00:01
ご着席ください。
聖書朗読をしていただきます。
藤田兄弟に、
伊沢賞、9章の1節から7節まで、伊沢賞の9章1節から7節まで、旧約の1139ページです。旧約の1139ページです。お願いします。
お読みします。
大きな光を見た。死の陰の地に、住んでいた者たちの上に、光がてった。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた。
彼らは借り入れ時に喜ぶように、分取物を分ける時に楽しむように、あなたの見舞いで喜んだ。
あなたが彼の重荷の首輝きと肩の鞭、彼を強いたげる者の杖を、ミディアンの火になされたように、粉々に砕かれたからだ。
戦場で入った全ての靴、血にまみれた着物は焼かれて火の餌食となる。
一人のみぞり子が私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり。
その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく。
ダビデの王座に就いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを固く立て、これを支える。
今より常しえまで、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
以上です。
03:23
おめでたい日もある。
悲しむものの柱をあげ、
俺の高く日差しをうたう。
人は罪と浮き踊り、
身も低く死に浮かべたらいい。
悲しむものの柱をあげ、
俺の高く日差しをうたう。
人は罪と浮き踊り、
身も低く死に浮かべたらいい。
06:16
人は罪と浮き踊り、
身も低く死に浮かべたらいい。
俺の高く日差しをうたう。
イエスはやすきもて、心たらわせ、ものごとすべてをよきになしたも。
さわがしい日々を送っておるものでありますが、
すべてから解き放たれて、
ただあなたのみを愛するこの尊いひとときをこれからも大切にしながら、
また主語自身が私たちとともに歩んでくださることを覚えて平安の日々を過ごさせていただきますように。
09:07
そういう中にありましても困難、観難、試練、いろいろとサタンの誘惑ありますけれども、
どうぞ私たちのあなたを信頼するその信仰をさらに強めてくださって、
打ち勝ち、また勝利の日々を勝ち取っていくことができますように導いてください。
そしてこの大公説のとき主が来てくださったことを心から感謝するひとときとさせてください。
また御言葉を持ってそのことをまた改めてあなたが私たちに促し、
また主の御愛とまた恵み祝福を心いっぱいいただいてここから出ていくことができますように。
また今世にあって悩みの中、闇の中にある人たちがこの救い主を知ることができるように神様を信じて、
そして神とともに歩む幸いな日々が送られるように、どうぞ教会の働きをも祝し導いてください。
今から御言葉をいただきます。
どうぞ御言葉にあるあなたの身むねとまたその思いを私たちが十分悟り得ることができるように
精霊が豊かに臨んでくださるようお願いいたします。
今日ここに来れたことを感謝します。
また来れなかった兄弟姉妹方の上にも今あなたがその場にあって臨んでくださいますように
来たる聖日にはともにクリスマスをお祝いし、あなたに礼拝を捧げることができますよう
心事をゆだねして主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
対抗説の第三説ですが、先ほど読んでいただきました、
イザヤ書の九章一節から七節でありますが、この中に二つの地名が出てきました。
ゼブルンの地、ナフタリの地、この地も朝になると太陽が昇って
そして時には眩いばかりの光が射して日差しが照りつける、そういう日もあったはずですね。
決して暗くはないわけですが、しかしその地は闇であったとここに記されてあるわけですが
12:01
その闇というのは、その人たちの心の状態を言っているわけであります。
人々が抱えていた闇、それは一節二節を読んでいくときにそれがわかります。
苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は恥ずかしめを受けたが、
後には海沿いの道ヨルダン川の彼方に違法人のガリラヤは光栄を受けた。
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の影の地に住んでいた者たちの上に光が出た。
この人たちの闇というのは一つは苦しみであり、そしてもう一つは恥ずかしめであり、
そして後節には戦場で履いた全ての靴、血にまみれた着物とありますから戦が絶えなかった。
そのために多くの人がその犠牲になっていたわけですね。
そういう日々をずっと繰り返し繰り返し続けていかなければならなかった。
もうこの人たちの心は疲れ、そしてすさみ、そしてどこにも希望を見出せないような、そういう状態であった。
そのことを闇と聖書は言っているわけであります。
イザヤが予言の中でそのことを示されたわけです。
闇の中を歩んでいた民、これが人々の心の状態であったということですね。
そういうところに大きな光が与えられた。
死の影の地に住んでいた者たちの上に光が出た。
何という彼らにとっては嬉しいことであり、また希望が見えたことでしょうか。
