2023-12-17 25:19

#キリストの弟子は 23/12/17

マルコ9:9-13からの礼拝説教。最近耳にする言葉のリスキリングの意味を直訳すると「re(再び)skilling(技能を習得する)」です。それは仕事のために将来必要となる技術を新たに習得することを指します。そのために特別に学び訓練を受けるということです。たとえばドイツの自動車メイカーのフォルクワーゲン社では興味深い取り組みをしていますが、リスキリングにはイエスの弟子の道に通じるところがあります。1.繰り返し学び続ける、2.確証を得るために探求し続ける、3.試練を通して体得する、の3点からキリストの弟子について考えて見ましょう。

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マルコの福音書9章の9節から13節、私が読みますので、聴いてください。
さて、山を下りながらイエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことを誰にも話してはならないと命じられた。
彼らはこの言葉を胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのは、どういう意味か、互いに論じ合った。
また弟子たちはイエスに尋ねた。
なぜ立法学者たちは、まずエリアが来るはずだと言っているのですか。
イエスは彼らに言われた。
エリアがまず来て、すべてを立て直すのです。
それでは、どうして人の子について、多くの苦しみを受け、詐欺すまれると書いてあるのですか。
私はあなた方に言います。エリアはもう来ています。
そして人々は、彼について、書かれている通り、彼に好き勝手なことをしました。
以上です。
今日はこのところから、キリストの弟子は、と題して見言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
今日は、体調が悪くて、Zoomの方なども多いのですが、礼拝堂でも共に守れることを感謝します。
私たちの教会では、マルコの福音書といって、イエス様の生涯が書かれているところを、
一番最初の1章の1節から順番にずっと学んできています。段落に分けて。
そして、今日はこの9章のここからなんですけど、これはちょっと前の8章の後半からの続きです。
それで、この福音書の中の真ん中の一番クライマックスのちょっと後なんですね。
しかも、少し難しいところです。
もし、どんなことが背景にあるのかなということを知りたい方は、
教会のホームページに、説教の音声配信とこのレジュメをダウンロードというか、
PDFで見られる、礼拝説教というところがありますから、そこを見ると、
聖書の箇所と何日に話したということがわかりますので、
ちょっとこの前がどんな話かということを知りたい方は、
その教会のホームページから、先週の文と先々週の文を聞いて、
時間がなければ2倍速ぐらいで聞いてもいいですし、レジュメでも読んでみてください。
その中で、今日のところはイエス・キリストと12人の弟子のやりとりが主なところです。
そして、旧約聖書のエリアという人の話と絡めて、いろんな話が出てきますけれども、
もうちょっと私たちの生活に当てはめて考えるときに、
クリスチャンの人たちのことをイエス様の弟子と言うんですけれども、
03:01
そのクリスチャンの愛美にどんなことが必要なのかなということを考えてみたいと思います。
その前に、皆さんこの言葉を聞いたことありますか?
