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2025-06-29 30:33

#270 みことばの深さを悟る~聖書を深く知るとは 25/6/29

ヨハネ-24からの礼拝説教。2025年6月29日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()からです。)今日の箇所も前提とされている聖書の背景や場面設定があります。それらを知ると教養としての聖書理解が深まり、信仰所としての聖書を知る楽しみを味わうことができるでしょう(1.理解をより深めるために背景を知る())。次にイエス様の権威を疑う者への弁明の言葉から聖書を理解するために必要な要素を取り上げます(2.神の言葉を受け入れるために())。最後に聖書やイエス様の言動の表層だけを捉えた人々の過ちに触れ、キリスト教信仰において大切な視点を学びます(3.聖書の中にある神の御心を悟る())

原稿を読む


サマリー

このエピソードでは、イエスが内密に祭りに登り、その教えが群衆に驚きを与える様子が描かれています。また、イエスの教えがユダヤ人たちの反発を招き、彼の言葉の背後にある深い意味が考察されています。さらに、イエスの教えに対する権威についても深く考察されています。神殿での教えの資格や、イエスの言葉が神の言葉であることを受け入れる重要性について語られています。イエスは律法の本質を理解せずに表面的に裁くことの危険性を示し、神の御心と救いを悟る重要性を説いています。

イエスの内密な登場
それでは、新科学聖書2017年版でお読みします。
ヨハネの福音書7章10節から24節
しかし、兄弟たちが祭りに登って行った後で、イエス御自身も、表立ってではなく、いわば内密に登って行かれた。
ユダヤ人たちは祭りの場で、あの人はどこにいるのかと言って、イエスを探していた。
群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。
ある人たちは、良い人だと言い、別の人たちは、違う、群衆を惑わしているのだと言っていた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて口善と語る者は誰もいなかった。
祭りもすでに半ばになった頃、イエスは宮に登って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いていった。
この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。
そこでイエスは彼らに答えられた。
私の教えは、私のものではなく、私を使わされた方のものです。
誰でも神の御心を行おうとするなら、その人にはこの教えが、神から出たものなのか、私が自分から語っているのかがわかります。
自分から語る人は、自分の栄誉を求めます。
しかし、自分を使わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
モーセはあなた方に律法を与えたではありませんか。
それなのに、あなた方は誰も律法を守っていません。
あなた方はなぜ私を殺そうとするのですか。
群衆は答えた。
あなたは悪霊につかれている。
誰があなたを殺そうとしているのか。
イエスは彼らに答えられた。
私が一つの業を行い、それであなた方は皆驚いています。
モーセはあなた方に滑霊を与えました。
それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。
そしてあなた方は安息日にも人に滑霊を施しています。
モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも滑霊を受けるのに、
私が安息日に人の全身を健やかにしたいということで、
あなた方は私に腹を立てるのですか。
上辺て人を裁かないで、正しい裁きを行いなさい。
以上です。
祭りと群衆の反応
今日はこのところから、御言葉の深さを悟ると題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
九州地方ではですね、
観測史上初めて先週6月にですね、もう追明けをしてしまいまして、
本当に暑い日が続いていて、関東も今週追明けするのではないか、
ちょっと心配な日々が続いております。
暑い中ですけど、共にこうやって礼拝守れることを感謝しています。
さて、今日7章、先週から見た2回目になりますけれども、
イエス様が仮庵の祭りの時に、兄弟たちが登っていくようにと進めました。
先週見ましたけれども、仮庵の祭りというのはですね、
過越の祭りと並ぶ、エジプトの出来事を記念する祭りです。
荒野の40年間の間、いわゆるテント生活をしてですね、
民が過ごした、そしてその間、神様が守ってくださったということを覚えるたびに、
大体9月、10月頃にですね、今でもテントを作ってですね、
