1. 名谷教会
  2. 2022/01/16:新しい出発への保証
2022-01-16 39:32

2022/01/16:新しい出発への保証

2022/01/16 新年聖会1

斎藤亘師

ヨシュア記 1:1-9


00:01
おはようございます。
今回、こうして皆さん方のお祈りの中で、
二人こういう誓いが与えられまして、大変感謝しております。
これまでも何回かご用させていただいておりますけれども、
ご用するたびに、また失敗したな、またこんなこと言っちゃったな、
そういうことがいつもありまして、自分で満足できるようなメッセージが
やっぱり生涯これはできないなと、そういう思いを持つのですから、
こういう機会が与えられますと大変緊張いたします。
大阪で伝道しておりましたときは、午前中に3回の礼拝のご用がありましたからね、
それぞれ場所は違うんですけれども、3回となると大変、
時にはやりやすい、皆さんから見られると大変だなと思われるか分かりませんけれどもね、
結構やりやすいんですね。
ユン先生を派遣しております西洋教会さんの西洋教会の先生は、
やはり5回ぐらいはメッセージをしないと、
日曜日のときには早朝礼拝から始まって、
そしてユン先生や他に何人もね、そういう福祉的な立場の方がおられるんですけれども、
1回か2回お任せするぐらい、あとは全部ご自分がなさっておられた。
そのぐらいしないと、説教はなかなか物にならないという、
そういうことを聞いて、私は3回やっているんだと。
まあまあそんな思いをしながら、けれども今朝こうして与えられた機会、時間の中で、
午前と午後と2回の御用をさせていただくこと、大変感謝しております。
ただこの1月の御用は、皆さん方も経験されておりますようにね、
27年前に、ちょうどこの日は当時大阪では教区新年生会というのがありましてね、
終わるとそのときは平岡山荘という一駒山の中腹に、そういう研修所のようなところがありまして、
03:03
そこで泊まりがけで、新年の牧師会を夕方から、生会が終わって、夕方から翌日の昼まですると。
泊まりましてね、翌朝、6時でしたか6時半からの早天祈祷会のために、
着て身支度をしているときに何かこう揺れを感じたんですね。
それ以上のことはあまり感じなくて。
終わって、食堂でテレビがありますので、そこに初めて地震の様子が映りましてね。
その様子というのは、大きなウィンドウが壊れて、近くを通っていた高齢の方が傷を負われたという、その程度なんですよね。
そのうち、沼澤裕明という先生がおられましてね、宴教会に。
この先生に電話があった。奥さんから電話で、教会の屋根が崩れた。
じゃあ、お互いが震源地かっていうね、そんなことを交わすぐらい。
ところが、午前の牧師会を終えましたら、テレビは、状況は全く一変した。
もう皆さんご存知のように、またご存知だけじゃない、体験された通りの、当時の阪神淡路の震災が恐ろしいほどの展開の中でもって、ニュースとして目に入ってきました。
それで急いで牧師会は、和歌山からも来てますからね。
これでは、交通機関がダメになるだろうから、もうここでやめて、そして急いで帰りましょうということになった。
そういう記憶と言いましょうか、それからちょうど、その時私は教団総務を担当しておりましたんでね。
行ける範囲で、この神戸地区の教会を安否を問うということで回りました。
大石教会は、かろうじで玄関のそのところが残ったんでしょうかね。
あとはもう崩壊して。
で当時、武田先生って方が牧師をしておりましたから、どこ行ったんだろうかって聞いたら、近くの中学か小学校のグランドに車ごと待機してるっていうことで、やっと探し当てて、そしたらもうここから出れないんだっていう。
06:02
もう出たらすぐ後に車が来ると、もう行く場所がないんだ、だからここで頑張るしかないって言ってですね、なさっておられた。
当時委員長されておりましたのが福岡教会の横田牧師でした。
