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それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛せる天の父なる神様、尊い皆を心から感謝し賛美をいたします。
私たちを主の御前へと招いてくださり、あなたが命の言葉を語り、
私たちを今朝も慰め癒し、そしてまた恵もうとここに立っていてくださることを感謝をいたします。
どうか主を仰ぐことができますように、この一時をお導きください。
私たちにはそれぞれに罪があります。あなたを知らないと歩んでいた日々がありました。
しかし主が私たちを愛し抜いてくださって、御子を十字架にまで捧げるほどに愛してくださって、
その流された血湯により私たちの罪を許し、神のことし、それだけではなく、
主の復活の命、永遠の命を今私たちに与えてくださり、
永遠なる死と切り離されない、共に生きる歩みを私たちに与えてくださったことを感謝をいたします。
神様、その豊かな恵みがどれほどであるかということが、私たちはよく忘れてしまうものですし、
祈られたように、世の本当に言葉を聞くときに聞かなくていいことを聞いてしまい、
見なくてもいいものを見てしまう私たちであることを覚えます。
見るべきものを見、聞くべき言葉を聞かない私たちであるかもしれません。
主がどうか今朝、精霊様によって耳を開き、目を開き、口を開き、
主への賛美と主を仰ぐ力を与えてくださいますようにお願いをいたします。
あなたの御言葉を聞かせてくださいますようにお願いをいたします。
それに応えて立つ私たちとならしてください。
今、礼拝を守っておられる、御自宅におられる方もいらっしゃると思います。
施設におられる方、それぞれがいらっしゃいますが、
その歩みをどうか主がお支えくださいますようにお願いをいたします。
これからのひとときを見てによたれます。
あなたが御言葉を開き、私たちを導いてください。
やつ様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
私は最近ですね、
あゆな先生によく返事がないってよく怒られるんですね。
いろいろなところで、私もあゆな先生も時々違うところで違う働きをしていますと。
晩になるとお互いのことの一日を聞き合うわけです。
今日どうだったってことを聞くわけですけれども、
聞いておきながらですね、私も悪いところで気が散漫になってしまうことがあって、
聞いてはいるんだけれども空返事になってしまってですね、
あんたちゃんと聞いてんのってことを言われてすみませんってことをよく言うんですけれども。
会話はキャッチボールですよね。
相手に球が届いて、その球をまた投げ返していくっていう、そういうことだと思います。
それが私だけが投げていて、相手がそれを受け取ってくれない、もしくは投げ返してくれないっていうことがあると、
私たちはきっととても寂しい思いをするのではないでしょうか。
一方通行で何か心が通い合わないということを私たちは経験するんじゃないかなと思うのです。
私たちがもしも誰かと関係を築いて、またその関係を深めていくということがあるとするならば、
それはきっと私の思いを相手に伝えて、相手が受け取ってくれて、
それをまた私に返してくれるというような、そういうやり取り、そういうある種の対話とでも言いましょうかね。
言葉を聞いてそれを答えるというやり取りが必要であると思うんです。
まさにキャッチボールですね。
私とあの人の関係が深まっていくというのはそういうことですし、
私も結婚のときに教えられましたが、それが夫婦の基本だと教えられて、
なかなかできないなということを反省をしているところですが。
けれども、これは人間だけのことではありません。
実はこれは神様と私たちの関係を考えても同じことなんです。
私たちと神様の関係もまたこれは一方通行ではないんですね。
聖書を通して神様は私たちにたくさんの言葉を語りかけてくださいます。
恵み深く私たちにあなたを愛しているよと語りかけ続けてくださいます。
ただそれを聞く、もしくは私みたいに空返事でね、聞き流すみたいなことをしてしまうときに、
