1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/04/22:聖日礼拝(旧音源)
2012-04-22 47:24

2012/04/22:聖日礼拝(旧音源)

2012/04/22 聖日礼拝(旧音源)


00:00
御着席ください。聖書朗読をしていただきます。
聖書箇所は、「丸子の福音書一章九節から十五節」です。
違ってますか。あ、二十節かな。二十節ですね。はい、ごめんなさい。
聖書箇所は、「丸子の福音書一章九節から二十節まで」です。
新約聖書の六四ページをお開きください。
では、信友姉妹に聖書朗読をしていただきます。よろしくお願いいたします。
この頃、イエスはガリラ屋の中でから来られ、のどたままで、
木羽からサプテスの大きいになった。そして、水の中からあがると、すぐその時、
天が避けて、見たままこの木を見、自分の上にくだらないのをご覧になった。
そして、天から声がした。あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
そして、すぐ見たままイエスはあらのみ追いられた。イエスは四十日間あらのみいて、
サタンの誘惑を受けられた。物の獣と共におられたが、御使い達がイエスに使えていた。
木羽が捕らえられてのち、イエスはガリラ屋に行き、神の福音を受けて言われた。
時が道、神の国は来たくなった。木羽を食べて福音を信じなさい。
ガリラ屋この小鳥を通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが水売りで網を打っているのをご覧になった。
彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。私についてきなさい。人魚を捕る漁師にしてあげよう。
するとすぐに彼らは網を捨ておいて捕まった。
また少し行かれると、デベダイの子ヤクボのその兄弟ユハニをご覧になった。
彼らは海の中で網を捕ろうと言った。すぐにイエスはお呼びになった。
すると彼らは父デベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスについて行った。
聖歌隊の賛美新聖歌257番に続いて、内田牧師より、神の国は近づいたと題して説教をしていただきます。
03:14
終焉は私たちの罪ゆえ
十字架であがりの道開き
よみかえられた救い主
キリストは生きておらぬ我が道に
おられるすべては御手の内に
今日も晴れも守り守られ
終焉と父よにより新たな望みを与えられ
ゆく道は光と雲恐れなし
キリストは生きておらぬ我が道に
おられるすべては御手の内に
今日も晴れも守り守られ
シュレスにまびる時
06:01
真白のキング来て
ハレルヤ
褒めるたび
御国の門を我へ進ま
キリストは生きておらぬ我が道に
おられるすべては御手の内に
今日も晴れも守り守られ
キリストは生きておられる我が道に
おられるすべては御手の内にあり
今日も晴れも守り守られ
恵み深い天の父なる神様
あなたを今礼拝いたします
こうしてあなたを賛美できる特権を心より
感謝して皆をあがめます
キリストは生きておられる
キリストは賛美の内に生きておられる
キリストは御言葉の内に生きておられ
そして今日も私たちの主として
この場に臨在してくださることを覚えて
皆をあがめます
どうぞ私たちの内に今主が語りかけ
そして力を与えまた精霊で満たして
どうぞこれからの歩みを整えて
生み出してくださるようお願いをいたします
私たちの内にある暗きところに
世の光として来てくださった
イエス様が照らしてくださり
また私たちもその光を受けて出ていき
世の光となることができるように
さらにこの主を深く知りたく願います
どうぞ御霊がそのように私たちを促して
御言葉を通して
この主をさらに深く広く覚えるときと
してくださるようお願いいたします
そのために御言葉が用意されておりますが
どうぞ一人一人がこの御言葉に養われて
また力をいただいて
今日も恵みのうちに
09:01
祝福のうちにこの時を過ごすことができますよう
助けてください
今日は天候も不順で
ここに来れなかった人たちもいますし
弱気を覚えている方も
覚えることでありますが
神様どうぞ一人一人をあなたが今その場にあって
支えてくださるようお願いいたします
また次の時には伴ってあなたを賛美し
また礼拝できますように
私たちはまたその人たちの分も
このところで精一杯あなたを賛美し
また祈りそしてあなたに
仕えていくものとしてくださるようお願いいたします
