イエスの言葉と裁き
ヨハネの福音書、十二章、四十四節から五十節をお読みします。
イエスは大きな声でこう言われた。
私を信じる者は、私ではなく、私を使わされた方を信じるのです。
また、私を見る者は、私を使わされた方を見るのです。
私は光として世に来ました。
私を信じる者が、誰も闇の中に留まることのないようにするためです。
誰か私の言葉を聞いて、それを守らない者がいて、私はその人を裁きます。
私が来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだからです。
私を拒み、私の言葉を受け入れない者には、その人を裁く者があります。
私が話した言葉、それが終わりの日に、その人を裁きます。
私は自分から話したのではなく、私を使わされた父御自身が言うべきこと、話すべきことを、私においのち令になったのだからです。
私は父のいのち令が、永遠のいのちであることを知っています。
ですから、私が話していることは、父が私に言われたとおりを、そのまま話しているのです。
以上です。
今日は、このところから、今も響くいのちの言葉と題して、見事語からお話しいたします。
皆さん、おはようございます。
早いもので、1月も終わりました。
日曜日から週が始まるんですけども、1日が日曜日という日です。
そういう区切りがいい日ですけども、そんな月の始めですけど、
今日は、リョハネの12章の終わりの部分、また、リョハネの前半の大きな終わりの部分のところから、見事語を取り上げて、一緒に考えます。
今日のところはですね、3つのことを話します。
少し難しいところで、1番目は、イエス様の言葉が裁く。
イエス様ではなくて、言葉が裁くということを考えていきます。
そして2番目は、これは大事なことの繰り返しとして、イエス様が父に使わされたということから、
ご自分の神性さを証しているところを取り上げます。
そして最後はですね、創造の始めにつながるいのちの言葉として、
この今の私たちとイエス様の言葉、そして引いては、世界の始まりのときの言葉が私たちに響いている。
そういう地位で言えば、私たちの日常や信仰生活と直接関わるようなことを取り上げていきたいと思います。
一番最初では、イエスの言葉が裁くとは、ということを見ていきましょう。
ちょっと長いんですが、12章47節を読んでいきましょうか。
誰か私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその人を裁きません。
私が来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだったんです。
少し前後しますが、今日の単元の説明を簡単にいたします。
イエス様は、今日のところで、群衆を招いているんです。
それは最後の救いへの招きの言葉なんですね。
と言いますのは、実はこの後から、ちょうど13章の始めからは、弟子たちへの直接の言葉です。
特別説教という言い方をしてますけどもね。
有名な、ヨハネの13章のところから17章は、
おそらく、いわゆるダ・ヴィンチが書いた最後の晩餐の場面で、
イエス様が弟子たちに告げられた言葉。
他の3つの文書にはないですね。
ヨハネ独特の非常に長い、イエス様の最後の特別説教。
それが後半ですけど、そこに至る前半の部分で、
群衆への最後の招きの言葉が、今日のところに当たるわけなんですね。
そして、繰り返しますが、群衆が直接イエス様から招きを聞く最後のチャンスとして、
今日の箇所の言葉が取り上げられているんですね。
その言葉でイエス様が、失礼しました。
こう言ってますね、48節。
私を拒み、私の言葉を受け得ない者には、その人を裁く者があります。
私が話した言葉、それが終わりの日にその人を裁くのです。
最後のチャンスのように、救いに招くと同時に、
裁きについて聞いている群衆にイエス様が語りかけているんですね。
繰り返しますが、イエス様は裁かなくて、
イエス様の言葉が裁くとあえて言われている。
イエスの神性の証明
それはどういうことかということを少し考える。
これですね、契約書、英語のコントラストですね。
皆さんね、スマホを買うときとかですね、
インターネットで何かを申し込むときに、
全部同意しました。パチッとやるじゃないですか。
契約書です。全部読んでます?