横田先生は赤島で来て、そしてできるだけ阪神間の教会を回ると。
で私は西宮教会に救済センターっていうんでしょうかね、救援物資が来ると、その当時はまだ教団事務所が大宮八幡でしたから、あまり用を足さないので、
西宮教会に頼んで、そしてそこに救援物資が集まるようにして、そこからできるだけ配るようにしようと。
私はちょうど和田先生が進学生でおりましたので、彼に教会のバイクを西宮まで届けるって彼も大変だったと思います。
そしてそのバイクで持って足谷川教会へずっと回りました。
足谷川教会では教会の前に住んでおりました長男家族。
その御長男、県司さんが亡くなった。
かろうじて、その父親の両妻で寝ておりました二人の幼子が、お父さんの体が支えになって、そして助かったということを聞きました。
本当に大変なところだったなと思いながら、いくつかの教会を回りましたけれども、
その時に西武教会に参りましたら、西武教会は液状化状態で、もう街道が傾いちゃったという、そういう状態。
で、正先生の奥さんは、もう斉藤先生ね、私はもうずーっと、宮谷川の、宮谷川じゃない、なんですかね、川の後編のところにおって、
救援物資としてくるおにぎり、冷たいおにぎりをね、食べてずっと支えられてきた。
けれども正直言って大変だった。もう体中が全部冷えちゃったと言っておられたことが耳に残っておりますが、
こういう話をしますと、皆さんの方がそれぞれ状況の中で経験されてこられたと思います。
で、私はやはり1月のこうした機会を迎えますとね、やはりその時の事柄、自分なりに日聞きした、体験された方の話などを伺いながら、
09:13
本当に大変なところを通られたな、けれどもそこを起点にしてね、また神戸は、この阪神地区は、2人立ち上がって今、土壌にあるわけですね。
で、この吉明ですが、この吉明は、私にとりましてはね、前にもお明かししたことがありますけれども、
私の人生を、この旧説の最初の言葉が、私があなたに命じたではないかという、この言葉が私の生涯を決定してきたと言ったら、ちょっと大げさに聞こえますけれども、
実際その時決まったんですね。当時は文語訳清書でした。我何時に命じしにあらずや、ある集会でそんな話をしましたらね、1人の高校生が寄ってきまして、あらずやったら先生否定じゃないかな、
え、ちょっと待てよ、お前には命じたんではないんだっていう、ちょっとそうすると理解の仕方によってはだいぶ違う。いや私は、そうじゃなくて、私が命じたんだっていう、そういうことで受け止めてきたけれども、あなたは指定的に考える?
そんなやり取りをしたことがありますけれども、しかし私にとりましてはね、ある晩、この通読がよしやきに入りましてね、当時の私にとりましては、初めてお目にかかるような、そういうよしやきでした。
そしてこの旧説に入ってきた時に、我何時に命じしにあらずや、その時私は気持ちの上では半分ぐらいは献身していこうかっていう、そういう気持ちを持ち、またそういうところで立ったこともあるんですね。
当時私は、森山里司という先生が、まだ私たちの平川の教会は、スウェーデンホルネスミッションという、そのミッションの教会でしたから、まだ教会形式は何もない。
集まったのは高校生ぐらいなんですね。そこに森山先生が招かれて、そしてよく集会をされた。ある集会で、そこで献身のね、救いの決心と献身の決心とあったんですね。
12:08
私は救いの決心、それは、はいって言ってですね、もう参院して申し込みました。それで私はひばらこで持って宣伝を受けました。
そしたら森山先生から、このキャンプで一人献身をお願いでたのがある、最初に立ちなさいと。
え、なんで私が?そんなつもりで帰った。2枚目がそれだったんです。あまり気にせずに帰っちゃったんですね。
献身ってあんまり言ったこともないし、聞いたこともないしなと思いながら、しかし立たされて、そこでいや、あれは違うんですと言ったら、私の最初のね、救いの願いまでも否定されるような感じがしましたから、
