イエスの裁きの権威
それでは、ヨハネの福音書5章25節から29節、新海約聖書2017年版でお読みします。
まことにまことにあなた方に言います。 死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。
それを聞く者はいきます。 それは父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、
子も自分のうちにいのちを持つようにして下さったからです。 また父は裁きを行う権威を子に与えて下さいました。
子は人の子だからです。 このことに驚いてはなりません。
墓の中にいる者が皆、この声を聞く時が来るのです。 その時、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、
悪を行った者はよみがえって裁きを受けるために出てきます。 以上です。今日はこのところから死者を生かす言葉、死者を生かす言葉と題して笑み言葉を取り付けます。
みなさんおはようございます。 今日は4月6日、日本の年度ですと4月始まりですから、
2025年度最初の礼拝です。 先週、月曜から木曜まで冷たい雨降りの日々が続きまして、
本当に寒かったのではないかと思います。 金曜日になってやっと晴れて、今日もちょっとまた
夕方から雨のようです。 さて、クリスチャンはイエス様が誠の神であり、救い主であると信じています。
ところで先日、ある経済ニュースでヒタチグループが取り上げられていました。 みなさんヒタチグループってご存知です?
これですよね。 この気になる木で有名なグループです。
どれだけ多くの事業をやっているかということを取り上げて、
それだけ大きな企業であるということをこの木が象徴していますが、この木は
想像すると根っこが深く、そして広く 行き渡っていますよね。
もしそのように根っこが広く深く行き渡った木であれば、この木のように
生い茂るんですね。そして 夫婦も耐えることができるわけですね。そして身のなる木であれば
豊かな実を結ぶわけです。何が言いたいかというと、私たちというかキリスト者も
根っこを深く張る時に、試練にあっても守られたり耐えられたり、豊かな実を結ぶ。その何に根っこを張るかというと
聖書の言葉とかイエス様の言葉に深く広く根ざすと、そのような大木のような
大袈裟ですけども、クリシャン生活を送ることができるのではないかと思うわけです。
実は先週お話ししましたように、今日の歌詞はですね、ヨハネの5章から始まった
ベテスネの行けの軌跡から始まって、イエス様が安息日を破ったということで、ユダヤ人の指導者から
休断された。それに対してイエス様がご自分は神であるということを証言された歌詞なんですね。
で、実はその会話の中でイエス様は自分が唯一誠の神であるということを
証言している。で、もちろんそのことを皆さんもですね、クリシャンであれば当たり前のように信じているかもしれない。
イエス様は唯一誠の神であり救い主である。しかし、ヨハネの福音書などですね、それが広く深く詳しく書いてあります。
で、そのことを私たちがヨハネの福音書からじっくり学ぶときに、私たちの信仰も深く広く根ざすことができますし、
また、クリシャン生活にとってもですね、新鮮な喜びをですね、御言葉を通して回復することができる。
そんなこともあって、詳しくヨハネからイエス様の神性について話す。今日もそんなところなのであります。
3つの点を話しますが、一番最初はですね、イエス様に裁きを行う権威が与えられているということ。
そして、2番目はですね、言葉によっていのちを与えるということ。
3番目はですね、死者を生かす声ということを見ていきたいと思います。
さあ、一番最初に裁きを行う権威ということを見ていきましょう。
イエス様がこのようにおっしゃいました。5章27から29節、また父は裁きを行う権威を子に与えてくださいました。
子は人の子だからです。その時、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえって裁きを受けるために出てきますということですね。
まあ裁きを行う権威を父なる神は子なるイエス様に与えてくださったということを見ていきます。
先週ですね、ニュースで2つの裁判に関わることが話題になったのを気がつきました。
一つ大きいのは、韓国のユンソン・ヨル大統領が最高裁判所によって弾劾されたということ。
もう一つは、私たちの教会にも来たことがあるですね、ウィスコンシン州からね、去年牧師に来ましたけれども、芸術家さん。
ウィスコンシン州で行われたアメリカの最高裁の判事がですね、
イーロン・マスク氏が巨額のお金を投じて支援した人が落選して、民衆が支援した人が当選したという、そういう2つの大きな裁判や司法に関するニュースがありました。
日本でもですね、裁判官や弁護士になるためには司法試験に合格しなければいけません。
もしね、その司法試験に合格しないで弁護士を名乗ったりとかですね、裁判官を名乗ってその権威を執行したらですね、それこそ逮捕されてしまうわけですよね。
それにもましてイエス様が自分が神であると、そして神として裁く権威を持っていると主張したことはどれだけ大きなことだったかということが、
