2024-06-23 26:33

#ナルド香油の真価 24/6/23

マルコ14:1-11からの礼拝説教。2024年6月23日録音。今日の箇所はイエス様の逮捕がいよいよ間近に迫っている日の出来事です。ここにはある女性がイエス様の頭に注いだ300デナリの香油を中心としたやり取りが記されています。300デナリは当時の労働者の日当300日分です。正確なレート計算ではありませんが分かりやすく仮に300万円の香油としましょう。その女性の行為を弟子たちは無駄遣いであると非難したのです。そこからそのナルドの香油や女性の行為の真価に関連して1. 300万円と2円、2.「いつでも」と「いつも」、3.悪意と善意の3つの点から考えて行きましょう。


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サマリー

マルコの福音書の14章1節から11節には、イエスが食事をしている最中に一人の女性が非常に高価なナルド香油をイエスの頭に注ぐ場面が描かれています。その行為を非難する者たちとのやりとりも描かれていますが、イエスは彼女をかばい、彼女の行為を賞賛されています。このエピソードでは、イエス様への献身と神様の贖いの死が描かれており、善悪が混在する中での行動と陰謀が示唆され、人々の善意と悪意から謎や不思議が生まれています。

高価なナルド油の注ぎ込み
マルコの福音書の14章、1節から11節をお読みします。
過越の祭り、すなわち、羽梨パンの祭りが二日後に迫っていた西施長たちと立法学者たちは、イエスを騙して捕らえ殺すための良い方法を探していた。
彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない。」と話していた。
さて、イエスがベタニアでサーラトに侵された人、シモンの家におられた時のことである。
食事をしておられると、ある女の人が純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持ってきて、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに行った。
何のために小油をこんなに無駄にしたのか。
この小油なら、三百でなり以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。
そして彼女を厳しく責めた。
するとイエスは言われた。
彼女をするままにさせておきなさい。
なぜ困らせるのですか。
私のために良いことをしてくれたのです。
貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいます。
あなた方は望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。
しかし私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
彼女は自分にできることをしたのです。
埋葬に備えて、私の体に前もって小油を塗ってくれました。
誠にあなた方に言います。
世界中どこででも福音が述べ伝えられるところでは、
この人がしたこともこの人の記念として語られます。
さて、十二人の一人であるイスカリオーテのユダは
祭司長たちのところへ行った。
イエスを引き渡すためであった。
彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
そこでユダはどうすればイエスをうまく引き渡せるかと
その記憶を伺っていた。
以上です。
今日はこのところから、
ナルド公有の進化となりましてお話しします。
皆さん、おはようございます。
関東地方も、先週の21日、金曜日に梅雨入りをしました。
そして、今朝は西の方など豪雨の警報などが出て、
ニュースなどでも警報を出しておりましたけれども、
少し雨降りの朝ですけれども、
皆さんと共に礼拝できることを感謝しています。
非難と賞賛の対比
さて、今日の歌詞はイエス様が逮捕、
いよいよ明日、明後日というところの
ある日の出来事なんですけれども、
ある女性がイエス様の頭に注いだ
300デナリの公有を中心としたやりとりが記されています。
300デナリは当時の労働者の日当300日分と言うんですね。
正確なレートの計算ではありませんが、
分かりやすく仮に300万円の公有としましょう。
日当、今1万円でも安いと調べたんですけれどもね。
300万円ぐらいと分かりやすく言っておきます。
その公有を弟子たち、ある人が言ってますけど、おそらく弟子たちです。
弟子たちは無駄遣いであると非難しました。
そこから、この鳴門の公有や女性の公有の進化について、
本当の価値ということを3つの点から、
いろんな比較が出てくるんですけれども、
そういうことも見ながら考えていきます。
まず最初が300万円と2円という比較です。
一番最初ですね。
冒頭、この女性が公有を注いだというところの見言葉を引用してますけれども、
こう書いてあります。
無駄遣いだと言ったら、するとイエスは言われた。
彼女をするままにさせておきなさい。
なぜ困らせるのですか。
じゃあ赤字のところから最後まで読んでみましょうか。
私のために良いことをしてくれたのです。
彼女は自分にできることをしたのです。
埋葬に備えて、私の体に前もって公有を塗ってくれました。
6節8節のバスツイーですけれども。
無駄遣いだと非難されたこの女性。
公有がおそらく陶器に入っていたんですね。
注いだんじゃなくて割ったわけですから、
300万円が全部無駄になったと思ったわけですね。
一部取っておけば使えたわけですけれども。
しかしイエス様はこの言葉のように女性をかばって、
非難した人からかばって、むしろ褒めたわけですね。
私のために良いことをしてくれた。
するままにさせておきなさい。
なぜ困らせるのですかと非難する人たちを反対に
イエス様は咎めたわけです。
そして彼女は私のために良いことをしてくれた。
彼女は自分にできることをしたと言っているんですね。
この良いことというのはギリシャ語でカロスと言うんですけれども、
タイミング、時期にかなった。
グッドタイミングということなんです。
そして美しいこと。
そういうことを意味するんですね。
実はこのナルドの甲乳というのは、
額名が書いてありますけれども、
インド地方原産としたオミナエシカの植物です。
漢方ではカンショウコウと言って、
日本ではないですけど今でも用いられるようなんですね。
当時はインド地方からの輸入品ですから非常に高価です。
そして匂いがとても良いので、
お金のある方の香料にしたり、
イエス様が言っているように、
エジプトなどもそうなんですけれども、
死んだ人は焼かずに巻いてお墓に入れましたから、
腐敗臭とかもあったので、
防腐剤というか良い香りをマイソンの時につける。
そのように用いられたわけなんです。
彼女が、
詳しくは言いませんけれども、
元ツアラとは育っていて、
多分癒されたであろう男性の家で、
ベタニアというエルサルミカの家で、
おそらく最後の晩餐の前後だったのでしょうかね、
食事している時に彼女が壺を割りました。
するとどうですか?
