1. 名谷教会
  2. 2012/07/15:聖日礼拝(旧音源)
2012-07-15 44:06

2012/07/15:聖日礼拝(旧音源)

2012/07/15 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。
聖書を朗読していただきます。
本日の聖書の箇所は、丸子の福音書5章35節から43節、新約の74ページです。
三原兄弟、お願いいたします。
聖書を読みにいたします。丸子の福音書5章35節から。
イエスがまだ話しておられる時に、街道管理者の家から人がやってきて言った。
あなたのお嬢さんは亡くなりました。なぜこの上先生を煩わすことがありましょう。
イエスはその話の言葉をそばで聞いて、街道管理者に言われた。
恐れないでただ信じていなさい。
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
彼らはその街道管理者の家に着いた。
イエスは人々が取り乱し大声で泣いたり喚いたりしているのをご覧になり、中に入って彼らにこう言われた。
なぜ取り乱して泣くのですか。子供は死んだのではない。眠っているのです。
人々はイエスを嘲笑った。しかしイエスはみんなを外に出し、
ただその子供の父と母、それにご自分の友の者たちだけを伴って子供のいるところへ入っていかれた。
そしてその子供の手を取って、
タリタ・クミと言われた。
略して言えば、少女よ、あなたに言う起きなさいという意味である。
すると少女はすぐさま起き上がり歩き始めた。
十二歳にもなっていたからである。
彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しくお命じになり、
さらに少女に食事をさせるように言われた。
以上です。
それでは聖火隊に参拝していただいて、その後イエスは人を生かす、
対して本庁のメッセージをいただきます。
飛び込め 飛び込め 飛び込め
美馬衆の愛に 美馬衆の愛に
03:05
につかに価値さえ知らざる僕に
すんごいわりやしきもどりを
かかえったわたしのありを
わたしのありを
むしべきおぶるたがえ
ひらかせたまりし
るなぼうとよびつの
ほうとうのし
ほうとうのす
ほうとうのす
美馬衆のありを
美馬衆のありを
わがみをかせよりはがれ
あらわらしのため
ゆくれきために
みかせよみかせよみかせよ
美馬衆のありを
美馬衆のありを
皆さんおはようございます。
力強い聖火隊の賛美の後にこうして
見言葉を取り付かせていただきますことを感謝をいたします。
励まされて前に出ておりますが
今日も見言葉をいただきます。
一言お祈りをして見ていきたいと思います。
どうか神が私たちをあわれみ祝福し
美馬を私たちの上に照り輝かしてくださるようにと
06:02
恵み深い天の父なる神様
私たちの賛美をお聞きください。
また祈りを受け入れてくださるようにお願いをいたします。
どうか神が私たちをあわれんでくださるように
また祝福してくださるようにと
美馬を私たちの上に照り輝かしてくださるようにと
しかしあなたは私たちが祈る前から
すでにあわれんでくださり祝福してくださり
また美馬を常に私たちの上に照り輝かし
あなたのその恩命が私たちをとらえて
愛を注いでいてくださることを覚えて皆をあがめます。
またあなたのそのご愛にふれて
今日もこの宮に戻って参りました。
主をどうぞあなたがここにおられることを覚えながら
そしてあなたに賛美またこの礼拝を捧げますから
主をどうぞ清めてお受け入れくださるようお願いいたします。
またこのことを通して
さらに私たちのあなたへの思いが強くなり
また信仰が増し加えられてまいりますように
罪を悔い改めてもう一度主の前に秀伏すものとして
主が整えてくださるようお願いいたします。
今日も御言葉を待ち望みます。
一週間の歩みそれぞれ異なりましたが
その中で主と共に歩むことの幸いを覚えました。
私たちが取り扱われまた罪を悔い
そしてあなたに砕かれ
またあなたに憐れみとまた許しをいただいたことを