このような地上の裁判ということからもわかるわけです。
実はそのことをある学者が、皆さんのレジュメにも書いてありますけれども、複数の学者がですね、このようなことを神の権威、裁きの権威とイエス様の神性ということに関わる言葉として述べているんですね。
ちょっと難しいかもしれません。読んでみますね。
神の主権が最も完全に現れる神の行為は、最後の審判と正義であり公正な裁き主であるということである。
そのことは、全知全能の神の権能である。
御子イエス様が、それはですね、その権威を持っているということは御子イエス様が神の大いなる権威を持っていることの証であると述べているんですね。
まあ、あえて難しいこと引用しましたけれども、この裁きの権威がイエス様に与えられているということは、イエス様が誠の神であるという動かぬ証拠だということを、
ここで覚えておいていただきたいんですね。
実は、その神こそ誠の裁き主だ。正しい裁きをする方だという信仰は、旧約聖書の信仰です。旧約聖書の誠の神だけが正しい裁きを行う。
まあ、そういうことがいくつか聖書箇所にありますけれども、その正しい神に審判を願い求める祈りをですね、一箇所だけちょっと今日は引用しておきましょう。
司式というところですね。11章27節に、正しい裁きを神は行ってくださると言って、信仰者が抗議している、自分をあらぬことで非難する相手に対して抗議する言葉を引用しますね。
私はあなたに罪を犯していないのに、あなたは私に戦いを挑んで、私に害を加えようとしている。
審判者であられる主が、今日イスラエル人とアンモン人の間を裁いてくださるように。
言われのない危害が加えられようとしている。
それに対して、その相手に対して、この信仰者がこう言ってるんですね。審判者であられる主が、今日イスラエル人とアンモン人、あなたと私の間を正しく裁いてくださるようにと言っているんですね。
このようにイエス様の証言から、正しい裁きをする、しかも世の終わりにそれをするということから、イエス様がまことの神であるということが私たちは知れるわけです。
先週、ドロシー・セイヤーズというイギリス人の小説家、また神学に詳しい女性の言葉を引用しましたけれども、それをもうちょっと長く引用して、イエス様の神であるということをちょっと確認したいと思います。
このドロシー・セイヤーズという人ですね。日本語にも訳されている小説がいっぱいあるそうですけれども。
彼女はこう言っているんですね。キリスト、つまりイエス様が誰か、何であるか、何の権威でそんなことをしているのかなど、そんなことは特に重要ではないと、そう答えてみても全く役に立ちません。
もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼は神についてどんな考えを述べようと全く不的確です。
まあ、担当職に行ってしまうとイエス様の発言から、イエスはまことの神であったと言う以外にないと彼女は証言、伝えているわけですね。
最初は裁きを行う権威ということがイエス様の神性を証しているということを見ました。
命を与える言葉
2番目、言葉によっていのちを与えるということ、それとイエス様の神であるということを見ていきましょう。
今日の5章25節でイエス様はこのように言っています。ちょっと読めるかで読んでみましょうか。
「まことに、まことに、あなた方に言います。死人が神のこの声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者はいきます。」
イエス様の言っていることの意味がわかるかと思います。
このイエス様の言葉からいろんな連想が出てくるかもしれませんが、今日のこの短い4節5節の中で際立っている表現。
それが何かというと、死んだ人がイエス様の声を聞くということです。
そして墓の中にいてもその声を聞いた人は生きるという。
読み流してしまうとそのままですけれども、特徴的な、とてつもない発言なんですね。
この言葉を聞いた人がいのちを得るということ、いろんな連想ができるかもしれませんけど、
私はと言ってしまいますけどね、ヨハネの福音書の冒頭を思い出したんですね。
ヨハネの福音書の冒頭、どんなこと書いてあるかみなさん覚えてますか。
1章の3節、1節から3節、4節、引き抜いてみますけれども、ヨハネの福音書の冒頭、こうありますよね。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。 言葉は神であった。すべてのものはこの方によって作られた。
作られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 最後だけ読んでみましょうか。この方にはからさん。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
言うまでもなく今までお話ししてきましたが、一番最初のこのヨハネのシリーズのメッセージでお話ししましたけれども、
ここはイエス様の神性証しする冒頭の大事な部分だということですよね。
そしてこれは創世紀の1章の冒頭を思い起こさせるフレーズだったんですね。