リースキリング、最近よくビジネスの世界でも聞きますね。
これはどういう意味かというと直訳すると、リーというのは再び、
スキリングというのは技能を習得するといってですね、
よく言われるのはエンジニアなんかがですね、こうやって新しい技術を学び直すこと、
将来こういう新しい技術が必要だということを考えて学び直すことなんですね。
特別に訓練し直すんですけれども、例えばこれドイツのフォルクスバーゲンでは、
これからEV化が進みます。
だからエンジンの今までの作り方とか、いろんなシステムが変わるので、
フォルクスバーゲン社では、このエンジニアを含め社員をいわゆるリースキリングしています。
すごいのは何かというと、まずその新しく勉強したり技術習得の時間を仕事と考えてですね、
大体日本では新しい技術を勉強するために仕事が終わってから夜学に行ったり、
オンラインで学びますけれどもフォルクスバーゲン社は仕事だから就業時間内に勉強しなさいと言ってくれます。
しかも仕事だからどうするかというと、勉強しながら給料が満額もらえるんです。
そういうところだから発展するんですね。
そういうリースキリングということが今世界中で行われています。
ちょっと日本では立ち遅れてますけれども、
そういうことと実はイエス様の弟子たちの歩みと似ている部分があるんですね。
そんなことを考えながら3つぐらいのことをちょっとお話ししたいと思います。
まず最初イエス様の弟子と言い換えてしますけれども、
イエス様の弟子、イエス様を信じて生きる人の一つ目はですね、繰り返し学び続けるんだということなんですね。
今日のところの引用ちょっとこの前にもありますが聞いてください。
こういうふうに今日始まりました。
さて山を下りながらイエスは弟子たちに人の子が、人の子というのは自分のことです。
人の子イエスが死人の中から蘇る時までは今見たことを誰にも話してはならないと命じられた。
彼らはこの言葉を胸に納め死人の中から蘇ると言われたのはどういう意味か互いに論じ合った。
この絵にあるようにイエス様と3人のペテロとヤコブとヨハネという弟子がある奇跡的な体験を山でして、
それを今は言わないでとイエス様に言われた。
しかもイエス様自身が蘇るまで言わないでと言ったんですね。
ここでですね一つわかることがあります。
それはこのことを通して、実は弟子たちのずっとですね3年近く一緒にいるのに何も勉強してなかった。
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よくわかってなかったということがわかってしまうんですね。明らかになる。
その弟子たちの無理解さが明らかになるんですけどもそれはずっと前から言われていて、
例えば今日の前の8章の17節から20節のところではですね、イエス様がかつて4,000人と5,000人の人にパンを増やしてあげたにもかかわらず、
そのことがわからなくて心配になった。
そのことをイエス様弟子たちにこう前にありますが、失望してこう言ったんですね。
まだ悟らないんですか?
そしてその後ですね、今日のところの直前、実は山の上でこのイエス様、
今日の直前ちょっと前にですね、ペテロという一番弟子にイエス様はあなたは私を誰だと思いますか?と聞きました。
するとペテロはですね、あなたはキリストですって言ったんです。
しかしその後イエス様はですね、キリスト救い主として死ななきゃいけない。
そして3日目に蘇らなきゃいけないって言ったら、ペテロはですね、イエス様に、そんな救い主が死ぬなんてことがあってはいけませんと言ったんですね。
そしてそのことを言った時にですね、イエス様はペテロの間違いを指摘して、
こういう風に言ったんですね、8章3節。
さがれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っていると間違いを指摘します。
その後ですね、先週のところではイエス様の姿がまさに神の姿に変わった、一瞬だけですけどもですね、栄光の姿に変わった。
その様子を見て、あなたとそこに現れた2人の人、猛瀬とエリア、全部で3つ、3人分の幕屋、テントを作ります。
寝泊まりできるテントを作りますと発言したらですね、それも窓外れ。
そのことをですね、聖書は解説して、こう言っています。
ペテロは何を言ったらよいのか分からなかったのである。
彼らは恐怖に打たれていた。
繰り返しますが、ペテロをはじめ弟子たちがイエス様と一緒にいたのに、
よく分かってなかったということは繰り返し言われているんですね。
そして今日の箇所でも、弟子たちは未だにイエス様の受難、イエス様が十字架にかかって死ぬこと、
そして復活するということを理解して受け入れられないということが浮き彫りになりました。
死人の中から蘇るまで黙ってなさいと言ったときにですね、
死人の中から蘇るとどんなことなの?と疑問に思ったというふうにですね、
彼らのこの邸宅が明らかになってしまったわけです。
で、どうしてですね、こんな恥ずかしいことばっかり書かれているんでしょう。
もし皆さんが聖書に自分のことを書かれるとしたら、
やっぱり恥ずかしいことよりもちょっと立派なことを書かれたいと思いますよね。
なぜこんな恥ずかしいことが、学んでいないことが書かれているか。
実はこの理由をある学者はですね、こういうふうに解説してるんですね。
ちょっと難しいですけど、前のとこ見ながらちょっと目で追ってみたり考えてみてください。
なんでそんな失敗ばかり書いてあるか。
それはマルコによる福音書、今読んでいるマルコによる福音書は、
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その読者、読む人がキリスト社、クリスチャンであり、
彼らは死と復活について知っているけれども、イエス様の死と復活について知っているけれども、
なおイエスが主であること、救い主であることの意味や、
自分たちが弟子、主の弟子である、イエスの弟子であるための、
必要条件を教わらなければならないものであると想定しているように思われる。
だから、わざと弟子たちが理解していないとか失敗していることを書いて、
読んだ私たちが、私たちも失敗するな、わからないことがあるな、
でも学び続けようと思えるようにした。
ここにも書きました。イエス様の弟子と同じように私たちも、
イエス様の受難、十字架とか、よみがえる復活について聞くんですね。
でも聞いてても、それがお笑いタレントのサンディッチマンじゃないですけど、
何言ってるかわからない。聞くだけで自分のそれが確信になる。
自分の血肉になるため、そのために私たちはイエス様について、
弟子の生き方について学び続けなければならない。
ちなみにですね、弟子という言葉、聖書で弟子というのはギリシャ語ですけど、
マセテエスです。それは学ぶ人という意味です。
そういうことからも学ぶ必要がわかるわけですよね。
一番最初にリスキリングの話をしましたよね。
このリスキリングで皆さんこういう言葉知ってますか?