部屋中にとても良い香りが充満するわけですね。
今インバウンドでいろいろ外国の方が入ってきますけど、
外国人の人にいろんなものが人気があるものの中で、
線香が人気があるんです。
お香が。
いろんなシナモンの香りとか、
日本風でフルーツの香りとか、
そういうものをブレンドして、
そういうものをわざわざ外国から来て日本で買うために、
観光に来たという人もいるぐらい。
それぐらいですね、
このフレーグランス、香りというのは、
洋の東西を問わず人々に人気があった至高品だったんです。
その何とも言えない良い香りが部屋中に充満した。
まさにこの美しい香りだったわけですね。
そして先ほども申しましたが、
埋葬のための香料でもありました。
そしてイエス様がおっしゃっているように、
イエス様の埋葬に備えて、
イエス様の体に前もって、
イエス様の行為を縫ってくれたということなんですね。
イエス様は、この前も言っています、
イエス様はなぜ死んだか。
それは多くの人のための贖いの代価として、
自分の命を捧げたと言います。
私たちがその恩恵に預かっていますが、
やがて文字通り世界中の人に、
イエス様の贖いの死が伝えられて、
多くの人が救われていく。
そしてその捧げられた尊い命というのは、
まさに神の御子なるお方の命です。
そのようなイエス様の犠牲の大きさとか、
その捧げた命の意義、
そういうものを考えたらですね、
もしかしたら当時の300万円でも、
300円でなりでも決して高くない、
それほどのイエス様の贖いの死というのは、
価値があったのではないかと。
この他の表題にもありますけれども、
たった2円であっても、
イエス様は素晴らしいと以前評価しました。
つまりしばらく前に言いました神殿で、
レプタ道家2枚、
当時の最低のお金の単位の道家を2枚、
今で言えば2円をこの神殿に捧げた人に対して、
イエス様は誰よりも多く捧げたと、
12章のところで評価したんですね。
それがこの言葉ですね。
12章の43、44。
その2円を捧げた、
レプタ道家2枚を捧げた貧しい山目を見て、
イエスは弟子たちを呼んで言われた。
まことにあなた方に言います。
この貧しい山目は献金箱に投げ入れている人々の中で、
誰よりも多くを投げ入れました。
金持ちがいっぱいお金を捧げているということが前に書いてありましたね。
それで皆はあり余る中から入れたのに、
ここから行きましょうか、読める方。
この人は貧しい中から持っているすべてを、
生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。
周りからしたらですね、
お前たった2円かと言って非難される。
おかしくない。
このイエス様に恋を注いだ女性は、
お前300万も無駄にするのかと非難された。
人間って面白いですよね。
少なければ少ないで非難するし、
たくさん捧げればたくさん捧げたでも非難されるわけです。
そのようにどうあっても非難されてしまうということもあるんですけれども、
それ以上にイエス様は、
このたった2レプタを捧げた貧しい山目のことも
素晴らしい。
誰よりも多く投げれたと称賛したわけですね。
言い換えればイエス様はですね、
300でなり入れたこの行為を捧げた女性も、
2レプタどうかを捧げた女性も、
上辺ではなくてその心をご覧になったんですね。
イエス様はですね、
それは私たちについても、
私たちがイエス様のため、
人のために成したその行為、
世間一般の価値観からしたら、
それは300万円に相当するほど素晴らしいかもしれない。
あるいはたった2円の価値しかないことかもしれません。
でもそのような世間がする評価ではなくて、
イエス様は私たちのする行動や奉仕の心をご覧になってくださる
ということを覚えておきたいと思います。
イエスの教え
ある旧約聖書の中で、
このような言葉が語られていますね。
これはダビデ王が最初に選ばれた時の言葉なんですけれども、
その時こう言いました。
彼の容姿や背の高さを見てはならない。
私は彼をしりぞけている。
ダビデのお兄さんが素晴らしかったんですけれどもね。
そうじゃなかった。この素晴らしい人じゃなかった。
その理由がここですね。
ここから読んでみましょうか。
人が見るようには見ないからだ。
人は上辺を見るが主は頃を見る。
人は上辺を見るが主、神様は心を見てください。
そのことを覚えていきたいと思います。
2番目の比較。
それは、いつでもといつもということです。
イエス様は避難する弟子たちに答えて、
その女性をカバーに評価してこうおっしゃいました。
貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいます。
