イザヤが見たイエスの栄光
ヨハネの福音書、十二章、三十七節から四十三節をお読みします。
イエスがこれほど多くの記しを彼らの目の前で行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
それは預言者イザヤの言葉が成就するためであった。
彼はこう言っている。
主よ、私たちが聞いたことを誰が信じたか。
主の身腕は誰に現れたか。
イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。
主は彼らの目を見えないようにされた。
また彼らの心を固くなにされた。
彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。
そして私が彼らを癒すこともないように。
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。
ただ、カイドウから追放されないように、パリサイ人たちを気にして告白しなかった。
彼らは神からの栄誉よりも人からの栄誉を愛したのである。
以上です。
イスラエルの不信仰
今日はこのところから、イザヤが見たイエスと題しての言葉からお話をいたします。
皆様おはようございます。
12世紀の大寒ということで、本当に寒い日となって、
北陸地方、今朝鳥取にも難しい顕著な大雪警報が出ましてね、
本当にニュースを見ると、本当に甚大な被害が出て、亡くなる方も出ているようですね。
そんな方々のことも覚えて祈っていければと思います。
寒い中ですけれども、今日共に見事はから学べる災害を感謝しています。
さて、ヨハネノ福音書からずっと学んできまして、いよいよこれからイエス様の受難が始まるところです。
今日のところは、実は読みませんでしたが、36節の後半のところから段落が変わっています。
読んでみますが、イエスはこれらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
先週お話ししました、光があるうちに光を信じなさいという言葉、
おそらく群衆とイエス様の最後の接点になるところだと思います。
その後、たもとを分かつようにイエス様はこれから受難の道へと進んでいくところです。
そして今日の箇所は、ちょっと誤解がないように言いますが、
先民イスラエルの民がイエス様を信じなかったということについて言及された箇所です。
そしてそのことを、実は旧約聖書の引用箇所から、簡単に言うと難しく語っているんですね。
今日の箇所は歯応えがあります。
よく聖書で言う、幼いちのみごの柔らかいものではなく、硬い植物ということで、
前半は先週に続いて、聖書の難しいところ、聖書の解説というところを話していきます。
一つ目は、預言者イザヤが見たイエスの栄光とは何かということを、
イザヤ書との関わりから見ていきます。
そして二番目は、不信仰における人間と神との関係。
これも人間の神の責任ということで、非常に難しい内容なんですけれども、
それもちょっとかいつまんで、分かりやすく簡単に触れていきます。
そして最後は、もしかしたら私たちとも関わりがある、追放の危険があってもという43説の言葉から触れていきます。
それでは今日一番最初、預言者イザヤが見たイエスの栄光というところを考えていきます。
41説の言葉を読める方一緒に読んでみましょうか。
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。
今日の箇所はですね、12章37節の冒頭で断言されているように、
多くの示しを彼らの目の前で行ったのに彼らはイエスを信じなかった。
その断言があるように、神の民イスラエルはなぜ約束されたメシアが来たのに、
そのメシアであるイエス様を拒んだのかということが大きな問題として取り上げられています。
信仰と人間の関係
そして実は、そのような神の民がイエス様を拒絶するという問題はですね、
ヨハネの一章からずっと語り継げられてきました。
で、なぜそれが問題かというとですね、
そのイスラエル民族は、皆さん聖書をよく知っていると、神の契約の民です。
旧約の中で言うと育っています。
彼らはですね、旧約聖書の重要人物のモーセを彼らの拠り所としていましたよね、律法もそうです。
そして旧約聖書も当然、当時聖書といったら旧約聖書しかありませんでしたから、
旧約聖書も拠り所としていました。
当然そこで、主人公といいますか、その御言葉を与えた真事の神様を信じていたわけです。