この光、これは何を表しているのか。
私たちは聖書の一番最初の創世紀のところを思い浮かべるわけですが、
神が光あれと仰せられた。すると光ができた。
天地万物のその中に光を作られた。それは神であったわけですね。
ですから、この闇に光を与えたのも神である。
その光は神ご自身であると言ってもいいわけであります。
15:00
心が凄み疲れ、そして苦しみの中にあった人々の心に光が出た。
この光で表されているその神。
その神ご自身が2000年前に光が人の形をとってこの世に来てくださった。
それは違法人のガリラだけではなく、
今日の私たちの上にもその同じ光は今日も灯されているということであります。
今から約2000年前の出来事として救い主がこの世に来てくださった。
それを私たちは今お祝いをしている。
そういうものでありますが、その2000年前のさらに遡ること、
700年あるいは750年前、その時にイザヤが与えられた予言。
あるいは神がイザヤを通してなさった予言がここに記されてあるわけです。
その予言の一つが一人のミドリゴが私たちのために生まれる。
その男の子が私たちに与えられる。主権はその方にあり、
その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。
この予言がこれから後700年、750年後に成就した。
それが今から2000年前の出来事であります。
私たちはそれ以来ずっとこの同じ救い主を心に迎えて、そして信じて、
この方とともに日々会いませていただいている。
おそらくこれはこの後もずっと変わらず続いていく。
その光栄を私たちは受けている。そのことを覚えて皆をあがめるわけであります。
旧約聖書というのは神様の約束が記されている。
そして新約聖書はその成就が記されている。
改めてそのことを思わされるわけであります。
その救い主なるお方、救世主メシアと称されるお方、そのイエス・キリスト。
このお方が人間を闇から救う。
闇というのは私たちの心の中にある罪でありますけれども、
その罪の支配から救うため、サタンの支配から私たちを解放するために救い主として、
18:00
神御自身が人間の形をとって来てくださった。
まさにこの依頼を通してなされた予言が成就した。
この光栄が今も私たちの上に注がれている。
そして多くの人々、すべての人に注がれている。
その光栄をまだ知らない、受けていない方々、その方々に私たちはそれを知らせていく。
お伝えするという、その尊い使命が与えられている。
これもまた幸いであります。
ではそのお方とはどういうお方なのか。
イザヤはその時すでにこのように示されていた。
そのお方は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるようなお方である。
と彼は言ったのであります。
まずはじめにその方は不思議な助言者。
イエス・キリストという方は不思議な助言者。
これは英語でワンダフル・カウンセラーと言われるわけですが、
不思議な、これは何かまか不思議とかそういうものではなくて、
人間の力を遥かに超えた神の驚異的な働きができるという、
そういうような不思議、霊明なる義士というふうに公訳では訳されていますけれども、
そういう人知を遥かに超えた力のある、そういう助言者である。
カウンセラー、相談相手、そういうお方なんだ。
キリストは私たちのすべてを理解し、そして悩みや苦悩を聞いてくださって、
そして相談相手になってくださる。
今日のようなこういう複雑な社会の中で生きている私たち。
多くの人々が問題を抱えている。どうしていけばいいのかわからない。
こっちだろうか、こっちだと思っていけば、いやそうじゃない、こっちだ。
この人がいいだろうと思って立てたら、もう一年ごとにそのリーダーが変わっていくというような、
そういう国もあるようですが、それほど混乱の時代である。
そういう中で人々は生きていくときに、誰か私の思いをわかってくれる人はいないか。
21:08
これから私はどうして生きていったらいいのでしょうか。
もしそのことを相談に乗ってくれる人がいたら本当にありがたい。
それがその相談者、それがカウンセラーであります。
ですから多くの人がこのカウンセラーを必要としている時代であろうかと思うんですが、
この相談を受けた人はその人の悩み苦しみ、あるいは抱えている課題を聞いてあげる。
これがまず仕事ですね。聞いてあげて、そしてそうそれは大変だね。
本当にそういう中でよく頑張っているねとくじってあげると、
その人はそれだけでも本当にもう心休まる。そういうことをおっしゃるわけですね。
あるいは私の言うことを聞いてくださった。それだけでも私は救われた。
カウンセラーのお仕事というのはそういう尊い仕事でもあろうかと思うんですが、
しかしこのワンダフルカウンセラーはそれだけではないんですね。
その人の苦の悩みを聞くだけではなくて、さらにそれからこれからどうしたらいいのか、
どういうふうに生きていけばいいのかを示し、そして導いてくださるカウンセラー。
それがワンダフルカウンセラーであるわけですね。
その人のこれからの生涯も責任を持ちますということですから、大変責任は重いと思うんですね。
悩みを聞いてあげる。それだったら私たちにもできるかなと。