心から覚えて皆をあがめます。
今日こうしてまた時場所を一つにして
あなたを賛美できますことを覚えて皆をあがめます。
ここにおられる主御自身が
この安息日の主でありますから
その方のみを覚えてそこに私たちの霊の目を注ぎ
また霊の耳をその方の声に傾けていくことができるように
助けてください。
今日ここに来れたことをありがとうございます。
天候が不順でありまた風も吹きますけれども
今日ここに来れたことを感謝します。
また様々な理由で来れなかった兄弟姉妹方
あるいは夜明けを覚えておられる方々
神様どうぞそれぞれ一人一人を
あなたが支えて下さいますようにお願いいたします。
今からの御言葉のひとときも
どうぞ主が祝福して下さいますように
語るものを哀れみ支えて下さるよう
真摯委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
説教者は語る方が多くてなかなか
人の説教を聞くという機会が少ないんですけれども
09:02
できるだけ時間をとって
他の先生方の説教を聞くようにして
またそこから勉強するということもしているんですが
そういう中で
ひとつ教えられたことがあります。
このプログラムの中に説教というのが
必ずあるわけで
特にプロテスタント教会には
説教という時間ですが
これが少なくとも20分30分
長ければ40分あるんですが
しかし決してプログラムの中で
説教だけが何か特殊しているとか
それだけが重んじられるということは
決してないということですね
説教はあくまで礼拝の中で
語られるひとつの部分であって
そしてその説教も
この礼拝すべてにおいて関わっている
いわばこの礼拝全体が
それぞれが噛み合って
お互い補い合って
そしてひとつの礼拝を形作っている
いわばこの礼拝の中にもし
テーマがあるとすればもちろん
普遍的なテーマは
主をあがめて賛美するという
それがテーマなんですが
例えば今日は
特に神の愛
神の愛ということが
この礼拝の中で
取り扱われているとするならば
それは私たちの捧げる賛美
それが神様の愛であり
また賛美を通して
神の愛が私たちに注がれる
賛美を通しあるいは聖書朗読を通し
あるいは捧げ物を通し
いろんな形において
それがすべて
そして説教も通して
この礼拝全体に神の愛というものを
私たちがそこで覚える
神様の恵みというものであるならば
このプログラムのすべてが
神の恵み
その中の説教もそうでありますし
お祈りも
講読文も
そういう中で私たちは
神の恵みをいただく
そういうようなことを
教えられました
ですから説教者もそのことを
当然覚えて語らなければなりませんし
回収の皆さんもそのことを覚えて
今日のこの礼拝全体が
私たちに
何を語っていてくださるのか
例えば
イエスは人を生かすという
そういうことがもし
一つのテーマとするならば
賛美を通して
私たちはこの魂
あるいは私たちのこの命が
イエス様によって息づいていく
ああイエス様は
私を生かしていてくださっている
12:00
祈りを通し
そして
聖書を通し
このプログラムのすべてにおいて
イエス様は生きておられて
私たちをもまた
生かしてくださっているんだ
その中の一つとして
この御言葉の時
これもまたここを通して
イエス様は
私たちを生かしていてくださる
ということを覚えるんだ
そんな風に
教えられたわけであります
ですから
この
今日も御言葉を通して
今日神様が私たちに与えてくださる
恵みと祝福を一緒にいただきたいと
そう願っているわけであります
先ほど読んでいただきました
マルコによる福音書の
五章の
三十五節から四十三節
これは実は
そのマルコの五章の
二十一節から
二十四節に
関わっていること
いわば
二十一節から二十四節があって
そして
先ほど御読みいただいた
三十五節のところがあるわけですね
その間に
ある出来事が入っているので
こういう形になってしまったんですけれども
今日の
テーマの中に
どうしてもこの二十一節から二十四節も
関わってきますので
そのところを
一緒に見ておいて