私たちはきっと神様に寂しい思いをさせている。
もしかしたらそういうことを続けていく中で、いつまでも心が通じ合わない、
神様との関係が通じ合わないということがあるかもしれません。
けれども、もしもそれが受け止めあって、主が私に語ってくださった、
それに私はどうお答えするのか、そのようなことが始まっていくときに、
実は私と神様の関係というものも同様に深まっていくということが言えるのだと思うんです。
今朝の歌書を見ますと、ちょうどそういう状況を書いているように思うんですね。
今朝の歌書を少し見ていきますと、今日は9章の18節から読んでいただきましたけれども、
この歌書は有名ですね。ペテロの信仰告白と言われる歌書です。
ただ、この歌書はルカの福音書でも本当に大事な重要な歌書であり、重要な場所に位置づいているんですね。
ちょっとそのことを先に確認をさせていただきますけれども、
ルカ福音書の全体像を考えますと、ルカ福音書って長いんですが、大体4つに区分できると考えられます。
1つは1章2章のイエス様の誕生物語、誕生の出来事です。
そして3章からはイエス様が大人になられてガリラ屋で活動されたガリラ屋での活動、これが9章の50節まで続くんです。
そして9章の51節を見ていただきますと、さて天に挙げられる日が近づいてきたこの頃のことであった、
イエスはミカオをエルサレムに向け毅然と進んで行かれたということが書かれています。
ここからガリラ屋で活動していたイエス様、北の方で活動していたイエス様が南のエルサレムという中心地に旅を始めるという、
エルサレムへの旅が始まるんです。これが3つ目です。
ルカの19章というところを見ますとまさにエルサレム入場の箇所が書いていますが、ここからまさにイエス様のエルサレムでの活動が始まっていく4つ目です。
簡単に区分をサラッとしましたけれども、じゃあ今日の箇所はどういうところに位置づくかといいますと、
3章から9章50節に至るまでのガリラ屋で活動されたイエス様の働きのある種クライマックスなんです。ガリラ屋での活動のクライマックスなんですね。
じゃあイエス様はこのガリラ屋地方でどういう働きをされていらっしゃったでしょうか。
1番と言っていいか分かりませんけれども、とても重要なところは何かといいますと、イエス様は12弟子を選び出されたということです。
イエス様と弟子たちの共働
12弟子を選び出されたということです。よくご存知でしょう。ペテロがイエス様に招かれて弟子となりました。
彼はただの1回の漁師でしかありませんでしたけれども、イエス様と共に漁をして大量の奇跡を、彼は経験をしてですね、イエス様についていきました。
その他の12弟子たちもイエス様に選び出されました。
ただですね、おそらく弟子たちはイエス様の弟子になった当初というのは、イエス様ってどういうお方なのかってよく分かってなかったのだと思います。
そうではないでしょうか。イエス様は何か色々な奇跡を起こすすごい方だなと思ったかもしれません。
けれども、例えば8章のあたりに書いてますか、8章の20節前後に書いてますが、嵐が起きてガリラヤコで彼らの船が沈みそうになったときに、イエス様が嵐に命じてその嵐を沈めるということがありました。
けれどもそのときも彼らは一体このお方はどういう方なのだろうかって言うんです。
よく分かってないんです。どういう方なんだろうかという疑問をただ驚くばかりです。
けれども弟子たちはイエス様と共に歩み続けたわけです。イエス様と共に歩み続けて、彼らはイエス様の道からをたくさん見ていきました。イエス様の愛をたくさん受けました。
次第にこの部下の福音書の8章以降を見ていくと面白いのは、次第にイエス様と弟子たちというのは、弟子たちがイエス様についていくだけではなくて、実はイエス様と弟子は一緒に働くようになっていくんですね。
例えば9章の1節からはイエス様がこれまで、8章に書いてあるイエス様がアクレオを追い出して伝道するという場所に12人もついていったということがあったんですけど、9章の1節からは12人を呼び集めてアクレオの病気を癒す力と権威をお授けになって弟子たちを使わせた。