もう知らないので立っていこうかと言って、そんな簡易な気持ちでね、立ったんです。だから私はそれからが大変だった。
というのは、自分の中にはそういう思いがあまりないのに。ただ宣教師は、斉藤さんはあなたね、今度は教会学校のそれをしなさいと言われて。
そして教会学校でお話をしたりしたら、あるとき子供がやってきましてね、先生、生まれ子と話すねって言われたのが、今でも忘れられないんですけども、もう一生懸命準備してやった。
もうそんな法事でしたからね、途中で疲れちゃってね、もう献身の法事がなくなっちゃって、これはもう教会からくもがくれした方がいいなと言うような、正直そういう思いだったんです。
そんな状況の中で、聖書通読だけはこうするんですね。
そしてこのよしやきに入って、そしてこの旧説のこの言葉を目にしたときに、読んだ言葉ですけどね、私にとってはその時の私にとっては、聞いた言葉だった。
私がお前に命じたんだっていう、そういうことで私の中にこれが入ってきたんですね。
それが私は自分の思いだけじゃなくて、あるいはとんでもない誤解からそこに名前を変えたっていう、それじゃなくて、
その背後には神様の説明の手を、そしてこんな私にも目を止めてくださったんだなっていう、そういう思いで翌日学校に行きまして、
何か高校の時のクラスメイトも含めてクリシアンの何かがおりましたから、読んでね、こういう言葉が私は与えられたんだけどなって言って、
15:01
それからそのまま山に行って一緒にお祈りをするっていう、そういうことがありました。
ですから私にとってこのよしやきっていうのは、こういう証は何回も指摘しているから、皆さんも気になっていると思うんですけど、ここでもやったと思うんですね。
それくらい私にとってはね、私の人生の中において、神様がかかり深く入ってきてくださって、
そしてこんな身も見せやりもわからないようなものを、私がお前に命じたって言われたからじゃなく、自分の気持ちでやろうと思ってっていうのではなく、私がお前に命じたんだ。
このよしやがそのことを知るから大きくなって、そして彼は若くしてこれからのイスラエルの人たちを導いていかなくちゃいけない。
しかもこのよしやきを見ますと、出だしにね、モーセは死んだ、モーセは死んだ、もう繰り返しモーセの最後のことをそこに述べながら、モーセに約束したように私はあなたに約束する。
あなたは立って、イスラエルを導き、このヨルダン川を渡れっていう、そういう主の関わりがここで、このよしやに向けられたわけですよ。
ここに見られる主が、繰り返しおっしゃった、私のしもべ、モーセは死んだ。
それより今、あなたとこのイスラエルの民とは、共に立ってこのヨルダンを渡り、私がイスラエルの人々に与える血に行きなさい。
三つの行動命令が出たんですね。立ちなさい、そして渡りなさい、そして行きなさい、というこの言葉です。
大事なことは、このよしやにとっての大切なことは、自分たちにとって、また個人的には、自分にとってモーセの存在は非常に大きく、
モーセがいてこそ、私がそばでもって、ここで働きが任せられて、そしてすることができた。
18:06
モーセがおられればこそ、皆さんも、モーセを通して私を信頼して、そしてこうかれた。
けれども、その支えとなっているモーセが死んだ、その状況の中で、よしやが立てられたわけです。
モーセに向けられる信頼というもの、そのまま自分が受け継ぐなんてことは、当然考えられない。
モーセがあってのイスラエル、モーセがあっての自分。
しかし、この二節のこの言葉は、そういう過去との欠別ということを、主がそこでおっしゃっているわけですね。
状況といえば、申し上げたように、失礼事故として以来40年。
この、過夜して、そして約束の地まで来た。
で、ここでこのヨルダン川を渡るっていう。
実は、イスラエルはここに一度、ヨルダン川を前にして、そして約束の地を見たってことがあるんですね。
