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2023-04-16 27:48

「復活されたイエス様にどう出会うか」2023年4月16日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年4月16日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 動画によるメッセージ:https://www.instagram.com/tv/CrFKH62JwpO/?igshid=YTY0NGM2M2E=
教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com

ルカ-35 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
弟子たちの失望と不信仰
今日は、復活されたイエス様をどのように出会うか、 どのように出会うことができるのか、その部分を一緒に考えてみたいと思います。
今日は本当にあいにく、教会学校のメッセージが この部分だということを気がついて
嬉しく思いました。みなさんこの絵をご覧ください。 エンマ王に下っていくこの二人の弟子、またそこに現れたイエス様。
まさにこの場面が今日のメッセージの大事な部分ですけど 教会学校の本当にメッセージを嬉しく聞かせてもらいました。ありがとうございます。
イエス様は十字架にかけられ、死んで、それからよみがえられました。 素晴らしくて喜ばしいお話です。出来事でした。
それにもかかわらず、弟子たちの中で誰も その出来事を素直で受け入れる人はいませんでした。
みんなが疑って信じませんでしたけど、その中で特にトマスという人は それを絶対あり得ないと思って、彼が何と言うのか、
ヨガネン20章25節に見ますと、
トマスはいた。あの方の手に釘の跡を見、 そのこの指を釘跡に入れてみなければ、
またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じないと言います。
絶対復活はあり得ないと思って、彼は自分の手で、その釘跡、また脇腹のその跡に入れてみなければ、私は信じないと言うほどの慷慨な人もいました。
今日分かち合いと思っている、この閻魔王にくだっていく、この二人の弟子も 事実、いろいろな噂を聞いたんです。
一緒に行った姉妹たちがイエス様を復活されたと聞いて、その話を聞いたんですけど、
それはあり得ないと思って、弟子たちの共同体を離れて、自分のふるさとに戻っていこうとするんです。
弟子たちがこうするなら、皆さん、世の中の人々はこの復活ということをどのように信じることができますか?
復活を信じなければ、復活の命によって生きることもできないし、
復活されたイエス様を明かしすることはもっともっと難しいでしょう。
この弟子たちに対してイエス様がどうなさったのか、これを今日一緒に考えてみたいと思います。
そしてイエス様がなさったことを、私たちが受け止めて、私たちも信じて、この復活の明かし人になることを、私たちがこれからやっていきたいと思います。
じゃあまず、復活の喜ばしいニュースを聞いて、境界を離れて、ふるさとに戻っていく弟子たちがいました。
これはルカの24章の中3節からずっと書いてあるんですけど、
フラジルの弟子が、多分自分のふるさとでしょうかね、エンマ王に下って行きながら、
イエス様はなぜ十字架で死なれたのか、本当に復活されたのか、
この主体を持って議論しましたけど、いくら議論したとしても、結局残るのは虚しい心しかありませんでした。
彼らは何年か大きな期待感を持って、イエス様はついて行ったんですけど、
ついて行った結果が何ですか、結局虚しさ、悲しみ、絶望、楽観しかありません。
イエス様はついて行って、今私は40年過ぎる以上なんですけど、
40年間イエス様を信じて、結局絶望、楽観、悲しみしかないと言ったら、皆さんどう思いますか。
彼らが楽観した理由は、イエス様を出会ってみれば、イエス様は今までどなたよりも優れたお方。
またイエス様がなさることは全然世の中の人々と違った。
だからイエス様こそイスラエルを救われる方だと信じた。
ところが非常に悲惨に十字架にかけられて死んでしまった。
十字架にかかれたイエス、それが素晴らしかったイエス様さえも、ローマの十字架の前では無力だった。
何もなかった。 だからそれを見たしそれを感じたんです。
エマオの道での出来事
だからイエス様の十字架、考えたくもない。
もう間違えたら私さえも十字架にかけられて殺されるんじゃないかという不安もありました。
だから彼らは全てを諦めて、ふるさとに戻っていって、
3年間なかったようにして、これから他の道を探してみようと思って下っていくところでした。
そのような絶望の中で落胆して悲しんでいるこの弟子たち。