あなた方が望む時、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。
しかし私はいつもあなた方と一緒にいるわけではありません。
このいつでもといつもというところの比較なんですけれども、
それと関連して弟子たちは繰り返しますが、
この金額を気にしていたんです。
でもイエス様は時やタイミングについてここで言及しています。
いつもといつでもという言葉でそれが表されていますね。
ちょっと考えてみてください。
もしここでイエス様と女性を訴えている弟子たちが
この女性からこの行為をプレゼントされて
300デナリーが手に入ったとしたら、
彼らは貧しい人に施したでしょうかね。
300万円を手にしたら皆さんどう使いますか。
貧しい人に分け与えるでしょうかね。
おそらく弟子たちはこのようにイエス様を訴えた背景には
弟子の機弁として貧しい人への施しを我々にしたに過ぎなかったようです。
イエス様はそれについてこのような問いかけ。
貧しい人たちはあなた方といつも一緒にいる。
その気になれば施しができるでしょう。
この言葉の裏というか背後には
貧しい人たちに対してあなた方はその気になれば
いつでも施しができますね。
その機会を活かしていますかという眼蓄があったのかもしれません。
さらにですね、いつもといつでも。
時、タイミングってことを考えたときに
弟子たちはこれまで何度もイエス様の受難の予告を聞いていました。
3回は最適に行ったんですね。
安倍首相、パリサイビルたち、サンヘドリンの議員たちに捕らえられて
殺されるって何度も言ってました。
でもまさにイエス様がこれから逮捕されようという時にあっても
イエス様への献身
弟子たちはそのタイミングを悟っていなかったようですね。
一方、この女性の素晴らしさは
イエス様が今家を訪れているこのタイミングに
さらに受難に向かっているこの時こそ
相応しい捧げ物、埋葬のための準備としての捧げ物として
この行為を捧げたということがあるわけです。
このイエス様受難の前という、しかもイエス様が目の前にいて
今しかないという時に、相応しい捧げ物、効果でありましたが
それをイエス様に捧げたというタイミングを捉えた
彼女のタイミングを捉えてあって
施しをするというところをイエス様は評価したわけですね。
今の私たちにとっては、当然この女性のように
一説によるとこれはマグダラのマリアだったのではないかと言われています。
ここの家はマリアの家、ラザロの家だったのではないかと言われているんですけれども
この女性のように私たちはイエス様に文字通り
300万の行為を誘うことなんかできないですよね。
しかし私たちはその時々に何がすべきかということを読んで
そして今イエス様の招きにどう答えるか
そのようなことはできるわけです。
あり得に今目の前の人に今どう使えるのか
そして神様と人に使えるものとして
今私は何をすべきかという時期を読んで
このふさわしく神と人に使えることはできるのではないかと思うわけですね。
パウロはエペソビートの手紙5章15節16節で
このようなことを言っていますので読んでみましょうか。
ちょっと長いかもしれませんが、ですからから読んでみましょう。
ですから自分がどのように歩んでいるか
あなた方は細かく注意を払いなさい。
知恵のないものとしてではなく
知恵のあるものとして機会を十分に生かしなさい。
悪い時代だからです。
このようにイエス様にお答えするタイミングを
生かしながら歩んでいくお互いでやりたいと思います。
最後、悪意と善意という企画から見ていきましょう。
今日のところの最後の部分、10節11節にこう締めくくってあるんですね。
さて、住人の一人であるイスカリオテのユダは
祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
そこでユダはどうすればイエスをうまく引き渡せるかと
その気を伺っていた。
今日説教の中で読みませんでしたが、
最初に読んだ14章の頭に
祭司長と立法学者たちは
イエスを殺そうと捉えようとしていた。
でも祭りの間に騒ぎになるからどうしようか。
もう一つ難しいことは
その当時エルサリもたくさんの人が巡礼に来ていましたから
その中から間違いなくイエス様を秘密裏に捕まえることは非常に難しかった。
それでどうしたかというと
イエス様と3年間共にしたユダが
どれがイエスかということを言い当てて
うまく捕まえる算段をすることができたわけです。
その話をまさに
祭司長、立法学者、当時の三ヘドリの議員たちに
ユダが持っていったからですね。
渡りに船ということで