今からの時すべてを主に委ねて
主キリストの皆によってお祈りいたします
アーメン
今日からこのマルコの福音書を一緒に読んでまいります
聖書の中にこの四つの福音書があるということは
皆さんは既にご存知であると思います
マタイ・マルコ・ルカの福音書
この三つの福音書を
共に観は観察の観ですね
共観福音書
そしてヨハネは少し趣が違うので
共観福音書ではないんですが
四人の記者がそれぞれを
それぞれ見たこと聞いたこと感じたこと
神様から示されたことを
福音書という形で書いたわけですが
イエス様というお方を
あるいはイエス様が見ておられた
神の国というものを
ただ平面的に見るのではなく
四人の記者を通して語られている
記されている主を
主宝から立体的に見るという
そういうことは本当に幸いだなと思います
もちろん三人が
同じことを書いているんですが
描き方あるいは言葉の用い方
その手法はそれぞれ違い
また趣があってそれは本当に幸いだなと思うんですね
しかし四人の記者が
言っていることは皆等しく
この主を描いているということにおいては
同じであります
そのうちのこのマルコの福音書
このマルコの福音書が
今日見ていくわけですけれども
このマルコの福音書の最初に
現れるのがあるいは記されているのが
イエスキリストではないということ
このことに私たちはまず気づきます
マタイルカは
イエス様の後端のことを
12:01
そのことをまず記していますけれども
バプテスマのヨハネという
その人がここに登場するということ
これを見逃してはいけないということを
覚えるわけです
ヨハネという方は当時今もそうですが
たくさんいるわけですが
ヨハネさんがこのアラノで
バプテスマを述べ伝えていた
どのヨハネさんですかというときに
人々はその人を
いわばあだ名のような形で
バプテスマのヨハネ
それだったらあのヨハネですねという
そういうことを聖書も書いているわけです
私たちも誰それさんを
イメージするときに
同じ名前の人がたくさんいるときに
そういうあだ名のようなことを
言うわけですけれども
聖書の中にもそれが出てくるわけです
アブラハムという人も
たくさんいたでしょうが
信仰の父アブラハムといえば
そのアブラハムでありますし
ユダという名前の人もたくさんいる
このイスカリオテのユダ
彼は裏切り者のユダというふうに
言われる
トマスもたくさんいますが
疑い深いトマスならば
トマスかというそんなことを
考えさせられるわけですが
この一言でその人の全部を
表しているわけでは決してありません
しかし何か一つの特徴
というものを捉えて
何々の誰それという
そういうことを
マルコの福音書でも記しているわけです
バプテスマのヨハネ
彼が悔い改めのバプテスマを
述べ伝えそしてヨルダン川で
バプテスマを授けておったということ
そのことがまず
書かれてあります
このバプテスマのヨハネも決して
突然歴史の中に
登場した人物ではありませんでした
二節のところに預言者イザヤの書に
こう書いてあるもうすでにこの当時から
さかのぼること700年ほど前に
イザヤという預言者が
このように記してあったと言うんですね
15:00
あらので叫ぶ者の声がする
主の道を用意し主の通られる道をまっすぐにせよ
そういうように叫ぶ人が
現れるということを預言しておった
そのあらので叫ぶ者
それがこのバプテスマのヨハネだと
いうことで
預言がここで成就しているわけです
このバプテスマのヨハネの
人となりはこの六節で書かれています
ヨハネはラクダの毛で織ったものを着て
腰に革の帯を締め
稲毎の蜜を食べていた
そういう生活と彼のなりが
ここから伺うことができるわけです
そして多くの人々が
彼のところに来てそして
彼の語ることを聞きそして彼から
バプテスマを受けていた
それほど彼の語ることは人々に
感動を与えそして悔い改めを促し
そして
彼に厚い信頼を置いて
彼からバプテスマを受ける
続々と彼のもとに来ていたということが
書かれてあるわけです
そしてこの
バプテスマのヨハネ彼が
福音書の最初に書かれている
それは一体なぜであろうか
このバプテスマのヨハネが既に
予言されて紹介されて
今ここに
登場していると同じように
このバプテスマのヨハネも
ある方を紹介するという
役目を持って登場しているということが
七節から分かります
ですから私たちが
今求めていることは
このバプテスマのヨハネが
どういう人で彼は何をしたのか
何を言ったのかということではありません
もちろんこのバプテスマのヨハネも
大変魅力のある人だと
考えられます
ですからこのバプテスマのヨハネを研究して