民主主義の十二章や十四章あたりを見てまいりますと、
その時に、その約束の地がどういうところか、みなさん調べてきなさいと言われて、それぞれの部族から一人ずつ選ばれて、
そしてその中に、当時補正屋と言いましたけれども、よしやを持ったわけですよ。
カレブという青年を持った。
で、他十人が、一緒に十人が一緒に、この人間行って、そしてどういう土地かというところを見てきた。
本当によく越えた。
けれどもそこにはね、あまり行くはじめ、強大な、そういう先人民族と言いましょうか、今の言葉で言うなら、
そういう人たちがおって、とてもね、長い40年にわたって歩いてきた私たちにとっては、
もうこれから行くわけにいかないというような、そういう思いで持って、
もう大方が皆、そういう消極的な思いを引かなかった。
ところがその時に、このよしやとこのカレブは、けれどもあのところは、見ての通り、神様が約束された、そういう場所だって。
もうせよ、ここをもうせよって言われたんですよね。
もうせ先生、もう一緒に渡り抜きだって言って、それでこう、まあ、進言した。
21:06
けれども多数決でね。
そしてもうせまろんも、やはり大政がそれやれば、まあここは一回、静岡をと言うとて、静いたんですよ。
そのために、これそれからの40年、もうせもそうです。
他誰一人?いや、その中で二人だけ。
よしやとこのカレブだけ。ワン。
夜段を渡って、そして約束の地に入ってきましたけれども、それ以外の人たちは、皆荒野でもって亡くなった。
そのことを、御言葉がそのことを実証しておりますけれども。
ですからそこがね、そういう経験もあるよしやにとっては、これからイスラエルの人たちをして、自分が先飛んじゃっていかなきゃいけない。
それにあたって、師がそこで示しなさったのは、もうせは死んだ。もうせは死んだ。
まあ過去のこととしてね、そこに立って、そしていつまでも、いやあの時はこうだった、あの人殺ったからこうだったと言って、ではなくて。
今必要なことは、もうせという偉大な指導者の死を踏まえながら、改めてイスラエルとよしやに対して約束の地を見せながら、そこへ導こうとする死。
ですから条件は、どんな偉大な人物があっても、どんな素晴らしい経験があったとしても、それを全部決滅しなさい。
そしてあなたがたは、今私が約束した通りの、この通りのお言葉でもって、約束の地に入りなさい。
まあ先ほどね、池田先生がご高齢のあって、一瞬誰のことかなと、ふっと思いましたよ。
そうしてみては、今私たちの教団でもね、私よりも先輩の方で、まあ頑張って生き延びておられる方が、4人ほどおられます。
それしかいなくなっちゃったんです。
あとみんな手に挙げられて、ですから先ほどの歌を思うとですね、やがて未満に不必要がありますけれども、やがてその日が来るわけです。
私も今年85歳になるわけですけれども、しかし本田先生は86歳から日本柔断伝道というビジョンが耐えられて、そして立ち上がられたんです。
24:16
それを記憶の中にありますとね、あの先生は私のもう一つ上で、それで日本柔断伝道って、やはり信仰の人だなと、行動の人だなと、そう思いながら、改めて尊敬するんですけれどもね、
まあそういう先輩の方もおられますが、しかし現在私たちの教団の中で、
だから私も5人目、順番から言うと5人目に来るかない、それが今年なのか、明日なのか、いつなのかわかりませんけれども、
しかしもうこれからの100歳まで生きたとしても15年しかないわけですからね。
まあ15年もあると思ったらいいのかわかりませんが、とにかくそういう人生なんですね。
ですからそういう中で私は改めてこの吉明のこの言葉を拾えたときにですね、これまでもこれまではこれまで、
でも今私はあなたに命じたように、私が一緒だから行きなさいと言って、ですから私は申し上げたように最初の私があなたに命じたではないかというこの言葉、