その弟子たちに一生に隣で一生に歩いてくださる方がいました。
15世紀、16世紀にいますとその方はイエス様でした。
話し合い論じ合っているとイエスご自身が近づいてきて一生に歩き始めた。
しかし二人の目は冴え切られていてイエスだということをわからなかった。
皆さんイエスだということをわからなかった。これは本当だったんでしょうかね。
3年間一生に暮らした生活をしたこの自分で先生だったでしょ。
一生に暮らしている先生が隣にいるのにそれをどうしてわからないということでしょうか。
何によって冴え切られていったんでしょうか。
これは不信仰によってです。
皆さん不信仰ということはこんなに難しいことです。
イエス様と復活されたということはありえないと思っている固定観念と言いましょうか。
その不信仰が目を閉ざして自分の側におられるのにもかかわらず認識することはできなかった。
それだとしても皆さんイエスキリスト社は決して一人ぼっちではありません。
イエス様は約束されたんじゃありませんか。
ヨワネ14章18節
私はあなた方を見なしごにしてはおかない。
あなた方のところに戻ってくると言われました。
今イエス様を信じている私たちにも同じです。
イエス様はいつもともにおられます。
このような弟子たちにイエス様はどうされたんですか。
弟子たちへのイエス様の対応
24章17節を見ますと
イエスはあなたたちが歩きながらやりとりをしているその話は何のことですかと聞かれたということです。
イエス様はご自身を素直にすぐに表すことではなく
彼らが何によって今不信仰に陥っているのか悲しんで落胆しているのか
自分たちの声でイエス様はそれを明らかにそのことを聞きたかったということです。
その話をしたら弟子たちは自分の本音を言い始めたと言います。
彼らはその話をする前に涙を浮かべながら
呆然自主自治しながら表情で自分の心を表したんですけど
彼らが虚しくなっている理由
皆さん考えてみてください。
当時イエス様がついていくということは
ユダヤ人の社会から追い出されることです。
本当に怖いことです。
だから自分の人生を懸けて
このイエス様は確かだと
確かに信じてついていったんですけど
イエス様はこんな優しく十字架にかけられ亡くなれれたということ
だったらついていた私たちこれからどうすればいいんだろう
弟子たちの期待を徹底的に崩したのは十字架でした。
十字架ということで全ての夢が消えてしまった。
またどれほど怖かったんでしょう。
イエス様を再び蘇られると言われたんですけど
イエス様の隣との関係性
十字架の怖さによってその話は耳に入ることもできませんでした。
そのような弟子たちのそばにイエス様は来てくださったんです。
皆さん私たちキリスト社の人生の道のりには
いつもお友達がおられます。
イエス様です。
同行者です。
私たちが一番つらいと思っているこの瞬間
私たちは一人ぼっちではありません。
イエス様が共におられます。
ところが今日の子どものメッセージにもこの話をしましたね。
私たちの苦しみ、問題、私たちのこの痛み
それが心を閉ざして
隣におられるのにもかかわらず
私たちの目にはイエス様が見えてこないということです。
イエス様は私たちの隣におられて
いつも私たちのすべての環境を理解してくださるし
共感してくださるし
私たちはいつも声をかけてくださるんですけど
私たちはそれを認識することができないということ
これが残念です。
皆さん私たちにはキリスト社には
神様がイエス様がいつも共におられます。
信じてください。
そして自分の一番悩み、つらい時に
イエス様に声をかける。
信じて声をかける。
これは何より大事です。
皆さんイエス様が私と共におられるんだということ
それが悟られる瞬間
その時から人生の回復が始まります。
ところが慰めと共感だけではできません。
何がもっと必要ですか?
ルッカの24章、25節、26節に
そこでイエスは言われた
ああ、物分かれが悪く心が鈍く
預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち
メシアがこういう苦しみを受けて
栄光に入るはずだったのではないですか?
イエス様は神の御言葉、聖書によって
イエス様と聖書の教え
弟子たちが持っていたこの誤った信仰
特にメシアに対して誤った価値観を
正しく直してあげようと思われました。
弟子たちが持っていたキリスト
メシアはキリストと同じ言葉でしょう
メシア観ということは何ですか?
メシアは栄光の中で望まれ
力によってローマを滅ぼして
イスラエルを救われる
栄光のメシアを待ち望んでいました
そのような信仰は一体どこから来たんですか?
この根拠はありません
一般的な民たちの希望に過ぎなかったんです
そのような考えを持っていた弟子たちに対して
十字架の事件は理解ができない
衝撃と恐怖そのものでした
メシアが来られて私たちを救うんじゃなくて
なぜ自分が十字架にかけられて死んでしまうの?