そしていろいろ調べてみようと
それも聖書を読む上で一つの楽しみだと
言えますけれども
しかし私たちが
見ていこうとするのは
このバプテスマのヨハネが
紹介したかった
方のこと
あるいはそのためにこのバプテスマのヨハネも
神様に備えられたんだということを
ここでもう一度覚えておきたいと思います
18:02
七節がそのことです
この彼はバプテスマのヨハネは述べ伝えていった
私よりもさらに力のある方が
後からおいでになります
私にはかがんでその方の靴のひもを
解く値打ちもありません
八節その方はあなた方に
聖霊のバプテスマをお授けになります
あの方この方その方
という言い方をしながら
バプテスマのヨハネはその方を
紹介したかったあるいはその方を紹介する
ための役目として
ここに登場したのだということ
これはこのヨハネにとっては大変
光栄な役目
使命であったと言えます
なぜかというとこのお方は
力ある方そしてこのお方は
聖霊のバプテスマをお授けになる方
あるいは偉大なる方
そういうお方を紹介するという
そういう立場を自分が与えられた
ということは本当に光栄だと
彼は感じていただろうし
恐れ多くもあっただろうと思います
しかし神様はこのバプテスマのヨハネを
お選びになってそのお方の
紹介者として彼を立てなさった
恐らくそれに耐えるだけの資質を
このバプテスマのヨハネは持っていたからであります
その一つは彼が
謙遜であったからということは言えると思います
なぜかと言いますと
私たちもそうですね誰かを紹介するという
時にそのお方を
前面に出して紹介する私は
前に出てはいけないということ
それがあるからですね
そのためには謙遜ということを
資質として持っていなければいけないということ
そのお方を生かし輝かし
そして自らは
死ぬということですね消えていく
そういう存在であるということを
しっかりと覚えていなければ
この尊い役目をすることはできない
バプテスマのヨハネにそれを見て彼を
この偉大なるお方の紹介者として
立てたということ
そのことのゆえに聖書はこのヨハネを
約九十回以上も記している
自らは紹介し
消えていく存在であると
してその奉仕を務めたわけですが
神様はそれを
放ってはおかないということですね
ですからこのヨハネは
21:00
先見者あるいは予言者以上の予言者
立法時代の最後の予言者とも
言われておった
身を世の罪を取り除く神の子羊と
このお方を紹介した
それがこのバプテスマのヨハネであった
ではこの
バプテスマのヨハネが紹介した
その力ある方
靴のひもを解く値打ちも
自分にはありませんというそのような
偉大なお方
聖霊のバプテスマを授けなさるという
そのお方とは一体どういうお方なんだろうか
私たちはそれをこれから
見ていくわけであります
10節から13節のところで
そのお方のことがいよいよ
出てくるわけであります
そのお方というのが9節
イエスはガリレのナザレから来られ
ヨルダン川でヨハネからバプテスマを授けになった
ここでイエスという人であるということが
わかります
これはイエスという当時の一般の人々たちの
名前であります
ですけれどもこのイエス
何々のイエスと後言われます
そのイエスなのかあるいは
キリストイエスと言われるイエス
そのイエスが
ガリレのナザレから来られたということが
ここで一つわかります
そしてもう一つはヨルダン川でヨハネから
バプテスマをお受けになったということ
このことも私たち他の福音書からも
それを知ることはできますが
この9節の中でこのイエスという
お方がナザレから来た
そしてヨハネからバプテスマを受けられた
そんなことを私たちは一つ一つ
学んでいくわけであります
そして水の中から上がられると
その時天が裂けて三魂が鳩のように
自分の上に下られるのをご覧になった
そして天から声がした
あなたは私の愛する子私はあなたを喜ぶ
この短い文の中に
天が裂けて三魂が下られ
天から声がした
このような言葉が並んでいる時に
このイエスというお方は
神との関係が
何かあるんだろうな
天ということにおいての中に
このイエスという存在が明らかに
されているということが
ここから読み取れるわけです
24:00
そしてあなたは私の愛する子
私はあなたを喜ぶという
四辺の記者が記した
その言葉が再度繰り返されている
四辺の二辺の七節の言葉
そのことが
ここに書いてあります
そのような御言葉あるいは天
あるいは三魂そういうものが
このイエスを取り巻いている
そういう世界に私たちも
イエスという方を知ることを通して
近づいていくということ