ただ味わっているのはその後なんですよね。あなたがどこへでも行くところにおいて私がいつも一緒だと言って、そういう心情好きなんです。
だから命じられただけじゃなくて、私も一緒だと言ってくれるところに大きな力を感じるわけですね。
私たちの信仰生活の中でね、どうしても過去のことにとらわれたり、過去の経験を持ってきたり、いつもそういう思いの方が先行しちゃうんです。
けれどもそうではない。過去との決裂と言いましたけれども、ヨルダン川を渡れというこの言葉、私たち、今の私たちにとってこれは信仰的にもまたは霊的にもそこには大切なメッセージがあるわけです。
切別を明確にするということは、ヨルダン川を渡るということのための最も必要な条件なわけです。
27:10
これまでにも先ほど申し上げたように、モーセに率いられたこのイスラエルの人たちが、約束の地を見ながらヨルダン川を渡ることがあって、そして都道の生活に入っていったわけです。
私は改めてこの繰り返し聖書が、モーセは死んだというこのことを通して、このヨルダン川を渡り越えよ、そしてあなたがどこへ行くにも、いつも私が一緒だということをそこで保障してくださった。
私は過去のどんな偉大な経験も、それに学ぶことを忘れてはなりませんけれども、それに多様の地ではならないんだということを改めて順を追っていきますと、そのことを教えられます。
ヨシアにしてもイスラにしても、どうしてもモーセを越えなければならない。
確かにモーセは、失礼すること以来、本当に我がが勝手なこのイスラの人々を、誓い、そして慰め、励まし、ある読んだ本の中で、なんだかんだ言ってですね、信仰を持とうとしない。
その人に、私たちが信じている神様は、どんな人にでも、ちゃんと手を伸べて、そして守ってくださる方なんだ。
一度、旧約定書のこういうところから読んでごらんと言われて、その責められた彼は読んだ。
そしたら、本当に肝心なところでもってね、このイスラの人たちは、すぐに神様に反抗するわけですよ、呟くわけですよ。
時には、モーセが私たちを惑わしてこんなことにしたんだ、これは吉明に入ってからでもあるわけですけどね。
30:03
約束の地を見ながら、先人民族のあの巨大な人たちの前に、もうだったら、失礼するとしなかった方が、まだエジプトの方が、世の生活の方がおいしいものが食べられたっていう、そんなところでですね、言葉で言って、
そして、あの時に死んでいたらよかったとか、あの時にこうだったらよかったとかっていう、もう繰り返し。
だからそれを読みますとね、本当にモーセがどんな忍耐の人かって、いや、モーセが忍耐というよりも、神様はモーセの虜しを聞いては、
神様は一度誓ったことをそこで取りやめて、そして改めてですね、このイスラエルの人々をまた導く、あるいは必要なものをそこで与えなさる、そういうことでもってやってきた。
本当に聖書においての神様の忍耐というのが、どんなものかって。
いや、イスラエルの例えずに、自分にそれを当てはめてみたらよくわかると思いましたよ。
信じます、信じますと言いながら、何を信じたのかなと。
従います、従いますと言いながら、何を従ってきたんだろうかなと。
もうちょっとした言葉でね、崩れたり、もうやめたというような気持ちになってみたり、もうあとはもうどうでもないというような、そんな自暴自棄な気持ちになったりして。
これね、私、牧師になってからの心境ですよ。もうこれ以上、ここではもうだめですというようなね。
それで、やめて、これで終わりかなと。
私の進学生時代から含めますとね、二度ほどね、もうやめなさいと言われたことがあるんですね。
一度、進学校に入って、須田村校長に、ご自宅の方に言われていって、
それで、あなたの今のそれは、神様に対する従順じゃない。
この進学校はね、従順を学んでこそ初めて、将来牧師として立っていける。
従順を学ばずして、この学校に居る意味はないから、あなたはもうやめて、帰りなさいと言うことを言われて、ほんとにショックでしたよ。