イエス様を秘密裏に騒ぎが起こらないように捕らえようとしていた
この議員たちは大喜びしたわけです。
一説によるとユダは
この弟子たちの中で金庫盤をしていたんですね。
だからこの女性の300デナリを非難したのは
ユダではなかったのかという説もあるわけです。
そのようなことがここの背景にあるわけです。
皆さんご覧いただいたように
前後に陰謀が
この残落の一番最初と最後に陰謀がこうやってあるわけですね。
そしてその間に挟まれるように
この女性のイエス様への献身ということが描かれています。
このイエス様の逮捕と殺害の意図と陰謀が記されて
そしてその動機の善悪や行動の明暗ですね。
善悪、この良い美しい彼女の行動と
議員たちとユダの悪しき計画
そしてこの光のような行為を注いだ行為と
また夜の闇の中の陰謀ということが
退避されているんですね、この箇所では。
でも一つの同じテーマがここに貫かれています。
それは福音としてのイエス様の贖いの死ということです。
繰り返しますけれども
このイエス様が彼女を評価した中でこう言っているんですね。
彼女は持っていたもので行ったのです。
この葬りのための行為を私の体にあらかじめ注いだのです。
そして福音が述べ伝えられるところなら
善悪と陰謀
この世界のどこででも彼女がしたことは
彼女の記念として語られるでしょうとイエス様が言っているのです。
この約束が成就してまさにマルコの福音書で記されています。
そして四つの福音書のうちのルカを除く
三つの福音書にこの出来事は記されています。
そのイエス様の言葉が実現して
この女性が世界中に知られるようになったわけですね。
ここの中に福音という言葉があって
それが世界中に述べ伝えられるとあって
それはイエス様の贖いの死と関わりがあるということが示唆されています。
今文字通り福音と彼女の物語は
世界中に福音とともに広がっているということですね。
そして繰り返しますが
このイエス様の贖いの死が実現したのはどうやってか。
サンヘドリンの議員たちの陰謀
そしてイスカリオーテのユダの裏切り
それがあったからこそ実はイエス様が捕らえられて
十字架にかけられて死なれたというわけです。
そしてその死は多くの人のための罪の贖いの身代わりの死だったということですね。
このように人間の善意と悪意が混在する中で
神様の救いが成し遂げられていっている
そこに謎と不思議
神様の宮座の実現における謎と不思議ということが見て取れるわけなんですね。
神様の贖いの死
私たちはこの謎の行為を捧げた女性のように
真底からイエス様に使いたいと思っているかと思います。
同時にこのユダのような後ろ暗いところが
自分の中にあると思うかもしれません。
当然私たちはユダのようになってはいけないし
なりたいと思わないわけですけれども
そういう部分もないとも言えないわけですよね。
さらにまさに今の世の中、善悪が渦巻いていく。
その中で将来どうなっていくのか
不安があるかもしれません。
このような自分の不安定さや
世の中の不安定さということがあるかもしれませんが
しかしですね
必ず神の贖いの宮座が成し遂げられたように
私たちは全てを神様にお委ねして
神様イエス様と人のために
できることをさせていただければ
それでよろしいんじゃないかと思うわけですね。
そのように神様に委ねて
神様と人に仕えていくお互いでありたいと思います。
今日の歌書と実は関係している
詩編の御言葉を最後読んで終わりにしたいと思います。
41編の1節2節です。
幸いなことよ弱っている者に心を配る人は
災いの日に主はその人を助け出される。
最後だけ読んでみましょうか。
主は彼を見守り彼を生かし
地上で幸せなものとされる
どうか彼を敵の威のままにさせないでください。
詩編41編1節2節お祈りしましょう。
天の神様、あなたはイエス様を通して
私たちの贖いを成し遂げて下さいました。
そこには人々の善意と悪意が入り混じった。
謎や不思議がございました。
私たちは願わくはこの女性のように
イエス様に自らを捧げていきたいと思っております。
どうぞ私たちをお導きください。
あなたはどうか私たちの目や心を開いて
今この時それぞれの時において
どうあなたにお答えするべきなのか
そのことを悟り歩んでいくことができるように導いてください。
このようにしてあなたの福音が
どうか教会や私たちを通しても
広められますよう伝え私たちを持ち下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど神様に応えて
目との祈りをしましょう。
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