2023-07-02 24:33

#赦される罪と赦されぬ罪 23/7/2

マルコ-30からの礼拝説教。2023年7月2日録音。 昨日から7月に入りました。夏休み間近のせいか富士山と周辺の山中湖・河口湖など富士五湖周辺を旅する番組がテレビでもよくみられるようです。2週間前の礼拝で見た通りイエス様も、富士五湖ではありませんがガリラヤ湖へ退かれると多くの群衆がとても広い範囲からやってきました。その後イエス様は富士山ではなくイスラエルの小高い山に登り12弟子を任命しました。
今日の箇所は赦されざる罪が主なテーマですが、その中でイエス様の奇跡の根拠についても語られています。1.神ご自身の力による奇跡、2.ユダヤ教指導者への注意、3.聖霊を冒涜する罪、の3つの点を見て行きましょう。

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マルコの福音書3章20節から30節までお読みします。
さて、イエスは家に戻られた。すると、群衆が再び集まってきたので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
これを聞いて、イエスの身内の者たちは、イエスを連れ戻しに出かけてきた。
人々が、イエスはおかしくなったと言っていたからである。
また、エルサレムから下ってきた立法学者たちも、彼はベルゼブルにつかれているとか、アクレードモの頭によってアクレードモを追い出していると言っていた。
そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。
どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
もしサタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
まず、強い者を縛り上げなければ、誰も強い者の家に入って火罪を略奪することはできません。
縛り上げれば、その家を略奪できます。
誠にあなた方に告げます。
人の子らはどんな罪も許していただけます。
また、どれほど神を冒涜することを言っても許していただけます。
しかし、聖霊を冒涜する者は、誰も永遠に許されず、永遠の罪に定められます。
このように言われたのは、彼らがイエスは穢れた霊につかれていると言っていたからである。
以上です。
今日はこのところから、許される罪、許されぬ罪と題して御言葉を取り組みます。
みなさん、おはようございます。
今日は初めて来た方もいらっしゃいますけど、今読んだ聖書のところから、イエス様について学んでいきましょう。
昨日から7月に入りましたね。
それで、夏休みの前のせいか、私はよくテレビの取り番組が好きなんですけども、
昨日も富士湖、富士山と富士湖をバスで巡るテレビ番組をやっていました。
私は川口湖や山中湖が好きなんですけども、2週間前の礼拝で見たんですけども、
イエス様は富士湖じゃなくてガリラ湖に訪れました。
これイスラエルですけども、ガリラ湖ですね。
ここにイエス様は、今日の読んだ聖書の箇所の前に行ったわけです。
その時にですね、この7週間前に学んだんですけども、大体このイエス様が活躍したあたり、
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遠いところはですね、歩いて3日の日のりをかけて、イエス様に会いに来た人たちが集まってきました。
先週見たところはですね、いわゆる十二使徒のイエス様が弟子を選んだところで、
その時はイエス様はどこかの富士山じゃなくてですね、山に残った。
そして十二人を選んだ。そんな話が先週まであったんですけども、
その弟子の二人のペテロという人と、そのお兄さんの弟がアンデレという人の家に今日は入って、
そしてその家の中での出来事が今日、さっき読んだ聖書の箇所の出来事です。
でまぁ、ちょっと勉強的に言いますけども、聖書でこの三章何節と書いてありますけども、
この四章の一節というところまで、その家の中でのこのやり取りがメインになった話になっています。
今日はその一部です。
で、今日のところはですね、先週ちょっと見た、イズカリオテのユタという人が出てきてですね、
イエスがいよいよこれから裏切られるという場面が緊張した場面です。
その中でもっとですね緊張してくるのは、イエス様に対するこの悪い評判が広まっていて、
それに対応するというところが今日の物語です。
で、そんな中からですね、今日のテーマは許されない罪ということが一つあります。
そのことを考えながら三つですね、学んでいきたいと思います。
まず最初はですね、イエスご自身の力による奇跡ということです。
で、ちょっとですね、そこのメインになる聖書の箇所をあげたので、読める方は読んでみましょう。
3章27節。
まず強いものを縛り上げなければ、誰も強いものの家に入って火罪を略奪することはできません。
縛り上げればその家を略奪できます。
この物騒なセイクなんですけど、後でその意味は解説しますね。