なかなか読んだつもりではありません。
実は、この契約書で私たちは何をしているか、
重要事項説明書を全部読んで、その上で契約書にサインをします。
実はですね、そのときに私たちは、
同意するという欄にサインした以上ですね、
その後、その契約に違反することをしたならば、
それ相応の罰と言いますかね、不利益を講じるわけです。
読んでなかった、知らなかったってどんなにクレームを上げてもですね、
契約書にサインした以上は、この契約書に書かれている文言、言葉によって、
罰を受けると言いますかね、違反に問われるわけです。
実はイエス様の言葉が裁くというのも、それに似ているんです。
実はイエス様の言葉が裁くというのはですね、
このイエス様はこれまでですね、語っているように、
人々を裁くためではなくて、人々が信じて救われるために、
救いのメッセージを語ってきたわけじゃないです。
それがですね、イエス様は言う、私が来たのは裁くためではなくて、救うためです。
もし裁くために来たのであれならば、裁きの言葉、罰を与えるための言葉を言いますが、
そうじゃなくて、信じて罪の罰を神から受けることがないような、
救いの言葉をイエス様は語ってきたわけです。
ですから、信じて救われることを意図して語ってきた言葉をですね、
ここで言う、それをここまでですからね、
繰り返しますが、イエス様が来た意図は、
世を裁くためではなくて、救うためだと47冊書いてあります。
そして同じようなことでですね、その前に書かれている、
私は世の光です。私を信じる者が、誰も闇の中に留まることのないようにするためです、
ということもある面ですね、信じた人が救われて、光の中を歩むという、
イエス様の意図が同じように示されています。
その上でですね、もう皆さん分かりにくくなったと思うんですけども、
この群衆がですね、それでも救いの言葉を拒んでのであれば、
その救いの言葉を拒んだ、その言葉自体が、拒んだ人に裁きをもたらす。
先週のことと通じるんですけど、
人が堅くなればなるほど、もっと不信仰になるというのが神の裁きだと言いましたけど、
やはり責任はですね、拒んだその人に問われているわけです。
彼ら、彼女らが裁かれるその根拠は、救いの言葉だということが、
今日のこのイエス様の言葉の意図なんです。
実はそのことをですね、旧約聖書の新明記の18章19節で語っているんです。
この箇所は、モーセに対して神様がですね、約束した言葉です。
どんな言葉というか、どんな約束かというと、
簡単に言うと、後々救い主を、あなたのような救い主を私は贈るという。
そして、その彼の言葉を聞きなさいという約束の後に、こういう警告が語られているわけですね。
新明記18章19節。
私のというのは神様がモーセに対して言った事実ですね。
私の名によって彼が告げる、私の言葉に聞き従わないものがあれば、
私はその人に責任を問う。
ここにもですね、彼というのは救い主です。
救い主の言葉は神の言葉です。
それを拒む人がいれば、この人が来てくる。
最初のイエス様の言葉が捌くというのが、そのような意図と、意識を持っています。
2番目。ここは簡単にいきますが、
父に使わされたという神性さ。
文書の44から45でイエスがおっしゃいました。
イエスは大きな声で言われた。
私を信じる者が私ではなく、私を使わされた方を信じるのです。
また、私を見る者が私を使わされた方を見るのです。
これは教科書です。
今、受験シーズンに選挙があるので騒いでいます。
教科書や参考書を勉強するときに、各単元の最後に大事なことがまとめられています。
この単元のまとめ。
実は、繰り返しますが、今日のこの44節から50節は、
ヨハネの福音書の大事なところのまとめ、エッセンスが詰まっています。
しかも、ここ。
イエスは大きな声でこう言われたというのは、原文で見ると一言。
イエスは叫んでいる。本当に叫んだ。
どうですか。一番最後に大事なことがまとめられて、しかもイエス様が叫んだということは、
どれほどこれが大事なことなのか。
10年ぐらい前なのですが、流行ったね。今でしょう。
ああいう予備校の先生が声を大にして、ここは重要ですというようにイエスが叫んでいる。
そういうことが伝わってくるわけですね。
重大さがわかるわけです。その重大さの理由の一つが先に挙げた、
最後の福音の招きということが一つ目です。
二番目が、それは、実はイエス様がただの人ではなくて、
父なる神様から使わされているんですよ、というイエス様の神性さが強調されているからです。
実はこの後、私の父と言って、私を使わせた方が父なる神だというのがわかるんですけれども、
あえてイエス様は使わされた方と2回言っている。
それほどイエス様が父なる神から使わされているということが大事なんですね。
イエス様の神性とは
実は神性という言葉は、日本語の音ではひらがな4文字ですけど、漢字で書くと少なくとも2つの意味がありますね。
誠で正しいと書いた神性という意味ですね。
もう一つは、神様の性質を宿すという意味で神性。これはぴったりの言葉なんですね。
イエス様は父から使わされたということで誠で正しいお方です。
そして父から使わされて父と共にいたということで、まさに神ご自身の性質を宿した人となったお方です。
ここで強調されているわけですね。
実は、このイエス様と父なる神様の親密な関係。
2人にして1人である神だということは、非常に大事なヨハネル福音書のテーマでした。
そして何度も言いますが、1章の1節から何節までですか?