1週間お祝いするというものでした。
その間ですね、当時エルサレムに世界中のユダヤ人が集まる、
最も多くの人が集まる機会なので、
まさにイエス様が救い主であるということを公に知らしめる、
大胆に知らしめるのに絶好の機会だということで兄弟たちが進めた。
それをイエス様はですね、今は神の時ってないということで断ったのことの続きです。
そんな中ですね、今日の話を理解していく上で、
やはり先週の箇所と矛盾してイエス様が状況をしているとかですね、
あるいはいろんな、やはり他のヨハネの福音書と同じように、
言葉の背後を知らないとわからないことがあります。
逆に、このいろんな言葉のですね、
特にユネア人やイエス様の言葉の背後にある背景ですとか、
旧約聖書の背景を知ることによって、
今日の箇所の理解が深まりますし、また私たちの聖書の理解が深まりますので、
一番最初はですね、やはりまずいつも通り理解を深めるために背景を知るということを見ていきます。
そして二番目にですね、私たちの信仰と徐々に関係してあることで、
神の言葉を受け入れるためにどうするかということ。
そして最後には、聖書の中にある神の御心を知るということを見ていきたいと思います。
それでは一番最初ですね、
理解、今日の箇所の理解をより深めるために背景を知るということで見ていきましょう。
7章12、13節ですね。
「群衆はイエスについて小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは良い人だと言い、別の人たちは違う。群衆を惑わしているのだと言っていた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて口善と語る者は誰もいなかった。」
実はですね、今日の背景を知る上に、ここでは口善と書かれています。
そのもう一つですね、先週見た大胆に公に自分をメシアとして示しなさいという言葉があるんですけど、
実はそういう言葉と反して、まず今日の箇所ではですね、
密かにとか内密にという言葉が出てきます。実はそれを対比されています。
そしてこの二つの密かにという言葉を知ることによって分かることがありますので、
まず一つ目をですね見ていきます。その一つ目はですね、
兄弟とは別に、しかも彼らとは違って内密にエルサレムに登ったとイエス様のことが書いてあります。
今日のところのですね、
10節ですね。
なぜこういう表現があるかというと、
実は当時ですね、このエルサレムに行くのに旅をする旅団というのを地域ごとに編成をしたんですね。
先週金曜日皆さんにね、お祈りしてもらいました。
KDKのコーチングとですね、そして委員会があってですね、
だいたいいつも押し上げというところの会議室を借りるんですね。
押し上げのそばに非常に有名なものがあるのご存知ですか?
スカイツリーがあるんですね。スカイツリー。
で、この間もちょっと早めにですね、11時過ぎに押し上げに行ってですね、地下を歩いて上がったんです。
目の前ですね、20代ですかね、女性が2人いて、地下鉄の奥の方の上り口から出てですね、スマホを見て探してるんですね。
これ外国人の観光客だと思ってですね、日本語で、スカイツリー探してるんですか?って言っても通じなかったんで、
Do you speak English?って言ったから話せるって。
中国から来た。
あなたスカイツリー探してるんでしょ?って言ったら、そうだって言ったんですね。
で、あっちあっちって言って、こっち行ったらあるよって言って、教えてあげたらありがとうって言ってですね、歩いて行って、
途中で立ち止まって写真をね、スカイツリーだって写真撮ってるわけです。
この間祈っていただいた5月の末のですね、アメリカ人の一難をやっぱりスカイツリー連れて行ったんですけどね、
やっぱり夜の8時頃でもですね、上が満員で、下りのエレベーターも20分待つとか、それぐらい本当に外国人の人があふれています。
今インバウンドでやってますけどね、かつて日本もジャルパックっていうのがあってですね、団体旅行で行きましたけども、
そういうふうにですね、当時もエルサレムの祭りに行くんだってことで、街ごとに大勢の旅団を組んで行ったわけです。
実はその中にですね、もしイエス様がいたら、やっぱり噂になってますからバレてしまうわけですね。
前後しますけども、これイエス様がルカの2章にある、12歳の時にやはり過越の松にあったかなんかで登ってた時にですね、
両親が帰っているにも関わらずイエス様の神殿で教師たちと議論していたって話がありましたよね。
その時にお父さんお母さんはイエス様がこの旅団と一緒にいるもんだと思って、そして1日の道のりを行ったって言うんです。
だからここにいると思って1日行くぐらい、それぐらいですね、大きな団体を組んでこのエルサレムとの間を行き来していたわけです。
ですからイエス様はご自分の噂で広がってますから、ことがわからないようにその一行とは別に、祭りの中頃か終わり頃に密かに登っていった。