そのことがここにあるわけであります
私たちはこれから
このイエスが何を言われたのか
あるいは何をなさったのか
ということを見ていくわけですが
特に聖書を通して
その御言葉をいただいていくわけです
大事なことは
私たちは
イエス様の御言葉
その御言葉が
二つのことがあるということを
もう一度覚えたいと思うんですね
その一つは
イエス様という御方は
旧約聖書の御言葉を
なさって語られたということが
一つ言えます
それはイエス様御自身が発した
言葉ではなくて
聖書に書いてあるという
そういう箇所が何度も出てきます
それともう一つは
イエス様御自身が人々の前に
現れなさって自分が発した言葉
その二つがありますから
私たちもそれを聞き分けていく必要が
あろうかと思います
その一つの例として
十二節十三節
見たまはイエスはアラノに追いやられた
イエスは四十日間アラノにいて
サタンの誘惑を受けられた
野の獣と共におられたが
イエス様は見たまによって
アラノに導かれてサタンの誘惑を
受けなさったということが
短く書かれています
その結果どうなったのかということは
すでに察してわかるように
その誘惑を知りづけなさった
ですからまたガリラ屋に行き
神の福音を述べ伝えられたと
あるわけですね
そのサタンの誘惑を知りづける際に
イエス様はこのように
27:02
言われた
と私たちは
このマタイの福音書を通して知っています
しかしここで気をつけなければいけないことがあります
マタイの福音書の四章の中に
このように書いてあるわけです
イエスは言われたんです
ですから
神の口から出る一つ一つの言葉による
イエス様の言葉ではなくて
この誘惑聖書の中で書かれてあった
それをイエス様が繰り返すというか
引用なさったということですね
七節イエスは言われた
あなたはあなたの神である死を試みてはならないとも書いてある
言い換えると
あなたの神である死を試みてはならないとも書いてある
とイエス様は言われた
引き下がれサタン
あなたの神である死を拝み死にだけ使えよと書いてある
とイエス様は言われた
引き下がれサタン
これはイエス様の言葉ですね
引き下がれサタン
その次の言葉あなたの神である死を拝み死にだけ使えよ
これはイエス様が直接発せられた言葉ではなく
既にそれは誘惑聖書の中に書いてある
言葉
言葉それをイエス様は言われた わけですこういうことを通して
も私たちが日ごろ多くの誘惑を 受けます誘惑を受けること自体
罪ではありませんがこの誘惑を 受けたときにそれを知りぞける
ということをするときに私たちは このイエス様がなさったその方法
見言葉によって誘惑サタンの誘惑 を知りぞけるもし誘惑が来たどうしよう
助けてほしいでも見言葉の中に このように書いてあるですから
サタンを知りぞけここにこう書いて あるあるいはそれをもう一度自分
に言い聞かせるその見言葉が私を また強めそしてサタンにそれを
もう一度聞かせそしてその見言葉 が誘惑に打ち勝たせるようにして
くださるそこに私たちのこの見 言葉への信頼とまた見言葉により
30:02
頼むその信仰が養われていくんだ ということですから見言葉抜き
に私たちの信仰あり得ないということ そのことをここからも思わせられます
それはイエス様がそうなさった からというそこにあるわけです
ですから私たちは今日もう一度 確認したいことは私たちがイエス
様をもっと深く知ろうそしてイエス 様が何を言い何をなさったのか
を学んでいくそれはただ知識を 増やしていく知識を蓄えていく
だけのものではなくあるいはそれ だけで終わってはいけないということ
ですその見言葉とあるいはイエス 様が語られたことが私たちの日々
の生活の中に生きてそしてそれが 用いられていくですから言い返
せば私たちがイエス様を知り学ぶ ということは即生き方を学ぶということ
です私たちがこのときどうしたら いいんだろうかこれからどう生きて
いけばいいんだろうかいろんな ことに悩みつまづき試練が与え
られあるいは喜びも悲しみもある そういう日々の生活の中でその
イエス様の言葉なり見言葉がその 中に生きていなければこの見言葉
の学びもあるいはイエス様の言葉 も虚しくただそれだけに終わって
しまう私たちはイエス様を学ぶ ことそれは即生き方を学ぶということ
なのだそのことを私たちはもう 一度ここから覚えたいと思うん
です二十一世紀に生きる私たち 一人一人がイエス様を通して生き方
を学ぶ今どうすればいいんだろう かあるいはこれからどのように
歩んでいけばいいんだろうかあるいは 過去を振り返りそのことをもう一度