そのような律法、そして聖書を与えた神様ご自身を信じていたにもかかわらず、
バジ東風ね、バジ東風、教えを聞いていたにもかかわらず悟らなかったわけです。
あとでも出てきますといいますか、イエス様は直接神として神の言葉を見える形で語り、
それを見える形で奇跡を行ったにもかかわらず、
何の心も彼らの心には響かなかったということがですね、大きな問題だったんですね。
今日触れませんが、後で見ていただきたいんですね、レジュメにもありますけど、
ヨハネの5章39節はですね、イエス様が聖書が私について証言していると彼らに伝えています。
それから同じ流れで46節ではですね、5章の46節では、
モーセは私のことを語っていると言って、
先民イスラエルの人々にイエス様は自分の真証性を証言してきたにもかかわらず、
彼らは信じなかったということが問題なんです。
で、実はその問題や罪が今日の箇所で別の角度から取り上げられているんですね。
そのうちの一つはですね、旧約聖書の言葉、預言者イザヤによってイエス様の真性は証しされていますということなんです。
ここではですね、モーセとモーセの律法ということからイエス様が証言されているっていうのが5章でしたけど、
ここではそのモーセ語書の次の律法預言書からもですね、
イエス様が証しされている、彼らが大事にしている預言書から、
そしてそのモーセと並ぶ偉大な預言者であるイザヤも、
イエス様の真性やメシアであることを証しているんですよと、
ここで言っているわけなんですね、今日の箇所では。
で、実はそのことをですね、今日言った12章41節の冒頭の言葉、
イザヤがこう言ったのはイエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのであるということが、
その預言書とイザヤがイエス様を証言しているということなんですね。
ではここでちょっと考えてください。
この言葉皆さん見たこともあるし、私もずっと聞いたことなんですけど、
これどういう意味なんでしょうかね。
イザヤがイエス様の栄光を見たってどういうことを言っているんでしょう。
考えたことありますか。
それは旧約聖書のどこにその記述が書いてあるんでしょうか。
そのこと実は私何年か前もこのヨハネから10年以上前に説教したんですけど、
恥ずかしながら今回ですね、ある意味初めてそうだったのかということが分かったのもあって、
皆さんにもぜひ知っていただきたいと思ってお話するわけです。
じゃあこのイザヤはどうやってイエス様の栄光を見たのか、
それはどこに聖書のどこに書いてあるのか、詳しく説明しますね。
まあ難しいかもしれませんが、それが分かるとですね、
聖書の新鮮な発見とかですね、新しい発見があって、
私はもう心が取ったんですけども、
皆さんも何かそういう経験をしてもっと聖書を読んでみたいとかね、
そう思ってもらえればなと思って分かっちゃいます。
難しいと思いますが、その意味が分かることを解説していきます。
まずですね、今日の箇所では2つイザヤ書から引用されています。
12章38節のですね、この言葉。
主よ私たちを聞いたことを誰が信じたでしょうか。
主の御礼は誰に明かされたのかというね。
このヨハネ12章38節の言葉は、
イザヤ53章1節の言葉からの引用です。
ちょっと読んでみましょうか。
私たちが聞いたことを誰が信じたか。
主の御礼は誰に現れたか。
これがまず1つ目の今日の箇所の引用成分ですね。
後でちょっと出てきますから、なんとなくでいいですか、覚えていてください。
2つ目のですね、イザヤ書から引用はですね、
今日の12章40節のところがそうなんです。
彼らの目は朦朧になった。
そして彼らの心は固くなりなった。
それは彼らが目が見えなくなり、
心で悟ることもなくなって、
立ち返らないためだ。
そして私は彼らを癒さない。
これはですね、
イザヤ書の6章の9節から10節の
イザヤの証明の言葉からの引用なんですね。
行ってこの民に告げよ。
聞き続けよ。
だが悟るな。
見続けよ。
だが知るなと告げよ。
この民の心を声太らせ。
その耳を遠くし、
その目を固く閉ざせ。
ここから読んでみましょうか。
彼らがその目で見ることも、
耳で聞くことも、
心で悟ることも、
立ち返って癒されることもないように。
ここでね、少し言葉が減っていますけれどもね。
耳で聞くことも、
耳で聞くこともって言葉がないんですけれども、
同じ引用ですね。
ヨハネはこのイザヤ書の6章のところから知っている。