これ何しているかというと、イエス様の働きを彼らがし始めたということです。そして9章の10節からの有名な5千人の給食ですね。これ池口先生が開いてくださいましたが、この箇所でもよく見たらイエス様と弟子たちって一緒に働いているんです。
15節あたりを見ると弟子たちはイエス様に命じられてその通りにして全員を座らせたということも言われます。そして今朝の箇所その隣の18節を見ますととても興味深いのは、さてイエスが一人で祈っておられたとき弟子たちも一緒にいたと書いてあるんです。
ルカノ福音書にはイエス様が毎朝一人寂しいところに行って祈っておられたということが書いてますが、しかしこの時になるならばイエス様が一人で祈っていたその傍らに弟子たちも一緒にいるようになっているんですよ。一緒に弟子たちもイエス様といるようになっている。
彼らはイエス様と共に歩み続けるその歩みを通して単なるイエス様の追従者ではなくてイエス様と共に働く本当の弟子になっていったということです。本当の弟子になっていった。
それは言い換えるならばまさにイエス様と弟子たちの関係が深まっていったわけです。徐々に徐々に関係が深まっていったんですね。ただです。いわばこのタイミングでですよ。この18節。しかしこのタイミング。いわばこれからイエス様はエルサレムに向かわれるであろうというタイミングでイエス様があえて弟子たちに問いかけたというのが今朝の箇所なんです。
イエス様と弟子たちの関係の深まり
それはこの18節からもありますけれども、まとめていうのは私のことを誰だと言いますかという問いかけです。私のことを誰だと言いますかと。群衆はそれをどう言っているのか。そしてあなた方はどうかということを聞くわけです。
群衆はどう思っているか。これは簡単に言うと一般理解ですから簡単に答えられるでしょう。バクテスマのヨハネであったりエリアの再来であったり、昔の原初がよみがえったんだということを言っています。けれどもその次の問いです。あなた方はどう思うかです。あなた方はどう思うのか。この問いはとても重たい問いではないでしょうか。
他の誰がどうかではない。他の誰かが何かを考えているか。そのことは関係ない。大切なのはあなた自身は私をイエスキリストをどう思っているかという問いかけです。こういうことを読むと思い出すのは、実は私は小学2年生のときに洗礼を受けたんですよ。ただそのときに洗礼準備の学びって全くしなかったんですね。
洗礼を受けると聞かれてうんと言ってすぐ洗礼を受けただけなんですけど。高校3年生のときに改めて私は母教会の当時の牧師の足立先生と一対一で洗礼の学びをしなおしたんですよ。内容はだいたいわかるのでペラペラ答えていたんですけど、一つだけはっきり注意されたことがあったんです。
それは何かというとお祈りするんですよ先生と一緒に。そのときに私は家で祈るように無意識に神様私たちは罪人です。神様私たちはこういうところがありますと祈っていたんです。
そしたら足立先生にそれを注意されまして、「みっくん私たちはじゃなくて私はって祈りなさい。ぼやかしちゃいけない。他の誰でもなくて今あなたが神様の前に立っているんでしょ。今あなたが神様の前に祈っているんでしょ。それをぼやかしてはいけないよ。私がでしょってことを言われて。
私はそれから注意された通り、私はって祈るようになりました。けれども祈って初めてわかります。ああ、重たいってことです。主に私が答えているってことを思うと、ああ、ちょっと逃げられないと言いますかね。でも大事なことなんです。主の前に立って私が答えているわけですからね。でもそのことの重さをすごく教えられた大事なときでした。
私たちも別にいつもそうしなきゃいけないというわけじゃないかもしれませんが、しかしどこかで問われます。それは私たちは神様の前に私が立っているという重さがあるということです。私が立っている。そして私たちはそれを無意識に回避することがあるかもしれません。
でもこのときの弟子たちにそうであったり、そして私たちにもそうなのですが、イエス様が問われたのは、他の誰が私のことをどう言っているかではない。あなたは私を誰だというのか。あなたにとって私は一体何なのか。それに答えなさいとイエス様は言われたんですね。
