礼拝の意義
では、一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
焦点者記念礼拝を今朝はご一緒に迎えています。
先にあなたの身元へと帰ったお一人一人を忍びながら、
彼の人たちを主がどのような恵みを持っていかし、
そしてまた私たちもどこへ向かうのか、そのことを改めて確認するこのひと時です。
どうか主がこの礼拝を祝してくださり、
あなたへの希望をあふれさせてくださいますようにお願いいたします。
私たちは迷いやすいものです。けれどもあなたが捉えてくださいました。
あなたが私たちのために流してくださった巫女イエス様の治癒によって、
私たちの罪を完全に許し、
そしてまた三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠に主と共に生き続ける、その命を私たちに与えてくださったことを感謝いたします。
それは主をもってもキリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはないと約束してくださったように、
主を誇れる希望を与えられています。
どうか神様、あふれんほどの恵みをいただいていますが、
私たちは目が開かれ耳が開かれる必要があります。
どうか御言葉を通し今朝もあなたの希望を教えてくださいますようにお願いをいたします。
精霊様が御言葉を開いてくださいますように。
特にこの世界においてまだ争いが続いています。
そしてまた日本の政治はまた新しい状況に入ろうとしています。
神様すべてにおいて治めておられる王である主御自身が最善に導いてくださいますように。
そしてこの世界にあなたの御心が現されますようにどうかお願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。
施設におられる方、また御自宅で礼拝を守っておられる方、
お一人一人をどうか主が帰り見てそのところで支えてくださいますようにお願いをいたします。
これからの時を御手に委ねをして、
イエス様の御名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
天国への憧れ
今朝は商店舎記念礼拝を迎えております。
天に還られたお一人一人の写真を前に並べていて、
懐かしいなと思う方々もいらっしゃると思います。
その方々のありし日を覚えながら、
その方々を生かした神様の恵みを覚え、
また私たちも御一緒にいつか帰る、
天のふるさとへの憧れを思い出す、そのような日です。
私には実は一つ宝物がありまして、
このおはがきなんですね。
見えないと思いますけれども、
これは10年以上前にいただいたはがきでして、
実はある方が幼いお子さんを突然亡くされたんですね。
深い悲しみ、教会に深い悲しみがあふれたわけですけれども、
その方々が葬儀が終わった後、
参列された方々に配ったはがきなんです。
絵が描ける方なので、
描いてあるのは目白く22章の神天神地の光景です。
命の川がその都の真ん中を流れ、
その川の両岸には命の木が立っている。
その川と木の間を羽を生やしたお子さんが
飛んでいるという天使になったそのような絵です。
私はこれを普段は牧師室の2階にずっと張ってまして、
時々ふと見ると少し悲しくなるんですけれども、
でも大事な絵はがきだなと思っています。
私にとっては天国を近くに感じさせてくれる、
そのような絵はがきだからです。
皆様にもこういう機会に少し考えていただきたいことは、
皆さんにとって天国は近いでしょうか?