それは皆さん理解できないことでしょう
しかしイエス様は弟子たちの考えを正しく直すために
具体的に何をされたのか
聖書の御言葉です
私たちは世の中の人々のように
漠然的な希望によって信じてはいけません
聖書の根拠を持って
それを持って信じなければなりません
ですからルカの24章27節
そしてモーセと全ての預言者たちから始め
聖書全体に渡り
ご自身について書かれていることを説明したと言います
聖書にはメシアが栄光の姿で来られて
君臣してまた力によって
この世の中を救われることではなく
十字架の苦しみと復活で救われ
イエス様と聖霊様の働き
回復されることを
聖書を通して解き明かしをしながら
これから聖書を通して悟るように
聖書を通して信じるように助けて下さいました
当時のイスラエルためであるなら
誰もみんなそう思ったでしょう
ローマから解放されること
それが幸せと
それが私たちが生きる道だと思ったかもしれませんけど
ローマから解放されても
罪と悪魔から解放されなければ
相変わらず不幸になるしかありません
まことの幸せは
罪と悪魔から解放されることによって可能です
では 罪と悪魔から人類が解放されるために
イエス・キリストの十字架と復活の福音を受け入れ
信じる道しかありません
弟子たちとこの話をしながら道を歩き
勉強するのに時間が過ぎることは分かりませんでした
そうしてみたら いつの間にか
目的地であるエンマーの村に到着しました
この時 聖書ルカの24章28節から30節には
イエスはなおも先に行こうと思っておられる姿だったのですが
弟子たちが一緒に町に入って食事しましょう
それを節に願って
町に入ってイエス様と共に食事をするようになりました
30節に見ますと
一緒に食事の席についた時
イエスはパンを取り
賛美の祈りを唱え
パンを裂いてお渡しになったと言います
みなさん この絵ですけど
この場面をいつか見たことはありませんか
これはイエス様が最後の晩餐の時に
このような姿で弟子たちと分かち合いをされました
また 普段イエス様が弟子たちと一緒に食事する時に
このような姿が見えたでしょう
その時 イエス様のこの愛深いイエス様の姿は
弟子たちには忘れることはできません
しかし イエス様が十字架に亡くなられた時に
その姿を二度も見ることができないと思いました
ところが 今 目の前で
その姿が再現されているのではありませんか
教会学の子どもたちのメッセージも同じですね
その瞬間 弟子たちの心の中に
大きな大きな動きがありました
それがルカの24章31節32節は
それを書いておられます
すると 二人の目が開け
イエスだと分かったが その姿が見えなくなった
イエスだと分かった瞬間 イエス様がいなくなりました
そして二人がこう言います
二人は道で話しておられる時
また 聖書を説明してくださった時
私たちの心は燃えていったのではないかと
語り合ったと言います
イエス様をお話しする時に
燃えていったのではないか
どうしてですか
聖霊様が強く働いてくださったからです
皆さん 聖書のすべては
聖霊様が悟らせてくださらなければ
私たちの知識 私たちの努力としては
悟ることはできません
だから 聖霊様のこの働きを
私たちは徹に求めなければなりません
その時になってから
その弟子たちは
復活されたイエス様を
認識することができました
復活によって開かれた霊的な目
弟子たちだけ残して死んでしまったイエス様
また 宗教主導者たちに負けて
殺されて終わったと思っていたイエス様が
復活された姿として
弟子たちのところにおられました
今まで悲しみと絶望に抑えられて
見ることができなかった弟子たちの
霊的な目が開かれたのです
そのためにイエス様がなさったことは何ですか?
聖書の学び 聖書の分かち合い
また 信徒たちの交わりでした
特に食事をしながら分かち合うこの交わり
これがイエス様が使った方法でした
では 私たちが信徒たちの
目が開かれるように
業界が力を入れるべきところは何ですか?
業界は聖書の学び 聖書の分かち合うことと
信徒たちの交わり
特に食卓の交わりが大事です
現在 私たちはコロナによって
個人の礼拝だけ捧げて
急いでお家に帰られる
これが当たり前になってしまったのですが
先週イースターの挨拶を分かち合いながら
本当にこれが信仰生活の楽しみだなと私は思いました
これから業界の
あまり無理にならなければ
1ヶ月1回くらいは
この信徒たちの交わりの
特に食卓の交わりができればと思いますが
復活したイエス様に出会った弟子たちの変化
ぜひとも考えていただければと思います
そのところを通して
礼拝の時間 メッセージをいただいて
それが消化できていないまま
お家に帰られることではなく
信徒の交わりを通して聞いたメッセージが
消化がうまくできるように
皆さん 今 私がいろいろな問題になっていること
それは神の御言葉では何というのか
その理由が何というのか
また 信徒たちはこの問題を
各々 どのように解決しているのか
それを証として マジョリの中で聞いたとき
ああ 私もそうやってみようか
そうするならできるぞと思って
これは聞いたメッセージが
自分の生活につながる
力になる
この働きが大事でしょう
では イエス様に出会った弟子たちは
どのように変わったのですか
ルッカの24章33節
そして 時を映さず出発して
イエルサレムに戻ってみると
二人 十一人とその仲間たちが
集まっていったと言います