見ておきたいと思います
イエスが船でまた向こう岸へ渡られると
大勢の人の群れが身元に集まった
イエスは岸辺にとどまっておられた
すると街道管理者の一人で
ヤイロというものが来て
イエスを見て
その足元にひれ伏し
一生懸命願ってこう言った
私の小さい娘が死にかけています
どうかおいで下さって
娘の上に見ておいてやって下さい
娘が治って助かるようにして下さい
そこでイエスは彼と一緒に出かけられたが
多くの群衆がイエスについてきて
イエスに押し迫った
そしてこの二十五節からのところが
間にあって
そしてまた街道管理者の一人である
ヤイロという
そしてその娘のことが
もう一度出てくるという
そういう形になるわけです
街道管理者
これはユダヤ教の街道
シナゴークの管理責任者の一人であった
ヤイロという名の人が
ここに出ておりまして
そしてその娘さんが
15:01
死にかけていますという
大変な状況であります
そして当然のごとく
彼は一生懸命
このイエス様のところに来て
ひれ伏すようにして
どうか私のところに来て下さい
娘のところに行ってやって下さい
そしてあなたがその上に見ておいて下さったら
娘は助かりますから
治りますから
どうかお願いしますという
そういうお願い
懇願と言いましょうか
必死のお願いを
イエス様にしたわけです
そしてイエスは分かったと
それじゃあ一緒にあなたの家に行きましょう
娘さんのところに行きましょうと言って
出かけていった
しかしそこには多くの群衆が
いたということなんです
ここに私の小さい娘が
死にかけています
この娘さんは何歳でしょうか
クイズではないんですけれども
答えは
四十二節に出ております
この少女は十二歳にもなっていたとあります
十二歳というと
中学校一年生ですか二年生ですか
六年生
そのあたりですよね
そういう女の子が
死にかけている
そういう状況
お父さんにとっては
もちろんお母さんにとっても
大変な
そういう状況でありますし
このように一生懸命
必死で
助けてください
何とかならないでしょうか
そういう気持ちは
分かります
しかし
その心の内を
私たちが
どれほどさせられるか
というのは
なかなか難しいことですね
私も
何人かの人を
天に
送ることをさせていただきましたが
その中の
最年少
一番年齢の若い
方は
中学二年生の女の子でした
もうそれはそれは
大変な
教会の痛みでありますし
ご両親や
ご遺族の方にとっての
痛み苦しみ嘆きというのは
どれほどだろうか
それはもう計り知ることのできない
そういうものであったろうと
そのように
今も
思いますし
このことも
おそらくそうですね
十二歳
そういう
年齢の
女の子が
今や
死にかけている
やいろにとっては
本当に
悩み苦しみ
18:01
悶える
そういうような
状況でありました
そういう中で
ただ救いがあるとすれば
希望があるとすれば
このイエス様
このイエス様なら何とか
してくれるだろう
そういう
思いが
ここに
現れているわけであります
そういう中でイエス様が分かった
それじゃあ行こう
そして二十五節から
この三十四節が
ここに間に挟まっているんですが
今回丸子の福音書をずっと
読み進んでいきまして
この箇所は
飛ばします
飛ばしますというよりも
これは
去年の
二〇一一年
五月十五日の礼拝で
すでに
語らせていただきました
覚えておられるでしょうか
力なり
そうです
覚えておられる方がいるんですね
私なんかも自分自身で
忘れていました
食ってみると
ここが語られたんだな
だから
覚えていない
先週の
説教はまだ何とか覚えている
でも
一ヶ月前の説教
何だったっけ
語る本人自身が忘れているくらいですから
皆さんが
一年前の
説教を覚えているという
このことの方が
かえって
不思議であって
忘れているのが
普通だろうかと思うんですよね
記憶のいい方以外
普通は
忘れていく
忘れるというのが
普通であって
それでいいんだと思います
説教は
忘れていいんです
ただし
見言葉が残っていなければ
説教者は
神様に
お前は何を語ったんだ