かつては勉強と仕事についてこう言われたんです。
これ何て言う?4 to 40。これはどういうことか?
4年間専門学校や大学で勉強したら40年間その技術で働けますよって言われてたんです。
定年退職まで働く。
でも今はこう言われてるんです。4 to 4。
4年間大学や専門学校で勉強したことは4年か5年で尽きてしまいます。
また学び直さなきゃいけませんよ。4 to 4と言われてます。
だからリスキリングが必要です。特にIT企業なんかはそうですよね。
チャットGPTなんかが去年ですか?今年の初めてから目覚ましい進化が出てきた。
そんなことで今は4 to 4。
4年で勉強したことは4年でまた学び直さなきゃいけないという時代なんですね。
私たちもイエス様の弟子クリスチャンとして
信仰生活のリスキリングが必要だということを覚えてください。
つまり私たちはイエス様の弟子クリスチャン、キリスト社として
生涯学び続ける、リスキリングし続けるわけです。
どういうことか、私たちの時代は変化していきます。
12:00
同時に私たち自身の生活の課題も違いますね。
昨日ちょっとあるポッドキャストの経済の番組聞いてたらこう言われてるんですね。
いろんな今ここの座ってる人たち、世代がありますよね。
10代、20代ここいらっしゃるし聞いてる人にも30、40代いるんですけども。
世代って何がその人の価値観を決めるか。
何が一番大きい要素かわかります?
その人の価値観を決める一番大きい要素、4割ぐらい、40%はその時代だって言うんです。
どの時代に生まれたかによってその人の基本的な価値観が変わってくるって言うんですね。
でもさらにその価値観が固定されてるんですけども、また時代も変わりますから
何回も言いますけども、時代に合わせて、そして自分の年齢とか
置かれている立場に合わせて学び続けなきゃいけないんです。
それはクリスチャンであればなおさら、今自分が置かれている状況の中で
イエス様が自分の救い主であるというのはどういうことなのかな?
それからですね、今自分が置かれている状況の中でイエス様の弟子として
どう生きたらいいんだろうかということを考えて、
あるいは特に学び続けなければいけない。
それはクリスチャンの醍醐味でもあるんですね。
そのことを最初に覚えておいていただければと思います。
私たちはイエス様の弟子として学び続けていく。
今の状況で今の時代どう生きたらいいか。
そのために今度次見る2つの点が関わってきます。
2つ目、それは核証を得るために探求し続けるって言うんです。
2番、弟子たちはその後こう言ったんですね。
また弟子たちはイエスに尋ねた。ちょっと難しいんですが、
なぜ立法学者たちはまずエリアが来るはずだと言っているんですか?
イエスは彼らに言われた。
エリアがまず来て、すべてを立て直すのです。
それではどうして人の子について多くの苦しみを受け、
また先すまれると書いてあるんですか?