そういう問いかけを聞かれると、
何か不謹慎だなと思われるかもしれませんけれども、
私たちはこの日常がいつまでも続けばいいなと願います。
そうですよね。
しかし厳然たる事実として、
この日常はいつまでも続くものではないですね。
終わりがありますし、
その始まりというのは、
いつも私たちが願っている日常の中に
どこかに亀裂が入るというところから始まっていく、
そのようなものであると思います。
思いもよらないことというのが起こり、
そして突然これまで自分自身を立たせてきたものが
倒れてしまったりだとか、
これからどうなるのか、
私はどこに行くのか、
そのことが突如として襲ってきて、
心がバラバラになってしまうということが
私たちにはあるのではないかなと思うんです。
そういう時になおさら大切になる問いかけ、
私たちにとって天国は近いでしょうか。
それは言い換えるならば、
私たちの中に死の先にある希望、
イエスの励まし
その場所というのは確かなものとしてあるでしょうか。
そのようなことを思わされています。
今朝はそのことを少しご一緒に覚えたくて、
ヨハネの14章を開かせていただきました。
イエス様の言葉から希望をいただきたいと思っております。
さて、ヨハネの福音書を今日は開きましたけれども、
実はヨハネの福音書というのは、
他のマタイ、マルコ、ルカの福音書とは
少し趣が違うとよく言われます。
その最たる違いは何かというと、
実はイエス様たちがエルサレムに行かれる回数なんですね。
マタイ、マルコ、ルカというのは
ガリレからエルサレムへの一直線の道の入りなので、
1回なんですよ。
でもヨハネの福音書というのは、
イエス様が何度もエルサレムに行って帰って、
行って帰ってということを書かれる。
少なくとも3回、
イエス様は弟子たちとともに
このエルサレムへと行ったということが記される。
祭りというのは年に1回ですから、
少なくとも3年間、
イエス様と弟子たちの新職をともにした交わり、
そしてまたさまざまな体験を共有した
そのような期間があった。
ヨハネの福音書はそういうふうに語るのです。
ですからこの今朝の14章というのも、
これは杉越の祭りの中の一シーンですけれども、
この時も弟子たちからするならば、
いつも通りの祭り、
イエス様といつも通りに過ごすはずだった
この杉越の祭りであった。
そういうことは言えると思います。
ただですね、この年は何かが違ったのです。
13章から見ていきますと、
イエス様が突如として弟子の足をお洗いになるんですね。
そしてイエス様はそれを
あなた方に対して私が残す模範なんだとおっしゃいました。
13章の15節というところにありますが、
あなた方もこの通りにしなさい。
これはあなた方のために模範を残すためなんだと言われる。
イエス様一緒にいてくれたらそんなの必要ないんじゃないですか。
でもまるで優言のような言葉をイエス様はここで残されるのです。
そしてそれに続けてその後に起きることは、
イエス様の弟子の一人であるユダが裏切るということを
イエス様が予告されるということです。
そしてその通りにイエス様がパン切れを浸してユダに渡したら、
ユダはそこから出ていってしまったという出来事が起きる。
穏やかではないですね。
そして極めつけが13章の33節にイエス様が言われる。
子供たちよ、私はもう少しの間あなた方と共にいます。
あなた方は私を探すことになります。
ユダヤ人たちに言ったように今あなた方にも言います。
私が行くところにあなた方は来ることができませんということを言うのです。
私はあなた方が来ることのできない場所に行く。
いわばそれはイエス様がいなくなるということです。
何かわからないけれども、
けど何かが動き出したということを彼らはこの時に感じます。
まさに彼らのいつも通りに続くはずだった今日が続かないということに気づかされた時。
日常に亀裂が入るそのようなタイミングです。
弟子たちの心は大きく揺さぶられました。
この14章の1節にイエス様があなた方は心を騒がせてはなりませんと言います。
この心を騒がせるという言葉はだいぶ激しい言葉でして、
嵐の会場で水が激しく波立ち乱れる様子とか、もしくはバラバラに千切れるという意味です。
嵐の上で波立ってそこに立てないような状況であったり、バラバラに千切れるという言葉ですね。
足元がグラグラして、自分がどこで何をしているのかがわからないような、
ショックで心がバラバラになってしまうというような、そういう状況に弟子たちは陥ったということです。
13章の後半ではペテロが即座に聞いています。
主よ、どこにおいでになるのですか。
命を捨ててでも私はついていきますということを彼は言いますね。
これは弟子たち全ての気持ちではないかなと思います。
このイエス様との弟子たちのやり取りは、弟子たちの質問とイエス様の応答で続いていきます。
この後はトマスもピリポもイスカリオテでないユダ、タダイとも呼ばれますが、