まずそれを前提として覚えておいてください。
実はそこから先なんですけれども、
この2つ目の6章は先ほど言いましたように、
イザヤが神様と出会って証明を受けるところですね。
6章のところ。
そこの箇所をですね、
ちょっと抜粋してみました。
神様から証明を受けて、
神様からこうしなさいと
イザヤが聞いた言葉はこれだったんですけれども、
その6章の一番冒頭で、
イザヤが神様と出会って証明を受ける場面がこの場面です。
6章の1節から3節の抜粋。
ウジヤ王が死んだ年に、
私、イザヤは、
高く挙げられた御座についておられる種を見た。
その裾は神殿に満ち、
セラフィムが互いに呼び交わしていた。
ここで見ましょうか。
聖なる聖なる聖なる万分の種、
その栄光は全地に満ちる。
この場面がですね、
イザヤの証明の場面です。
実は結論から言うと、
これらの場面をして、
ヨハネはですね、
イザヤがこう言ったのは、
イエスの栄光を、
イザヤがここで、
この時見たからであり、
イエスについて語ったのである、
ということなんです。
これは何を言うかというと、
繰り返しますが、
このイザヤ6章の、
イザヤの証明の時に、
イザヤが見た神の栄光というのは、
実はイエス様の栄光なんだと、
ヨハネはここで証言しているんですね。
なぜそう言えるのかというとですね、
難しくなってきましたが、
後でレジュメで復習してください。
なぜそう言えるか、
実はヨハネの福音書で、
イエス様のことを、
ヨハネは何て証言していますかね。
目に見えない神様が、
この地に人となってきたのが、
イエス様だって、
ヨハネはずっと証言してきました。
その代表的な御言葉がね、
この言葉がすごく、
心に残る方もいると思いますけれども、
これでしたよね。
言葉は人となって、
私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた。
独り子としての栄光である。
この1章からずっと、
冒頭からずっと、
18節まで続いているところですね。
ここでは、
イエス様は、
目に見えない神様が、
人となって来られた方ですよ。
ロゴスとなる方ですよ。
天地万物と作られた、
まごとの神ですよ。
繰り返しますが、
その方が、
人間が見えるようになって、
イザヤと神の栄光
人間となって肉となってきたのが、
イエス様ですよ。
それで、
私たちはその方の栄光を見た。
つまり、
目に見えない神様の栄光を見たり、
目に見えない神様の声を聞いたり、
できるために、
という言い方が変なんですけれども、
そのようなお姿、
そのようなお方が、
イエス様ですよね。
であるから、
ここで、
人間が見ることができない、
神様とその栄光を、
イザヤが見たということは、
ここでイザヤは、
知らずと、
知らなかったにも関わらず、
ここで実は、
人となられたということですね。
人間にご自身を現される神としての、
イエス様を見たんですよ、
そういう理論になるんです。
だからここで、
イザヤが見た栄光は、
神の栄光だけども、
それはイエスの栄光であり、
イザヤが聞いたこの神からの言葉、
この証明の言葉は、
イエスの言葉なんですよ、
ということを実は、
ヨハネがここで証言しているんです。
そんなイエス様のことを、
あなた方は神のためでありながら、
信じないのですね、
という、
批判の言葉にもなっているんですけどもね。
ちょっとそういう論理だということを、
覚えておいてください。
これは聖書の勉強の仕方の一つなんですけども。
そして、さらにですね、
興味深いことがありました。
皆さんこれまでのことを、
復習しておいていただきたいんですけど、
思い出してほしいんですけど、
3つの言葉が1つの同じ意味を表すということを、
思い出してください。
それは、
あげられるという言葉は、
イエスが栄光を受けるということですからね。
それは、
イエス様の受難や十字架を意味しているという、
3つの言葉がこの同じ意味を表すということを、
覚えておいてください。
実はそれがですね、
イザヤ書の中に書かれているんです。
先ほどのですね、
ちょっとごめんなさいね、
前後指摘をね。
引用、
イザヤ書の53章1節ってありましたよね。
ここ、前見てもらった方がわかりやすいと思います。
1つ目のここのしるし象、
イザヤ書の53章1節っていうのは、
実は、
ピッピッピッピッ。
イザヤ書の実は、
52章の13節から、
53章全部までを、
ひとまとまりとした、
受難のメシア。
受難のメシアの、