で、その前にですね、ここの出来事は、いつものようにこの辺にいたイエス様の評判がこの辺り一面に広がってですね、
このイエス様のいた家にいっぱい人が集まってきた。
食事もできない。
そんなところにですね、イエス様の良い評判だけじゃなくて悪い評判。
一つ目はですね、まあ、ちょっとこれ録音してるから言いにくいんですけど、おかしくなった。
ここまでずっと見てきた中で、いろんなイエス様がですね、病気を治したりとか、
悪霊と考えられていたそういうものを癒したりしてきて、いろんなことを教えているときにそういう評判が広がって、
家族が心配してですね、連れ戻しに来たわけですね。
そしてもう一つは、これですね、次のところ。
またエルサレムから下ってきた立法学者たちも、彼はベルゼブルにつかれているとか、
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悪霊どもの頭によって悪霊どもを追い出していると言っていた。
このですね、図にあるように、この辺でイエス様が活躍しているとすれば、
エルサレムここですね、この当時の宗教と政治の中心地から、わざわざですね、今で言えば裁判官とか、
そういう人がですね、立法学者、聖書の学者が裁判官も兼ねていたので、
やってきて、一日の道のりやってきて、イエス様の言動を審議しに、もっと言うと訴えにですね、調べにやってきたわけですね。
話変わりますけど、昨日のニュースの一つにね、香港が中国に返還されて、26年目だと。
すごく変わったのは、中国の目が厳しくなって、デモが行われなかったって言うんですね。
そういうようにですね、この当局の目が光っていると、脅かされるようにですね、
エルサレムからイエス様を見張りにやってきた。そういうのが今の状況です。
ユダの話じゃないですけども、イエス様に対する敵意と警戒感が、政治と宗教の中心地でも増してきて、わざわざやってきたっていう、そういう緊迫感が伝わってきます。
で、その中でどういう権威がかけられたかっていうと、イエスは当時病院の病気の原因とされていたですね、悪霊を追い出したとか、そういう奇跡を行ったけども、それは悪霊どもの頭だから、それができるんだ。
あるいはですね、ベルゼブルっていうのは簡単に言うと、悪魔っていう意味です。ハエの王とかそういう意味があるんですけども、彼は悪霊につかれているから、仲間としてできるんだという、そういうことのゆえにですね、イエスは奇跡を行うけど、いわゆる異端者だ。
だから逮捕しなきゃいけないっていうでっち上げに来たわけです。で、省略しますけどイエス様はですね、家の分裂とかですね、悪魔の世界の分裂のことも持ち出して、分裂したら滅びるから、そんなことないんだってさっきの話ですね。
私がそのできる原因、それは強いものを縛り上げてっていうことです。どういうことか。これはですね、今大谷選手が話題になってますけど、大谷を抑えればエンゼルスが負けるようにですね、一番の親分を抑えればこの悪霊に勝つんだということで、イエス様はいわゆる悪霊なんかよりもですね、ずっと権威がある。
そういう神のことして私は権威を持って、その敵を縛り上げたから、奇跡が行われるんだって言ったんです。もう一個、今日の箇所を取り扱ったですね、聖書の別の箇所でイエス様はこんなこと言ってるんですね。ちょっと難しいかもしれません。ルカの11章20節とか、読めるかと読んでみましょうか。
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しかし私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなた方のところに来ているのです。神の指ってね、見たことないでしょ。これです。冗談です。これはミケランジェロという有名な画家が描いた天地創造の絵の一部なんですけど、
神の指っていうのは、神様が奇跡や創造の業を行った時に神の指を使った、そういう時に使われる言葉で、これもイエス様が神の子として、言い換えれば神の救い主として奇跡を行って、当然悪霊じゃないんだよということを言っている証拠なんですね。
最初の点で皆さんにぜひわかっていてほしいことは、この当時イエス様が病気治したり、いろんな奇跡を行ったそれは何が起こっているかというと、目に見えない神様がこの世に介入してきて、人々の病気を治したり、助けの手を差し伸べた。それがイエス様の奇跡の本当の意味なんですよ。
神様の救いがイエス様によって、そのところその人にもたらされた悪霊の業じゃなくて、そういう意味に奇跡があるんですよ。そういうことをまず覚えておいてください。
2番目。ユダヤ教指導者への注意。
ちょっと長いんですが、イエス様は最後の方にこう言っているんですね。
1番目。誠にあなた方に言います。人間はどんな罪も許していただけます。どれほど神を冒涜することを言っても許していただけます。しかし、聖霊を冒涜する者は誰も永遠に許されず、永遠の罪に定められます。
このように言われたのは、彼ら立法学者がイエスは穢れた霊につかれていると言っていたからである。
許されない罪があるのか、自分はそういうものに該当しないのか、そういう不安が人なら誰でもあるかと思いますが、安心してください。
