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2025-04-06 26:47

#258 死者を生かす言葉~蘇りとイエスの声 25/4/6

クリスチャンはイエス様がまことの神であり救い主であると信じています。ところで、先日経済ニュースで日立グループが取り上げられていました。どんな企業かと言えば「この木なんの木、気になる木」のCMで知られています。あの木の下には根っこが深く広く張りめぐらされているのでしょう。そのような根を持つ樹木は生命力にあふれ安定し、実り豊かな木となるのです。

キリスト者もイエス様の証言を始めとする聖書の言葉をもとに、イエス様の神性の確証を持つということは、根っこを広く深く張ることにつながります。また新たな発見により信仰生活に新鮮な喜びをもたらすのです。

ということで、1.さばきを行う権威、2.ことばによっていのちを与える、3.死者を生かす声、の3つの点に触れます。

サマリー

このエピソードでは、ヨハネの福音書に基づいて、イエスの声が死者を蘇らせる力を持っていることが強調されています。また、イエスが裁きを行う権威を持つ神であり、その声を聞くことで新しいいのちを得ることが示されています。さらに、父なる神がそのいのちをイエスに与えたことや、再臨の希望、イースターの意味についても語られています。

イエスの裁きの権威
それでは、ヨハネの福音書5章25節から29節、 新海約聖書2017年版でお読みします。
まことにまことにあなた方に言います。 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。
それを聞く者はいきます。 それは父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、
子も自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。 また父は裁きを行う権威を子に与えて下さいました。
子は人の子だからです。 このことに驚いてはなりません。
墓の中にいる者が皆、この声を聞く時が来るのです。 その時、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、
悪を行った者はよみがえって裁きを受けるために出てきます。 以上です。
今日はこのところから死者を生かす言葉、死者を生かす言葉と題して笑み言葉を取り付けます。
みなさんおはようございます。 今日は4月6日、日本の年度ですと4月始まりですから、
2025年度、最初の礼拝です。 先週、月曜から木曜まで冷たい雨降りの日々が続きまして、
本当に寒かったんじゃないかと思います。 金曜日になってやっと晴れて、今日もちょっとまた
夕方から雨のようですけれども。 さて、クリスチャンはイエス様が誠の神であり、救い主であると信じています。
ところで先日、ある経済ニュースで日立グループが取り上げられていました。
皆さん、日立グループってご存知です? これですよね。
この木、何の木、気になる木で有名なグループです。 どれだけ多くの事業をやっているかということを取り上げて、
素晴らしい木は言ってたんですけども、それだけ大きな企業であるということをこの木が象徴していますが、この木は
想像すると根っこが深くそして広く 行き渡っていますよね。
もしそのように根っこが広く深く行き渡った木であれば、この木のように
生い茂るんですね。そして 風雨も耐えることができるわけですね。そして実なる木であれば
豊かな実を結ぶわけです。何が言いたいかというと、私たちというかキリスト者も
根っこを深く張る時に試練にあっても守られたり耐えられたり、豊かな実を結ぶ。その何に根っこを張るかというと
聖書の言葉とかイエス様の言葉に深く広く根ざすと、そのような大木のような
大袈裟ですけども、クリシャー生活を送ることができるのではないかと思うわけです。
実は先週お話ししましたように、今日の歌詞はですね、ヨハネの5章から始まった
ベテスネの行けの軌跡から始まってイエス様が安息日を破ったということで、ユデア人の指導者から
休断された。それに対してイエス様がご自分は神であるということを証言された歌詞なんですね。
実はその会話の中でイエス様は自分が唯一誠の神であるということを
証言している。もちろんそのことを皆さんもですね、クリシャーであれば当たり前のように信じているかもしれない。
イエス様は唯一誠の神であり救い主である。しかしヨハネの福音書などですね、それが広く深く詳しく書いてあります。
そのことを私たちがヨハネの福音書からじっくり学ぶときに、私たちの信仰も深く広く根ざすことができますし、またクリシャー生活に
とってもですね、新鮮な喜びをですね、御言葉を通して回復することができる。そんなこともあって、詳しくヨハネからイエス様の神性について話す。
今日もそんなところなのであります。3つの点を話しますが、一番最初はですね、イエス様に裁きを行う権威が与えられているということ。
そして2番目はですね、言葉によっていのちを与えるということ。3番目はですね、
死者を生かす声ということを見ていきたいと思います。さあ一番最初に裁きを行う権威ということを見ていきましょう。
