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2025-04-20 23:32

#260 永遠のいのちに生きる〜イースター・メッセージ 25/4/20

ヨハネ20:10-18からの礼拝説教2025年4月20日録音。2025年4月20日(イースター礼拝)録音。(聖書朗読はまで、本題は3:25からです)

イースターの朝に次のことを考えます。復活したイエス様に合うことも触れることもできない私たちがイエス様を信じ、目に見えない神様を信頼して生きるとはどういうことかを、今日取り上げる聖書箇所の言葉、イエス様がマリアへ語った言葉を通して考えます。

最初に、失望の時に救いの手を差し伸べて下さるイエス様について考えます。(1.復活のイエス様に気づいて())、触ることのできない復活のイエス様を信頼することについて考えます。(2.「わたしにすがりついてはいけません」())、最後に「永遠のいのちに生きる」ことについて考えます。(3.イエス様の神を自分の神とする())

サマリー

このエピソードでは、復活したイエスがマグダラのマリアに現れた出来事を通じて、信仰の重要性と神の存在について考察しています。また、イースターの意義と共に、イエスが伝えた約束がどのように彼らの生活に影響するのかを探っています。イエスの復活は、信じる人々に永遠のいのちを与える約束を示しています。彼らは信仰を通じて神との特別な関係を築き、永遠のいのちを生きることができるのです。