はいてますけどね、私。大丈夫です。
ここの文脈ということが大事で、これはユダヤ教の指導者を指して言っているんです。
その前に冒涜というのは何かというと、レジュメにも書いてあるんですけれども、神様に対して反抗的な敵意を抱くこと。
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あえて、わざと神様を否定する。神に対する反抗的な敵意。自分の意思で神様のことを知っているけれども、それに敵対すること。
その上で、この永遠に許されない精霊を冒涜する罪に関してイエス様の言葉は、安心してください。
このスパイの立法学者らのことを第一に想定しているんですよ。
なぜそれが立法学者に当てはまるかというと、立法学者というのは本来イエス様の時代の聖書と言われていた旧約聖書。
そこから生まれた、簡単に言うと、神の道を生きることを教える専門家だったんです。
だから立法学者こそ、神を冒涜するとは何なのかということを本当の意味で知っていなきゃいけない人だったんですね。
だけども、今まで説明したように、イエス様が行った奇跡というのは悪霊の業じゃなくて、精霊なる神の御業以外何ものでもありませんでした。
精霊ってね、ややこしいかもしれませんけど、簡単に言うと、私たちやイエス様を通して働く、あるいは神ご自身の霊と思ってもらえばいいです。
実動舞台みたいな。だからイエス様の奇跡は、精霊なる神の業以外何ものでもなかった。
でも本当は悟るべき立法学者は、イエス様への敵ということのゆえに、あえてですね、それが悪霊の業だとみなしていた。
そうやって知っていなきゃいけない、知っているはずなのに心を固く難にして、故意に、わざと精霊を拒絶する罪を犯しているということをイエス様は指摘しているんです。
だからイエス様は信じている、もし私たちクリスチャンならば、その心配がありません。
例えばね、もし誰でも自分の心に手を当ててみて、私へ罪を犯してしまったな。
あるいはクリスチャンであれば、神様への疑いが生じて、自分の信仰がちょっと心配だなって思った時があるかもしれない。
でもそれはですね、そうやって自分の信仰について不安に思っても、それを心配する必要はないんです。
なぜなら、この精霊を拒絶する人っていうのは、そういう自分の心にある疑いとか、神様に対する疑いとかですね、そういういわゆる不信仰について不安にならないんです。
自分の思いとか、クリスチャンであればなおそら、神様を信じていない自分っていうのは大丈夫なのかなっていう不安を抱くこと自体が、精霊が働いて神に心を向けさせているっていうことであるので、不安を抱くこと自体を心配しないでください。
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それこそ、心を堅くなりして精霊を拒絶するという罪を犯していない証拠だということなんですね。
で、その上でですね、この3章28節というところにですね、福音、良い知らせになる言葉だとある学者は言っているんですね。
これちょっとね、読んでみましょうか、この合格本の中でね。読める方はまことにから。
まことに、あなた方に言います。人の子らはどんな罪も許していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても許していただけます。
つまりね、すごく極端な言い方をすれば、許されない罪はないということなんです。
私たちはそれなぜかというと、このイエス様の十字架のゆえに罪が償われているんですね。
それだから、そのイエス様の十字架を見て、ああ、神の前に罪を犯した、そうやって言うと許されるんですね。
神を汚すことを言ってしまったとしても、それが福音だということを逆説的にですね、覚えておきましょう。
その上で最後に、聖霊を冒涜する罪について、もうちょっとだけ学んでいきましょう。3番目。
聖霊を冒涜する罪とは何ですか。3章29節からわかることは、さっきも言いましたが、イエス様が呉を追い出したり病気を治したりする技というのは、聖霊の技であるということですね。
なんで聖霊を冒涜する立法学者の罪が永遠に許されないのか。ある学者はその理由をこう言っているんですね。ちょっと難しいんですけど。
イエスが呉を追い出す霊は神の聖霊である。
その聖霊を穢れた霊や悪魔的な霊のせいにして、神の救いの奇跡を破壊的なサタンの力とみなすことは、神の許しの世界の外に自分を置くことである。
学者だから難しいんですけど、わかりますよね。
イエス様の聖霊の働きを悪魔だと言っているということは、そういう人は当然、神の許しということも受け入れないから、永遠に許されないんですよ。
そのような堅くなな心を捨てない限り、永遠に許されないんですよということを言っているということなんですね。
その上で大事なこと、つまりこのイエス様をスパイしに来た立法学者らのしたことは、救い主イエス様とそのイエス様によって働くこの聖霊に対して、
そしてそれはちょっと難しくなるかもしれませんが、そのイエス様がする救いを拒絶することになる。
