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2025-03-23 27:54

#256 弱さを知って~差し出される救いの手、過ちを犯さぬために 25/3/23 

ヨハネの福音書5:1-16からの礼拝メッセージ。2023年3月23日録音。(聖書朗読はまで、からメッセージの本論です)今日の聖書箇所の舞台設定も、これまでのようにイエス様と人との対話です。しかし今までとは様々な点で違っています。それらの違いを3つの点から取り上げます。それらは私たちの信仰の歩みの本質と関り、さらには宗教的な過ちから私たちを守ることへと繋がるでしょう。

最初は自分自身を救えない状況に陥った人に手を差し伸べるイエス様について(1.先に声をかけて下さるイエス様())、次にイエス様と彼を取り巻く人の中に起こった新たな緊張関係について(2.イエス様への公的迫害の始まり())、最後にイエス様を信じその救いを体験したとしても残る人間の弱さについて(3.心を見張る())取り上げます。

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https://note.com/nsbc/n/ne2c90f94f226

サマリー

このエピソードでは、イエス様が38年間病気を抱えていた男性と出会い、先に声をかけて癒しを与える様子が描かれています。また、イエス様の行動が安息日を破ることでユダヤ人たちの迫害を引き起こし、信仰生活における重要な教訓が示されています。さらに、イエス様の救いを体験した後にも人間に罪を犯す弱さが残ることについて考察され、その弱さを認識しながらどのように信仰を歩んでいくべきかが探求されています。