弟子たちがやつぎ早にイエス様に質問してくるんです。
イエス様、どうなるんですか。どこにおいでになるんですか。
そして、私たちはこれからどうなるんですかということですよね。
暗い夜道に光を失った感覚とでも言いましょうか。
真っ暗な恐怖というやつに彼らは陥ります。
けれども、ある種彼らの嵐のような恐れを沈めるように、イエス様がここで言われた言葉が一説ですね。
あなた方は心を騒がせてはなりません。
神を信じ、また私を信じなさいという言葉です。
慌て深めく弟子たちにイエス様は、沈まりなさい。
あの嵐を沈めた時のように、心を騒がせてはならない。
私と神を信じなさい。
なぜなら、私はあなたたちが見えていないこれからのすべてを知った上で、すべてを用意しているのだということなんです。
イエス様の備え
あなた方が知らないこれからのすべてを私は知った上で、私はあなた方のために全てすべてを用意している。
この後語られるのは、その用意について語られるんです。
こういうことを備えているよと。
イエス様は一体何を備えておられるのでしょうか。
いろいろ言えますが、今朝は三つだけ取り上げます。
イエス様が備えているのは何かと言いますと、一つそれは、イエス様は場所を備えていると言われるのです。
二節と三節をお読みしますけれども、こういう言葉があります。
私の父の家には住むところがたくさんあります。
そうでなかったら、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょうか。
私が行ってあなた方に場所を用意したら、また来てあなた方を私のもとに迎えます。
私がいるところにあなた方もいるようにするためです。
私はこれからあなた方の行けない場所に行くが、そこには場所を備えに行くのだとイエス様は言われる。
この場所とは一体何のことでしょうか。
正直に申し上げるならば、おそらく天国というものでしょう。天国。
新約聖書の中では様々な表現が用いられます。
それは曰くパラダイス、天皇、ふるさと、私の名と国籍が刻まれた国、新天新地。
様々な表現が新約聖書の中にありますが、
しかしそれらが語っていることはある程度重なっていまして、それは天国というのは私たちが帰るべき場所であり、神様からの慰めを受ける場所だということです。
私は先ほどおはがきを見せましたが、目白くの光景というのが好きです。
新天新地の真ん中に命の川が流れている。命の木が植わっている。
天使も飛んでいるでしょうか。もはや光は太陽が発するのではなくて、神ご自身が光として輝いているという、そのような光景ですけれども。
目白くの22章の3節というところに、その命の木のについてこういう言葉があります。
その木の葉は諸国の民を癒した。もはや呪われるものは何もないという言葉がございます。
目白くの22章の3節から4節ですけれども。
もはや呪われるものは何もないという言葉がある。
皆様ほどかどうかわかりませんが、しかし職業柄人と関わることがあるときに、時々目にするのは呪いのようなものに囚われる人が多いなということです。
それは何か超常的なものというよりも、おそらくどこかで受けた刃のような言葉があって、どこかで受けた暴力のようなものがあって、
それがその人を縛ってしまい、傷つけられた人はまた誰かを傷つけるというような負の連鎖を起こし、
本人もそれを自覚しながらも逃れたいけれども、いくら逃げても逃れられない。
呪いのような、そのようなものに一生縛られて生きてしまうという人を見ることがあります。
そういうところを見るときに、私自身も愕然とさせられる時があります。
死をどうしたらいいのでしょうと思うことがあります。
ただ、主はそれを解き放ってくださるわけですけれども、
ただ同時に、父なる神様が天上において言われるのは、呪われるべきものはもはや何もないということです。
父なる神ご自身がその涙を拭い取りとも書かれていますけれども、
私たちを捉える何か、解きがたい何か、傷つけている何か、縛っている何か、
それがもう天上においては全てが解き放たれる場所に私たちは向かうのだということ。
全ての縄目から私たちは解放されて、そして黙示録が語るのは、私たちの日々は礼拝の日々を過ごすということですよね。
何かいい家に住めるとかそういうことじゃなくて、死を礼拝する日々に私たちは最後招かれていくのです。
イエス様がこの箇所で、私の父の家には住むところがたくさんありますと言われた。
その言葉は、ここには神の側の理由によって押し出される人はいないよってことです。
あなたたちが住む場所、天上が狭いから住めないかしら、そんなことは絶対にないよってことを言っているわけです。
言い換えるならば、そこにあなたの場所は確かにあるんだということを言っているのです。
そのようにイエス様は約束をなさったわけですね。