私はあなた方に言います。エリアはもう来ています。
ここで難しいところです。今日の1番。
何が弟子たちが聞いているかというとですね、
簡単に言うと、これは難しいことを言いますけどね。
イエス様の前にバブテスマのヨハネという人が出てきたんです。
実はそのバブテスマのヨハネについて弟子たちはこう考えたんですね。
イエス様が来る前、旧約聖書の時代、1000年くらい前でしょうか。
これからイスラエルを救う、世界を救う救い主がやってくるよ。
その前に旧約聖書のエリアみたいな預言者がやってくるよ。
救い主の前にエリアみたいな預言者がやってくるから注意しなさいと言われてたんですね。
弟子たちはこのバブテスマのヨハネという人がもしかしたら旧約聖書から約束されていたエリア、
救い主が到来する先駆けのヨハネみたいに思ってたんです。
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それをどうですか?素朴な疑問を、曖昧なことをイエス様に訪ねたわけですね。
そしてもしヨハネがエリア的な存在であれば、イエス様はその後に来る救い主に違いないと確証できると思ったんです。
そのことについてイエス様は、はっきりと今日のところで答えていますよね。
13節、私はあなた方に言います。エリアはもう来ています。
これは別の言い方をすると、バブテスマのヨハネは約束のエリアだよと言っています。
弟子たちは何をしたか、その曖昧なことに確証を得るために探求したんです。
そしてイエス様の言葉から確信を得たんですね。
英語でエライジャハズカンというのは、エリアが既に来たという意味ですね。
そうか、弟子たちはイエス様に尋ね求めて確証を得たわけです。
この前の点ではですね、弟子たちは学び続けると言いましたよね。
学び続けるものが弟子たち。その上で学び続けるために、今度は自ら探し続ける、尋ね求める、探求し続けるということが第2の点なんですね。
どういうことか、繰り返しになりますけれども、今の自分が置かれている時代、あるいは自分の置かれている状況の中でイエス様が救い主であるというのはどういうことか。
また、今置かれている中で自分がイエス様の弟子としてどう生きたらよいのかということを探求し続けるということなんですね。
その時に応じて必要な答えを得るために、学ぶはもちろんなんですけれども、積極的に求めていく、答えを求めていくということが大事なわけです。
そのために何ができるか、ここにありますが聖書を調べたり、祈りの中で神様、イエス様に尋ね求めて答えを求めていくということです。
時には他のクリスチャンの人に聞いて答えてもらって助けになること、一緒に祈って助けられることもあるでしょう。
そうするとですね、聖書は祈りの中で、あるいは生活の中でその答えを知ることができます。それがイエス様に答えてもらうということです。
具体的に言うとですね、例えば私は普通の仕事を一般的にしています。仕事でこうしてくださいと難しいことを言われることがあるんです。
その時にイエス様を助けてください、どうしたらよいか教えてくださいと祈ります。
車を運転しながら仕事をしたりしますので、車を運転しながらイエス様、仕事でちゃんと結果を出せるように助けてくださいと祈ります。
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そうすると本当に結果が出るんです。本当に安直かもしれませんけれども、その時にイエス様って本当に私の救い主なんだなということがわかります。
ですから皆さんその勉強やこの仕事の時に大変な時にイエス様助けてくださいとイエス様を求めていく。
あるいは生活の中でどうしたらいいかという聖書の中から励ましの言葉を見つけていくということも必要かと思います。
そうすると漠然としていたイエス様が救い主だということが確信になります。
確信を得るとどうなりますか。生きる力が与えられるんですね。
そのようにですからその時に応じた助け、救い主を知る、自分の生き方を道を探る、祈る、聖書を探るということをしていきましょう。
最後。しかし大事なこと。 試練を通して体得するんです。私たちは辛いことを通して自分が学ぶということ。
今日の箇所でイエス様は最後にこう言っています。ちょっと最後のところで読める人読んでみましょうか。
私はあなた方に言います。エリアはもう来ています。そして人々は彼について書かれている通り、彼に好き勝手なことをしました。
これ難しい言葉ですけども、今日は難しいことが多いんだけど。これはですね、実はイエス様が再来のエリア、ヨハネについて語りながら、自分の運命を弟子たちに予告しているんです。
それはどういうことか。実はですね、エリア、ヨハネは来ていますってさっきのことですよね。エリア、ヨハネとしてエリアは来ました。