それがまず一つ目の背景で知るべきことなんです。
そして次にですね、密かにという場面が出てくるのはですね、それは群衆が小声で密かにイエス様について議論していたという箇所です。
いい人だっていうものもあれば、群衆を惑わしているんだ、ある人はペテンシだって訳す人もいますけど。
そこからも見えてくることがあるわけですね。
そして、イエス様がどうしてその密かに兄弟たちの意に反してしかし登っていったかというと、
そこにはですね、人間の差筋ではなくて、父なる神様の御心に背いてご自分を表すことを拒んだんですけれども、
この末尾の時にですね、やはり父なる神様の御心に従って伝えるべき教えがあることを確信して、わざわざ目立つような神殿に行って教えたというのがここの背景です。
で、実はそこの前後してしまいましたけど、なぜ密かに群衆が議論していたかというと、
実はそのイエス様のことを話すことだけでもですね、ユダヤ人の指導者の耳に入ると、どっかの国じゃないですけども、スパイみたいにですね、急断されたり危ない目に遭う。
だからイエス様のことを議論することさえもですね、小声でしなければいけなかった、密かにしなければいけなかったということなんです。
神殿での教え
それほど、当時のユダヤ人の指導者たちがイエス様を殺そうというこの殺意、企みがですね、危機に迫っていた。そのことがここから見て取れるわけです。
で、その中でですね、実は密かに議論していましたけども、イエス様は今度は逆に大胆に神殿の中で教え始めたわけです。
その恐れることなくイエス様が教えたときに、それを聞いた群衆、特にユダヤ人の指導者たちが驚愕してこう言ったというんですね。
ちょっと読めるかで読んでみましょうか。
この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。
7章15節ですね。
最後の見る背景はこの言葉の背景なんですね。
実は当時ですね、神殿で教えるためには暗黙の了解があったんです。
それはその教える教師というのはですね、ユダヤ教ですとか、あるいはこのユダヤの社会の伝統を正式に学んだ人でなければいけなかったんです。
じゃあどうやれば正式に学ぶかというと、権威ある派閥に入って、権威ある先生の下で学んだ人が教える資格があったんです。
しかもですね、教えるときに自分の言葉ではなくて、誰々はこう言っているとか、先祖ではこう言っていると言って、自分以外の権威を公言して、それを裏付けとして教える。
そういうものがですね、神殿で教えるものの資格でありました。
しかも長々と人々が理解できることを、理路整然と話すだけの力量も必要だったんです。
で、そういう中からですね、イエス様はもちろんそんなことしてないですから、ユダヤ人の学者たちや指導者たちは、正式に学んだことがないのにどうして学問があるのかというよりも、このように聖書やユダヤ教の伝統に詳しいのかということで驚いていたんですね。
で、実はこの2番目3番目、特に2番目ですけど見ていきますけれども、イエス様は自分の権威の拠り所についてこれから教えていきます。
実はその答えというのは、イエス様が誰であるのかということを示しています。
それを裏返すとですね、当時、またヨハネの福音書を書かれた時代にもですね、イエスは偽キリストだったんじゃないかという噂ですとか、イエスは偽預言者ではないのかという噂や批判がありました。
ですからそれらのものに答える形でイエス様は、ヨハネの福音書はイエス様の権威の出どころを語っていくわけです。それが2番目です。
神の言葉を受け入れるためにですね。
ここの前半だけ読んでみましょうか。私のから3。
私の教えは私のものではなく、私を使わされた方のものです。
残り私が読みますね。
自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を使わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
小十六節、十八節です。
ここでご覧になればわかる通り、イエス様の権威、これはイエス様の言葉ですけれども、イエス様は自分の教えが勝手なオリジナルではないということを言っています。
余談ですけれども、当時はオリジナリティというものをですね、認めていなかったんです。
ちゃんと教師なり伝統の権威がないと認められなかったんです。
そしてイエス様はオリジナリティどころかですね、人間の教師の権威も必要ないと言っているんです。
なぜなら、彼にはですね、自分を使わされた父なる神様ご自身の教えを語っているからだと言っているんですね。
だから権威がある。
当然このユダヤ教の教師の一部の偽善者のように、自分の栄誉を求めることもしていないと言っているわけですね。
実はここですね、イエス様の言葉、教えがイエス様を使わせた神ご自身の教えであるという、こういう信学というか信仰理解は、
ヨハネの一書一節からずっと教えられてきましたね。