回収に
どんな見言葉を
語って
取り継いだのか
という
お叱りを受けるわけです
この
25節からのところで
例えば
病の女の人が
イエス様の衣にでも触れば
私はきっと治る
あの言葉を言いました
あの言葉が残っていれば
あるいはイエス様が
あなたの信仰があなたを救ったのです
という
あの見言葉が
自分の中に
自分の中に
残っているならば
それは
礼拝で
説教を
聞いた
あるいは
見言葉を
いただいた
という
その
恵みは
ずっと
続いていくという
それが
正しい
21:00
在り方だと思うんですね
何が
どういう
話をされたとか
説教者が
あの時に
変なダジャレを
言ったなとか
そんなことは
もう忘れてもらっていいんですね
ただ見言葉が
残っているように
ですから
先週の
見言葉
あるいはその1ヶ月前の
語られたあの見言葉が
しっかりと
私たちのうちに
留まっているように
そのことを
願って
語っているわけです
ですから
この25節から
今日の
語られた前の
34節のところは
パスを
しておきたいと思うんですね
ただ
この
イエス様が
その
病に
かかっていた
女の人が
イエス様の
衣の
裾を
触って
そして
イエス様の
中から
力が出て
その人は
癒された
そして
イエス様が
その彼女に
娘を
あなたの
信仰が
あなたを
治したのです
安心して
帰りなさい
病気にかからず
健やかでいなさい
そういうようなことを
話している
そういう状況の中で
今度は
その
カイドウツカサ
イヤイロの
家から
使いのものが
来たというんです
カイドウ
社の家から
人がやってきて
こう言いました
あなたの
お嬢さんは
亡くなりました
おそらく
イヤイロの
思いとすれば
もちろん
イエス様が
目の前にいる
病を持った人が
必死で
救い
あるいは
癒しを求めて
イエス様のところに来た
イエス様も
誰が触ったのか
そういうことを
そばで
一緒に
見ていたわけですね
イエス様は
この
病の方を
治しておられるんだな
とは
頭では分かっていても
心は
早く
早く
娘が
娘が
もう死にそうなんです
イエス様
何とか早く
行ってくれないでしょうか
もうこんなこと
時間が
もう
ないんです
娘の
病態は
もう
急を要する
一刻を
争うんです
イエス様
何とか早く
家に
行ってください
そういう
そういう
思いで
やいろの
思いとすれば
気が気で
なかったと思うんですね
そういうところに
家から
使いの
者が来て
あなたの
お嬢さんは
亡くなりました
やいろの
思いとすれば
ああ
という
やっぱり
娘は
もう
亡くなって
しまったのか
24:00
何とも
言えない
やるせない
思い
そして
谷底にでも
突き落とされるような
そういう
絶望感
そういう思いでは
なかったろうか
思うんですね
そして
この
使いの者が
続けて
このように
言いました
なぜ
この上
先生を
煩わすことが
ありましょう
先生
すなわち
イエス様
もう
家に
行ってください
もう
何とか
早く
家に
行ってください
もう
お嬢さんは
亡くなりましたから
イエス様が
お家に
来てくださる
必要は
ありません
すなわち
先生
イエス様が
煩わす必要はない
それは
この
使いに来た者の
思いとすれば
なるほど
イエス様は
海の嵐を
沈めることも
できる
そして
あの
病人も
治すことのできる
お方
あるいは
悪霊に
取り憑かれた人の
霊も
追い出すことのできる
お方であることは
この者も
知っていたでしょう
しかし
娘さんが
亡くなった
ということに
おいては
誰も
それに対して
何もすることは
できない
だから
もう亡くなった
娘さんのところに
行っても
それはもう
仕方のないことですから
先生を
煩わす
必要がありません
行く必要は
ありませんと
彼は
言ったわけです
ところが
三十六節
イエスは
その
話の
言葉を
そばで聞いて
カイドウ
管理者
ヤイロに
言いました
恐れないで
ただ
信じていなさい
恐れないで
ただ
信じていなさい
このカイドウ
管理者の