そして人々は彼について書かれている通り、好き勝手なことをしたって何かというと、実はこの前の6章のところでですね、ヨハネは首をはねられています。
読んでみてください。時間があれば。簡単に言うと、その当時の権力者に捕らえられて、その奥さんに外のかされて、奥さんの娘に利用されてですね、首をはねられて死にました。
好き勝手なこともされたというのはそういうことです。で、そうやってヘロデア、ヘロデアによってヨハネが好き勝手に扱われ、首をはねられ殺されました。
同じよう、そして人々は再来のエリアであるヨハネに対して、このようにしたように私にもイエス様にもするであろうということがこの言葉に言われているんです。
このヨハネの宿命によってイエス様ご自身の受難、つまり逮捕されて鞭打たれ十字架で殺される、その受難と死という宿命も明らかにしたということに、この言葉の意味があるんです。
ここからじゃあどうしたら私たちは学ぶことができるか。イエス様はですね、さらに弟子たちにこう言ってるんです。弟子は必然的に十字架の道を行くことになるんだと教えているんですね。
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今日のところの少し前、8章の34節でイエス様がこう言っています。
誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を追って私に従ってきなさい。
これはイエス様の後に従っていく人は必ず苦しみがあるんですよ、それを覚悟しなさい。弟子の道は苦しみを避けては通ることができない。
これ誰かわかりますか、この人。
この素敵なお尻、これ大谷翔平です。
何をしているか、ウエイトトレーニングをしていますね。
ウエイトトレーニングは体に負荷をかけて自分を鍛えます。いざという時のために備えて。
クリスチャンの人、私たちが人生で辛いことがあると、それは実はウエイトトレーニングのように鍛えられているということなんですね。
できれば辛いことに遭いたかはありませんが、生きていく中で何度か辛いことを試練に遭いますが、それは繰り返される訓練、トレーニング。
このエンジニア、外国人のエンジニアがありますが、トレーニングをしています。
リスキリングのトレーニングは繰り返し繰り返し学ぶことによって自分の身になるわけです。
辛いことが繰り返し起こるかもしれません。
でもその時にイエス様が本当に自分の救い主だということを、自分の経験をもって知るんです。
イエス様が救い主だということが自分の血肉になる。それが本当の学びなんですね。
そしてイエス様はどうしたか。イエス様は十字架で苦しい目に遭いましたけれども、復活をして栄光の姿に変えられました。
同じように私たちも試練の中で苦しみますけれども、イエス様と同じような栄光の姿、そのような品性が変えられていく。
そういう望みがあるんです。
そして将来もし天国に入れれば、イエス様とはやがて会う日が来るんですけれども、
その時にイエス様と同じような栄光の身体に変えられていく。そういう幸いがあります。
最後にこのような御言葉、パウロという人が私たちが変えられていくということを書いて、
こういう述べている聖書の言葉を読んで終わりにしたいと思います。
読める人だけここから私たちはから読んでみましょう。
私たちは皆、王位を取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、
栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていきます。
24:02
これはまさに見たわなる主の働きによるのです。
お祈りをします。
私たちの救い主なるイエス様、あなたを賛美いたします。
あなたは堅くなで物分かりの悪い弟子たちを忍耐して教え続けてくださいました。
私たちも弟子たちと同じように生涯かけてイエス様が救い主であるということ、
そしてイエス様の弟子として生きるということを学び続けたいと思います。
どうか私たちが生活の中ではっきりとイエス様が救い主である、そう知ることができるように導いてください。
辛い時にどうか祈る力を与え、聖書を読む力を与え、
そしてまたあなたが直接救い主であるということを示してくださいますように。
やがてイエス様と同じような栄光輝く姿へと私たちも変えられていく。
その希望を感謝してイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
その場でどうぞ黙祷してください。
目をつぶったまま1分ほどイエス様に答えて心にあることを祈ってください。
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