そして第二にイエス様が備えてくれたもの、それは何かというと、その場所に至る道を備えてくださったということも覚えておきましょう。
天国への道
14章の5節6節。
トマスはイエスに言った。
主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。
どうしたらその道を知ることができるでしょうか。
イエスは彼に言われた。
私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰も父の身元に行くことはできませんと語られました。
イエス様という道を歩く、イメージしづらいですが、しかし先週も見た、イエスという門を通るだとか、イエスという道を歩むというのは、いわばイエス様を信じるということですよ。
イエス様を信頼する、この方を信頼するということですね。
けれどももう一つここで書いているのは、私を通ってでなければ、父の身元に行くことはできないということです。
言い方を変えるならば、天国に行く道というのは、私なりの生き方で行きますというふうにはいけないということです。
私なりの生き方で行きます。
イエス様でなければ、父の身元に行けないということが語られる。
でも確かにそうだなと思うんです。
なぜ私たちはイエス様でなければならないのでしょうか。
なぜなら天国に向かって行くのは、罪許された罪人だからですね。
天国に行くのは、罪許された罪人だからです。
私たちは最後まで失敗をします。
人を傷つけることが最後まであります。
だから私たちは罪人なんです。
けれども、すすぎきれない私の罪であったり、歪みがあったり、でもそういうものが例えあろうとも、その罪の全てを引き受けて十字架で死んでくださったのはイエス様だけですね。
イエス様だけなんですよ。
タオルは晩年、彼は第一手持ての1章15節というところで、彼の最後の方の手紙と言われますけれども、
彼は自分自身を指して私は罪人の頭だと言いました。
最後ですよ。私は罪人の頭だと言った。
もう罪許されて私は善人になりました。そうじゃない。私は罪人の頭だと言った。
でも彼がその中で言ったのは、キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られた。
この言葉は真実であり、そのまま受け入れるべきものであるということを彼は言うんですよ。
ある種それは、この命の晩年というか最後に、私はこんなに罪深いという自覚が一番深まったんでしょう。
でも、このお方でなければ、それゆえにこのお方でなければ私はあの場所に行くことができない。
助け主の約束
あのキリストイエスが私の罪を引き受けてくれた、あの救いでなければ私は死のもとへと行けないという確信。
そこから出た言葉ですね。
この方しかいない。そしてイエス様ご自身が言われる。私が道なんだと。
これもイエス様が備えられた約束ですね。
そして第三にイエス様が備えられたのは、そういう場所も備え、道も備えられたわけですが、
その道筋を歩む上で私たちと同伴してくださる、助け主を私はあなた方に与えると言われた。
このヨハネの福音書の14章から16章に至るまでは、助け主、真理の御霊について様々な側面で書かれています。
つまみ食いするならば、14章の16節には、この助け主はいつまでもあなた方と共にいるということが言われますし、
そして15章の26節というところには、しかしこの助け主は、
助け主すなわち父が私の名によって創らした精霊は、あなた方に全てのことを教え、私があなたに話した全てのことを思い起こさせてくださる。
イエス様の言葉、イエス様について私たちに明かししてくださり、
そして16章の13節というところには、この御霊、しかしその方すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いてくださいます。
御霊は自分から語るのではなく、聞いたこと全てを語り、これから起こることをあなた方に伝えてくださる。
様々な側面が描かれますが、しかし確かに言えることは、この御霊は私たちと共にいるということ、
しかもこれはどこまでも共にいるということですね。
例えばそれは私たちが死の影の谷というような真っ暗なところを歩んでいるとしても、そこにいつも傍らにおられるのが精霊なる神様であるということ。
そしてイエス様の真実さについて私たちが信じ得ないときに、いつも私たちの内からそのことを明かししてくださる。
それが精霊様です。
そのような方がいるんだということをイエス様は約束をされるのですね。
3つのことを見てきましたけれども、ある種日常に亀裂が入ったような弟子たちに対して、
でもあなた方の日常に亀裂が入り嵐のようなことが始まろうとも、
しかし全ての場所も道も助け主も私は備えているのだということをイエス様はここで言われるのです。
さて私たちはそういうイエス様の語りかけを聞きながら、どうお答えするかなということを思わされます。