イエス様の癒し
ヨハネ5章1節から16節
そこに38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。
よくなりたいか?病人は答えた。
主よ、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に降りていきます。
イエスは彼に言われた。起きて徳を取り上げ、歩きなさい。するとすぐにその人は治って、徳を取り上げて歩き出した。ところがその日は安息日であった。
そこでユダヤ人たちは、その癒された人に、今日は安息日だ。徳を取り上げることは許されていないと言った。しかし、その人は彼らに答えた。
私を治してくださった方が、徳を取り上げて歩けと私に言われたのです。
彼らは尋ねた。取り上げて歩けとあなたに言った人は誰なのか。しかし、癒された人はそれが誰であるかを知らなかった。
群衆がそこにいる間にイエスは立ち去られたからである。
後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。
その人は言って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
以上です。
迫害の始まり
今日のところから、弱さを知ってと題して、みことばからお話します。
皆さんおはようございます。
今日3月23日ですが、先週はいろんなことがありましたね。
18日は、ドジャースとカブスの開幕戦が行われ、18、19ですね。
そして3月20日は、サッカー日本代表がですね、世界で開催国よりも一番早くですね、ワールドカップ出場を決めた日がありました。
そして3月20日は、覚えている方も多いと思いますが、30年前に地下鉄サリン事件が起きた。
様々な番組が行われておりましたけれども、そんな日々がですね、先週も続きました。
それは去っておきまして、今日見るところはですね、これまでのように、このイエス様とその人物の対話が出てきます。
38年間病みを患った人との対話です。
けれども、今までニコデモとかイエス様の弟子、そしてサマリエの女性、これらの人々とは様々な点で、この対話の形式が違っているんですね。
それを今日、3つの点から取り上げていきます。
それはですね、私たちのクリスチャンの信仰生活の本質に関わることであったり、あるいは宗教全体のですね、過ちから人々、私たちを守るということにつながるかもしれない。
そんなことと関係ありますので、3つの点からお話しします。
最初は、先に声をかけてくださるイエス様。
2番目はですね、イエス様への公的な迫害が始まったということ。
そして3番目はですね、もう罪を犯してはいけないというイエス様の言葉をもとに、心を見張っていくということを見ていきたいと思います。
では一番最初ですが、イエス様はですね、今日のところではユダヤ人の祭りのゆえに、このエルサレムを訪れたとあります。
簡単に言うと、当時のユダヤ教の宗教の流れにきちんと沿ってですね、大事な祭りの時にはエルサレムに行くようにという、そういうこともあって、何かの祭りの時にイエス様はエルサレムに行った。
その時にですね、ベテスダという池のほとりで、ある男性と出会いました。
おそらくこれはですね、間欠泉、時間が来ると自然にお湯が湧き出してくる温泉だったんじゃないかと言われているんですね。
皆さんの聖書の3節の脚注みたいなところにですね、遺本って書いてあって、こうありますよね。
彼らは水が動くのを待っていた。そして4節、神科学では欠損していることになっているんですけども、遺本の4節ではこうあると。
それは主の使いが時々この池に降りてきて水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入ったものがどのような病気にかかっているものでも癒されたからであるという、ある旧約聖書の遺本に書かれている。
そんな逸材があったということがここからでもわかるわけです。それが多分、間欠泉であったんじゃないかという説なんですね。
さあ、じゃあそこから本題に入っていきますけれども、一番最初の点はですね、先に声をかけてくださるイエス様というところを見ていきましょう。
ちょっと長いかもしれないんですが、5節6節読んでみましょうか。
そこに38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間過ごしていることを知ると彼に言われた。
よくなりたいか。おそらく何か体の麻痺があったのではないかと言われているんですね、この男性。
ここのところではですね、この男性が無力な病人であったということが強調されていることがわかります。
よく見ると5節には38年も病気にかかっている。そしてイエス様は横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知るとと書いてある。
だから本当に彼が英語というところのヘルプレスですね。長い間病気にかかって救いようがないということが強調されています。
38年でさらって字を読むと、受け流ししてみれますけれども、先ほど言ったこのドジャースの大谷翔平選手、何歳か知ってます?
30歳。この男性は38年間病気になった。
笹木老貴に至ってはおそらく23歳です。38年から15年も若い。それなのにあんなに豪速球を投げるわけですよね。
そしてこの間ワールドカップ出場を決めた代表選手の中で日本人で最高齢の選手が、誰ですかこれ。
ブラボー長友裕樹選手。彼でさえ37歳です。
この男は38年間患っていた。そしてほとんどの期間おそらく歩けない寝たきりだった。
さらっと言ってしまうほど38年って読み過ごしますけれども、それほどの年月寝たきりだった。
10秒であったということがわかるわけです。
そんなベテスナの池のほとりで助けが必要だということをイエス様は知って、
その男はですね、おそらく38年でしょうかわかりませんけれども池のほとりに行って、
自分がその中に入れば治るんだ。ここに癒しがあるんだということをわかっていたんです。
そして誰かがそれをしてくれれば、私を池に入れてくれれば私は助かるんだということを知っていました。
でも誰も入れてくれない。そして私にそれは自分でもちろん歩いていく力がない。
自分を助けることができないということを痛感していたわけなんですよね。
そんな時にイエス様が現れて声をかけてくださいました。
よくなりたいか。
これはこの箇所から説教する牧師が説教台にするぐらい有名な言葉です。
先ほど言いましたが、これまでのイエス様と人々の対話と違う点、今のところで気づきましたでしょうか。
何が違うか。今インバウンドで外国人の観光客が多いって知ってますよね。