でもその人のこれからの行く道、それも責任を持って導いてあげるというのは、これは非常に難しいし責任が重い。
もしそれが間違ったならば、自分もその間違いを一緒に負わなければならない。
いわば保障人のようなことですよね。
その人が破産したら、その破産は自分のものとしてそれを受け入れていかなければならない。
これは大変責任の重いことですし、あるいはそういうことを容易にしていいのかどうかということも考えさせられるわけですね。
ですから相談者、相談者はいいとしても、本当にこのカウンセラーとしてその人のこれからをも責任を持って導くことができるだろうか。
24:08
果たして私たち、それは人間として可能であろうかと、そんなことを思うんですね。
しかしこのワンダフルカウンセラーは神でありますから、私たちをすべて理解し聞いてくださり、しかも私たちがこれからどう歩んでいっていいのかもすべて責任を持って導いてくださるお方。
これがイエス・キリストであるわけですね。
こういうカウンセラーがいてくださっているということを私たちは知ることができた。
多くの人にこのお方をお伝えする、ご紹介する、私たちはそういう働きを今させていただいているわけですね。
そしてここにあります苦しみの中にある人、恥ずかしみの中にある人、闇の中を歩んでいる人、心が闇、傷つき、疲れ、希望の見えないそういう人がこのワンダフルカウンセラーの下にいて
これから私を導いてくださいとこのお方を受け入れて共に歩んでいく生涯、それが本当に幸いな生涯。
求めをさらば与えられん、探しなさいそうすれば見つかる、叩きなさいそうすれば開かれるであろう。
これはまさにワンダフルカウンセラーイエス・キリストのことであります。
このイエス・キリストを求めなさい、そしてこのお方のうちにある真理を探しなさい、探し求めなさい。
そうすればそこにきっと答えがある、慰めがある、道があるということをその人たちはわかるようになるでしょう。
そしてこのイエス・キリスト、ご自身が門でありますからこの門を叩きなさい。
そうすれば希望の門とそして永遠の命への通じる門が開かれていくんだということを多くの人に知らせていければとそう願うわけです。
二つ目は力ある神である。この力ある神、これはこのお方が勇者であり、そして勝利者であり、また救出者、助け出す人という意味があります。
公語訳成書では大能の神と訳されているその言葉であります。このお方は勇猛な方。戦いにおいてはどんな戦いでも勇敢に出ていき、そして必ず勝利されるお方である。
27:08
これが力ある神、大能の神という訳ですね。この勝利者なるお方、力ある全知全能の神を私たちは知り、そしてこのお方に委ねて共に歩んでいただく。これが私たちに与えられるまた力である訳ですね。
イエス様を私たちも信じて歩んでいます。しかし時にはイエスのキリストの弟子と同じように弱さもありますし、時には信仰がなえてしまうような時もあります。
イエス様がエルサレムに入場されて、そして捕らえられて、いよいよイエス様が十字架につけられる。そういう時にあれほどイエス様、あなたを信じ、あなたについていきます。どんなことがあってもあなたに従いますと言っていた弟子たちは恐れた訳ですね。
ああ、イエス様が十字架にかけられて、そして死んだらこの後どうなるんだろう。私たちはどうしたらいいんだろうかということを彼らは思った訳ですね。
あの弟子たちは私たちとて変わらないと思うんですね。この世界の民の救い主、大能の神、力ある神がいなくなったらどうしようか。そんなことを彼らは思った訳でありますけれども。
しかし私たちはもう一度思い出さなければならない。この方はどんな戦いにも既に勝利された方、力ある方、天地万物を創造された大能の神である。その信仰に立たなければなりません。
信仰の戦い。これはまた自分自身との戦いでもあろうかと思うんですね。イエスはそういう弟子たちに、また私たちに既に勝利の宣言をしてくださっている。その言葉を聖書に見ることができる訳ですが。
ヨハネの第一五章の四節と五節。神によって生まれた者は皆、世に勝つからです。私たちの信仰。これこそ世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
既に勝利された方。この方を我が神、我が救い主として信じる信仰。どんな時にもこの方が私たちを導いてくださる。力ある神であるということを覚えたいと思うんです。
30:13
三つ目は永遠の父とあります。永遠にわたってご自分の民を保護し、そして支え、愛されるお方。これが永遠の父と呼ばれるイエスキリストであります。
イエスキリストは父なる神ではありませんけれども、イエスキリストご自身の中に父なる神のご性質を持っておられるという意味で、子は父と一つだということをイエス様はおっしゃったわけですね。
それに対して最主張立法学者パリサイ人たちが神を冒涜していると言ったわけですけれども、このことは既にイザヤを通して予言されたそのことに証されています。
このお方は永遠の父と呼ばれる永遠。神ご自身が永遠という中に生きておられる。あるいはこの神ご自身が永遠と言ってもいいわけですが、永遠というのはただ時間の長さを言うのではなく、そのもっと質的な永遠。
何事にも変えられない、あるいはどんなことがあっても朽ちない、そういうもの、輝きをいつもそこにたたえている、そういうものを永遠という表現をするわけですが、