一番最初はイエス様は永遠の昔から存在して神と共になって神であったというところから、それがずっと始まって繰り返し論じられてきているわけです。
ちなみに今日の箇所と直接関係ある別の聖書の言葉、ヨハネの言葉を引用しますと、三章の34節35節の言葉ですね。
これはヨハネの福音書の説明文として書かれている言葉なんですけれども、こう書いてありますね。
神がお使わしになった方、すなわちイエス様ですね。
神がお使わしになった方は神の言葉を話される。
神が霊を限りなくお与えになるからである。
御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。
ここに明言されているんですね。
このようにイエス様が神様ご自身から使わされていること、そしてイエス様の言葉は神ご自身の言葉であるということが繰り返しヨハネの福音書の中で教えられてきているわけです。
そしてそのゆえ当時の人々も、そしてそれを聞く私たちもイエス様の言葉を神の言葉として受け入れるように信じ、受け入れるように求められているということなんですね。
同時に、逆に言ってみますか、イエス様はですね、さらに信じる人にこそイエス様の言葉が神の言葉であるということがわかりますよ。
信じることの重要性
信じる人こそ、そのイエス様の言葉を神の言葉として悟ることができますよとおっしゃっておられるんですね。
それが7章17節の言葉です。
読める方読んでみましょうか。
誰でもから3回。
誰でも神の御心を行おうとするなら、その人にはこの教えが神から出たものなのか、私が自分から語っているのかがわかります。
実はですね、イエス様はこう問われていたんですよね。
ヨデラ人の教師たちに。
お前は、今日の箇所を見るとですね、この人はどうしてこれだけの学問を得たんだろうという言葉はですね、差別的な表現でこいつはっていう表現なんです。
イエス様にですね、お前はどうして教える権威を持っているんだっていうことを当時の人々はイエス様に問い詰めました。
でも反対にイエス様は、あなた方は私の言葉を理解できるように神を信じてるんですかと言って、聞く側の資質を問うてるんですね。
で、実はそれは私たちにも問われている。
神様を信じていれば、私の言葉が神の言葉だということがわかりますよ、悟りますよという問いかけでもあるんです。
前にも紹介したかもしれませんが、4世紀、5世紀でしょうか、に活躍した有名なキリスト教の聖職者、現在の神学を打ち出した人なんですけども、アウグスティヌスという人がですね、このように言っているんですね。
信じることによって理解できるようになるのである。
それゆえに、信じるために理解することを求めるのではなく、理解できるようになるために信じなさい。
御心を行いたいのなら、信じることであると言っているんですね。
トンチモンドのようですけども、まさにこれは纏えた言葉です。
当時のイエス様を反発した人々に見られるようなですね、全部わからないと受け入れない、そういう言葉はですね、神様よりも自分の栄誉を求めるという態度に通じる。
あるいはまた、オリジナリティにこだわる自己集中心的な態度にですね、全部わからないと受け入れないという言葉が、考えが通じるかもしれないんですね。
一方で、私たちがイエス様の言葉や聖書の言葉に、そこに神様の権威があるんだなと素直に信じ受け入れるときに、私たちは聖書をよりよく理解して、そしてそれが神を知る喜び、神の道を愛む喜びへと変えられていくのではないかと思うんですね。
安息日と教えの矛盾
聖書の言葉、もともとはここではイエス様の言葉なんですけれども、イエス様の言葉、そして広く言えば、今与えられている聖書の御言葉が、ここに神様の権威があって、神の言葉、そのように素直に認めて信じ受け入れるときに、私たちは聖書をよりよく理解して、神を知る喜んで従う道に導かれるのではないかと思うわけです。
それが2番目でした。
最後、3番目、聖書の中にある神の御心を悟るということですね。
引用聖書書いていませんけど、7章24節ですね。イエス様の言葉を読んでみましょうか。読めるかで読んでみましょう。
上辺で人を裁かないで、正しい裁きを行いなさい。
これ簡単に説明してしまいますけど、今日の箇所の締めくくりの言葉、いわゆる安息日論争の締めくくりの言葉なんです。
何があるか、イエス様は安息日律法にこだわりながら、イエス様を批判する人々、宗教的な指導者の矛盾をここで指摘しているんですね。
表面的な聖書の理解であり、そのような表面的な聖書の理解だから、表面的なところでイエス様を裁くんだという理屈です。
どういう風な理屈かというと、このイエス様に敵対している人たちが、いろいろ陰謀を巡らしている。
どういう理屈かというと、こういう理屈なんですね。
今日のところの、後で見ていただければいいんですけど、21節から24節の言葉をまとめています。
イエス様がですね、5章の前半で、38年間中部だったでしょうか、寝たきりだった男の人を癒した出来事です。
