2024-06-16 28:21

#再臨の真意 24/6/16

マルコ-37からの礼拝説教。2024年6月16日録音。今が世の終わりであると宣言し「全財産を捧げ仕事を始め日常生活から離れ組織のために献身せよ。」と説く宗教家や宗教組織はカルトであると断言できるでしょう。そのような偽キリストや偽預言者について、先週取り上げた箇所でイエス様は「惑わされたり信じたりしないように」と警告しています。
その続きである今日取り上げる箇所ではイエス様の再臨について教えられています。大事な教訓は次の言葉です「それは必ず起こるがいつだか分からない、それゆえ目を覚ましているように。」
この箇所についても「今がその時なのか」と単なる興味本位で不健全な詮索をしてはいけません。それを防ぎつつ希望のメッセージを読み取るために、1.旧約聖書の背景、2.希望のメッセージ、3.目を覚ましていなさい、の3つの点を取り上げます。

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00:06
マルコ3章24節から37節までを朗読します。
しかし、その日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、
星は天から落ち、天にある諸々の力は揺り動かされます。
その時、人々は、人の子が雲の内に偉大な力と栄光と共に来るのを見ます。
その時、人の子は、見つかりた地を使わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
一軸の木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏が近いことがわかります。
同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなた方は、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
誠にあなた方に言います。これらのことが全て起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
天地は消え去ります。しかし、私の言葉は決して消え去ることがありません。
ただし、その日その時がいつなのかは、誰も知りません。天の見つかりた地も子も知りません。
父だけが知っておられます。気をつけて目を覚ましていなさい。
その時がいつなのか、あなた方は知らないからです。それはちょうど、旅に出る人のようです。
家を離れる時、しもべたちそれぞれに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。
ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるのか、夕方なのか、夜中なのか、庭鳥の鳴くころなのか、明け方なのかわからないからです。
主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見ることがないようにしなさい。
私があなた方に言っている言葉、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。以上です。
今日はこのところから、サイリンの真意となりして言葉を送り続けます。
皆様、おはようございます。
先週の中頃から30度に迫る、今日は30度を超えるようですが、夏日になっています。
まだ梅雨に埼玉は入っていませんが、そのような暑い日が続いて少しお疲れが出ていることもあるかと思いますが、このようにまた共に礼拝ができることを感謝しています。
さて、今日は先週からの続きです。13章はイエス様の国別説教の部類に入る、十字架にかかる前の最後の弟子たちに語ったメッセージ。
03:10
そして、先週話しましたが、小牧志力、先週復習していただければと思いますが、牧志文学的な内容です。
そして、先週見たようにイエス様のこのメッセージが語られた頃から今に至るまで、先週のところにありますが、戦争や災害、また信者への迫害、それはいつの時代、どこにおいても起こってきている、そういうことなのです。
ですから、イエス様も言っていますが、今が世の終わりであると宣言して、例えば全財産を捧げて仕事を始め、日常生活から離れ、この組織のために献身しなさいと説く宗教家や宗教組織、それはカルトであると断言できるわけです。
ですから、皆さんはないと思いますが、そのようなメッセージを語る人がいれば偽物だとすぐに見抜くことができるわけであり、ついていってはいけないわけです。
そして、そのような偽予言者や偽キリストについてイエス様も先週のところで、惑わされないように、当然信じないようにと警告しているわけです。
今日の箇所では、それらの出来事として、その後の出来事として、いわゆるイエス様の再臨、再びイエス様が帰って来られるという約束が語られています。
一番最初に皆さんに知っていただきたいのですが、大事な教訓は次のイエス様の言葉を求めてみたのですが、イエス様の再臨は必ず起こるが、いつだか分からない。
それに目を覚ましているようにというのが、今日のメッセージのエッセンス、イエス様の御言葉のエッセンスなんですね。
そのことをまず覚えておいてください。
そしてその上で、先週の箇所と同じように、今日取り上げる箇所でも、今がその時なのかと単なる興味本位で詮索して、不健全な詮索を興味本位にしてはいけないということをまた覚えておきましょう。
そしてそのことを防いで、また騙されないために、まずこのイエス様の言葉の中にある旧約聖書の背景というものを取り上げます。
その上で、この希望について、そして目を覚ますということについて、この3つの点から考えていきます。
まず一番最初、今までよく見てきましたが、いろんなところで見てきたように、旧約聖書の背景を13章の24から27について見ていきましょう。
06:05
特にですね、この言葉、抜粋しましたが、24、26、イエス様の言葉。
しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなります。
星は天から落ち、天にある諸々の力は揺り動かされます。
その時、人々は人の子が雲の内に偉大な力と栄光と共に来るのを見ます。
皆さん思い出してほしいのは、この人の子というのは誰を指すか。
それはイエス様がご自分のことを指して使う言葉でした。
この24から26節の言葉は、先生書ならない言葉ですね。
よく私、昭和の世代ですから、この子を聞くとですね、カイバンドというのが昔ありましてね。
ヒーローという歌のサビを思い出すんですけれども。
このようなまさに天変地異がここで書かれている。
しかしこれは先生書ならない内容なんですけれども、
どの学者の解説を読んでも、ほとんどが旧約聖書からの引用であるということが常識なので、
そのことを私たちはまず知る必要があるんですね。特にクリスチャンであるとか。
その意味は何か。なぜ旧約聖書からこんなに引用されているのかということの意味をこれからも見て知っていただきたいんですけれども。
なぜなら、ここにも出ていますが、イエス様はこの引用によって、
ご自分が旧約聖書の時代から約束されている、来られべき神の子で救い主であるということを明らかに知っているんです。
今まで語りましたが旧約の背景をもってイエス様はご自分の立場、存在、救い主であるということをこの箇所でも明言している。
そういう意味があるんですね。
皆さん、先ほどから言っているこの人の子という言葉を覚えていますか。
それまで以前はどんな意味で使われていたでしょうか。人の子。神の子だわしではありません。人の子。
それはですね、以前はイエス様は今この地に来られた受難のメシアとして使っていました。
人の子は多くの人に下げすまれという発祥などから3回繰り返されていました。
しかし注目すべきはこの箇所では人の子が将来に再び来られる勝利のメシアだということを指してイエス様は人の子と使っているわけです。
そのことをですね、旧約聖書の言葉と合わせて見ていきましょう。
たくさんの旧約聖書の言葉がここに込められているので、もちろん全部は紹介できませんが、代表的な2つのところを見ていきます。
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まず最初は旧約聖書の預言書のヨエル書の2章の31、32、3章15節からの発推です。
ちょっと難しいかもしれませんが、この前の箇所長くなるかもしれません。読んでみましょうか。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし主の皆を呼び求める者は皆救われる。太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う。
まさにこの天体の様相がここに記されているわけですね。
後でゆっくり見てほしいのですが、太陽が暗くなること、月が光を放たなくなる、星が天から落ちる、天体が揺るごわされるということが、例えばヨエル書に書いてあるわけです。
そしてもう一つ、この人の子に関わる言葉なんですけれども、ダニエル書の7章の13、14節に書かれているんですね。旧約聖書の。
私が読むので、ここから読んでくださいというところだけ読んでください。
最初に読みましょうか。
私がまた夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は年を経た方の下に進み、その前に導かれた。
この方、人の子に主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちは皆、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
この人の子が天の雲とともに来られて、後半部分を要約しますと、その人の子に、いわゆる王権が与えられた。その国は滅びないという、まさにメシア予言ですよね。
ちなみに年を減った方というのは、父なる神ということの遠距離的な表現です。
このように繰り返し、イエス様のセンセーショナルな言葉、天変地異と人の子の来臨というセンセーショナルな言葉、これはいつなのかということを詮索するよりも、
まず私たちクリスチャーが知るべきは、これは旧約聖書からの引用で、イエス様がこの言葉を引用することによって、自分が旧約聖書から約束されている、再臨の勝利のメシアだということを指している。
しかもこれは十字架にかかる前にこのことを言っているということに意味があるわけなんですね。
12:02
ここで言われている天変地異が起こる、それが起こるんだろうなというのは自然の読み方だと思います。
しかし繰り返しますけれども、大事なメッセージは、イエス様は旧約聖書が約束している大なる救い主であるということを再臨の約束を通して言っておられる。
さらにその旧約聖書の言葉をとって、そのイエス様は私たちを救うために雲に乗って再びこの世界に来られるということが、このイエス様の御言葉に込められている。
そのことをまず、キリスト社である私たちはしっかり掴んでおくということが大事だと思っておいてください。
2番目、希望のメッセージを見ていきましょう。
じゃあここちょっとまた繰り返しになりますが、今日の13の27を読んでみましょうか。
その時、人の子は見つかりたちを使わし、地の果てから天の果てまで選ばれた者たちを四方から集めます。
実はこの御言葉、このイエス様の言葉も旧約聖書からの引用なんですね。
皆さんよく分かっていると思いますけれども、旧約聖書の時代、イスラエルという国がどうなったでしょうか。
ソロモンナと南北に分裂しましたね。
そして罪のゆえにですね、2つの帝国、アシリアとバビロン帝国によって占領されて、それぞれ保守の民となって、国が文字通り滅びてしまったわけです。
一部の人たちを残して、イスラエルの国に住んでいた人は、世界に散らされていってしまったわけですね。
地図を見ていますけれども、ちょっと薄いですが、日本があって、これがユーラシア大陸ですね。
ちょっと小さくなっちゃいますが、ここがイスラエルで、バビロニア帝国というのはここなんです。
ちょっと拡大しますが、日本がここで、バビロニア帝国とエルサレムの関係はこの辺なんです。
拡大するとこうなりますね。
ここがエルサレムから、アシリアという国にまずイスラエルが保守になって、その後バビロン保守というのがですね、南ユダ。
ユダ王国がバビロン保守にあって、こうやって離散しちゃうわけですね。
エゼキエル諸国なんか書いてあるエゼキエルなんかは、この地からイスラエルの更なる滅亡を予言した。
ちょっと余談ですけど、何回かに分けて捕虜になっているんですね。
最後、687年から滅びるんですけども、1回目の保守の時にエゼキエルはこの地に連れて行かれて、ということが起こったわけです。
15:01
最後に本当にエルサレムの、先週のESNのところにもありましたが、まさにこの時にもエルサレム神殿が壊されちゃうわけですけどもね。
それは一応バックグラウンドとして知っておいてください。
なぜこれを言ったかというとですね、実はもうちょっと詳しく言いますけども、本当に屈辱で、傍聴の念に民はですね、狩られたわけです。
例えば、詩編の137編の1節3節にこういうことが歌われているんですね。
バビロン保守にあった人が、バビロンの川のほとりに、そこに私たちは座り、シオン、いわゆるイスラエルを思い出して泣いた。
それは私たちを捉えてきた者たちが、そこで私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、余興にシオンの歌を一つ歌えと言ったからだ。
何がこの傍聴の念と哀愁が漂っているかと言いますと、この捕虜になった人たちは遠くですね、この図にあるように、このバビロンの地に連れ去られた。
そしてそこでですね、自分たちを捕虜にした人たちが宴会を開いてですね、川のほとりで、そしてお前たちの国の歌を歌えと、余興で。
しかもどんな歌を歌ってほしいか、歌えと言ったかというと、この壊されたエルサレム神殿で神に捧げるべきこの歌を余興として歌えと。
言葉悪いかもしれませんが、異教徒の侵略者がですね、そうやって彼らを歌わせて、二重三重の苦しみ合わせたわけです。
この後で時間があるので読んでもらえばいいんですけど、137の1からずっと読むと、その彼らの傍聴の念、悲哀が語られているわけですね。
そういうですね、彼らの補修と離散の浮き目にあったこの嘆きの歌がありますけれども、しかしそんな中でですね、
預言者はこういう約束を神様から受け取ったんですね。読めるかと読んでみましょうか。
3.見よ。私はかつて、私が怒りと憤りと激怒を持って、彼らを散らした全ての国々から、彼らを集めて、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。
補修の中にあるためにエレミアという預言者を通して神様は、彼らを集めて、このイスラエルに帰らせるよという約束を与えてくださったわけです。
そしてですね、今詳しく言いませんけれども、この約束が彼らの拠り所になっていましたが、
マビノ補修が始まった紀元前586年からちょうど70年目にですね、イスラエルの民は自分の国に帰ることができたわけです。
そして神殿を再建しました。そのことが旧約聖書のエズラキとかネヘミヤキに書いてあります。
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このようにですね、補修の民として浮き目にあっていた彼ら、この傍聴の年に駆られていた彼らにとって、もう一回集められて、故郷に帰れるというのは慰めであり希望だったんですね。
実はこのマルコのイエス様の言葉、イエス様が帰ってくるときに、
人の子をイエス様は見つかりたちを使わし、地の果てから天の果てまで選ばれた者たちを司法から集めますと言っているのは、そのことが重ね合わせられているんです。
かつての選びの民、イスラエルのように今の選びの民、このキリスト社たちを神様は、イエス様は世界中から集めて、神の御国に入れるという、そういうことがこの約束に示唆されているわけなんです。
まさにですね、補修と離散の浮き目にあっていたかつてのイスラエルの民だけではなくて、このローマの支配下にあった、このイエス様の時代の、当時のイスラエル民族もそうでしたし、これからイエス様の後もですね、
使徒の働きの中でも、迫害の中にある神の民、クリスチャン、そういう方々のことを覚えて、イエス様はこの希望のメッセージを語られたわけなんですね。
そして、私たち皆さんは、このイスラエルや当時のクリスチャンのような、補修やあるいは迫害という浮き目にはあっていないかもしれない。
でも、日常生活の中で様々な試練に直面してですね、天の故郷を思うことがあるかもしれないんですね。
その時に、このイエス様の希望のことは思い出していただきたい。
と同時に、パウロもその思いを別の言葉で表現していますね。
フィリピンの三章二十節、これちょっと難しいかもわかりませんが、読める方は読んでみましょうか。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
そういう傍聴の念に関して、そして最新のキリストの希望についてパウロも語っています。
そしてイエス様はその約束の確かさを今日見た箇所で、こう宣言しているんですね。
マルコ五十三の三十一、また読んでもらっちゃいますが、読んでみましょうか。
天地は消え去ります。しかし私の言葉は決して消え去ることがありません。
これもまさに希望の言葉です。
再臨の約束が私たちの希望であり、またイエス様の御言葉、神の言葉は決して消え去らない約束を実現するというのが希望であるわけですね。
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最後、三番目がちょっと印刷できていなかったんですけれども、目を覚ましていなさいという言葉です。
そこの大事なセイクはですね、皆さんのレジ目の3の下に書いてありますね。
見る箇所、三十二節と三十三節。
ただしその日イエス様の再臨、その時がいつなのかは誰も知りません。
いつなのかは誰も知りません。天の御使い達もかもしれません。父だけが知っておられます。
気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか。あなた方は知らないからです。
ここはですね、イエス様が旅立った主人の帰りを待ち望む下辺と門番のたとえによってですね、目を覚ましていなさいと教えているわけです。
ちなみにですね、ここの三十五節のですね、主人が帰ってくる時間が夕方、夜中、鶏の鳴く頃、明け方というのは当時のローマの万兵衛のですね、見張る時間が使われているわけですね。予備知識ですけど。
とにかくここでイエス様がこの最後の部分で繰り返している大事な真理、それはこれなんですね。イエス様は必ず再び天から現れるのです。しかしそれがいつなのかわからない。必ず起こるがいつかわからないということが一つ。
もう一つは、いつかわからないから今だという偽キリストや偽予言者に騙されないようにしなさい。しかし必ず来るので目を覚ましているようにというのが繰り返されている大事な真理です。ちなみにこの短い箇所に目を覚ましているという言葉が5回ほどですね、繰り返されているわけなんですね。
さらにこれらの言葉から2つの警告が示唆されています。それは2つの極端な間違いです。すぐに世が終わるから日常生活をおろそかにすることをイエス様は今示している。
冒頭に言いましたがカルトの偽教師たちがですね、もう世界が終わるから全財産を捧げて日常生活を捨てて献身しなさい。組織の言いなりになりなさいという上等集団と関係しているかもしれません。
そして2番目の極端な間違いは逆にですね、いつかわからないからまあいいやイエス様に従う道をおろそかにするという、そういう逆の過ちをイエス様がここで警告していると読めていることができるんですね。
24:11
皆さん高校時代とか運動部入ってやったことあります?私高校時代ですね卓球部だったんです。昭和の時代でですね、市内持った先生は普通なんですね。
それで言いますけど、言えないので録音しても言えないんですけど、普通に。そういう先生が怖くて、しかも練習をですね、夜8時ぐらいまでやってるんですよね。毎日やってます。
卓球場ってこれぐらいの狭い部屋で学校から離れたところでやってるんですけど、何をするかというとですね、下級生はですね、見張りをするんです。真っ暗にしてですね、こうやってですね、見張りをして100mぐらい先からですね、顧問の先生が来るのがわかるんですね。
それまで先輩は何をしているかというと、あっちぃーなーってジュース飲んだりしてるんですよ。それで先生が来ましたと言うとですね、恥の質をつつくような大騒ぎになってですね、卓球のボールを散らかして卓球の練習をしたようにして、水をですね、ここから塗ってですね、こうやって、よっしゃーとか言って練習を始めて、はぁはぁ言ってたってことをですね、やってたりしてサボってました。
これちょっと話題として言ったんですけども、皆さんないと思いますけども、このようなですね、クリスチャンである私たちは、イエス様がいつ帰ってきてもですね、イエス様に従っている。夜中でも目を覚ましている、門番のように、いつイエス様と会うことになっても、神様と人に日常生活の中で仕えている。
そういう在り方がですね、目を覚ましているという、そういうイエス様の教えでもあるわけです。繰り返しますが、騙されないっていうのも目を覚ます。今が世の終わりだから、私に従えという二世教師たちに騙されないということでも一つですけども、そういうイエス様がいつ帰ってくるかわからないから、目を覚まして生きるっていうこともあるわけです。
最後はお話になっちゃいましたけどもね。そんな中でイエス様の再臨のメッセージの意図するところは、人を怖がらせたりですね、そしてそれが今だといって、生活を投げ捨てたり、そういうことではなくて、繰り返しますが、騙されないように目を覚まして、いつ帰ってきてもいいように、そして帰ってきた時に希望があるから、この日々の生活を神と人に伝えていきましょう。
そういう死の弟子として、今を生きましょうという励ましと慰めのメッセージであるということを覚えていただきたいと思うわけです。最後に今日の話の締めくりのイエス様の言葉を読んで終わりにしたいと思います。
27:07
ちょっと長いんですけど読んでみましょう。
主人が突然帰ってきて、あなた方が眠っているのを見ることがないようにしなさい。私があなた方に言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。
お祈りしましょう。
私たちの救い主ならイエス様、皆を賛美いたします。あなたは十字架の上で私たちの罪をあがなうために悲惨な死を遂げられました。しかしやがて勝利の救い主として私たちを迎えにやってきてくださることを今日も教えてくださりありがとうございます。
それまでの日々、それがいつかわかりません。また様々な試練や疑いに襲われるかもしれませんが、どうぞあなたとあなたの御言葉に希望を持って、日々あなたのしもべとして神と人に仕えることができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほどイエス様に答えて黙祷する時間をとりましょう。
28:21

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