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だから永遠の罪に定められる。それは当然だということなんですね。
ここから私たち、特にクリスチャーの人は積極的なことを学んでいきましょう。
それは前向きな教訓。それは日常生活で経験するイエス様の救いについて、もっと目を開いて積極的に認めていこうということなんですね。
ピンと来る方もいるかと思いますけれども、これまで礼拝のマルコの福音書の説教でお伝えしたように、
イエス様の時代のように今の私たちは病気の時祈ってもすぐに治るということがないかもしれません。
治るという人もいるんです。でも、ないという人があっても心配しないでいいですね。
今は病気になったら病院に行けますよね。私も行きます。
明日、歯医者に行きますしね。歯が痛い。ロキソニーに飲んだ歯の痛みを抑えたりしてるんですよ、前が。
そういうことよりも、癒しの必要もあるんですけど、それ以上に日常生活の中でいろんな第7章の救いを必要とするのが私たちです。
例えば、学生なら勉強している、あるいは家にいる方なら家庭生活の中で仕事をしていれば仕事をしている上で必要かもしれません。
あまり僕、礼拝で言わないんですけど、一般の仕事をしているんですね。営業をしなきゃいけない。
本当にですね、追い詰まられて神様を助けてくださいと言うと不思議な出会いがあるんです。
で、同僚とか上司にすごいですねって言われて、イエス様のおかげですって言うと、はぁ?みたいな顔をするんですけど。
それはですね、私が牧師であることを認めてくれているから言えるんですけど、本当にですね、皆さんこんなことでもいいのかなっていうことでいいので、困ったり苦しいときに車の運転しながらでも歩きながらでもいいんです。
イエス様を助けてください。そういうシンプルなですね、信仰で祈ってみてください。
本当にイエス様ってわかりやすいでしょ、今日の聖書の文字。だから、なんかわかんない神じゃなくて、イエス様を助けてください。それがですね、シンプルな信仰。
で、その時に忘れてしまうかもしれませんけど、思い出すと、これ経験した人しかわかんないんですけど、本当に神様っているんだなっていうのがね、
言葉じゃなくて実感でわかります。人にわかんなくてもいいんです。自己満足で。
だから、そういう日常生活の中で仕事、学校、家庭、何でもいいですから、そういう中でイエス様を助けてくださいと祈ってみてください。
で、そういう時にですね、ラッキーって思うだけじゃなくて、イエス様ありがとうございますと言えたら、今日の学びが生きてきますね。
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もちろん悪霊のせいにしません。じゃなくて、イエス様ありがとうございますっていうシンプルな信仰。そういうのをですね、神様は喜んでくださるんですね。
そしてその時にですね、イエス様を助けてくださっただけじゃなくて、今、分かっているか分からない、あ、精霊が働くってこういうことなんだなということもわかります。
で、私、僕としてですね、本当に皆さんに願っているのは、日々のちっちゃいことでですね、イエス様に自分を助けてもらった、救ってもらったっていう経験をね、すること。
それがですね、クリスチャン生活によく言うんですけど、大言、そういうものは尽きない。
はい、まあ、長くなるのでそこまでにしておきます。
まあ、そういうことですので、積極的に今日のことを受け止めて、悪霊のせいにはしないけども、その素晴らしい救いをイエス様ありがとうって言える信仰を養えてらと思います。
最後にですね、なんかその神が救ってくださった、救ってくださいっていう思いを祈りにした聖書の言葉を引用して終わりにしましょう。
詩編の145編の5節から7節の罰水ですね。
ちょっと初めて読む、ちょっと難しいかもしれませんが、頑張って読んでみましょう。
このお祈りですね、昔の神のための。
三杯。
お祈りしましょう。
イエス様、皆を賛美いたします。
あなたはこの地上を歩まれた時に、神の霊によって救いの見業を成し遂げて、一人一人にまた私たちのために成してくださったことを感謝します。
今私たちはあなたのことを目に見ることはできません。
しかしまさに神の霊として私たちの中に、私たちと共にいてくださることを感謝します。
どうか私たち一人一人が日々の生活の中で困った時、苦しい時、あなたに助けを求め、どうかあなたがその手を差し伸べ、まさに神の指で私たち一人一人に救いを成し遂げてください。
この素晴らしいあなたの救いを私たち一人一人が体験し、そしてイエス様、あなたに感謝を捧げることができますように。
この願いと感謝を、私たちの救い主イエス様のお名前によってお祈りします。
24:04
アーメン
それでは1分ほどですね。
黙祷してください。
それぞれ心にある思いを黙ってもいいですし、何か言葉にしながら黙祷の中で祈っていきましょう。
1分ほど黙祷しましょう。
24:33

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