皆さん見たことあります?電車に乗ると外国人の人が大きい陸策を背負って行き来している。
どうですか皆さん。明らかに迷っている人がいるとした場合。
英語だったら何て言いますか。
May I help you? 声をかけて助けてあげるでしょう。
私はニューヨークに学生時代に行って、どこどこまで来てくださいという文章だけで
郊外の大学に行かなきゃいけないことがあって、地下鉄のどこどこに乗ってくださいというグランドセントラル駅があるんですけどね。
まだ911のあれが起こってない前だったので、ああいう貿易センタリングがなかったんですけど。
とにかく日本から一人で行って、郊外の例えば東京の駅に着いて、ニーザ市の大学まで行きなさいみたいな、そういうアサイメントがあって行ったんですよ。
分からなくて、アメリカ人のビジネスマンに聞いたら、もうここだよって乗り口まで連れてってくれたんですよね。
すごい優しいなニューヨークはと思ったんですけど、皆さんね、外国人見て道が迷っているの分かったら声かけます?
そういうふうに率先して、どこか行きたいんですかっていうようにイエス様はこの男の人に、
先にこの人の病気を治したいというニーズを汲み取って、イエス様の方から声をかけたという点が今までの対話と違うんですね。
今まではやりとりの中でその人のニーズに切り込んでいったけども、先に担当直入に良くなりたいんですかっていったところが違う点です。
私たちもこの男の人のように、病気でないかもしれない病気であっても、自分ではどうすることもできないということがあると思うんですね。
神様の前で罪が許されるという点が特にそうだと思います。
でもそうでなくても、日常生活の中で困って自分ではどうすることもできないなとか、
長い人生を歩んでいると、まさに人生の危機に直面してどうしていいかわからないという時があるかもしれません。
けれどもその時にイエス様の方が私たちのニーズを知って、先に声をかけてくださったり、手を差し伸べてくださる。
私たちに先んじて救いの手を差し伸べてくださるのが、私たちが信じているイエス様だということを知っていく。
それはとても私たちの心強い支えになるのではないでしょうか。
ある本にあった名もない人の祈り、彼とか私たちの心情に即したような祈りを紹介しますね。
名もなき人の祈り。
私は主を探し求めました。そして主が私の魂を動かして、主を探し求めさせたと知りました。
真実の救い主を私が見つけたのではなく、私はあなたによって見つけられたのです。アーメン。
これはもしかしたら一番最初にイエス様の救い主を信じた人の心境かもしれませんし、困って道がわからなくなったときに、
このイエス様の救いを知って捧げた人の祈りかもしれません。こんな祈りがあることを知っておきましょう。
2番目。イエス様への公的迫害の始まりということなんですね。
するとすぐにその人は治って、徳を取り上げて歩き出した。ところがその日は安息日であった。
そのためユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5章の9節、16節。安息日の運いのちについては今までずっと話したのでここでは省きますけれども、
今日の箇所でこれまでと違うもう一つの点があることにやはり気がついたでしょうか。
それは今までイエス様が癒しや何か救いの言葉を述べた後の反応の違いです。
この間見たサマリアの町では町中の人がイエス様を信じましたが、
今日のところではイエス様への迫害が始まったというところが明らかに違う点です。
さらに言うとこのイエス様への反対へ迫害が公式に始まったとも言えるんですね。
最近よくテレビで視聴者提供という画像が出ますよね。
よくドライブレコーダーの画像が出てくる。
あれで何がいいかというと、特に煽り運転なんかが証拠になるわけです。
よく車の後ろを走っていると広報録画中なんて書いてありますよね。
そうするときちんと録画をしていると煽り運転したという証拠が残って、
警察に言うと煽った人が道路交通法違反だということで公式に検挙されるわけですね。
なんとなく煽られたじゃなくて、証拠があって公式に道路交通法違反したということが立証されるわけです。
ちょっと違うかもわかりませんが、ここで出てくるイエス様を告発しているユダヤ人というのは、
これまで言っているようにユダヤの最高法院とか最高議会と言われているようなサンヘドリンの議員や裁判官たちなんですね。
彼らが、このイエス様が彼らが守るようにと教えている決めたところの安息日律法に違反した。
それでですね、正式にイエス様を迫害し始めたというのが今日の箇所なんですね。
そして実は今日の箇所以降、このヨハネの福音書の中でイエス様への公の反対が顕著になってくる。
そして一般の人もですね、イエス様を反対するということが出てくるわけです。
心を見張る
まさに受難のメシアの歩みが5章以降ですね、顕著になっていくそのことをこれから見ていきます。
では最後の点ですね。心を見張るということですね。
で、この男はですね、ユダヤの議員たちに安息日を破るように血抜けたのは誰だって聞いたんですけどね。
誰かわからないイエス様がその群衆からいなくなってしまったからですね。
その続きがこうあるわけです。5章14節から15節。
後になってイエスは宮の中で彼を見つけて言われた。
これだけ読んでみましょうか。3、見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。
この後言いますね。そしてその人は言って、ユダヤ人たちに自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
これ何がわかるか。繰り返しになりますが、今日の箇所で今までの対話と違う点がここにもあります。
それは何かというと、イエス様に言葉をもらった人、広く言うと救いを体験した人であってもですね、
罪の問題が残って浮き彫りになっているという点が違うんですね。
どういうことかというと、この癒された人は素直にイエス様を救い主だ、神だということを認めたかどうかわかりません。
さらに彼はこのイエス様をユダヤ人の当局に売り渡すようなことをしているんです。
なぜそれがわかるか。その前に大事なことなんですけれども、このイエス様がですね、この病気の人に言った言葉からこんなことが連想されると思うんですよね。
病気は罪の結果だ。ただね、これ本当に私たちこの微妙さをきちんと捉えなければいけないんですけれども、
それはですね、全ての人の病気が、全ての病気が罪の結果であるということは限らないということです。
私たちに罪、失礼しました。もっと広く言うと私たちに病気になったり、私たちに悪いことが降りかかったり、広く言うと。