ちょっと長くなりますけれども、創世紀1章の1節から読んでみますと、はじめに神が天と地を創造された。
はじめにがあっていますよね。地は防爆とし何もなく、闇が大水の表の上にあり、神の霊がその水の表を動いていった。
もう一回読んでみましょうか。神やからさん。 神は仰せられた。光あれ。すると光があった。
まあいろんな連想ができるかもしれませんけれども、ここのですね、ヨハネの福音書の冒頭と創世紀の冒頭、互いに関係しあってイエス様が創造主である、
永遠の誠の神であるということを明かしているということをその時お話ししました。
ここの部分を見ると、ある言葉が関連しあって、そして、
関わり合って共鳴しあっているんですよね。どんな言葉がいくつかありますけれども、特徴的なのは、
いのちと光という言葉が共鳴しあっているんですね。そして、言葉と創造ということが共鳴しあっている。
これら4つの要素が関わり合いながら、イエス様が天地万物を作られた誠の神である、
永遠の神であり救い主であるということを明かしている。創造と言葉、そしてこのいのちと光ということがですね、共鳴しあい、
関わり合いながら、このイエス様の創造主であるということと、そしていのちの源であるということが明かしされているというわけなんですよね。
で、その上で今日の箇所では、イエス様の声を聞いた人が生きるって言っているんです。
神様について、創世紀の冒頭では、神様が最初の言葉を発した、光よあれ。
そしたら闇の中に光が輝き出たって言ってますよね。そしてその光は人のいのちだってことも言われています。
このようにですね、最初に響いた神の声が光よあれであり、そしてイエス様がいのちの光だと言っている。
そしてその上で今日の箇所では、イエス様の言葉を聞いた人が死んでいても蘇ると言っているわけなんですね。
ちょっと議論があってわかりにくいかもしれないので、あえて少しだけ脱線して説明しますけど、今がその時ですっていうのはどういう意味か。
まだ死んでいない人が、声を聞いて生きるのはどういうことかっていうと、簡単に言うと、
誠の神様を知らないで、神様との関係において死んでいる人がイエス様の言葉を聞いたら、この神様との関係を回復して、今までヨハネで話しているような、
神による新しいいのち、永遠のいのちを生きることができますよという、そういう意味で、今神の前で、神とのいのちの間で死んでいる人がイエス様の言葉を聞いて信じれば、
神のいのちを今得て生きますよっていうことが、今がその時ですと言われているゆえなんですね。ちょっと脱線しますけれども。
そういう中で、今日の言葉の中で特徴的なのは、死んだ人がイエス様の声を聞いたら、生きる、いのちを得るっていうことなんですね。
実は、先ほども引用しました学者の言葉で、神であるということとイエス様の神性ということといのちということを、このようにある学者たちは言っているんですね。ちょっと難しいですけど引用してみますね。
神の主権が最も完全に現れる行為は、死からいのちへと人を蘇らせることである。 人を生かすことは全能の神に属する機能である。
イエスの声の力
ですからイエス様が、私の声を聞いたら死んだ人も生きるよって言ってるってことは、まさにイエス様はご自分が人を生かす全能の神だって言ってる。
そのように真剣に受け止めなければいけないという意味なんですね。 さらに、
実は今日の歌詞とか短いんですけど、いっぱい言うことがあって本当に足りないんですけども、後でまたレジュメを読み直していただきたいんですけど、
もう少し面白いのは、ここですね。先週見た5章24節。 誠に誠にあなた方に言います。いいですか。ここから不思議なんですよ。
私の言葉を聞いて、私を使わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち裁きに遭うことがなく、死からいのちに移っています。
ここで不思議な置き換えはですね、イエス様の声を聞いてイエス様を信じるのではなくて、イエス様を使わせた父なる神様、ここの神を信じればいのちが与えられるって言ってるんですね。
ここからも簡単に言うとイエス様がご自分の神性を明かししているということがわかるわけです。
それだけにちょっとこの部分は止めておきますけれども、そしてその上でイエス様は、今日の歌詞で続けているんですよね。
なぜそれができるのか。なぜイエス様がいのちの与え主である神であるかっていうことを今日の歌詞でこう説明していますね。
それは父なる神様がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも御子イエス様にも自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
このようなことからですね、イエス様はこの地上に来た人となられた存在だけれども、人に永遠のいのちを授けることができるということを力強く明かしているわけです。
このようなイエス様の言葉だからこそ、それを聞いた人が生きる言葉だということを言うことができるわけです。
最後、死者を生かす声ですね。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者が皆、この声を聞く時が来るのです。