使いのものは
娘さんの
お父さんである
このヤイロに
言ったんですけれども
そばにいた
イエス様の
耳にそれは
聞こえました
そのことに対して
ヤイロに
恐れないで
ただ信じていなさい
イエス様は
おっしゃったわけです
恐れないで
やはり
それは
ヤイロにとっての
心の動揺で
ありますし
絶望感で
ありますし
どうして
なぜ
こんなことになったのか
という
やるせない思い
そういう
嘆き悲しみ
絶望
そのことを
イエス様は
わかっておられて
恐れるな
そして
27:01
ただ信じていなさい
これは多くの意味が
含まれていると
思うんですけれども
ただ信じていなさい
この私を
信じなさい
私の言葉を
信じなさい
あるいは
私を信じて
委ねなさい
そういうものを含めて
イエス様は
ヤイロに
恐れないで
ただ信じていなさい
そして
ペテロ
ヤコブ
ヨハネ
を連れて
そして
街道
管理者の
家に
着いた
そこでは当然
人々が
この娘さんが
亡くなったということで
取り乱し
泣いて
いるのが
見えたわけであります
イエス様は
そこに行って
なぜ取り乱して
泣くのか
子供は
死んだのではない
眠っているのです
果たしてこの
街道管理者の
家から
来た
使いの者は
嘘を言ったのでしょうか
あるいはここに
その娘さんの
そばで泣いている人たちは
何を見て
泣いているのでしょうか
街道管理者の
使いの者は
まさにこの娘さんが
息を引き取って
死んだというのを
見たわけです
あるいはその周りの人たちも
間違いなく
この娘さんは
死んだ
亡くなった
息を引き取った
というのを
確認して
泣いているわけであります
ですから
決して
嘘を
言ったわけでは
ありません
それに対して
イエス様が
子供は死んだのではない
眠っているのです
ではイエス様は
嘘偽りを
言うお方でしょうか
これも
正しいわけです
イエス様も
真実を
言われるお方
私は
道なり
信じなり
祈りしなり
イエス様が
嘘偽りを
言うお方ではない
というのを
私たちは
信じていますし
そうであります
ここに私たちが
ある意味
その板挟みに
立つわけであります
おそらくどちらの
言っていることも
真実であります
私たちが
行き着くところは
私たち
人間が
生きる世界と
イエス様が
生きる世界とは
やはり
違うんだな
ということを
ここで
覚えさせられるわけです
私たちは
人間は
目の前にある
その事実の中で
生きているわけです
それを確認しながら
30:00
生きている
しかしイエス様の
生きている世界というのは
これから永遠
あるいはその中に
例えば命という
そういうものを
この方は
それを
ご支配なさっている
海に嵐がある
私たちは
海の嵐
これは大変
恐ろしいものだ
その嵐に
飲み込まれたら
私たちは溺れて
死んでしまう
という
そういう世界に
私たちは
これは決して間違ってはいない
しかしイエス様の
生きる世界は
そういう嵐
自然の現象
そういう中で
それを支配しながら
生きておられるお方
それはもう全て
そうだと
言えるわけですね
悪霊に取り憑かれた
人たちも
そうです
私たちはそういう
中で生きるんですけれども
イエス様は
その
悪霊も
支配なさる
そういう中で
生きておられる
お方
あるいは
支配されて
おられるお方
ですから
この娘さんの
あるいは存在
あるいはその魂
全てを含めて
それを
一手に
引き受け
ご支配なさって
生きている
それが
イエス様であります
ですから
娘さんは
死んだのではない
眠っているのです
ということができた
私たちには
こういうことは言えません
息を引き取ったならば
それは
死んだ
ということで
あるわけですし
イエス様は
死んではいない
この人は
眠っているのです
という
それがイエス様
そういう
生きてあるということを
私たちはここから
覚えるわけであります
イエス様は
そういうふうにして
人の
命を
どうにでもなさることのできる
お方
私たちにとって
死んだ命も
それを
生かすことのできる
お方
そのことが
ここに書かれてあるわけです