ひと塊の中の一部なんです。
で、
53章1節は、
52章から続く、
受難のメシアの、
御言葉の一部なんです。
覚えておいてください。
で、その中の、
一番最初の52章の、
13節、
いわゆる受難のメシアの、
預言のイザヤ書の言葉の、
冒頭にこういう言葉があるんです。
見よ、
私のしもべは栄える。
栄光出てくるでしょ。
彼は、このいわゆる受難のしもべは、
高められて、
上げられ、
極めて高くなる。
多くのものがあなた、
ここでは受難のしもべですけども、
あなたを見て驚き恐れたように、
その顔立ちは、
損なわれて、
人のようではなく、
その姿も人のほらとは違っている。
これ受難のイエス様の、
ありようだと言うんですね。
そのように、
彼は多くの国々に、
血を振りまく。
十字架。
王たちは彼の前で口をすぐむ。
彼らが告げられていないことを見、
聞いたこともないことを悟るからだ。
ということで、
ここのイザヤ書の、
受難のメシアの預言の中に、
予告の中にも、
栄光を受ける、
メシアであり、
それはあげられるメシアであって、
それは、
血を振りまくというのは、
十字架を示唆しているんだ、
ということがわかるわけです。
だからなんだと言われたら、
終わりなんですけども、
実はここも恥ずかしながら、
私が今回初めて知って、
驚いたというかですね、
心沸き上がったので、
皆さんにも知っていただきたかったので、
あえてわかっちゃいました。
イエス様は、
最初のポイントを、
ヨハネが言いたかったのは、
イエス様は、
旧約聖書の預言書と、
預言者によっても、
証しされた受難のメシアなんですよ。
大なるメシアを、
あなた方は期待していますけども、
イエス様は受難のメシアで、
十字架にかかります。
でもそれは、
あなた方がよりどころとしていた、
旧約聖書の預言書と預言者も、
そのことを証言しているんですよという、
ある面、信じない人への、
セミイスラエルへの、
非難の言葉にもなっていると同時に、
これからイエス様が向かっていく、
受難の道は、
まさに、
聖書で告げられている、
神の救いの道なんだ、
ということを、
それがこれから始まるんだ、
という準備の言葉でもあった、
ということを、
知っておいていただきたいと思います。
不信仰と責任
今日はですね、
最初のポイントが重いので、
あとは軽くいきます。
今日は一番重いところを、
皆さんに告げてしまいました。
それが最初のポイントです。
とにかく、
イザヤは、
イエスの栄光を見たというのは、
このような意味があるということを、
覚えておいてください。
2番目。
次、不信仰における人と神の責任、
ということを見ていきましょう。
ヨハネ12章の39から40節ですね。
実はですね、
この言葉が言っている意味はですね、
イスラエルの民が、
心を堅くなにしたのは、
神がそうした、
という宣言でもあるんです。
それが難しい問題なんですね。
人々の心を、
神が堅くなにしたのだ、
と読めるからです。
じゃあ、
イスラエルの民が、
イエス様を拒んだのは、
彼らの責任ではないのか、
誰の責任なのか、
という疑問が湧き上がってくるわけなんですね。
これについて、
2つのことを、
実は、
ヨハネの福音書のこの箇所から、
見ることができます。
それはまずですね、
やはり、
神が堅くなにした、
と書いてありながらも、
人に責任があるということなんです。
彼らの選択に。
それはですね、
今日の冒頭の箇所で、
こう書いてありますね。
イエスがこれほど多くのしるしを、
彼らの目の前で行われたのに、
彼らはイエスを信じなかった、
冒頭で断言されています。
ここで、
明確に、
不信仰な人々の責任を、
ここで断言しているわけなんですね。
はい。
そして、
2番目に大事なことはですね、
人々が信じなかった、
裁きとして、
神が人々の心を、
堅くなにしたのだ、
というところに繋がっていくわけなんです。
実は、
人々が堅くなになったのは、
神の裁きの結果として、
ますます信じなくなった。
実はそのことはですね、
旧約聖書にもたくさん出てきますよね。
イスラエルの民が、
モーセに歯向かった。
そして、どんどん歯向かっていった末にですね、
約束の地に入れなかった。
モーセさえも入れなかった、
ということが出てきます。
不信仰ゆえに神が、
その人の心を堅くなにして、
それ自体が神の裁きだ、
ということを、
旧約にあるように、
ここでも実は、
そのことを言っているわけなんですね。
イエス様の言葉を聞いて、