イエス様がこのようにおっしゃいました。5章27から29節。 また父は裁きを行う権威を子に与えてくださいました。
子は人の子だからです。 その時、善を行った者は蘇っていのちを受けるために、悪を行った者は蘇って裁きを受けるために出てきます。
裁きを行う権威を父なる神は子なるイエス様に与えてくださったということを見ていきます。
先週ですね、ニュースで2つの裁判に関わることが話題になったのを気がつきました。
一つ大きいのは韓国のユンソン・ヨル大統領が最高裁判所によって弾劾されたということ。
もう一つは私たちの教会にも来たことがあるですね、ウィスコンシン州からね、去年牧師が来ましたけれども、ゲイさん。
ウィスコンシン州で行われたアメリカの最高裁の判事がですね、イーロン・マスクシーが巨額のお金を投じて支援した人が落選して、
民衆が支援した人が当選したという、そういう2つの大きな裁判や司法に関するニュースがありました。
日本でもですね、裁判官や弁護士になるためには司法試験に合格しなければいけません。
もしね、その司法試験に合格しないで弁護士を名乗ったりとかですね、裁判官を名乗ってその権威を執行したらですね、それこそ逮捕されてしまうわけですよね。
で、それにもましてイエス様が自分が神であると、そして神として裁く権威を持っていると主張したことはどれだけ大きなことだったかということが、このような地上の裁判のところからもわかるわけです。
で、実はそのことをある学者が、皆さんのレジュメにも書いてありますけれども、複数の学者がですね、このようなことを神の権威、裁きの権威とイエス様の神性ということに関わる言葉として述べてるんですね。
ちょっと難しいかもしれません。読んでみますね。
あえて難しいこと引用しましたけれども、この裁きの権威がイエス様に与えられているということは、イエス様が誠の神であるという動かぬ証拠だということを覚えておいていただきたいんですね。
実はその神こそ誠の裁き主だ。正しい裁きをする方だという信仰は旧約聖書の信仰です。旧約聖書の誠の神だけが正しい裁きを行う。
言葉によるいのち
まあそういうことがいくつか聖書箇所にありますけれども、その正しい神に審判を願い求める祈りをですね、一箇所だけちょっと今日は引用しておきましょう。
詩式というところですね。11章27節に正しい裁きを神は行ってくださると言って信仰者が抗議している。自分を荒のことで非難する相手に対して抗議する言葉を引用しますね。
私はあなたに罪を犯していないのにあなたは私に戦いを挑んで私に害を加えようとしている。審判者であられる主が今日イスラエル人とアンモン人の間を裁いてくださるように。
言われのない危害が加えられようとしている。それに対してその相手に対してこの信仰者がこう言ってるんですね。審判者であられる主が今日イスラエル人とアンモン人、あなたと私の間を正しく裁いてくださるようにと言っているわけですね。
このようにイエス様の証言から正しい裁きをする。しかも世の終わりにそれをするということからイエス様が誠の神であるということが私たちは知れるわけです。
先週ですねドロシーセイヤーズというイギリス人の小説家また神学に詳しい女性の言葉を引用しましたけれどもそれをもうちょっと長くですね引用してイエス様の神であるということをちょっと確認したいと思います。
このドロシーセイヤーズという人ですね日本語にも訳されている小説がいっぱいあるそうですけれども、彼女はこう言ってるんですね。キリストつまりイエス様が誰か何であるか何の権威でそんなことをしているしているのかなどそんなことは特に重要ではないとそう答えてみても全く役に立ちません。
もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであればその時彼は神についてどんな考えを述べようと全く不的確です。
反当直入ってしまうとイエス様の発言からイエスはまことの神であったと言う以外にないと彼女は証言は伝えているわけですね。最初は裁きを行う権威ということがイエス様の神性を証しているということを見ました。
2番目言葉によっていのちを与えるということそれとイエス様の神性神であるということを見ていきましょう。今日の5章25節でイエス様はこのように言っています。
読める方読んでみましょうか。
イエス様の言っていることの意味がわかるかと思います。
このイエス様の言葉からいろんな連想が出てくるかもしれませんが、今日のこの短い4節5節の中で際立っている表現、それは何かというと死んだ人がイエス様の声を聞くということです。
そして墓の中にいてもその声を聞いた人は生きるという。読み流してしまうとそのままですけれども、特徴的なとてつもない発言なんですね。
この言葉を聞いた人がいのちを得るということ、いろんな連想ができるかもしれませんが、私はと言ってしまいますが、ヨハネの福音書の冒頭を思い出したんですね。
ヨハネの福音書の冒頭、どんなこと書いてあるか皆さん覚えてますか。
1章の3節、1節から3節4節、引き抜いてみますけれども、ヨハネの福音書の冒頭、こうありますよね。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。すべてのものはこの方によって作られた。作られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