それは
眠っているのです
ですから
この少女を
足りたくみ
少女を起きなさい
言えば
その少女は
起きることのできる
そういう
技のできる
お方が
このイエス様である
ということを
私たちは
ここから
覚えるわけであります
33:01
イエスは
人を生かす
ということ
これは
死んだ人を
生かすという
もちろん
それもありますけれども
もう一つは
人というのは
この
今では
心臓とか脳とか
そういう
もので
人の
生き死にを
図りますけれども
私たち人間は
決して
そういうものだけで
の存在ではない
心や
あるいは
魂というものが
あります
ですから
イエス様が
人を生かす
ということは
その
魂が
死んでいる
体は動き
心臓も
脳も
ちゃんと動いている
手足も動く
しかし
魂が
死んでいる
あるいは
眠っているような魂
それを
生き返らせることのできる
お方が
また
イエス様である
それは
私たちには
できない
人の魂を
私たちが
生き返らせたり
眠っているような魂を
生き返らせる
ということは
私たちには
できない
私たちは
そういう
ただ現実の中に起こる
その中でしか
生きられない
しかし
イエス様という
お方は
人の魂も
自分の
支配の中に
それを
握りながら
生きておられる
お方ですから
その魂を
生かようにも
できる
それが
イエス様であります
ですから
人の命も
生かすことも
できるなら
人の死んだ魂も
眠っているような
魂も
生き返らせることも
できる
それが
イエス様である
イエス様には
その権威と
力があるんだ
ということを
ここから
覚えるわけであります
魂というのは
なぜ
死ぬのでしょうか
魂はなぜ
眠ったようになって
しまうのでしょうか
聖書は
罪の支払う報酬は
死である
言っておりますから
この
その魂の死
というのは
魂の眠り
ということの原因は
罪である
ですから
私たちが
この
罪の解決を
イエス様から
いただくならば
どんな人の魂
それが
眠っていようが
死んだような魂であろうが
それは
生き返るのだ
もう一度
生かされるのだ
目を覚ますのだ
そのように
私たちは
考えることが
できるわけです
このイエス様が
私たちの
住むこの地上に
来てくださった
それは
何のためか
ということを
もう一度
覚えたいと思うんですね
これは決して
忘れてはならない
36:01
テーマであります
なぜイエス様は
私たちのところに
来てくださったのか
荒れ狂う
海の
その
それを
沈めてくださる
それも
感謝です
しかしそのために
イエス様は
来てくださったのだろうか
悪霊に取り憑かれた人が
墓場に住んでいた
その
人から
悪霊を追い出すために
イエス様は
来てくださった
もちろんそれも
感謝のことです
その人は
そのことによって
また新しい生き方を
そこから
始めることができたわけです
あるいは
十二年間
長地を患っている人が
イエス様の衣を
触ったことを通して
病が癒された
その人にとっては
本当に感謝のことであり
私たちも
それを見て
ああよかった
そういうふうに思います
しかしそのために
イエス様は
来てくださったのだろうか
もう一度私たちは
イエス様は
何のために来てくださったのか
それは
もう既に
私たち丸子の
文章の
十六節からの
そのところで
学びました
それは
私が来たのは
罪人を招いて
悔い改めさせるために
来たのです
ここにはっきりと
イエス様が
私たちのところに
来てくださった
罪人を招いて
そしてその
罪から
解放されて
救われて
そしてもう一度
神の
導きの中で
生きていくことが
できる
イエス様という方は
その罪の
解決のために
来てくださった
イエス様の
その存在というのは
すべてここに
あると言っても
過言ではありません
海の嵐を
沈めていただいた
弟子たちが
沈まれ
風よ沈まれと
その技を
見て
そして神を
恐れて
そしてこの神を
崇めて
彼らが
生きるように
今までは
周りの者に
目を奪われて
そして神を
見失っていた
それが罪であります