イエス様の奇跡を見たにもかかわらず、
彼らが心を堅くなにした。
だから神は裁きとして、
彼らの心を、
ますます堅くなにしたんだ、
ということが、
わかるわけなんです。
しかしですね、
次に大事なことがあるんですね。
それはですね、
2番目はですね、
でも、希望があるんです。
希望があるんです。
どんな希望か、
それはですね、
それにもかかわらず、
神様は人間の祈りを聞いて、
人々が神を信じることができるように、
その人の心を変えてくださる、
という希望があるんですね。
神の主権というんですけれども、
人を堅くなにすることにおいても、
神様の主権があるけれども、
人の心を、
神様ご自身に向けることにおいても、
神様に主権があるということがわかるんです。
実は、
神が決めたら、
人は不信仰のままだ、
ということだと、
絶望になるんです。
でも、
イザヤはですね、
神から、
お前が語れば語るほど、
人々は堅くなになるんだ、
という宣言を受けながらも、
22章だったかな、
イザヤは嘆いているんですね。
どうしてこんなことになるんですか。
神様、憐れてくださいって。
神様に、
人々を憐れてくださいと、
祈っているんです。
また、パオロもですね、
ローマ書9章を見ると、
神様の説理の中にあるけれども、
でも、神はそんな、
イスラエルの民の心も、
変えてくださるという、
そういう希望について語っているんですね。
それが、ローマ書9章22節の言葉なんですね。
ちょっと難しいですけど、
読んでみましょうか。
もし、神が
御怒りを示して、
御自分の力を知らせようと、
望んでおられたのに、
滅ぼされるはずの、
怒りの器を、
豊かな寛容をもって、
耐え忍ばれたとすれば、
どうですか?
このように語ってですね、
怒りを示す神様、
滅ぼされるはずの、怒りの器を、
寛容をもって耐えている。
その9章22節の後にはですね、
イスラエルの民の神に
立ち返るという希望も書かれているわけですね。
ちょっと難しくなりましたけれども、
私たちもですね、
このような希望があるから、
人々のために取り成して、
祈ることができるわけですよね。
この人は堅くななのは、
神が定めたからしょうがないやと、
諦め、
受け入れることもできるかもしれません。
でも、
神様は哀れみを示して、
忍耐をしておられて、
すべての人が食い改めることを待っているということも
言われていますから、
私たちは堅くなな人のためでしょうか、
神様を信じないと思われている人のためにも、
神に哀れみを求めて、
祈ることができる。
そのような、実は希望のメッセージも
なるわけです。
希望のメッセージ
あと、原稿にはないんですけれども、
そんな中でですね、
私たちが、
神様を信じることができている。
信じて、うよ曲折があっても、
信仰から離れないでいられるって、
とても幸いなことですよね。
先週話しましたけど、
最近ちょっと、
自分自身を考えて、
新たな発見があるんですけどね、
私が気が付こうと気が付かないと、
聖霊がずっと心に
おられるって話しましたよね。
それをした後、
先週もですね、
大体イエスタム神社で40年なんですけど、
40年前から自分を振り返ったら、
恥ずかしいですけど、
チャランポランのところがいっぱいあったんですよね。
人間だったら、
多分見捨てるだろうなと思ったんです。
そこまで来れたっていうのは、
なんという神様忍耐なんだろう、
幸いなことなんだろうっていう、
当たり前な信仰だったんですけども、
それが神様の憐れみとかですね、
私がチャランポランでいい加減の中にあっても、
イエス様は聖霊によって
心に行って導いてくださったんだなっていう、
感謝が与えられたんですよね。
だから、
カタクナな人がいる一方、
信じられているっていうのはですね、
これはまた賜物であって、
神様に感謝すべきことだなと、
今日の箇所からも思った次第です。
社会的圧力と神の家族
では最後。
3番目。
追放の危機があってもということですね。
12章の42から43の抜粋を見ていきましょう。
読んでみましょうか。
多くの人々が信じたけれども、
彼らは、
ウンヌンという箇所ですね。
彼らはカイドウから追放されないように、
パリサイビトたちを気にして、
告白しなかった。
ここだけ読んでみましょう。
3番。
彼らは神からの栄誉よりも、
人からの栄誉を愛したのである。
あと、
ここの箇所にはですね、
それにもかかわらず、
多くの人々が、
パリサイビトがですね、