最後だけ読んでみましょうか。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。言うまでもなく今までお話してきましたが、一番最初のヨハネのシリーズのメッセージでお話しましたけれども、
これはイエス様の神性を明かしする冒頭の大事な部分だということですね。そしてこれは創世紀の1章の冒頭を思い起こさせるフレーズだったんですね。
ちょっと長くなりますけれども、創世紀1章の1節から読んでみますと、はじめに神が天と地を創造された。はじめにがあってますよね。
地は防爆として何もなく、闇が大水の表の上にあり、神の霊がその水の表を動いていった。もう一回読んでみましょうか。神は大せられた。光あれ。すると光があった。
いろんな連想ができるかもしれませんけれども、ここのヨハネの福音書の冒頭と創世紀の冒頭、互いに関係しあってイエス様が創造主である、永遠の真言の神であるということを明かしているということをその時お話しました。
ここの部分を見ると、ある言葉が関連しあって、そして関わりあって共鳴しあってるんですよね。どんな言葉がいくつかありますけれども、特徴的なのはいのちと光っていう言葉が共鳴しあってますね。
そして言葉と創造っていうことが共鳴しあって、これら4つの要素が関わり合いながらイエス様が天地万物を作られた真言の神である、永遠の神であり救い主であるということを明かしている。創造と言葉。
そしてこのいのちと光っていうことが共鳴し合い関わり合いながらイエス様の創造主であるということと、そしていのちの源であるということが明かしされているというわけなんですよね。
その上で今日の箇所ではイエス様の声を聞いた人が生きるって言ってるんです。神様について創世紀の冒頭では神様が最初の言葉を発した光よあれ、そしたら闇の中に光が輝き出たって言ってますよね。そしてその光は人のいのちだって言ってます。
このようにですね、最初に響いた神の声が光よあれであり、そしてイエス様がいのちの光だと言っている。そしてその上で今日の箇所ではイエス様の言葉を聞いた人が死んでいても蘇ると言っているわけなんですね。
ちょっと議論があってわかりにくいかもしれないので、あえて少しだけ脱線して説明しますけど、今がその時ですっていうのはどういう意味か。
まだ死んでいない人が声を聞いて生きるのはどういうことかというと、簡単に言うと、誠の神様を知らないで神様との関係において死んでいる人がイエス様の言葉を聞いたら、この神様との関係を回復して、今までヨハネで話しているような神による新しいいのち、永遠のいのちを生きることができますよというそういう意味で、
今、神の前で、神とのいのちの間で死んでいる人がイエス様の言葉を聞いて信じれば、神のいのちを今得て生きますよということが、今がその時ですと言われているゆえなんですね。
ちょっと脱線しますけれども、そういう中で、今日の言葉の中で特徴的なのは、死んだ人がイエス様の声を聞いたら生きる、いのちを得るということなんですね。
死者を生かす声
実は、先ほども引用しました学者の言葉で、神であるということとイエス様の神性ということといのちということを、このようにある学者たちは言っているんですね。
ちょっと難しいですけど、引用してみますね。
ですから、イエス様が私の声を聞いたら死んだ人も生きるよと言っているということは、まさにイエス様はご自分が人を生かす全能の神だと言っている。そのように真剣に受け止めなければいけないという意味なんですね。
さらにですね、実は今日の箇所とか短いんですけど、いっぱい言うことがあって本当に足りないんですけども、後でまたレジュメを読み直していただきたいんですけど。
もう少し面白いのはですね、ここですね。先週見た5章24節。
ここで不思議な置き換えはですね、イエス様の声を聞いてイエス様を信じるのではなくて、イエス様を使わせた父なる神様、あことの神を信じればいのちが与えられると言っているんですね。
ここからも簡単に言うと、イエス様がご自分の神性を明かししているということがわかるわけです。
それだけにちょっとこの部分は止めておきますけれども、そしてその上でイエス様は、今日の箇所で続けているんですよね。
なぜそれができるのか、なぜイエス様がいのちの与え主である神であるかということを、今日の箇所でこう説明していますね。
それは父なる神様はご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも御子イエス様にも自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
このようなことからですね、イエス様はこの地上に来た人となられた存在だけれども、人に永遠のいのちを授けることができるということを力強く明かしているわけです。
このようなイエス様の言葉だからこそ、それを聞いた人が生きる言葉だということも言うことができるわけです。
最後、死者を生かす声、このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者が皆、この声を聞く時が来るのです。
