある私であろうとも
私の内に生きておられる神は私の覆いきれないその割れ目の間からでも
光を放つことができるお方なのだということ。
私は不十分で不完全かもしれないけれども
その分神は十分であり完全である。
神はこのような私すらも用いることができるんだ。
そう私たちが信じること。
神様が私たちにかける大きな期待に対して私たちも神様に存分に遠慮なく期待をかける。
でもそのような中で進んでいく。
そのような中にきっと神様が生きているということが表されていくんじゃないでしょうか。
今朝私たちは語られます。
あなた方こそ地の死を世の光である。
あなた方こそあなた方しか持ってないものは何なのか。
うちにあなた方はキリスト神を持っているお互いである。
あなた方を通して世は神様を知り神様をあがめる。
私たちは祈っていきたいと思います。
主よどうかあなたは隣人にとってなくてはならないものとして私を使わされました。
私はこの場にあなたにあってなくてはならないものとして置かれています。
だからこそ主よ掛けある器を用いてあなたが私に死をとして光として生きる力を与えてください。
あなたが私を通して輝いてください。
あなたがそこであなたご自身が生きていることを表してください。
そのような地の死を世の光になっていけたらなっていけたらというか
神様がそのような力を表してくださればなと願っております。
一言お祈りをして今日のメッセージを終わります。