ヨハネの福音書の十七章の三節では、永遠の命とは、唯一誠の神であるあなたと、あなたの使わされたイエスキリストを知ることです。神ご自身が永遠で、イエスキリストそのお方が永遠で、そのお方をまず知ること。
そのこと自体がもう私たちに永遠の命が与えられているということなのだ、と聖書は約束しているわけであります。
四つ目の平和の君。イエスキリストが勝利者であり、そして全てを支配し、そしてご自分の民に平和を与えるお方である。
これはこの世の知性を納めて、そこに平和と平安を与える、そういう意味もありますけれども、それこそこの地に住む民、全ての人たちの心のうちに平和と平安を与える。その救い主がイエスキリストであるということですね。
33:07
イエス様が言われた言葉の中に、私が与える平安は、世が与える平安とは違います、とおっしゃったわけですね。
あるいは私が与える水と世が与える水とは違います、と言ってもいいかと思うんですね。
人間は誰でも喉が渇きます。その喉を潤す、例えば水は世が与えます。そして私たちの心の渇き、それもこの世が与えることができる。
私、その水を飲んでもまたしばらくすれば、あるいはこのような日差しの強い乾燥したところでは、もうすぐに喉が渇き、また水を求め、そして水を飲んで喉を潤す。
それが世が与える水であるわけですけれども、イエスキリストが私が与える水は世が与える水とは違う。私が与える水、それは精霊を私はあなたに与える。
それは渇くことがない。いつもあなたの心のあるいは魂の中に湧き入れて、泉のようにいつも湧き入れて枯れることがない。私が与える平安は世が与える平安とは違います。
世が与える平安あるいは安らぎというのがあります。そのことによって私たちの心が潤され、また安らぎが与えられるということも私たちは知っています。
例えば趣味をすることもありますし、旅行に行ったり、体を休めることもそうでしょうし、音楽を聴いたり、映画やお芝居に行ったり、見たり、あるいはおいしいものを食べたり、
そういうことによって私たちは安らぎを与えられまた慰めを与えられすることがあるわけですね。これは必要なことです。これは大事なことですね。
これらのものが確かに心に安らぎと潤いを与えてくれる。ですからこれは必要なものです。ただそれだけではないということですね。
イエス様がおっしゃった私が与える平安は世が与える平安安らぎ。それもいいでしょうけれども私が与える平安はそれではない。もっと心のあるいは魂の安らぎ。
36:08
それもまた精霊によってあなた方はいつも心魂が植え替わることのない、そういう平安を私はあなたに与えますとイエス様は約束されたわけです。
それがシャロームという言葉でヘブル語では言われるわけですがイエス様が平和の君と呼ばれるのはこのお方がシャローム平安を与えるお方である。
言わばイエス様ご自身が平安そのもの平和そのものシャロームの塊のようなそういうお方であるというのがこの平和の君と言われるお方なのであります。
多くの人が苦しみと恥ずかしみと悩みとそして疲れそして希望をなくしている。そういう人たちに必要なのはこの平安であり安らぎでありシャロームであるわけですね。
どうすればそのシャロームをいただくことができるのでしょうか。
それはこの平和の君なるお方シャロームのお方の中に飛び込むということですね。もうそのお方の中にどっぷりと浸かるということ。
例えば私たちがプールでもいいですが海でもいってもうザブンと飛び込んでそしてもうその水の中に浸かっているようなそういうお風呂でもいいですね温泉のそういうことですね。
それをさせていただくときに私たちのうちにこの平和の君が私たちの救い主となってくださって植えかかることのないこの魂に安らぎを与えてくださるんだということをもう一度覚えておきたいと思うんですね。
私たちの信仰というのは2つの信仰告白でなっていると思うんですね。これが全てではありませんけれども。
一つはキリスト我が家にいますという信仰告白。救い主なるお方このキリスト平和の君シャロームのお方が私の家にいます。私の家にイエスの命とそのお方を家にいただいています。この信仰告白。
39:01
そしてもう一つが私はキリストのうちにいます。キリストというお方その大いなるお方平和の君シャロームのお方の中に私がどっぷりと使って全てをこのお方に委ねてその身手の中で日々過ごさせていただく。
これからの行く道も私の抱えている悩みも困難も全てこのお方に全部お委ねして私はそのキリストの愛の中に恵みの中にただただ行わせていただいているというこの信仰。
この二つの信仰告白をもってこれから会いましていただきたい。またこれを人々に伝えていきたいとそう願っています。お祈りをいたします。
天の父なる神様イエス様を私たちにお与えくださったことを感謝いたします。
これからも世の光であられるイエス様がこの世の闇とまた人々の心の中の暗闇等を照らしてくださることを信じて名をあがめます。
先に救われた者たちとまた主の教会がさらにこの福音を述べ伝えるために整えられそして用いられてまいりますように。
今日いただきました御言葉感謝をいたします。
不思議な助言者力ある神永遠の父平和の君と呼ばれるこの偉大なる救い主イエスキリストのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン