1. 名谷教会
  2. 2018/10/14:ヨハネの福音書講..
2018-10-14 57:50

2018/10/14:ヨハネの福音書講解説教(44)イエスにとどまる歩み方

2018/10/14 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 15:1-4
00:02
おはようございます。
すぐの前に、福音をちょっと挨拶しましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。一言、一言を祈りはします。
私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。
神様感謝します。私たちを世の元におかれる前から、定めてくださって、
神のときに、私たち一人一人をそれぞれのところから招いてくださって、召してくださって、
神の救いの御手を、その差し伸ばされた主の救いの御手を握り詰めて、応答できて救われたこと、
すべては神様の恵みによるものです。その恵みによって、私たちは日々生かされております。
このように礼拝ができるこの恵みも、主が信仰を与えてくださった恵み、
また、私たちの生活や、あるいはこの世界、国が守られて、信仰の自由が与えられていること、すべて本当に神の恵みです。
しかし今、世界を見渡してみる限り、多くの国々では信仰の自由がなくて、礼拝したくてもできない状況にいる多くの人々が世界中にいます。
どうかし私たちが自分中心の見方、あるいは生き方を乗り越えて、世界を見渡す神中心の神の心をもって、自分自身を見、この世界を見、また世界を見ることができる主よ、
神の目を、その礼の目を私たちにお与えくださいますようにお願いいたします。
限られて我々の人生を何とかして、神と神の国のために、この福音宣教のために主を奉仕させていただく、願っているこの群れ一人一人を覚えてくださって、
主が用いてくださり、祝してくださりますようにお願いいたします。
03:05
主よ、今から神の御言葉に、神の御声に耳を傾けます。
どうか自分自身を捨てて、ただ神様中心に神の声だけを主を聞き入れる、聞き従う時としてくださいますように。
私の霊を清めて、清めて、精霊で満たして、油注いでくださいますようにお願いいたします。
御手に委ねます神様どうぞ、神様御自身がお語りくださいますように。
悟る心を与えてくださいますように。
神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
イファネノフ勲章のメッセージが続いております。
もう44回目、今日は15章に入りました。
タイトルは、イエスにとどまる歩み方。
イエスにとどまる歩み方でございます。
まだイエス様が弟子たちと過ごしの日、そのいわゆる最後の晩餐のあの時の話がまだ続いているんですね。
ヨハネは前も申し上げましたように、ヨハネはその時のイエス様のお話、教えというか講話をとても詳しく全部化のように記しているんですね。
その流れの中で十字架を前にしている中で、この私は誠の武道の木であり、私の父は農夫ですというこのたとえによるお話が、教えが語られたというこの全体の流れを皆さんチャッチしていただいて、その踏まえての今日の見言葉をまず見ていきたいと思います。
まず神様はイスラエル人に一番親しみのある武道の木としてたとえを話されました。
もしイエス様が日本でお生まれになったら、私は誠の何々木とおっしゃったんですかね。日本人に一番親しみのある木は、実がある木は何がありますか。何ですか。柿。
桜は親しみがあるんだけど実がない。あるはあるんですけどね。小さいけどね。いずれにしても、このお花を先に見ているデッドではすごくリアルに親しみがあってわかりやすいわけなんです。
なるほど。で、農夫が何をするのか。何をするか。この枝から武道というその穂下がどういうふうに結ばれるかをよく知っているわけなんですね。
06:10
そこでまずイエス様が第一世として語られた言葉が二節なんです。二節もう一度一緒に読みたいと思います。
二節三。私の枝で実を結ばない者は皆、父がそれを取り除き、実を結ぶ者は皆、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。
実はこのね、大体私たちは一節から四節に飛びますね、大体。
で、この二節をまずイエス様が語られたことを見るならば、実はちょっとショックなんですね。
私の枝なんですよ。別の枝ではない。私の枝だから武道の木につながっている枝なんですね。
ところがその枝なんだけれども、実を結ばない枝もあるということですね。
その枝は皆、父が、つまり納婦がそれを取り除かれるということなんです。
そして実を結ばない者は、そのね、実を結ばない枝ですね。
あ、失礼しました。実を結ぶ者は、で、実を結ぶ枝がある。実を結ばない枝がある。
どっちも武道の木であるイエス様につながっている枝でもある。
ところがその実を結ばない枝は取り除いて、実を結ぶ者がもっと多く実を結ぶために刈り込みをなさるという話。
まずこの話は相手を二つ部類にして語られた見言葉であるかと思います。
一つの部類は、いわゆるパリサイ人あるいはリッポ学者のように、
自分たちは神のものなんだ、あるいはアブラムの子孫なんだ、選ばれた先民なんだという特許儀式をもって宗教儀式は行っているんですけれども、
彼らには誠の信仰という身がない、あるいは愛を行う身がない、あるいは善を行う身がないということですね。
09:13
イエス様がよく、皆さんよく知られている先週の日曜日のメッセージでもありましたけれども、
よくサマリア人の豊かな皆さんご存知でしょう。
ある人は強盗に犯されて死にかけていた、半殺しにされていた。
そこにまず妻子が通る。
でも通り過ぎてしまう。
何も処置もされてもしない。
その後はレビュー人がまた通り、また彼も知らんぼでして行ってしまった。
ところが選ばれていない犬どもみたいに扱いされている、何の関係もない違法人という、
よくサマリア人が見て、彼を自分の家宿に乗せて、宿屋に連れて行って、自分のお金を払って、
もしもうなれなかったら帰りにまたその向こうにも支払いますね。
この人を何とか手当てして、治療してくださいとお願いした。
ということと、実はこの2説がつながっているメッセージではないでしょうか。
では私たちが立候補者でもない、初期官でもない、ユダヤ人でもない、
私たちにこれはどういうふうに捉えて、当てはめていくべきなんでしょうか。
というのは今日のメッセージのタイトルにありますように、
イエスに留まる歩み方というのは、私たちが神様を正しく知って、
そしてその神様を正しく信じて、誠の信者となるということである。
そして信じる信仰による身を結ぶということである。
ただ、どこかの塾にあるいは文化センターに行くように、
通いの信者ではなく、主と自分が一つとなり、
信仰の身を結び、愛の身を結ぶ、善の身を結ぶ、祈りの身を結ぶ、
あるいは伝道宣言の身を結ぶ、様々な身を結ぶものとなる歩み方ではないでしょうか。
そのことを私にイエス様はこの二節において、
ある意味で自分自身を気をつけて警戒しなさいと語っておられるのではないでしょうか。
12:04
何を警戒すべきでしょうか。
ただの宗教的な信仰の持ち方、歩み方を注意してください。
そして神を信じ、イエスを信じ、そしてイエスの枝であるならば身を結ぶはずですから、
身を豊かに結んでほしいというメッセージであります。
それからその後にイエス様は三節。
あなた方は私があなた方に話した言葉によっても清いのです。
イエス様がそのイエス様のお話を聞いているそこにいる弟子たち、
彼らにあなた方は私が語った言葉によっても清いのですと、
彼らを清いものとみなされます。
私に対するイエス様の目も心も同じではないでしょうか。
私への言葉をあなた方も清いのですとみなしてください。
それは信仰によって義人、つまり正しい人とみなされることと同じなんですね。
神様は私たちに対するに怒り、あるいは憎しみ、あるいはダメだなというね、
そういった気持ちをずっと抱えておられる方ではない。
イエス様がすべて十字架の師によって許してくださいましたから、
神様は私たちをみなれるときに清いものとして、義人として、正しい人としてみなしてくださる。
その恵みに私たちは応答してさらに御言葉に従っていくこと、
それがイエスにとどまる歩み方ではないでしょうか。
そしてそのあと四節、イエス様が語られました。四節一緒に読みたいと思います。
四節三、私にとどまりなさい。
木につぬいていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなた方も私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
よく愛されて安所される数ですけれども、
ここにイエス様は私たちに二つのメッセージを語っておられる。
15:03
一つはとどまる、イエスにとどまるということ。
それからもう一つは実を結ぶ。
この二つをイエス様は同じ重みを持って語っておられる。
皆さん、私たちが人と話し合うときもそういうことがあったりするんですけれども、
自分が聞きたいことだけ聞いて、そして聞きたくないことは聞き漏らし、聞き流してしまうことがあったりしませんか、皆さん。
たまに判断から注意される、いないんですけどね、注意される。
あなたは私が言ったことの中で一部しか覚えていなくて、他は全部捨てているみたいに聞き流しているんですかと聞かれることがありますけど、皆さんいかがでしょうか。
ところが大事なのは、神様のメッセージを、神の声を、あるいは聖書を読むときに、
私たちはたまにかもしれませんが、自分が読みたい見言葉だけ、あるいは取りたい見言葉だけ、
あるいは自分に気に入る見言葉だけ、あるいは自分に今欲しい見言葉だけを聞き取ってしまいがちじゃないでしょう。
ところがですね、そうなることが重なって重なって重なってずっとそのままいくとですね、実は神の声を聞くことができなくなってしまうんです。
そしてもう自分が聞きたいメッセージだけ聞いてしまう。そして他は受け取らなくなってしまう。
食べ物もですね、お肉ばかり食べたら高血圧にかかって病気に高コレストレートにかかっていくようなことと同じく、
見言葉もそのまま、それが厳しい見言葉であろうが、なごしゃみの見言葉であろうが、
自分にどうしてもなかなかできない言葉であろうが、すぐに実践できる言葉であろうが、その見言葉全部をそのまま受け入れる。
その訓練も実は私たちはしなければならないと思います。
そのためには自己中心的な考え方を捨てて、神中心のこの思考訓練をさらにやっていくことであります。
私にとってはですね、私もこのようにメッセージを語らせていただくものとして偏らないために、
18:05
もうできるだけ見言葉を正しく、まず自分自身が理解して消化してお使いできるために、
いろんな本を読んだり、あるいは今ネットでいくらでもメッセージを聞けますし、
私もまた韓国の多くの教会はホームページに私のメッセージを流していますから、
いろんな教団、教派の若手の先生方、昔素晴らしくて目立たれた方のメッセージも流されていますから、
そういうメッセージを聞きながら、自分自身を真っ直ぐ立っていけるように心がけているんですね。
ですから四説の見言葉は、私たちはとどまることと同時に身を結ぶこと、二つをイエス様が強調して語っておられる。
そしてそれはつながっている一つである。
イエス様にとどまっているものは身を結ぶんですよ、ということです。
逆にとどまっていないならば身を結べませんよ、ということです。
それを裏返して言い換えているならば、身を結んでいるブドウの枝がある。
そしたらそれはブドウの木につながっているでしょうね。
ですから信者のあるいは教会の様子を見て身を結んでいる。
そしたらイエスにつながっていてイエスのうちにとどまっているということになります。
でも身を結んでいない。そしたら何かが間違っていることです。
だからイエス様はまず私にとどまりなさいとおっしゃられました。
そしたら私もあなた方の中にとどまりますよ。あなたの中に住みますよ。
ずっとずっと住みますよ、ということですね。
そしてその人は自然につながっているから身を結ぶようになりますよ、という話であります。
皆さん覚えていたようになります。
イエスの中にとどまることと、そのイエスの中にとどまる生き方と身を結ぶ生き方は一緒です。
イエス様にとどまっている生き方をしているならば、当然何かの大きな身であろうが、何かの身を結んでいるはずなんですよ。
21:12
皆さんいかがでしょうか。
今までの私も含めて我々の信仰の歩みが何年あるいは何十年になっていらっしゃるかと思いますけれども、
我々の歩みを通して神に喜ばれる身を結んでこられたのでしょうか。
多くの身を結んで、そして多くの人々が私たちのところに来て、その身を食べて、その人々も喜んでいる歩み方をしてこられたのでしょうか。
そういう風な歩み方でありたいですね。
だからといって立派な人間になりなさいという話ではないですよ。
失敗だらけであっても、崖だらけであっても、主は我々を成長させてくださる。
そしてイエス様の満ち満ちた身丈まで私たちを達するようにと主が導いて成長して養ってくださると一括で説明したいと思います。
エペソビトへの手紙3章、17節から19節です。
エペソビトへの手紙3章、17節から19節、376ページです。
それでは17と18は私が読みますので、19はみんなで一緒に読みたいと思います。
エペソビトへの手紙3章、17節。
こうしてチリストがあなた方の信仰によってあなた方の心の内に住んでいてくださいますように、
24:03
また愛に目指し愛に基礎を置いているあなた方が、すべての生徒とともにその広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知を遥かに超えたチリストの愛を知ることができますように、こうして神御自身の導きした様にまであなた方が満たされますように。
最初の17節にパウルはエペソ教会の神徒の皆さんが、
イエス・チリストがあなた方の信仰によってあなた方の心の内に住んでいてくださいますようにと祈っているんですね。
エペソ教会の神徒のために祈っている。
そして愛に目指して愛に基礎を置いているあなた方が、すべての生徒とともにそのチリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになりますようにとまず祈っている。
皆さん、イエスに留まる歩み方はまさにこれではないでしょうか。
皆さん、私たちはイエス様の愛の広さ、長さ、高さ、深さをさらに今までよりさらに広く、長く、高く、深く味わいたい。
それが理解できる力を持ちたいです。
そして19節。人知を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように。
キリストの愛を知ってほしい。それは人知を遥かに超えたものですよ。
そして最後にですね、こうしてね、キリストが住んでいてくださってその愛を理解する力を持つようになって、キリストの愛を知ることができますようになって、
こうしてどうなりますか。神ご自身の満ち満ちた様にまであなた方が満たされますようにと。
皆さん、これこそキリストのうちに留まる歩み方だ。ただいるだけではないですよ、皆さん。
満ち満ちた様まで満たされるということであります。
言わないように復習に戻りましょう。
今日はその中で身を結ぶ生き方、歩み方、聖書から福音書だけでもたくさんの数をお話しできるかと思いますけれども、
27:11
その中の一つだけお話ししたいと思います。
それは、実は私はこの課題というか問題に引っかかってしまいやすい、あるいは解決しやすい時もあり、
なかなか解決できずにそのまま何とかごまかしていく時もある。
この問題を解決するならば本当にそこに天国が望まれる、喜びと平安が望まれますが、
これを解決できないとその心も霊も地獄のようになることです。
それは許しです。許し。
今日は身を結ぶこと、イエスに留まる歩み方のその中の実践として一つ、許しについてお話ししたいと思います。
なぜなら、キリストの従事家は許しそのものなんです。
許されない私たちが、何の値もない私たちが、ただ神の恵みによってすべて許されたんですね。
それが従事家なんです。それがキリストの愛なんです。
ですから聖書の至る所でイエス様だけではなく、弟子たちもヒトパウロも許すことを私たちに命じているんじゃないでしょうか。
皆さん、私たちがなぜ人のミスしたこと、あるいはちょっと嫌なこと、あるいは自分に本当に何かの実際に被害があったことを、
私たちは神を、この従事家を、キリストの罪許しのあの恵みに預かっているものとして、なぜ私たちは許さなければならない。
まず一つは、自分自身が生きるためなんです。自分の霊と魂と身体が生きるためなんです。
許さない気持ちをずっと抱えていたことがありますか、皆さん。ないでしょうか。
そういった許さない、許せない気持ち、それが憎しみになり、恨みになり、意気通りになる。
30:10
それを実際に被害を受けたとしても、それをずっと抱えているならば、いつの間にかその許さない気持ち、憎しみ、恨みによって自分で自分自身を害本することになります。
そしてそれがさらには神様との関係をダメにしてしまうことになります。
私は若いときに一つの経験をしたことがあります。大学三年生のときに日本語が専門でしたから、秋の学祭で日本語の劇をするんですね。演劇をする。
で、そのときに私がなぜかその劇の演出を回って回って私にやってきました。
あのときのタイトルをいまだに覚えてますけど、天国のイストリーみたいなタイトル。
内容は全然事実と共同は関係のないものでしたけれども、そのメンバーたちが15人くらいいたんでしょうかね。
彼らは最初はうまくいったんですけれども、行けば行くほど、もう彼らが私1対15みたいに集団的にいじめられていて、指導しても受けようとしない。
もう嫌われている。本当にその演出がとてもしんどかったんですね。
それで、そこに私が悪いことをしているわけではありませんが、それで少し嫌だなと気持ちがどんどんどんどん大きくなって、
もう大嫌い、そしてもう憎しみにも燃えて燃えて、恨みに燃えてですね。
それで、その前から若いときに陰炎を持っていましたけれども、その陰炎がもっとひどくなってですね、もうなかなか食事もまともにできない。
何よりですね、その体もどんどんダメになっていることだけではなく、そのとき教会で青年会の30人ぐらいの青年会の会長もやっておりまして、
高校生部の聖火祭の式もやっていて、賛美チームのリーダーも来ていて、教師もやっておりまして、いろんな法師も来ておりましたけれども、
その熱心もどんどんどんどん冷たくなって、そして教会、礼拝には行っていましたけれども、青年会の会長なのに3ヶ月、青年会に行かなかったときもありまして、
33:01
そのときに不思議なことが起こりました。
あのときの、顧問をしていた教授、同じ学科の教授の先生、若手の先生でしたけれども、あのときその先生がスリーチャーだったのか、それはわかりませんが、
あのときにまるで私の心をもう寝通しているかのように、教授がある日、練習している休憩の時間に、私にこういうふうに言いましたね。
あなたは自分の平和のために憎しみをずっと持ってはあかんですよ、と一言言われた。
もうその先生に相談したこともないんですよ。実はもうひどいですね。相談したこともないのに、もう見透かされているかのようにですね。
ところがそのお声が、神様からのお声のように私には聞こえたんですね。
それで振り返って、その日ですね、ソウルから家に帰る電車の中で、自分自身のことを振り返ってみるならば、
本当に自分の心に抱いていたあの許さない気持ち、もう怒り、あるいは恨み、憎しみで、自分の魂が、霊が、もう荒れてしまっていることが、
すごくズタズタにされているような自分自身が見えてきた。
そして帰りの電車の中でですね、祈りながら帰ったことがある。
そしてその後、自分も神の前に喰えられたわけですね。
そして彼らを、何と言いますかね、抱くことができる、受け入れることができるようになって、
不思議にそこから私の心が変わってから、無事にですね、楽祭で演劇を二回やって、
二回目が終わった夜ですね、最後の者たちが来て挨拶をするんですね。
それで私が最後の自分の挨拶のときに、私はパンチャイとしたことがあります。
皆さん、私たちが神様を愛していますと、聖書読み、賛美歌を歌っていて、
でも、もしも心の中に誰かを恨んでいる、憎んでいる、許していない。
そうしたならば、その賛美であろうが、言葉であろうが、あるいは牧師のメッセージであろうが、それは偽りである。
イエス様が語られました。
目に見える兄弟も愛さない者がどうして目に見えない神を愛せることができるでしょう。
許しという言葉の言語の意味は、握りしめているものを手放すという意味があるんです。
36:16
ずっとぎゅっと握りしめていることを手放すということです。
つまり、許しというものは、その嫌な気持ちでしょうか、憎しみでしょうか、悔しいといえば、
そういう感情、あるいは福祉自体、やってやろうというその気持ちさえ全てを自分が握りしめているんだから、それを手下ろす、手放す。
一箇所、聖書を開きたいと思いますね。
まずローマ書を見ていきましょう。
ローマ書、十二章、十八節。
ローマ人への手紙、十二章、十八節です。
よろしいですか。
ローマ人への手紙、十二章、十八節、三百九ページです。
ご一緒に。
あなた方は自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
十八節だけでいいですね。
自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさいと。
みなさん、十字架の恵みを、足し手の罪を、主が忘れてしまってください。
すべてを懲戒にされたということなんです。
旧約聖書に一つの素晴らしい神の許しの恵みのストーリーが書かれています。
一箇所ね、聖書を開きたいと思います。
旧約聖書の第二歴代史を開きましょう。
第二歴代史、三十三章です。
旧約聖書の七百八十五ページです。
旧約聖書の七百八十五ページ、第二歴代史、三十三章です。
39:11
その一節を見ますと、マナセという王様の名前が出てきます。
彼は十二歳で王になりました。
五十五年間、結構長くですね、王位についていました。
ところが、北イスラエル南ユダに多くの王がいましたけれども、
その多くの王の中で、このマナセは最悪、黒悪と言われるほどの王なんです。
彼はどんなことをしたんでしょうか。
二節を見たら、彼は主がイスラエル人の前から追い払われた違法の民の忌み嫌うべきならわしを真似て、主の目の前に悪を行いました。
そして、父ヒゲキヤが取り壊した高き所、これは偶像の所ですね、それもまた築き直して、
ヴァールのために祭壇を建て、アシェラ像、ヴァールとアシェラは偶像の像なんですね、それを作って、天皇万象神これに仕えていました。
それだけで六節を見た。
また彼はベンヒノムの谷で、自分の子供たちにフヨマカをくぼらせて、ぼく背負って、まじないをして、
そして呪術を行い、礼拝や口寄せをして、主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした、もう最悪の王なんです。
ところが、こういう王を主は立ち返らせるためでしょうね、次のページの十一節をご覧ください。
そこで主はアシティリアの王の配下にある将軍たちを彼らの所に連れて来られた。
彼らはマナセをカギで捕らえ、セイドのアシカセに繋いで、バビロンへ引いてしまった。
もう捕虜になってですね、王がですね、バビロンにもう捕虜になって連れて行かれたんです。
さあ、そしたらその時に何が起きたんでしょうか、十二節一緒に読みたいと思います。十二節。
十二節三杯。しかし悩みを身に受けた時、彼はその神主に嘆喚し、その不層の神の前に大いにへり下って、十三節も神に祈ったので、
神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。
42:07
こうしてマナセは、しこそ神であることを知った。すごいことが起きたんですよ。
バビロンに連れて行ったあのマナセが、神様ごめんなさい、悔やがためたら、神様は今までの何十年間のあった彼の最悪のこの不信仰の罪を、
神様は何もなかったように、すっと軽く許してくださった。許すだけではなく彼をまたその王位に戻してくださった。
皆さんすごいと思いませんか?これが神様の愛なんですよ。これが許しなんですよ。
本当にむちゃくちゃなこの王様を、神様は何もなかったように許してくださった。
彼の王国に戻された、ということなんですよ。
皆さん、これが神様の許しなんです。
実は私たちは、いや私はマナセよりはマシな方でしょうと思うかもしれませんが、私は日本、救われるべき何の取り柄も値もないものなんだ。
そんな我々は、人は罪を許して、私たちのすべての悪を、罪を、もう忘れてくださったんです。
私はですね、新学校に入るあの頃から一つ、個人的に神様に祈っていることがありますね。
だいたい人間は、自分によく知ってくれたことはまあまあ覚えているんだけど、
悪く知ってくれたことはずっと鮮明に覚えたくなるような人間のこの悪い何とかがあるんですよね。
私は神様に祈ることは、神様、私に悪くしてくれた誰々さんのその人やそのことのその人の行いを忘れるようにしてくださいと祈るんです。
忘れるようにしてください。覚えないように忘れるようにしよう。忘れてください、忘れてくださいと私は祈るんです。
神様はまさに忘れてくださった。
一回説明してみましょう。詩編ちょっと開けましょうか。詩編の103編です。詩編103編。
45:14
私の清書では1008ページです。
103編の8節から13節までです。よろしいですか。
今度は私が読みますね。8節ご覧ください。
主は憐れに深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない。
私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの都がに従って私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい。
12と13一緒に読みましょう。
東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
父がその子の憐れむように、主は御自分を恐れる者を憐れまれる。
ここの12節よく注目してご覧ください。
東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私から遠く離される。遠く離して、もう捨ててなかったことにして下さい。
もう一つ読みましょう。
伊沢諸四十三章二十五節です。
1196ページです。
四十三章の二十五節です。
1196ページ。
ご一緒に読みましょう。
この私は、私自身のためにあなたの背きの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。
アーメン。
アーメンですか、皆さん。
これが十字架の許しであって、私たちが持つべき歩み方こそ許しなんです。
48:02
許しこそ愛ですから。愛こそ許しだからなんです。
東が西から遠くように罪を離される。
もうあなたの罪を思い出さないと神様はそうしてくださっておられるんですね。
そうなんです、皆さん。
だから私は毎回毎回死の御前に祈ることができる、礼拝ができるということなんです。
もしも神様が許さない、思い出すならば、神の前に立つことができる人は誰もいないんですね。
皆さんいかがでしょうか。
神は許しの神です。愛とは許しです。
ところが私たちはその許されたものなのに、許しの恵みに預かって神を礼拝しているものなのに、
もしも誰かがミスしたこと、何かの過ち、あるいは自分に本当にひどい被害があっても、
それが1年前のこと、5年前のこと、10年前のこと、もっと昔のことを、
誰々さんのことをずっとずっと心の中に握りしめて、ぎゅーっと握りしめているものはないでしょうか。
その人は自分で自分を殺しているものになり、
神を知らないものになり、神を愛するものではない。
そういった心の中で私たちがもし神を礼拝するならば、神はその礼拝を受け取らないということでもあります。
マタイノ福音書をちょっと開きたいと思います。
マタイノ福音書、5章、23節です。
マタイノ福音書、5章、23節、24節です。
新約の7ページです。
5章は、このマタイノ福音書の第5章は皆さんご存知の、三度推訓として、
御国の生き方、御国の恵みとは、歩み方は何なのか、それをイエス様が教えられたことなんですね。
その中に23、24節の御言葉があります。
ご一緒に読みたいと思います。
だから、祭壇の上に供物を捧げようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
51:09
それから来て、その供物を捧げなさい。
皆さん、聖書の御言葉は、その通りに実践しなければならないんです。
十字架は許しです。十字架は愛です。
私たちがもし、今日の礼拝に来る前に、あるいは聖書の礼拝に来る前に、
誰か、それは家族であろうが、隣人であろうが、教会の中の誰かであろうが、
兄弟に恨まれていることをそこで思い出した。
礼拝が始まる前ですよ。
あるいは誰かをもう憎んでいる。許していない。
誰かにずっと呟きをしている。裏口をやっている。
嫌な気持ちがずっとある。
そのまま祭壇に供物を捧げてはいけない。
とりあえずそれを祭壇の前に置いておいて、出て行って、
あなたの兄弟と仲直りをしなさいと、礼拝様は命じておられるんです。
皆さん、この御言葉を実践したことがあるでしょうか。
それから来て、その供物を。
私もこれができなかった時もありましたから、
本当に神の目前に悔やためたことが多くありました。
皆さん、覚えていてください。
私たちがイエスの中に、イエスの後ろに留まっているならば、枝であるならば、
どんどんどんどん愛するように変えられるはず。
さらにさらに許しの人に変えられるはず。
つながっているならば、留まっているならば、
どんな人を抱くようにそういう人に変えられるはずなんです。
それが皆さんの内で、皆さんの中で、
それが少しずつ出会っても、それができているならば、
それが正しく信仰を持っていて、正しくつながっているその証です。
しかし、どんどんどんどんそういうふうに変えられて、
もしもいないならば、何かが間違っているのではないでしょうか。
間違っていたら、早く治さなければならない。
54:04
家の台風でですね、屋根で水漏れをしている。
早く治してください、皆さん。
同じなんです。
体の病気があったら、早く治すのではないでしょうか。
自分も風邪ひいて、明日通りに行きたいと思いますけどね。
早く治すでしょう。
自転車壊れたら乗れないから治すでしょう。
車がちょっとおかしいなったら、トイレットワークとかどこかに行って治すでしょう。
同じなんです。
皆さんに少し提案してお願いしたいと思います。
この、マタリの故郷、二十三、二十四節を、
今日この恋愛が終わってお帰りになられたら、
ぜひ実践していただきたいです。
お帰りになって、皆さんが恨まれている誰かがいるでしょうか。
あるいは、あの人は嫌だなと。
その人の裏口、駆け口だった人がいるでしょうか。
恨んだ人がいるでしょうか。
その人に訪ねていってください。
あるいは電話をしてください。
あるいは手紙でも送ってください。
そして仲直りをしてください。
私がイエス様を信じていながらも、実はあなたのことを憎んでいました。
恨んでいました。
嫌な気持ちをずっと抱えていました。
裏口をしていました。
許していただけるでしょうかと謝ってください。
仲直りをしてください。
皆さんから先に手を差し伸ばしてください。
ぜひ実践してください。
私の友人の韓国のある教会は、これですね。
まさかに礼拝の始まる前にですね、礼拝をストップして、
1時間ほど時間をもって仲直りの時間をもったんです。
そこまでは、もうすぐ終わりますから、すみませんけれども、皆さん。
そうするとですね、不思議に神から来る平安が訪れてきます。
イエスに留まる歩み方は、こういうようにイエス様の御言葉を一つ一つやっても、
それを実際に実践して、それがないまま何十年も聞いていても、
自分自身を変わらせるならば、それは偽りであって矛盾かもしれない。
それこそ、歳比や立法学の人たちと何ら変わりがないかもしれない。
57:04
メッセージを述べたいと思います。
どうかイエス様を見習います。
十字架の許し合いを見習います。
そして、私たちが身を結ぶ歩み方をしたい。
豊かな身を結び、私たちから許しの香りが放ち、
そして今日最後に申しました、このマサイの五教二十三、二十四説を覚えていただいて、
今日ぜひ、今日中にぜひ実践していただきたい。
必ず素晴らしい恵みが今日ここまでしたいと思います。
それではしばらくお会いしましょう。
57:50

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