この約束は果たして信じられるでしょうか。
ちょっとだけ面白いのは、この一通りの会話が終わった後に、16章の29節から30節というところに弟子たちが全てを聞いた後にこういうことを言うんです。
16章の29節から。
弟子たちは言った。
本当に今あなたははっきりとお話し下さり、何もたとえでは語られません。あなたが全てをご存知であり、誰かがあなたにお尋ねする必要もないことが今わかりました。
ですから私たちはあなたが神から来られたことを信じますと彼らは言うのですね。
私たちが知らないこともしよう。あなたは全てをご存知で、全てを備えてくださった。だから私はあなたを信じますと弟子たちは答えたわけです。
ただ、ただですね。
信仰の試練と神の備え
私たちはその後のことをよく知っています。
この17章でイエス様が大祭司の祈りを祈られた後、この後を続いていくのはイエス様が囚われるという出来事。
裏切り者のユダが兵隊を連れてきてイエス様を襲撃し、それをきっかけに弟子たちはちりじりバラバラになり、ペペロは3度イエス様を知らないと否めました。
そういう流れを見ていくときにこの16章の言葉を冷ややかに少し見てしまうような気がします。
信じると言ったのに、信じると言ったこの言葉は一体どこに行ったのか。
ただ私は思うんですが、嵐に襲われる人の心というのはどうしてもこういうものなのではないかなと思うんです。
イエス様を愛します。イエス様を信じます。この約束に私は立ちます。
そのように告白するこの弟子たちの言葉も私たちの告白も信仰も嘘ではないんですよ。嘘ではないのです。
けれども嵐に襲われ心がバラバラになるときに、人は信じきれないときがあるということ。
私たちの信仰は偽りがなく、それが純粋なものであったとしても、ただ同時に強固ではないかもしれない。
確信は揺らぎ、主を不信仰な私を憐んでくださいとしか言えない私たちがその時にはいるかもしれません。
しかし今朝ご一緒に私たちが覚えておきたいこと、それは何かと言いますと、
御国という場所も、私たちがそこに至る道も、助け主というお方も、私たちが信じるからその場所にあるわけではないということです。
そこに軸があるわけではないということです。
御言葉が語ることをそのまま言うならば、場所を備えてくださったのは主なんですよ。主がその場所を備えてくださっている。
主が、私が道であり信じであり命と言われた、主が道となってくださっている。
そして助け主を、主が使わされたから今私たちの元に助け主がいる。主がなさったからそこにあるということなんですね。
私たちはここが混在してしまう時があるんです。
信じる私がこうだから、これがあってこれがあって。違いますよ。
私たちの信仰というのは、神様がなさったことを受け取るかどうか。事実は神様が全て備えておられる。
であるならば、私たちの信仰が何かを作り出しているのでもなくて、神の事実が全てを支えている。
天国というのは、私の信仰が作り出す幻でも何でもありません。天国というのは神様の約束なのです。
そうであれば、身国の希望は私たちの信仰によって左右される事実ではない。
むしろ私たちは暗闇の中で、ああもう神様を信じる力がない、何も見えないってなった時に、そこに道があるのかと一歩踏み出した時に、確かにそこには道があるんですよ。
主が道となると言われたんだから。
私たちはこの先どこに向かうかわからない天国という希望を持っていたけれども、でもそれが握り切れない時が私たちは来るかもしれない。
でもだからといって天国は消えないんです。そこにあり続けるんですね。
私たちにとって、死を越えていく歩みというのは、道の歩みです。経験がある人は誰もいない。
ただ、たった一人、その道を先んじて既に歩まれたお方がいるとするならば、それはイエス・キリストのみです。
死してよみがえられたお方だけです。
そのお方が、死と復活の道をまず先にご自身が開かれ、初歩となられたと言われる時に、私たちにとってそれは道の歩みであったとしても、そこにイエス様が共に歩まれるという道がある。
私たちはある種そのような、すべてを備えた神様の備えに支えられて囲まれて、私たちはこの道を進み抜いていくお互いである。
だから、あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、私を信じなさいと招かれる。
心は騒ぎます。いろんなことでバラバラになります。私たちの信仰も、いつまでもその希望を握りきれるかわかりません。
でも主が言われるんです。騒がせるな。確かに私は場所も道も助け主も、あなた方に備えているんだ。
天国への希望
私たちの死の先にある希望を、改めてしっかりと握らせていただきたいと思います。
そして、天国は近い。私たちの向かう天国は近いということを、ご一緒に握らせていただきたいと思うのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。