いいですよ。開かなくて。18節まで。
1章の1節から18節がプロローグとして導入として語られています。
ちょっと皆さん家でもう一回じっくり読んでみてください。
実は今日見ている箇所は、そこの中のエッセンスがぎゅっと詰まったとこです。
いろんな1章の1節から18節の部分のつながりがいっぱいあるんですけども、
今日はあえて有名な2つのところだけ取り上げますね。
それは1章の1節から18節まで何度も読んでいることですけれども、
読んでみましょうか。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。この方ははじめに神とともにおられた。
これはロゴス、イエス様のことですね。
ここの部分のメッセージも文章とか音声で聞けますから、
振り返ってみてください。
ここでロゴスなるイエス様は神であられたということが強調されています。
今日見ませんが、14節も言葉が人となって私たちの間に住まわれたという
受肉の部分が語られていて、もう一つあえて取り上げたのが
1章18節のプロローグの締めくくりですね。
ここも読んでみましょうか。
いまだかつて神を見た者はいない。
父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。
母親が自分の子供を懐に抱いて、
可愛がるように、父親でもいいんでしょうけども、
まさに父の懐におられた独り子の御子イエス様ということで、
その親密なつながりということがここでも強調されているんですね。
ここの部分は、今日の箇所とプロローグとのつながり、
そこからイエス様の神性さ、正しく誠の方であり神であるということが
最後にもう一回文章に語られているということを覚えておきましょう。
言葉の重要性
その上でイエス様は自分の言葉の大切さということに、
重要さということに話を進めているわけです。
3番目は、想像の始めにつながるいのちの言葉を締めくくる。
今日の締めくくりですね、12章50節。
イエス様がこう言っておられます。
私は父のいのち令が、ここで使わされた方が父の神で、
ちゃんと控えられていますね。
私は父のいのち令が永遠のいのちであることを知っています。
ですから私が話していることは、
父が私に言われた通りをそのまま話しているんです。
だから救いの言葉であり、
その言葉によって信じない者は裁かれます。
興味深いことにですね、実は今日の箇所には、
人々がイエス様を信じて、
信なる神様を知るということが言い換えられているんですね。
その一番最初にですね、
私を信じる者は、私を使わせた方を信じる。
二番目は、私を見た者は、私を使わせた方を見るのです。
と言い換えられているじゃないですか。
実は最後、その信じる、見るから言葉に言い換えられているんです。
イエス様と父なる神様のつながりと言いますかね、一つになる。
これは覚えておいてください。
言葉ということに最後言い換えられているわけです。
ではなぜ、信じるから見るに、そして最後、言葉に言い換えられているのかということを最後考えていきたい。
それはですね、単刀直入に言うと、今の私たちのためなんです。
言葉に置き換えられている理由は。
実は皆さんも気づいておりますけど、
当時の人たちと違って、私たちはイエス様を見ることができませんよね。
当時の人だけではなくて、イエス様の昇天後は、後の時代の人々はイエス様の言葉を見ることができずに、
言葉を聞くことでしか信じることができなかったわけですね。
余談ですけど、今、ペーパーレスの時代なんて言って、神がいらないって言われてるでしょ。
でも、この聖書が枯れた時代、神って本当に貴重だったわけですよね。
ヨシヒとかパピルス。本当にお金持ちとか著名な人しか神は手に入らなかったんです。
当時の人はどうやってイエス様のメッセージと言いますかね、
聖書の言葉を聞いたかと言っちゃいましたけど、聞くんです。
もう1枚だけ手紙が回されたのを街道で読んで、それを聞いて、
イエス様のメッセージとかパウロの手紙を受け取るわけですね。
だから言葉って言うと当時の人は聞くでしょ。
でも今の私たちはもう神が当たり前ですよね。
神じゃなくてもっとペーパーレスですから、今はスマホとかの中に
言葉が書かれていたり、それから音が聞こえてくれる。
あの、知ってます?スマホのこと英語で何て言います?