それを見て多くの人々が驚いたということを、イエス様は今日言っているんですね。
驚いた、あるいは呆れた、怒った、なぜかそれは安息日だった。
安息日は徳を取り上げてはいけない、労働してはいけないという律法に反して徳を取り上げなさいと言った。
それをですね、厳格な人々は律法違反だと言って怒ったし、それ故にイエスは死罪に値すると言って、イエスを付け狙ったわけです。
それの何が矛盾かということをイエス様は、滑稽ということを持ち出して言っています。
詳しく言いませんけれども、生まれた男子の子供にですね、8日目に滑稽を施しなさいという教えがあります。
何が起こるかというと、その8日目が日曜日だった場合、安息日、土曜日ですね、安息日だった場合、律法に反して労働するような滑稽を施すじゃないですか。
あなた方はそうやって律法を破っているでしょう。律法を破るようなことを許しているじゃないですか。
ここが面白くないですけれども、イエス様はですね、それならば、私はですね、38年間病気で苦しんでいる人の、
人はですね、23節ですね、私が安息日にその人の全身を健やかにしたということで、あなた方は私に腹を立てるのですか。
全身を健やかにしたっていうのは、歩けるように癒した、多分罪も許したという、今流行りのホリスティックですか。
全人格的にその人を身体的にも霊的にも健康にしたでしょう。
で、ちょっとここはあれですけども、滑稽というのは赤子の体の一部に処置を施して、聖なるものとする。
たかたかその一部に処置を施して、聖なるものとするという、そんなちっぽけなことを安息日に行わせる。
一方でその人の体全体を健やかにするような、この癒しの宮座、それこそ神の御心に沿った罪の許しと救いの宮座じゃないですか。
律法の本質と正しい裁き
それを安息日違反だと言って批判するのは、あなた方は本質がわかっていませんね。神の御心や律法の本質がわかっていないですねということをイエス様はこの箇所で言っているんです。
だからこの上辺で人を裁かないで正しい裁きを行いなさいというのが、イエス様がなさった上辺のこと。
安息日に徳を挙げさせるという上辺のこと。そして律法、活礼を施したりして儀式として律法を守るという上辺のことで判断しないで、正しい裁きというのは何が本当の神様の御心なのか。
御心、御言葉の奥にある神様の救いや贖いの御心を悟って裁きなさい判断しなさい。私のやったことを判断しなさいというのがこの御言葉の意味なんですね。
そしてもう一個イエス様が言っているのは、あなた方はでも律法違反しているでしょう。なぜなら私を殺そうとして10回にはっきり禁止されている殺人を行おうとしているじゃないですかということも指摘しているんです。
このようにですね、宗教指導者に対するまずは偽善を指摘する罪ですね。私も人前で語るものとしてですね、イエス様が批判されているような上辺だけのペテンシーにならないようにとか自己満足にならないようにということをいろいろ試されたり十分厳密するんですけれども、
そのようにですね、そこまで行かなくてもイエス様を信じている私たちも聖書の言葉を上辺だけで単なる規則として判断したり、そしてそれによってそれを否定していない人ということを裁くのではなくて、
まさにさっき言った神様を信じて御言葉を受け入れたら、その御言葉の奥底にある罪人をあがなって愛して許してその人を全身健やかにする神様の御心というもの、そのような神様のことを神の言葉の聖書から知ることができますよ。
そしてそのときに神に対してはもちろん人に対しても真実な愛を貫くことができますよというところまでお話がつながるのではないかと思うわけですね。
このように当時の背景を探りながらですね、実は私たちの御言葉や神様との関わりも吟味させられるそのような箇所ですけれども、まさに深いところにある神様の御心を悟れるように神の権威を受け入れて御言葉に聞き歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様御名を賛美いたします。イエス様は偽預言者でもなければ偽キリストでもありません。
誠に神様から使わされたことであり御言葉御自身であり御言葉に深く示された神の御心を行う私たちをあがなう誠の救い主であることを今日も知ることができて感謝いたします。
どうかその救い主イエス様を私たちを受け入れることによって私たちも真実のありのままの姿を自分の中に見出し、それによってあなたの許しやまた救いをさらに深く味わっていくお互いでありますように。
そしてどうぞ御言葉にあるあなたにある深い救いや愛の御配慮、私たちを健やかに生かすあなたの御心を悟りながら歩んでいく教会でありお互いでありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
祈りの時間
それでは一分ほど御言葉に応えて祈る時間、黙祷する時間を持ちましょう。
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