復活のイエスとの出会い
新約聖書、ヨハネの福音書、20章、10節から18節をお読みします。 聴いてくださるだけでも結構です。
それで弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。 一方、マリアは墓の外に佇んで泣いていた。
そして泣きながら、体をかがめて墓の中を覗き込んだ。 すると、白い衣を着た二人の御使いがイエスの体が置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は葦のところに座っているのが見えた。
彼らはマリアに言った。 「女の方、なぜ泣いているのですか。」 彼女は言った。
誰かが私の手を取って行きました。 どこに手を置いたのか、私には分かりません。
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。 そしてイエスが立っておられるのを見たが、それがイエスにあることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。 「なぜ泣いているのか。なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか。」
彼女は、彼がソノの管理人だと思って言った。
あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。 私が引き取ります。
イエスは彼女に言われた。 「マリア。」
彼女は振り向いてヘブル語で、ラボに、すなわち先生とイエスに行った。 イエスは彼女に言われた。
私にすがりついてはいけません。私はまだ父のもとに登っていないのです。 私の兄弟たちのところに行って、私は私の父であり、あなた方の父である方、
私の神であり、あなた方の神である方のもとに登ると伝えなさい。 マグダラのマリアは行って、弟子たちに、私は主を見ましたと言い、
主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。 以上です。今日はこのところから、永遠のいのちに生きると題してお話をいたします。
イエスの言葉の意味
みなさんイースターおめでとうございます。 今日はですね、そういう特別な礼拝の日ですので、
ゲストの方というかですね、またいろんな方も来てくださったり、久しぶりに来てくださった方もいらっしゃって感謝です。
さて、今朝ですけれども、朝5時にNHKのラジオを聴いていたんですね。
ラジオのタイムスケジュールは、その日の5時が1日の始まりのようなんですけれども、今日のトップニュースは何だったか。それはロシアが30時間の停戦をするという。
そのことが最初のニュースでした。 7時のNHKのニュースも、それがトップニュースでした。その理由は何かというと、
ご存知ですよね。イースターの停戦だということで、ロシア側から持ちかけた。 そのようにですね、イースターというのは、世界中でお祝いされている。
そして停戦が行われるほどの、日本ではなかなかクリスマスほどじゃないですけれども、大事なキリスト教の祝祭であるわけですね。
そしてですね、今日はですね、少し考えたいことなんですが、そのように世界中で祝われているイースターなんですけれども、私たちは今、復活したイエス様に触ることができません。
また、目に見えない神様をその中でも信じて生きている。それは一体どういうことか。 それをですね、今日のイエス様がマリアにお話しした言葉をもとに考えていきたいと思います。
最初は「復活のイエス様に気づいて」ということと、2番目はですねイエス様が言った 「私に縋りついてはいけない」という言葉から、そして最後はですね
イエス様を自分の神様とするその幸いということを見ていきたいと思います。 これ導入で見せるべきでしたけれども、今日の箇所ではマグダラノマリアが墓に行くとですね
2人のみ使いがいて、イエス様のご遺体がなかったというところから始まりました。 最初のポイントは、その中でまず復活のイエス様に気づいてというところを見ていきます。
彼女は、そしてですね、後ろにイエス様がいることに気づかずに、こう言ったんですね。
誰かが私の死をとっていきました。どこに死を置いたのか私にはわかりません。 彼女はこう言ってから後ろを振り向いた。
そしてからだけ読めるかで読んでみましょうか。そしてイエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることがわからなかった。
あんなにイエス様を探しているのになぜわからなかったのか。 学者がですね議論してるんですけども、よくわからないそうです。その理由は。
一説によると、涙で目が曇って見えなかったとか。 あるいはですね、まさかイエス様が蘇って現れるはずないという、そういう偏見からこの男の人は墓の番人、その番人だと思ったと言うんですね。
あるいはですね学者たちの中には、イエス様が復活したこの姿というのは、復活する前の姿と様子が違っていた。
だからでないかと。その証拠に、ルカの福音書の24章ですとか、復活のイエス様に会った人が気がつかないということが書かれていたり、ある人は疑ったということが書かれているんですね。
理由は何にしろ、マリアは復活のイエス様を見てというか、コンタクトしても気がつかなかったということが最初に考えたいと思うんですね。
このマリアの状況、そしてイエス様がマリアに話しかけたやり取りが始まったということについて、ある学者がですね、このように文学的にと言いますかね、表現してるんですね。
すべての期待を失い、希望も尽き果てていました。マリアはですね、しかしその深い喪失と空虚の中から、神の約束の成就が生まれるのです。
その後、キルケゴールの言葉を引用して、墓がなければ復活はないということも言ってるんですけど。
この彼女の失意、そしてその中で約束の成就が起こったということを述べているわけです。
ここでひるがえて自分たちのことを考えてみますとですね、私たちもこの失望が大きい時にイエス様の救いはどこにあるのだろうかと、悩む疑うことがあるかもしれないですね。