そういう中から
誠にこの神は
生きておられる
この方を
私は信じて
生きていくのだ
という
罪からの
解放と
そして
神の恵みの中に
生きていくこと
そのことを
イエス様は
願っておられるわけです
悪霊を
追い出してもらった
人が
もはや
この穢れた霊に
惑わされて
生きることのない
悪霊ではない
精霊によって
彼が
導かれて生きていくように
そういう
穢れた霊
悪の霊という
罪の中に
39:00
生きるものではない
精霊という
神の
導きに
生きていくように
彼が
正しく
歩めるように
イエス様は
願っておられた
わけです
長血の
病を
癒してもらった
女性も
そのことを通して
ますます
彼女が
信仰に
生きる
神様に
従って
生きるように
病が
決して
罪では
ありませんけれども
この
癒していただいた
という
ここに
今までの
自分の生き方を
繰り改めたり
そして
この神を
ますます
信じて
生きる人に
神様に従う
そういう人に
なれるように
という
イエス様の願いが
そこに
こもっているわけです
生き返った
この
娘が
そして
この父親である
やいろん
あるいはそれを
見ていた
人たち
この人たちが
奇跡を見たわけです
もう
一人の
人たち
人が
このようにして
もう一人の
命をいただいて
そして
ここにあります
彼らは非常な
驚きに
積まれた
希望の喜び
あるいは
歓声
そういう中に
みんなが
包まれた
どうして
こんなことが
起きるんだろう
でも
この少女が
もう一度
そこから
生きる
希望と
喜びが
与えられたということ
このことを通して
みんなが
神様を崇めて
生きていくことが
できるように
自分の
周りにある
あるいは
自分の中にある
そういう神様を
否定し
あるいは
神様から離れた
そういう生き方ではなく
この
命をも
ご支配なさっている
そして私たちの
魂をも
ご支配なさって
以下ようにも
なしてくださる
このお方に
委ねて生きるという
そのことのために
イエス様は
私たちの
ところに
来てくださった
私たちが
神様の
偉大な力と
そして
神様の愛と
憐れみの中に
生きるように
決して
罪の中に
生きていくことのないように
という
そのことを
願って
主が
送ってくださった
イエス様
あるいは
イエス様ご自身が
それを受けて
私たちの
ところに
来てくださった
ですから
この少女に
起きなさい
これは命が
もう一度
与えられるという
イエス様のお言葉でした
しかし
私たちの
魂がもし
死んでいるならば
42:01
あるいは
眠っているような
ものであるならば
イエス様は
私たちにも
起きなさい
目を覚ましなさい
そう
言ってくださるでしょうし
罪の中にいる人たち
目の前に
老いがかぶさって
何がいいのか
何が悪いのか
見えなく
されている
そういうような
者たち
かつての
私たちも
そうでしたが
イエス様によって
その
魂が
もう一度
位置づいていく
そのことを
イエス様は
願って
目には見えませんけれども
今日も生きて
私たちに
人々にそれを
語っていてください
その
イエス様を私たちは
これからも仰いで
歩んでいきたいと
そう願っているわけです
お祈りをいたしましょう
なぜ取り乱して
泣くのですか
子供は死んだのではない
眠っているのです
天の父なる神様
私たちの
命をも
御支配してくださる
主よ
我が魂を
あなたの
御手に
おゆだねいたします
死んだような
また
眠っているような
魂に
生きよと
目覚めよと
命じてください
そうすれば
私たちの魂は
生き返ります
もう一度
目を覚まして
息を吹き返しますか
そして今
罪の中にあって
滅びに向かっている
魂をも
イエス様のもとに
連れてまいりますから
どうか
その魂を
救ってください
もう一度生きるように
あなたが
導いてくださいますように
信じて
ゆだねて
主キリストの
皆によって
お祈りをいたします
アーメン
44:06

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