これは重たい問いです。重たい問いですね。なぜイエス様はこんなに重たい質問をされるのでしょうか。理由があるのだと思います。それはなぜかと言いますと、先ほども言いましたように、ここからガリレアを出てエルサレムへの旅を続けていくんです。でも聖書を読んでいったらよくわかります。これから迫害が激化していくんです。
イエス様とこれまでガリレアで一緒に歩んでいた弟子たちというのは、イエス様とこれから共に歩むためにはもっと厳しい、もっと過酷な道なりになっていくんです。そしてご存知の通り、エルサレムでイエス様は十字架にかけられ、その迫害は絶頂を迎えるわけです。
イエス様のこの歩まれた道というのはどういう道であるかということを簡単に9章の57節からイエス様がまとめて書いてくれています。まさに彼らがこの道を進んでいくとと書いてあるところですけれども、細かくは見ませんが書いてあることは何かと言いますと、
まさにイエス様についていく道というのは狐にも空の鳥にも巣があるけど、人の子には枕するところもない。生活は安定しないよ。どこにそこに寝るようになるかわからないよ。そして父を葬ることを許しくださいと言ったとしても、あなたは神の国を優先しなければならない。神の国に仕えることを優先しなければならないよ。
そして61節以降は、まず畑を見させてください。でも、そうじゃない。手に隙をかけて後ろを振り返るものは神の国にふさわしくない。後ろを振り向かずに私についてこなきゃいけないよということを言われる。
イエス様の歩みの厳しさ
これは実に厳しい歩みです。でもそれはイエス様ご自身がそういうふうに歩まれた歩みです。弟子たちはそれについてこれるだろうかとイエス様は思っています。弟子たちはこれについてこれるだろうか。だからイエス様はこのところで、まさにこのタイミングで、関係を一歩深く一歩明確にしたいんです。これからも先、弟子たちと離れないためにです。これからも先、弟子たちと共に歩み続けるためにです。
彼らの応答を求めていたのです。あなたは、私はこれから過酷な道を行く。あなたはそれにどう答えるのか。ペテロは答えました。彼のこの応答、二十節の応答というのはペテロが答えましたけれども、これは十二弟子を代表したペテロの応答です。
それは何かと言いますと、彼はこう答えるのです。あなたは私を誰だというのか。ペテロは答えた。神のキリストですと答えるのです。神のキリストですと。
これ、神のキリストと言われますけれども、キリストというのはどういう意味でしょうか。これはギリシャ語です。でもヘブロ語ではメシアです。その意味は簡単に言うならば、この方、キリストというのは人々を必ず救い、必ず解放する王様だという意味です。
メシアキリストというのは人々を必ず救い、必ず解放する王様だという意味です。福音書を見ていたらよくわかります。人間はいろいろなものに囚われています。当時で言うならば、ユダヤ地方を支配していたローマ帝国も支配者の一つでしょう。でもそれだけに限らないわけです。
人間は、それ以上に福音書に書いてあるのは、例えば病の問題がありました。悪霊に疲れている人がいました。上に苦しむ人たちがいました。貧しさがありました。そしてそこから生まれる具体的な罪というものがありました。そして死の問題です。死というものが人々を捉えている。
それらが人間を苦しめている。その光景をイエス様は見ていました。しかしイエス様が行かれるところで、イエス様がその苦しみに触れて、そのすべての苦しみからイエス様は人々を解放なさっていかれたわけです。それを弟子たちは誰よりも近くで体験をしていました。
イエス様とは何者か、私は何者か、彼らは一番間近で見ていたのです。間近に見ていた彼らにとって、彼らはそれを受け取って、だからそれを間近に見ていたからこそ、ペテロは答えることができたのです。
あなたは神が使わされた王であり、解放者である。あなたは、あなた方と聞かれていますかね。主よ、あなたは私にとって神のキリストですと彼は答えるのです。私にとって神のキリストですと。
イエス様はこの告白を聞いて、初めて21節で、イエス様はご自身のこれからの歩みを開示されるのです。この告白を聞いて初めてです。それはなぜかというと、思い問いに対して思い答えを返したのです。