ある問題があったんですけどね。その中に長島秀一っていう牧師も、彼も。
私は、彼も呼び出されていって、そして、また何言われたと聞いたら、
33:04
ああいう人たちと一緒になってはいけないと、そう言われた。
彼は田辺教会出身ですから、三浦先生の指導を受けてきた人ですよね。
だから、三浦先生も、斎藤とかね、当時社官に立て継いだような、あの連中の中に入っちゃいけないということを言われた。
あなたはうまいこと言ったな、と言ったりして、将来忘れられませんよ、こんなことは。
何を思っているわけではないですけども。
けども、半分ね、何で私はやめと言われて、彼は、あんな人たちと一緒になったらダメだって。
何でそんなことを言うんだろうかなと。
私と一緒にやめと言われた、その人たちにそんな挨拶を求めたんですけども、
ああそうだなと言ってくれる人はいませんでした。
そういう失敗話ばかりあげれば、たくさん出てまいりますが。
しかし、神様は、どうしても申せ、と向かう吉野自身。
また、イスラエルの人々のそれを思って、そして、
けど私はあなたに明示、そしてこれから行こう、
孟瀬と一緒だったように、あなた方と一緒だ。
ですから、神明記ですね、そこを読むと、孟瀬は亡くなった後、
どこに葬られたかという、葬られた場所がわからないんです。
もし場所がわかったらね、その遺骨を持ち出して、
そして孟瀬大名人、日本式に言うと、何でも神様に祭りあげちゃいますから、
怒るがの殺ではありませんけどもね、
この孟瀬のどこの骨が出たとか、孟瀬の何があったとか言って、
そしてそれを御神体のようにしてやるでしょう。
これは日本人のそういうところがあります。
しかし神様はね、そういう孟瀬に関わる一切のこと、
亡くなった、葬られた場所がそこでもって明確にされないことを、
孟瀬の言葉はそこで一掃したんです。
私は孟瀬の使徒、ゆるんがを越えなさいという、
これは主なる神以外に、その他一切のものに頼ってはならないんだ。
ですから孟瀬の葬られた場所すらも神様はね、
36:00
それを明かしなさい。
そのような扱いにはなされなかった。
どうしてもそういうところに頼りたい。
それが人間の一つの思いですよ。
人や物に頼ったり、最終的には自分に頼る。
そういうことのすべてを放棄しなさい。
新約聖書ではローマビデオの手紙の6章が、
そういう私たちの霊的な問題を取り扱い、
そしてそこでもって本当に己に死ぬということについての
解き明かしをしております。
前にも紹介しましたが、清めということについてね、
そこには自我の死というのがあるわけですが、
恋一部、あなたが忘れられたり放っておかれたり、
あるいは恋に無視されたりするとき、
嫌がって相手のすることに目を光らせ、
侮辱するような傷を与えることなく、
むしろキリストのために苦しみにふさわしいものとされたと、
ここに満足があるなら、
それが自我の死、消えないということです。
この死がありますから、
ですから復活があるわけですね。
かたて焼き手の手紙の2章の19節20節、
私はキリストもに十字架につけられました。
そこには自我の死が詮告されています。
そしてさらに、もがや私が生きているのではなく、
キリストが私の内に生きておられるのです。
復活ですよ。
死と復活というのが、
私たちにとっての信仰生活の中においての非常に経験したい、
またそれを求めたい、
そして本当にこれにたった清き生活、
それを私たちは求めていきたい。
今、私はこの言葉を思いながら、
改めて私はキリストもに十字架につけられました、
39:03
という深い取り扱いの中においての自我の死、
そしてもはや私が生きているのではなく、
キリストが私の内に生きている、
この信仰に、
私たちは今、この言葉を一緒に受け止めて、
そして参りたいと思います。
お祈りいたします。
39:32

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