その時、善を行った者は蘇っていのちを受けるために、悪を行った者は蘇って裁きを受けるために出てきます。
5章29節ですね。
よくドラマとか小説で、もしかしたら体験したこともあるかもしれませんけど、いのちの危機に瀕している人に呼びかけて、蘇生してほしいというシーンが出てくることがあるかもしれません。
意識がなくなっても耳はよく聞こえる、とよく言われている通りかもしれません。
そのような場面で、医療小説なんかも書かれているんですけども、私がよく読む医療小説があるんですね。
中山雄二郎といって、本物の下界が小説を書いているんです。
「泣くな研修医シリーズ」というシリーズ、7冊くらい出ているんですね。
8週休みに詳しく言うと、横浜のキリスト教の英語学園という名門の高校を出て、
そして、医者になりたいけども地方の医学部の方が入りやすいというので、たぶん二郎したのかな、一郎したのかな。
鹿児島大学の医学部出ているんですね。
ですから、「泣くな研修医」というのは、鹿児島の出身の医者が東京で活躍する小説なんですね。
中山先生自体も、小垣下界でね、大腸の内縮手術なんかでもすごい有名な先生なんですけども、
テレビでもね、長浜アランさんという人が主役でこんなドラマやってましたけども、
そのシリーズでですね、主役の人が島に行く場面があるんです。
下界島に行くというシリーズ。
そこで、本当に医療過疎の島ですから、たくさん人が亡くなるんですね。
自分が使えるような高価な医療機器もない。
その時、ある日、自分がその島で親しくしていた40代くらいでしょうかね、青年が、建築業の青年が事故に巻き込まれてしまうんです。
獣器に、小説ですけどもね、獣器に挟まれてお腹を、内臓が破裂してしまう。
それで救急搬送で病院に、彼のいる診療所に運ばれてくるんですね。
で、その男性はですね、先生に、島でこういうことになったら死んでしまうんですよねって言うんですけど、
その主人公の医者が、いやそうじゃないっていうことを話すんです。
そして彼と看護師のようにやり取りをしていく中で、こういう場面があるのでそのまま読んでいきますね。
チラッと電子カルテのモニターに目をやった。その時だった。
リリリリン、リリリリン。古い黒電話の呼び鈴のような、けたたましいアラーム音が鳴った。
心肺停止。なんていうことだ。あっという間に止まってしまった。
心臓マッサージします。ボスミン、その共振剤、準備してください。
意識が戻ったのも束の間、一瞬で再出血してしまったのだろうか。
この医師は言うんですね。クソクソ!組み合わせた両手の手で北原、この青年の胸を押す。
戻れ!戻れ!力が入る。強くやればいいというものではないことはわかっている。
それでも両腕の力は増していく。2分経ったらボスミンを注射してください。
領事、主人公の医師はずっと心臓マッサージを続けていた。戻れ戻れ!
この死者を呼び覚ましたい声が小説にも描かれているわけですね。
イエス様は、この自分が発する声が墓に入ってしまった人を呼び起こすと言ってるんですね。
墓の中に入った人が声を聞いて蘇ってくる。それが一体どんな状況なのか、実はよくわからないんですね。
でも私たちはイエス様も聖書の信じますから、それが起こるんだということを素直に信じます。
さらにイエス様は再び天から目に見える形で帰って来られると約束してくださってるんですよね。
その時イエス様を信じる人たちは、たとえ死んでいても蘇って新たないのちを得るとも約束されているわけですよね。
希望のメッセージ
再臨の希望と言われています。 それがですね
ギリスト社に与えられた復活の希望であります。そしてそれをお祝いするのがイースターですね。今年は4月20日です。
最後に、まさにこの終わりの時の再臨の復活をテーマにした聖書の言葉を引用して終わりたいと思います。
パールを書いたんですけども、第一テサノニキの4章16から18節の罰水を読んでいきますね。
「号令と見つかりの頭の声と神のラッパの響きとともに主御自身が天から下って来られます。そしてまずキリストにある使者がよみがえり、それから生き残っている私たちが彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」
ここから読んでみましょう。最後まで。
「こうして私たちはいつまでも主と共にいることになります。ですからこれらの言葉をもって互いに励まし合いなさい。」
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は誠の神であり救い主です。そのことがヨハネの福音書に豊かに明かされていること。
どうぞ私たちがその素晴らしさ豊かさ深さを知ることができるようにお導きください。イエス様の御言葉を聞くとき、イエス様の御声を聞くとき、私たちへ生かされ、たとえ死んでもよみがえると希望が与えられていることを感謝いたします。
どうかその希望を胸に抱きながら日々歩むことができますように。新しい年度が始まりましたけれども、イエス様の復活の言葉を糧に一日一日歩むことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは一分ほど聖書の言葉イエス様に応える黙祷の時を持ちましょう。