私は、あなたは私にとってのキリストですと。それによって関係性が深まったのです。じゃあ、そう答える、あなた方には開示することができる、伝えることができる、それは、これから私は長老立法学者たちに捕らえられて、殺されて、そして3日目によみがえるということです。
そして、これだけでも実に衝撃的な内容なのですけれども、続けて23節以降、ちょっとじっくり読んでみますと、こういうことを言いました。イエスは皆に言われた、誰でも私についてきたいと思うなら自分を捨て、日々自分の十字架を追って私に従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのです。人はたとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い損じたら何の益があるでしょうか。誰でも私と私の言葉を恥じるなら、人の子もまた自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやってくるとき、その人を恥じます。
誠にあなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで決して死を味わわない人たちが、私はこれからエルサレムに向かい、十字架、その死へと向かう旅に出る。それは死と復活の歩みである。そして、そういう私の歩みにあなた方も日々自分の十字架を追って従ってきなさいとイエス様は言われる。
しかも私を恥じることなく、神の国を見るまでついてきなさいと言われる。これは実に過酷な道ですね。誰がついていくことができるでしょうか。いや、福音書を読んでいる私たちはよくわかっています。誰も最後までついていけなかったんです。十字架の手前で弟子たちは裏切りました。
イエス様について行く道
でもイエス様は、ただただ私に従う道は誰もついて来れないような厳しい道だということをここで言われたいのでしょうか。そうではないんです。そうではない。大事なのは24節、25節をもう一度読みますと、こういうことです。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのです。人はたとえ全世界を手に入れても自分自身を失い損じたら何の益があるでしょうと。この言葉わかるようでわかりにくい。ややこしい言葉だなと思いますけれども。
しかし、単純にちょっと読んでいきますと、こういうことですよね。イエス様について行くとするのだけの、ついて行けない人はついて行かない。イエス様と共に歩むことをしない人は命を失ってしまうし、全世界といういろんなものは得られるかもしれないけれども、あなた自身を失ってあなた自身の益がなくなりますよということを言っているわけです。
でもこれは逆転するならばどういうことを言っているのかというと、じゃあイエス様について行く道はどうであるか。イエスと共にそれでも歩み続ける道というのはどういうことかというと、あなたは命を得ることができるし、私と共に行く道によって全世界よりも尊い自分自身を見つけ、自分自身を癒す益のある道を歩んでいくんだというんです。
これ大事なんでもう一回言っておきますけれども、イエス様とそれでも共に歩んでいく道というのは、全世界よりも尊い自分自身を見つけ、自分自身を癒す益のある道だと言われるんです。その道なんだということをイエス様は言われるわけです。
私たちはこの言葉を聞きますと、あの主税人レビの話を思い出します。あの主税人レビに対してイエス様は、私について来なさいと言われました。罪人の医者であるイエス様の処方箋をそれだけだと言いました。
レビを罪の歩みから癒されたイエス様は、まさにイエス様と共に歩んでいくならば、それは神様との愛の関係に歩んでいくならば、私たちは本来の私自身を取り戻していく、回復していくということを言うのです。
イエス様と共に歩む中で、私たちはイエス様の恵みを経験していく。そういうことを私たちは経験しますよね。
イエス様と共に歩んでいく中で、私たちはイエス様の愛を経験しますし、イエス様の素晴らしさを経験します。
イエス様と共に歩んでいく中で、私たちは時に自分のくだらなさに見つけます。自分の醜さというものを直視させられることがあります。