皆さん 考えてみてください
二人の弟子たちは
たぶん イエルサレムからエンマウまで
十何キロぐらいになるんだそうです
十何キロ 一日 イエス様とお話ししながら
歩いてエンマウまで来ました
また 今はもう日が暮れる状態です
疲れた体
また イエス様といろいろな話をして
ああ 感動があったとしても
今日 休んで
明日 朝 早く イエルサレムに行こう
言うべきでしょう
しかし 彼らは
日が暗くなっているのにも関わらず
イエス様の共同体に復帰した弟子たちのリバイバル
直ちに イエルサレムに戻って行ったと言います
これなんです
イエス様に出会った人たちの
この喜び
命と情熱と言いましょうか
イエス様に出会ったら
命が与えられます
情熱が与えられます
イエス様に出会ったその瞬間
喜びが満ち溢れた時
明日 行こうじゃなくて
直ちに その場で
イエルサレムに戻って行く
これなんです
早くこれを
教会の皆さんに伝えたい
この嬉しい
私に出会ったこの気持ちを
私たちみんな分かち合いたい
これが共同体の
家族としての
この喜びではないでしょうか
イエス様が行って伝えなさいと
言わなかったのにも関わらず
弟子たちはそこに行って
自分たちが出会ったことが
国を伝えることができました
この驚くほどの変化
もともと弟子たちは
悲しみと絶望と
落胆する心で
もう ふるさとに戻って
これから新しい仕事を
探そうと言ったんですけど
彼らは再び
火がつけられて
心が燃えていきました
ところが皆さん
考えてみてください
この二人の弟子は
一人の名前は
聖書に記されているんですけど
もう一人の名前は
聖書に記されておりません
だから弟子たちの中で
非常が大きい弟子ではなかった
ということです
イエス様はこんな
非常が大きい弟子ではない
その弟子一人一人に現れて
力を与えてくださり
信仰を回復してくださいました
そしてふるさとに戻っていく
気持ちだったこの弟子たちが
再び集まったところが
マルコのアッパールームでした
そこで彼らが
心に燃えている心で
切磋に祈ったところ
そこにリバイバルが来ました
ペンテコッセのリバイバル
このようにして行ったことです
皆さんイエス様は
弟子たち一人一人を
大切に思っておられます
もし弟子たちの中で
イエス様は十字架のところを見ながら
落胆して
もう信仰から離れたとしても
イエス様の共同体から
もう去ってしまったとしても
叱ることではなく
イエス様は直接
立ち寝てきてくださって
親切に対話で
心を和めてくださり
言い言葉を解き明かしをしてくださり
納得させて
新しい力
新しい情熱を与えてくださる
イエス様に感謝します
私たちも同じです
今私たちに一番大事なことは
何でしょうか
復活されて
生きておられるイエスキリストに
出会うことです
私たちもエンマ王に下っていく
二人の弟子のように
長い信仰生活しましたけど
今どうですか
命と力が湧き出ていますか
落胆して
絶望して
心配に満ちた心で
もしかして悲しんでいるのではありませんか
今年はぜひとも
復活されたイエス様に出会って
本当に信仰の本当の味を
味わう私たちになれればと思います
ですから聖書はこう言います
イザヤ書55章6節です
主を尋ねて求めよ
見出し得るう時に
呼び求めよ
近くにいますうちに
と言います
イエス様に出会って信じる
イエス様に出会った人は
誰が命じられなくても
喜んで
承認の生活を行います
だから私たちも
そのようになりたいと思います
イエス様に出会った体験を
お家に帰って家族に伝える
またお友達に伝えたり
また学校職場同僚たちに伝えるほど
霊力の目が開かれ
心が燃えていく
私たちになれればと思います
そうするなら
大選挙命令で
命じられたからではなく
私たちが体験したそれを
伝えなくてはいけないほどの
心の強い熱情によって
私たちが福音の証人になることを
願います
そうするなら
まず神の国と神の気を求めなさい
そうすれば
これらのことをすべて加えてくださる
与えられる神様の祝福を
すべて受け入れる私たちになるでしょう
じゃあイエス様と親しい
愛の交わりの中で
熱情を持って福音を伝えながら
永遠な天国で入って
祝福にいただく
その私たちになりますように
復活されたイエス様に出会って信じる
キリスト社はみんなこの世になります
私たちも祝福されたキリスト社になるように
ぜひとも
復活されたイエス様を探し求めて
復活されたイエス様を近くにいるうちに
今は恵みの時期でしょ
恵みが消えてしまえば
祈ることもできません
今の恵みの時期
精霊の時期に神様に求めながら
イエス様に深く出会う私たちになりましょう
先週復活されたイエス様
今も生きておられます
私たちはどんな場面でも
イエス様は隣におられるんだということを信じて
イエス様を探し求めて
ぜひとも体験ある信仰生活をやっていきましょう
お祈り出します
主よ
イエス様は復活されたのにもかかわらず
信じることができなく
死で終わってしまったのように
悲しんで落胆して諦めていった弟子たち
一人一人に出会ってくださり
信仰の火を燃やしてくださり
回復してくださったイエス様
ありがとうございます
私たちの信仰生活も復活されたイエス様によって
再び燃えていく
強くなっていく私たちにならせてください
イエス様の皆を通してお祈りいたします
アーメン
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