その時、善を行った者は蘇っていのちを受けるために、悪を行った者は蘇って裁きを受けるために出てきます。
5章29節ですね。
よくドラマとか小説で、もしかしたら体験したこともあるかもしれませんが、いのちの危機に瀕している人に呼びかけて蘇生してほしいというシーンが出てくることがあるかもしれません。
意識がなくなっても耳はよく聞こえるとよく言われている通りかもしれません。
そのような場面で、医療小説なんかも書かれているんですけれども、私がよく読む医療小説があるんですね。
中山雄二郎といって、本物の下界が小説を書いているんです。
なくな研修医シリーズというシリーズ、7冊ぐらい出ているんですね。
8週休みに詳しく言うと、横浜のキリスト教の英語学園という名門の高校を出て、
そして、医者になりたいけれども地方の医学部の方が入りやすいというので、たぶん二郎したのかな、一郎したのかな。
鹿児島大学の医学部出ているんですね。
ですから、なくな研修医というのは、鹿児島の出身の医者が東京で活躍する小説なんですね。
中山先生自体も消化器外科医で、大腸の内飾腰痛なんかでもすごい有名な先生なんですけれども、
テレビでも長浜アランさんという人が主役でこんなドラマやってましたけれども、
そのシリーズで主役の人が島に行く場面があるんです。下界島に行くというシリーズ。
そこで本当に医療過疎の島ですから、たくさん人が亡くなるんですね。自分が使えるような高価な医療機器もない。
その時ある日、自分がその島で親しくしていた40代ぐらいでしょうかね、青年が、建築業の青年が事故に巻き込まれてしまうんです。
重機に、小説ですけれどもね。重機に挟まれてお腹を、内臓が破裂してしまう。
それで救急搬送で病院に、彼のいる侵入所に運ばれてくるんですね。
その男性は先生に島でこういうことになったら死んでしまうんですよねって言うんですけど、
その主人公の医者がいやそうじゃないっていうことを話すんです。
そして彼と看護師のようにやり取りをしていく中で、こういう場面があるのでそのまま読んでいきますね。
チラッと電子カルテのモニターに目をやった。その時だった。
リリリリン、リリリリン、古い袋電話の呼び鈴のような、けたたましいアラーム音が鳴った。
心肺停止。なんていうことだ。あっという間に止まってしまった。
心臓マッサージします。ボスミン、強心剤、準備してください。
意識が戻ったのも束の間、一瞬で再出血してしまったのだろうか。
この医師は言うんですね。クソクソ!
組み合わせた両手の手で北原、この青年の胸を押す。戻れ!戻れ!
力が入る。強くやればいいというものではないことはわかっている。
それでも両腕の力は増していく。2分経ったらボスミンを注射してください。
両耳の主人公の医師はずっと心臓マッサージを続けていた。戻れ!戻れ!
死者を呼び覚ましたい声が小説にも描かれているわけですね。
イエス様は、この自分が発する声が墓に入ってしまった人を呼び起こすと言ってるんですね。
墓の中に入った人が声を聞いて蘇ってくる。
それが一体どんな状況なのか、実はよくわからないんですね。
でも私たちはイエス様も聖書も信じますから、それが起こるんだということを素直に信じます。
さらにイエス様は、再び天から目に見える形で帰って来られると約束してくださってるんですよね。
その時イエス様を信じる人たちは、たとえ死んでいても蘇って新たないのちを得るとも約束されているわけですよね。
再臨と希望
再臨の希望と言われています。
それがイエス社に与えられた復活の希望であります。
そしてそれをお祝いするのがイースターですね。今年は4月20日です。
最後に、まさにこの終わりの時の再臨の復活をテーマにした聖書の言葉を引用して終わりたいと思います。
パールが書いてあるんですけれども、第1テサノニキの4章16から18節の罰水読みですね。
語礼と密会の頭の声と神のラッパの響きとともに、主御自身が天から下って来られます。
そしてまずキリストにある使者がよみがえり、それから生き残っている私たちが、
彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。
ここから読んでみましょう、最後まで。
こうして私たちはいつまでも主と共にいることになります。
ですからこれらの言葉をもって互いに励まし合いなさい。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は誠の神であり救い主です。
そのことが、ヨハネの福音書に豊かに明かされていること。
どうぞ私たちがその素晴らしさ、豊かさ、深さを知ることができるようにお導きください。
イエス様の御言葉を聞くとき、イエス様の御声を聞くとき、私たちへ生かされ、
たとえ死んでもよみがえると希望が与えられていることを感謝いたします。
どうかその希望を胸に抱きながら日々歩むことができますように。
新しい年度が始まりましたけれども、イエス様の復活の言葉を糧に
一日一日歩むことができるように、どうか導いてください。
その願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど、聖書の言葉、イエス様に応える黙祷の時を持ちましょう。
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