何端末って言いますか?知ってるでしょ?
タブレット端末って言うじゃないですか。
タブレットって英語でタブレット順なんて知っていますか?
タブレットって何かわかります?
コミュニケーションと創造
え?板。聖書に出てくるでしょ?スマホが。
モーセが神様からもらった石の板のことを聖書でタブレット。
だからスマホとモーセの板がつながりがあるような。
もうそれ余談ですけどね。全くの余談です。
そういうところなんですけども、とにかく言葉。
手紙を考えたときに、皆さんテレビで戦国武将の手紙を判定するじゃないですか。
よく言うのは3人が人気なんです。
3人の戦国武将って誰ですか?有名な。今言ったでしょ。
信長、秀吉、家康。この3人の手紙は段違い考学査定が出るそうなんですね。
実際に秀吉が書いた手紙を見たり、それることができるわけじゃないですか。
私も京都の良禅博物館に行くと、本当に龍馬が書いた手紙ですね。
坂本龍馬が切った刀が龍馬に刺さったんですね。
この手紙を龍馬が書いたんだ。
何が言いたいかというと、その戦国武将が書いた手紙は、実際に彼らが筆を取って書いた紙だ。
実はその紙に秀吉なりが触った同じ紙を、私たちはもし手にしたら、同じ紙を手にすることになるんでしょう。
それはその戦国武将との紙を通して繋がるような不思議なあるいは異風を抱くような体験だなと改めて思います。
それを考えた時に、実はイエス様がこう言った言葉についても新しい洞察が出てくるんじゃないかと。
イエス様は今日のところこう言ってますね。
私は自分から話したのではなく、私を使わされた父御自身が言うべきこと、話すべきこと、私においのちじになったからですと言ってるんですね。
私たちが今読んで聞いているこの言葉、私たちが読んでいる聖書の言葉、それはイエス様の直接の言葉ですよね。
このイエス様の、戦国武将が触った手紙ではないですけども、このイエス様の言葉を私たちが聖書で読んでいるときに、
聖書を通して私たちはイエス様の言葉を直接聞くこともできるわけですし、実はこの言葉が想像の始めに繋がっていくわけなんですね。
何が言いたいかと言いますと、
皆さん、全世界が作られたときのことを覚えたでしょうか。創世記一章一節ね。
世界ができる前、全宇宙ができる前、あるいはできたとき、一番最初に響いた神様の言葉って何だと思いますか。
名前もそうですけど、光をあるでしょう。光をあるという言葉が世界が始まる、全宇宙が始まる、一番最初におそらく響いたであろうと私たちが考えられる言葉です。
言葉って考えたときに、言葉って何なのですか。
もし私が道を歩いていて、一人ごとでずっと歩いていたら、喋っていたらどう思います。大きい声で、一人で、危ないですよね。
言葉っていうのはコミュニケーションのツールじゃないですか。
ということは、相手があっての言葉なんです。
神様は世界が始まる前に光をあれっていう言葉とか、それは非常に良かったって言葉を発したってことは、
じゃあ、世界、光をあれっていうときには誰もいないじゃないですか。
誰とコミュニケーションしていたんですか。
それは、父なる神様とイエス様がそのときすでにコミュニケーションしていたと考えられないでしょうかね。
言葉がコミュニケーションツールであるならば、世界が始まる前、
あるいは始まるときすでに、道なる神様と御子イエス様がすでにコミュニケーションしていた。
実はそのことが、ヨハネの十二章十九節ですね。
私を伝えた父御自身が言うべきこと、話すべきことを私においのちじになったからです。