でもそれが全部私たちの罪の結果であると言えないということを知らなければいけないんですね。
言い換えれば、この病気の人に対してその病気は罪の結果だということは決して私たちは言ってはいけないということなんです。
もしあなたの病気はあなたの罪の結果だという人がいたら、まさにそれはカルト教団の教祖やカルト教団の信者だということができます。
もしあなたにそういうことを言う人がいたら、それを信じてはいけません。
イエス様は神様だから何かがわかっておっしゃったということを理解しておく必要があります。
そしてそれ以上に大事なことがあるんですね。
それはここで見るように、人はたとえイエス様によって助けや救いを得たとしても、罪を犯さなくなるということはないということなんですね。
逆に言うと、たとえ私たちがイエス様によって救われた、罪許されたという経験をしたとしても、
私たちの中には、それでも罪を犯してしまう弱さが残ってしまうということを知る必要があるということなんです。
前後しますけども、この癒された人がどのような、
すみません、さっきのあれになりましたね。
スライドあるからもう一回読みますけど、
彼の病気は何かの罪の結果と関係していることはわかります。
しかし大事なことは、全ての病がその人の罪の結果であるとは考えてはならないということです。
言い換えれば、病気の人に対してその病気は罪の結果であるなどとは、私たち人間は決して言えないということですね。
それはさておきまして、実はこの彼からわかるようにですね、
救いと弱さの理解
イエス様の救いや、あるいはもし十字架によって罪の許しがわかったとしても、
その人には罪を犯してしまうという弱さが残るんだということなんですね。
で、なぜ今日の箇所からそれがわかるかというとですね、この男の人はですね、
最初はイエス、お前に徳をあげて歩けと言ったのは誰だと言ったときに、誰かわからないと言って、
イエス様とのやり取りの事実だけを伝えました。
徳をあげてと言われたから、それが起こった。
しかしその後、神殿でイエス様に声をかけてもらって、もう罪を犯してはいけませんと言われた後に、
彼は何をしたかというと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれないから罪を犯すなと言われたのにもかかわらず、
その人はわざわざ言って、ユダヤ人たちに自分を治してくれたのはイエスだと伝えたというんです。
最近言うのかな、このチクリとか。
わざわざ言って、ユダヤ人たちに自分を治してくれたのはイエスだよと伝えた。
これ何をしたかったかというと、自己保身とか、そしてこのユダヤ人当局の偉い人たちに褒美を売ったんですね。借りを作ったわけです。
このようなところから彼はイエス様に対して罪を犯してしまったということがわかるわけです。
この男の人の例は難しい言葉で言うと、もしかしたら自己保身から、お前があそこに罪を犯したと責められることから自分を守るために、自己保身からイエス様を売るようなことをしたのかもしれません。
考えてみたいことは、たとえそのような大きなことでなくても、人は繰り返しますが、イエス様の救いを信じて、イエス様の救いを体験したとしても、
このイエス様に対して罪を犯すとか、イエス様の言葉をないがしろにしてしまうという弱さがある。
そのことを知っておくということなんですね。
もちろん、イエス様を信じた私たち皆さんは、あえて言うと真面目ですから、聖書の言葉とか祈り通して、罪を犯さないようにと、
御言葉に従って神様の規定に合いみたいとしても熱心になさるかもしれません。
けれども、それができない弱さがあるということを自覚しておく必要があるんですね。
自分にはそれができないという弱さを、罪を犯してしまうという弱さがあるということを、自覚している必要があるということを覚えておくことが必要じゃないか。
これは、あえて言ってしまうと、今日の聖書の箇所から私なりに考えた結論ですから、皆さんある人は違うことを言うかもしれませんが、
私は少なくともそういう弱さがあるということを自覚した上で、クリスチャンとして歩んでいくということが大事なのではないかと思うわけです。
心を見守る重要性
もし、自分はこういう宗教を信じているから絶対間違わないとか、自分が属している宗教団体は決して間違わないとなるとどうなると思いますか。
絶対間違わないんだったら、誰が間違えるのか。相手が間違える。世間が間違っているということになるんです。
そうすると何が起こるかというと、30年前に起こったような、3月20日に起こったような、前代日本の悲惨な出来事にまで発展してしまうという可能性があるわけなんですね。
そのような考え、自分や自分の組織は決して間違わないという考えこそ、宗教カルトの特徴なんだということを知っておく必要もあるわけです。
ですから私たちはイエス様に従い続けることを目指しながら、罪を犯す弱さを知って、自覚していく。そして聖書の言葉にあるように、自分の心を見張っていく。そういうことが必要なのではないかと思うわけです。
そのようなことを教えている、悟している、聖書の言葉を最後に引用して終わりたいと思います。
真言の4章23節ですね。読める方はちょっと読んでみましょうか。
何を見張るよりもあなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから沸く。
心を見張りながら、もし過ちに気づいたならば、許してくださるイエス様に許しと救いを求めてまた歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様が私たちの弱さに気づいて、先に声をかけ、救いの手を差し伸べてくださる、そのような神であり、救い主であることを感謝いたします。
私たちがまた、あなたに従いきえない弱さもご存知であり、あなたは十字架の上で私たちの罪を贖ってくださいました。
そのような弱さ・脆さを抱えながら、あなたに許されて歩んでいる、そのようなものであるということを私たちが自覚して歩んでいくことができるように導いてください。
そして、イエス様を見つめながら、自分の心を見つめながら、また、あなたの許しを覚えながら歩んでいく、神と人に仕えていく、そのようなお互いでありますように、そのような教会でありますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは、一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
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