ユダヤ人の指導者たちでさ、
イエス様を信じたと書かれています。
それにもかかわらず、
多くが信じた。
実はそこの裏には、
もっと深い示唆があって、
指導者がためらいながら信じたのであれば、
実は一般のイスラエルの民は、
もっと多くの人が、
イエス様を信じたんじゃないか、
という示唆があるんですね。
でも、そうとは言いながらも、
カイドウからの追放を恐れて、
告白しなかった。
そこには、
彼らの信仰の問題として、
神からの栄誉よりも、
人からの栄誉を愛した、
という問題があるということを、
ヨハネはさらりと言っているんですね。
で、皆さんお気づきのように、
このカイドウから追放というのは、
九章にある、
盲人の癒しの場面でも出てきましたね。
この人は、
イエス様を、
はっきりと告白した。
そして、その故にですね、
親からも見捨てられましたよね。
そして、
カイドウからも追放されたわけですね。
そんな最後に、
イエス様は逃げる。
カイドウから追放されたというのは、
今の私たちで言えば、
社会的な福祉も預かれない、
そういう立場になってしまう。
親からも見捨てられた、
ということです。
今の私たちはね、
イエス様を信じても、
そんな目には合わないですね。
余談ですけど、
30年、40年くらい前、
イエス様を見捨てられていた時にですね、
ある男の子がイエス様を信じたんです。
イエス様を信じます。
教会に告白したんですけど、
翌日ですね、地下鉄に2人で乗ってね、
あるクリスチャーの集会に行ったんですね。
あの電車で。
彼はですね、
私はこう言ってきたんです。
信じたけど、やっぱり信仰はやめます。
私、長男やから、
イエス様を信じることができません。
で、
名古屋って今はすごい発展してね、
都会的な町ですけど、
ちょっと語弊があるけど、
その当時、
名古屋のことね、
大いなる田舎です。
で、
私はびっくりしてですね、
本当に洗練された都会的な町なのに、
そういうことをですね、
学生さんが言う、長男やから、
イエス様を信じません、
言えるんだな、
ということを覚えております。
まあ、それはさておきまして、
今の私たちには、
この当時の
ユダヤ人のような
白愛はないかもしれません。
でも、信仰をですね、
貫いた結果に、
仲のいい友達からの
関係が悪くなったりとかですね、
もしかしたら家族との、
ミシンジャの家族との間に不和が起こることが
あるかもしれません。
まあ、ただですね、
ヨハネの福音書、シカリ聖書はですね、
まあ、いわゆる
この世の家族も大事ですけども、
それ以上にですね、
神の家族、
イエスを信じる人が
私の家族だと
イエス様が言っているように、
イエス様を信じる
家族としての
あり方ということを大事にしている
わけなんですね。
一般的な価値観からすれば、
家族関係に勝るものはない
というものかもしれません。
しかし、
そのようなところに亀裂が入ってしまったとしてもですね、
実は
聖書は
そういうことも起こり得るし、
しかしそれを
大事にしつつもそれを超えた
神の家族としての
結びつきがあるということを
教えているわけなんですね。
まあ、それでその中でもちろん
私たちは取りなして
祈っていくこともできるわけです。
今日はちょっと
歯応えのある
お話をしましたけれども、
こんな中でですね、イエス様が
誠の神であり救い主であるということを
新たに確信し、
メポタバの
面白さというものを知っていただいてですね、
どんな中にあっても
イエス様を信じて祈り合って歩んでいく
お互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様
御名を賛美いたします。
預言したイザヤがイエス様の
御栄光を見て、
そしてイエス様から
御言葉をいただき、今に至って
私たちが救われていることを
感謝いたします。
何千年も続く
神の民の歴史の中に
あなたの御言葉の歴史の中に
私たちも加えられていく
神の家族の中にいられている
幸いを感謝いたします。
どうかそのあなたの
救いの恵みを感謝しながら
私たちがこの地に
あなたのためにまた生き
そして人々のために
取り成していく
そのような斧であり
教会でありますように
どうか導いてください。
この願いと感謝を
私たちの救い主
主イエス様のお名前によって
お祈りします。アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応答して
黙祷する時間を持ちましょう。