そしてそのイエス様が救ってくれないんじゃないかという期待が裏切られるような感覚を持つかもしれません。
しかし、このイエス様とマリアの出会いから次のようなことが言えるんですね。この学者の言葉もあるように。
それは、そのように私たちが失望している時、期待が裏切られたと思っている時こそ、実はイエス様が救いの手を差し伸べてくださる時なんだということなんですね。
思わぬ形でイエス様が救いの手を差し伸べてくださる。もしかしたら復活のイエス様に出会っているかもしれないということが言えるんですね。
そのような心情を表す祈りを、 このポイントの最後として紹介したいんですね。
こんな祈り、皆さんの祈りにもなればと思いますが、 シューイエスキリストよ、あなたが私の思う場所にいないと、どこにもいないのではないかと考えてしまいます。
あなたが以前見た姿で現れないと、もう見ることができないのではないかと思ってしまいます。
しかし、神よたざいます。あなたはいつも復活の姿で私を驚かせてくださいます。アーメン。
イエス様を救い主だと信じている方々は、何かしらイエス様が私を助けてくださったという経験をするかもしれません。
あるいは、後で振り返ってみると、確かに復活したイエス様が私を救ってくださったんだなという経験に気づくことがあるかもしれないんですね。
実はそのような経験こそ、目に見えないけれども復活のイエス様と出会った、 そのような経験と私たちは信じていいのではないかと思うんですね。
そしてそのような経験、イエス様がここにもいてくださった、 あの時もイエス様が私を救ってくださったという、復活のイエス様に自分が支えられた、救われているという、
そういう経験を積み重ねていったり、発見をすることが、実はクリスチャン生活の醍醐味ではないかと思えるんですね。
そんな経験を積んでいくお互いであればと思います。
2番目、今度はイエス様の言葉から学んでいきましょう。イエス様はこうおっしゃいました。
私にすがりついてはいけません。
イエスは彼女に言われた。ちょっとここから読んでみましょうか。
私にすがりついていてはいけません。私はまだ地の下に登っていないのです。
二十四章の17節。 実はこの言葉と関係がある祝日をちょっと紹介したいんですけれども、
フランスにですね、商店祭という、商店ってあれ、たんたかたかたかんたんたんじゃないですよ。
商店はここにあるように、天に登るというお祭りがあります。
それが祝日なんですね。イースターの日曜日から40日目の木曜日がこの商店祭で、フランスカトリックですから祝日になりミサが行われているそうなんですね。
これは気づいた方もいらっしゃるかと思いますが、その由来はイエス様が復活した後40日後に弟子たちが見ている前で天にあげられていく。
天にあげられて、雲の中に消えていく。その出来事が由来となった祝日なんですね。
このことを今も申し上げましたように、キリスト教の用語ではキリストの商店と言います。
そしてご存知の方も多いと思いますが、それから10日後イエス様の復活から50日後に何が起こりましたか。
ペンテコステですね。聖霊が下った。聖霊降臨とかペンテコステというそのことが起こって、キリスト教の国ではですね。
クリスマスイースターに続いて3番目にメジャーな祭典と言いますか、キリスト教の祝日になっているわけですね。
実はイエス様がここで言っている父のもとに昇るというのは、このイエス様の商店を表しているんですね。
そしてその今日は後で見ますけれども、その後に聖霊が下る。それは何が祝福かというと、実はイエス様は聖霊という存在で信じる人といつまでも一緒にいるよという、
そういう約束の成就がこのペンテコステなんですね。確認ために申し上げますが、復活のイエス様はペンテコステの後、聖霊としてですね、信じる人とともにいてくださる。それが幸いな約束なんです。
ですからイエス様がここでマリアにですね、私にすがりついてはいけませんと言ったのは、そういう出来事と約束があるからです。
私は蘇って体を持っています。けれども、やがて天に昇って、あなた方は私の体に触れなくなりますよ。そして聖霊が下って、私はいつまでもあなた方とともにいるんですよ。
そういう願蓄がですね、私にすがりついてはいけません。すがりつくのをもうやめなさいという言葉になっているわけなんですね。
復活のイエス様の体に触れた、すごい幸いなことだと思うんですけれども、ただですね、肉体があるということは一つの場所に縛られるという制約があるわけですよね。
しかし、聖霊様が下った今、復活のイエス様は目に見えないんですけれども、信じる者とともに、いつでもどこでもともにいてくださる。
そういう新しい約束があるわけですね。 そして、信じる者とともにいて助けてくださるのが、この聖霊助け主なんですね。
信じる者の生活
イエス様は、この同じヨハネの勲章の中でですね、おそらく最後の晩餐かと思いますけれども、十字架にかかる前にこの約束を弟子たちに語ったんですね。
聖霊のことを助け主という言葉に言い換えて、こう言っているんですね。16章の7節。
しかし私は真実を言います。私が去っていくことは、あなた方の益になるのです。 去っていかなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。
でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わします。
復活したイエス様を私たちは見ることも触ることもできません。 しかしその私たちが、じゃあどうやってイエス様を信じて生きるのか。
それはイエス様が聖霊として私たちとともに、私たちの中に宿って生きてくださっている。 そのように信じて生きることでもある。そのことを覚えていきましょう。
3番目。 イエス様の神を自分の神とするというところを考えていきましょう。
ちょっと長いですけど、読んでみましょうか。20章の17節。私の方さん、私の兄弟たちのところにいて、私は私の父であり、あなた方の父である方、私の神であり、あなた方の神である方のもとに登ると伝えなさい。