反省しながらそこにイエス様の 言葉なりこの見言葉を重ね合わせ
ながらそして修正しその見言葉 が私の日々の生活の中に生きている
力を持っているあるいは自分を 変えていくもちろん悪く変わって
はいけません良きに変わっていく というもちろん前提で変えられて
いくそのためのイエス様でなければ イエス様の言葉でなければ意味
がないそのように思うわけであります そのイエス様がいよいよお言葉
を発しなさったそれが十五節イエス はガリレーに行き神の福音を述べ
て言われた丸子の福音書に記されている イエス様の最初の言葉時が満ち
33:10
神の国は近くなった悔い改めて 福音を信じなさい私たちはこの
見言葉を通して何が幸いかと言います といろんなイメージを持つことが
できるということ誰かが言いました このイマジネーションというか
想像力豊かな人はその人自身が 豊かになるということですねですから
イエス様がガリレーに行って神の 福音を述べて言われたそのときに
イエス様はどんなふうにおっしゃ ったんだろうかその声はどんな
だったんだろうかあるいはどんな 調子で言われたんだろうか優しく
時が満ち神の国は近くなったよ 悔い改め福音を信じなさいよと
優しく語られたんだろうかそれとも 大きな声で時が満ち神の国は近く
なった悔い改め福音を信じなさい よというそんなふうに力強く宣言
なさったんだろうかもういろいろな ふうに私たちはそれをいわば想像力
たくましくしてイメージすることが できるそれは非常に幸いだと思
うんですねその自由が与えられている 自由の御霊が私たちに働いてその
ときそのときのイエス様の状況 というものをもっともっとこの
行間をもっと膨らませて豊かにしていく それがまた私たちの日々の生活を
も豊かにしていくしこのイエス 様のお言葉がますます私たちの
生活の中に浸透していくそして 私たちの心を癒し励ましそして
慰めまた私たちがこのお言葉を 我が物としたときにそれをどう人々
に伝えていくのか時が満ち神の 国は近くなったくり改めで福音
を信じなさいとイエス様が第一声 言われたんですよそのことを私たち
は人々と分かち合うわけであります 時が満ちたいよいよそのときは
来たどんなときだろうかそれは 書いていないわけです書いていない
一体これは何だろう私たちがいつも 言うように引っかかるというとき
それがメッセージであるということ 私たちは福音書に限らず聖書を
読んでいてさらりと読んでいく そして一生きょうも無事何事も
36:06
なく読めたさあ次のお仕事にか かろうそれは果たして幸いだろう
かもちろんすっと読めたということ においては幸いであろうけれども
聖書というのはそうはいかない ちょっと待てこのときって一体
何だ神の国は近くなったそれじゃ 神の国って何ですか悔い改めて
福音を信ぜよ悔い改めるって何 ですか福音って何ですかそういう
ものがいつも何か引っかかるあるいは 自問自答してみたくなるあるいは
そのように御霊が私を導かれる それがメッセージそこにメッセージ
があるんだですから大いに聖書 につまづいてくださいそして引っか
かってくださいそれをまた祈り あるいはときには参考書を引っ張り
出してくるあるいは誰かに聞く そういうふうにしてこの御言葉
がもっともっと豊かになって いくこの一つの言葉一つの文字
によってなかなか前に進まないん ですこんなんでいいんでしょうか
それこそが幸いなんです私たち が何事もなく聖書全巻すーっと
読めましたそれが果たして幸い かどうか本当に神様が願ってお
られることがどうかということ ももう一度吟味する必要があろう
かと思うんですどんなときが満ち たんですかどんなときがいよいよ
来たのですか神の国が近づいた そのとき彼らは民衆はそのとき
を待っていた神が定められたその ときというのがあるんだということ
を民衆は待ち望んでいたあるいは 予言がこのように必ずなるのだ
というそのとき神の御支配なさる それが現実となるというそのとき
そのときがいよいよ来たんだということ をイエス様は宣言なさった神の
国とは神御自身が御支配なさる そういうところ神の支配がいよいよ
近くなったもう私たちの周りに 及んでいくんだ遠くないもう間近
39:00
に来ているんだというそのような 喜びの宣言神の国は近くなった
当時のこの世界それは宗教的な 支配としてはエルサレムを中心
としたそういう宗教指導者たち が牛耳っていたそういう一つの
世界がありました政治的にはローマ の権力が支配して民衆を牛耳って
いたというそのことによって多くの 民が翻弄されておったというそういう