イエス様と共に歩んでいく中で、私たちは自分たちが傷ついていることを明らかにされることがあります。
けれども、その都度イエス様と共に歩む中で、そんな私のためにご自身を十字架にまで捧げられたイエス様、神様が私を愛してくれているということを私たちは見出します。
こんな私ですらも主は用いようとしてくださっているのだということを私たちはそこで知ることがあります。
イエス様と共に歩む道
私たちはイエス様と共に歩むその中で、その愛の広さ、長さ、深さを知っていきます。
私たちはただその主と歩む中で、神様との愛の関係にある中である種、砕かれて、尖られて、本当の自分というものを取り戻していくんです。
世界を手に入れられるということを25節には書いています。そうですよね。
イエス様から離れて、いや、そんなものを信じていても仕方がない。それよりもあれもこれも得られるというような、全世界を手に入れられるという道は、魅力的な道は私たちの周りにはたくさんあるでしょう。
けれども、私たちは同時にそういうところに進んでいって、何かを得るたびに自分を失っている人たちを見ることが多くあるのではないでしょうか。
しかし、世界よりも大切な神様が愛する私自身、世界よりも大切な神様が愛するあなた自身を見出す道というのは、このイエス様と共に歩む道しかないんだと言っているんです。
このお方と共に歩んでいく道しかない。イエス様はこの道を私と離れずに共に歩まれようとされます。
私たちはよく誤解しがちなのですが、イエス様は私たちから離れません。イエス様から離れるのはいつも私たちです。イエス様は私たちから離れない。イエス様から離れるのは私たちです。
だからこそイエス様は聞かれるのです。ある種この関係に楔を落とすかのように、思い問いを私たちにも聞かれるのです。
あなたにとって私は誰なのか。あなたにとって私イエスキリストは一体何なのか。
誰かがイエスをどう言った。世間がどう言った。ではない。他の誰でもない。都度のつまり。あなたにとって私は一体何なのか。
その答えを一人一人が責任を持って答えなければならない。しかしその問いに答えていくことこそが実は私たちとイエス様の関係を深め楔を落とすのですよ。
私たちの告白の重要性
私たちはそれにどうお答えするでしょうか。それぞれの応答があるかと思いますが、ただ
私たちは今朝読んでいる中で信仰の先輩であるペテロの言葉に支えられたいと思います。
私にとってあなたは神のキリストです。と彼は答えました。 あなたは神のキリストです。主は私を本当に罪から救い出してくださった。
囚われる怒りから痛みから解放してくださった。いやそれはまだかもしれないけれども、このお方にならそのことを成すことができる。
そう信じる。私を死の恐れから解き放ち、永遠の命の希望を与えてくださった。
あなたは私のキリスト。私の解放者です。私の王です。私の救い主です。全ての告白が含まれます。
あなたは私のキリスト。この告白は重い問いへの重い告白です。
しかし確かにイエス様と私たちの関係に重い楔を打ち込む告白です。
人間の告白というのはそれでも揺らぎやすいものです。でも何度も何度もその度に問われていくのです。
あなたにとって私は一体何なのか。イエス様は弱い私たち、これは私自身もそうです。
弱い私たちを、しかしそう告白できない私たちをこの告白へと導いてくださるお方です。
いかなる時もイエス様は私たちを手放されません。私たちは手放そうとも。イエス様は私たちを手放されません。
共に歩みたいと常に願っておられます。 そしてイエス様と共に歩み続ける歩みというのはまさに十字架への道です。
しかしそれは十字架の死を通って復活に至る道、命を取り戻す道、回復の道です。
私たちはその道を主と共に歩もうと手を開かれているのです。 私たちはそれにどうお答えするでしょうか。
何度も言います。 聞いて答えていく交わりの中に関係が深まっていくのです。
私たちは主との関係を確かなものにさせていただきたい。 確かな回復の道を歩ませていただきたい。
一緒に主が私たちの告白を支えてくださるように、そのことを願っています。 一言お祈りをいたしましょう。