このマリアに私にすがりつかないで、弟子たち、兄弟、姉妹のもとに行って、このメッセージを伝えなさいと言ったのがこの内容ですね。
先ほど言った、登るというのは、ご自身の焦点のことを言っているんですけれども。
でもここには、杉のようなメッセージが込められています。
弟子たちをはじめ、イエス様を救い主と信じる人たちが、父なる神様と特別な関係に入れていただいたというメッセージが、この言葉の中に込められているんですね。
しばらく前、去年の10月でしたか、ヨハネの一書一節からずっとお話してきたんですけれども、そこでよく言われるのは、イエスとミキシが一つだったからですね。
天地万物を創造された、永遠なる存在の神であり、父なる神と一つのある方がイエス様ですよ。その神なるイエス様がこの地に来られました。
そしてそのイエス様は、いのちの源であり信じるものに、永遠のいのちを与える誠の神ですよということをお伝えしてきましたけれども、とにかく
父と御子の特別な関係をイエス様は持っておられるということを、ずっとお話ししてきましたし、私たちは見てきました。
そのように、先々週も見たように、イエス様と父なる神様は特別な関係を持っておられる。
一方ですね、私たちは有限の存在であって、罪のある存在ですから、本来ならこの神様との関係を持つことができないわけですよね。
けれども、イエス様が十字架の上で私たちの罪をすべてあがなってくださったから、イエス様を信じるときに、私たちは神様の前で罪がないものとみなされるわけですね。
無罪方面とみなされる。そうすると、罪なき者として、この
父なる神とイエス様の関係の中に、私たちも入れてもらえるということがこの御言葉の中に込められているんですね。
私たちがこの今日見ている復活のイエス様を信じるとですね、 イエス様の永遠のいのち、神のいのちをいただくことになるんですね。
で、そうするとですね、
私たちは 神様の子供とされる約束があります。
1章の12節とか3章16節がすごく有名ですけども、私たちはイエス様を信じて神の子供とされる特権が与えられたって書いてあるんですね。
特権なんですね。本来はそういう関係持ってないわけですから。 そのことがここにですね、
私の父とあなた方の父という区別した言い方。 私の神とあなた方の神って区別しているってことは、神と人間で絶対違うよってことを言ってるんです。
でも、 同じ父、同じ神の元にあるっていうことを言いながらですね、
区別されているけれども、あなた方も私と同じように父なる神を誠の神として信じる神の子となったんですよ、というそういう福音が込められているわけなんですね。
そのような素晴らしい約束の実現がこの イエス様の言葉に込められているわけです。
信仰による神との関係
よく言うのはですね、 永遠のいのちとは何ぞやという時に、この永遠のいのちというのは
復活したイエス様のように、たとえ死んでも神様の前で生きることができるという、そういう意味での 永遠のいのち、よくわかりますよね。
と同時にですね、少し難しいんですけども こういう意味もあるんです。この地上を生きる間も私たちは神様から豊かないのちをいただいて
神様の子供として生きるということも、実は永遠のいのちの約束なんですね。
この世にいながら 神と関わりを持って生きる、それが永遠のいのちだということ、それを実は聖主はイエス様が教えている
永遠のいのちなんですね。 イエス様はこの地上に来られた時に、神様でありながら人間としてこの地を歩まれました。
何をされたかっていろんなことがあるんですけども、それは人間として父なる神様に信頼して生きる、
そのような道を私たちに示してくださったし、神でありながら人間として
父なる神様に頼って生きるという私たちの指針となってくださったのが、このイエス様の地上の生涯の歩みなんですね。
ですから私たちは、この聖書を通してイエス様の話を聞いたりすることによって、このイエス様の生き様を通して
私たちは神様に信頼して生きるということがどういうことかということを学ぶことができるんですね。
イエス様の言葉を通して神様とともにこの地上で生きる、神に信頼してこの地上で生きることがどういうことかということを
私たちは知ることができるわけです。 それこそ、私たちが
この世にあって神のいのちに生きる、永遠のいのちに生きるという道を知る術なんですね。
そのように、聖書からイエス様から私たちがこの地上で永遠のいのちを生きるということ、そのことを学べる、
そのような願いをですね、表す祈りを最後に紹介して終わりにしたいと思います。
神様って言葉が最初につくと思うんですけども、我が身の限りを尽くし神様、あなたの偉大な存在を感じ取り、あなたの一つ一つの姿をはっきりと捉えることを願います。
人々があなたについて語ること、あなた自身が語ること、聖書が語ること、そのすべてを通して私の信仰を深め、より確かなものにしてください。
アーメン。 私たちはですね、地上の生涯を通してこの神様をイエス様をよりよく知っていく、そうやって永遠のいのちに生きていく、その幸いに
お互いでやりたいと思います。お祈りしましょう。 天の神様皆を賛美いたします。イエス様が
死から蘇られ、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。 私たちはイエス様を見ることも、イエス様に触れることもできませんけども、あなたがご聖霊として私たちと共にいてくださり、
私たちを助け、救い続けてくださることを感謝いたします。 どうかその幸いを、またイエス様ご自身をこの地上におりながら、より深く、よりよく知ることができるように、
この地において、永遠のいのちに生きるその喜びを知ることができるように、どうか導いてください。 この幸いを私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン それでは1分ほどその場で皆さんを黙祷してお祈りください。
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