背景の中でイエス様はいよいよ 待ちに待ったあなたが待ち望んでいる
そのときが来たぞ神の御支配な さるその世界がいよいよ間近に
迫っているぞ悔い改めて福音を 信じようこのガリラや多くの人たちは
地元のユダヤ人ですね同胞ユダヤ人 当時彼らが悔い改めよというのは
違法人に対して言っていたわけ ですあの連中あの違法の輩多民族
そういう者たちこそ悔い改める べきで私たちは神に祝福されたもの
だそういうふうに考えられてお ったしかしここでイエス様はあなたたち
こそ悔い改めるべきだあなたたち がまず悔い改めなさいそして神
のもとに立ち帰りなさいそして この福音という良き知らせグッニュース
ゴスペルそれを信じなさい心に 迎え入れてそしてその良き知らせ
のとおりに歩んでいきなさい生きて いきなさいとそう宣言なさった
それがイエス様が言われたまず 最初の言葉時が満ち神の国は近く
なった悔い改めて福音を信じよう それからイエス様はガリラやこの
ほとりを通ってそこにいるシモン とアンデレまたゼベダイの子ヤコブ
そしてその兄弟ヨハネ彼らを御覧 になった彼らは領主であったその
ように書いています領主である 彼らにイエス様が第二の言葉十七
イエスは彼らに言われた私について きなさい人間をとる領主にしてあげよう
私についてきなさいイエス様は この言葉をどのような思いで語ら
42:01
れたんだろうかあなたたちは私に ついてくるのだここではついて
きなさいという命令ですね有無 を言わさずお前たちは私について
くるのだそれとも私たち人間には 自由意志が与えられているその
自由意志をイエス様は尊重なさ ったに違いないお前たち私について
きたいと思うならその自由意志 を働かせてそして自ら私について
行こうというそれを選び取った ならばついてきなさいそうする
ならばあなたたちを人間をとる 領主にしてあげよう私について
きなさい人間をとる領主にして あげようするとこの四人は彼ら
は網を捨ておいて従った領主 にとって命とも言えるその網を
置いてあるいはもう領主という 職業を立ってこのお方について
行こうそっちの方を彼らは選んで そして従っていった二十節でも
そうですね彼らは父ゼベダイを 雇い人たちと一緒に船に残して
イエスについて行ったイエス様 がついてきなさいそうすること
によって彼らはこのイエス様に 従って行った私たちはなぜ領主
である彼らが網を置いてまでこの イエス様に従って行ったんだろう
かついて行ったんだろうかということ をまたここでも考えさせられる
わけです中にはそこにほかの領主 もいただろう彼らはついて行かな
かった書いていませんけれども そういうことも想像できますついて
行く者もいたし彼らのように網 を置いてイエス様に従って行った
ついて行ったなぜ彼らはこのイエス に従って行ったんだろうかおそらく
まだ年も若いでしょうこれから 彼らは将来ある人たちそして血
気盛んな青年期であったのかもしれない その彼らが自分の職業である領主
というその職を捨ててまでイエス 様に従って行ったなぜだろうか
45:02
と考えさせられますおそらく彼 らは自分はこれからどう生きて
いけばいいのかということを日々 真剣に考えておったその答えを
このイエス様に求めたのではない だろうかこのお方に従うことによって
何か学ぼう何かこのお方から教え られるに違いないこのお方について
いけば私はこれからどう生きて いけばいいのかあるいは人間とは
何か私はどこから来て今何をする ためにここにいてそしてやがて
どこに行くのかそのあらゆる答え をこのお方は私に与えてくださる
に違いないまさに彼らはこのイ エスから自分の生き方を学ぼう
としてその熱い思いでこのイエス 様に従って行ったのではないか
そのように思うわけであります 私たちもまた福音書を通してこの
イエス様の言動から生き方を学ぼう とするならばその上に神様の祝福
がありますようにとお祈りさせて いただきますお祈りします
時が満ち神の国は近くなった悔い 改めて福音を信じなさい天の神
様福音書を通して私たちがこの 主なるお方をさらに深く広く学ぶ
ことができることを感謝をいたします ただその知識をふやすということ
ではなくこのお方から生き方を 学びたいどう生きていけばいい
のかをこのイエス様から教えて いただきたいその答えがこのイエス
にあるということを信じてこれから もこの福音書を読んでまいります
からどうぞ御霊が導いてください ますようそしてこのイエス様に従う
者たちの上に豊かな祝福があります ようにイエス様の尊い皆によって
お祈りいたしますアーメン
47:24

コメント

スクロール