先ほども言いましたが、父の懐にいた独り子の神と、このようにイエス様は、
世界の始まる前から、永遠の前から、父なる神様とコミュニケーションして、
そしてその言葉を、実は私たちに伝えておられる。
そのように思い出るのではないかと、お分かりいただけますかね。
イエス様と父なる神の親しい関わり
実はそのイエス様の親しい交わりについてですね。
このようにイエス様は言います。
ヨハネの十七章の五節と二十四節。
父よ今、あなた御自身が見前で私の栄光を現して下さい。
世界が始まる前に、一緒に持っていたあの栄光を。
世界の元栄が据えられる前から、私を愛された故に、あなたが私に下さった栄光を。
ここからですね、まさに永遠の昔から、世界が始まる前から、
父なる神様とイエス様が愛というか、親しい関わりを持っていたというのを見てくれるわけですよね。
このようにですね、イエス様と父なる神様は、世界が始まる前からコミュニケーションを持っておられたわけです。
そして、その父から聞いた言葉をですね、イエス様はこの当時の人々に語り、
そして今、聖書として私たちに語ってくださっているわけなんですね。
私たちは実際にイエス様を見ることができませんし、イエス様の声を聞くことができません。
しかし、光をあれといった最初の神様の言葉をですね、
このイエス様の語られた言葉を通して、私たちに授かることができるわけです。
そして世界が始まったときに、このイエス様が言葉としてここにおられましたけれども、
この言葉なるロボスなるイエス様のことを、
ヨハネム福祉はこのように言っているわけですね。一章読みせて読んでみましょうか。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
またにですね、イエス様自身が神の言葉であると同時に、
いのちであり、そのとき世界を作ったいのちの言葉であり、
そしてそのイエス様、いのちの言葉が信じる私たちに永遠のいのちを与えています。
この繋がりが複雑すぎて言葉で説明するのが難しいんですけれども、
実はその道の言葉こそイエス様は永遠のいのちだとも言っておられるんですね。
ですから今私たちはイエス様を見ることができませんが、
聖書を通してこの永遠のいのちについて知ることができますし、
そしてその既に与えられている永遠のいのちをですね、
聖書の言葉、イエス様の言葉を通してこの地上にいながら知り養っていくことができるわけなんですね。
そのような意味も汲み取りながらですね、私たちはいのちの言葉をいただくという意味、
創造の始めから続いている言葉に触れるという意味合いを知りながらですね、
聖書を読んでイエス様の言葉にとどまり続けていく。
そして永遠のいのちの幸いを知り、それをまた伝えていくお互いであり教会でありたいと願います。
永遠のいのちの幸い
天の神様御名を賛美いたします。
イエス様が群衆への最後の言葉として救いの招きを告げてくださいました。
幸いなことに私たちはイエス様を救い主として信じていのちに預かっているこの幸いを感謝いたします。
どうぞ私たちがその与えられたいのちの幸いを、あなたの御言葉を通して書かれた聖書の言葉を通して
さらに深く知ることができるように教会を導いてください。
またどうかこの聖書の御言葉を通して私たちは教会を通して
永遠のいのちの幸いを知る方々が導かれますようにどうか私たちを用いてください。
お願いと感謝を私たちの救い主シュウイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。