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#07 「教える」に、正解はない〜問い直しつづける習慣を
2026-06-26 14:23

#07 「教える」に、正解はない〜問い直しつづける習慣を

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「ふつうの先生の、ふつうじゃない話を聴いていく番組」
ホストは、高知の現役教員で「会いに行けるセンセイ」という活動をする「のざたん」

第7回は、「そもそも編」を締めくくる回。そして、初めて足場の外に出る回。
「学校」「学ぶ」と、法律を手がかりに足元を固めてきました。でも、今回の「教える」には、法律という地面がない。
誰もが体験してきたぶん、誰もが一家言ある。だから語りがあふれて、「で、結局どれが正解なの?」と、教員も保護者もすり減っていく。

——そもそも、「教える」って、引き出すこと?それとも、与えること?

今回は、educate の語源を手がかりに、「正しい教え方は、ない。あるのは、毎回それを問い直している自分だけ」という話をします。

▼ この回で話したこと
・「教える」には、法律のような「正解の地面」がない——だからノイズで消耗する
・educate の語源は「引き出す(ex+ducere)」と「育てる(educare)」の両方——最初から、どちらにも決めていなかった
・「放置は無責任。教わっていないものを、できるわけがない」——ある方に返された、ハッとした一言
・引き出す=放っておく、ではない。最初のひと開けは、こちらから渡すしかない(引き戸の比喩)
・与えるしかない場面(二次方程式の公式)と、黙って待つ場面がある。その0.5秒を、毎回選び直している
・放置は無責任、過剰なレールは支配——どちらの極も、振り切った瞬間に嘘が混じる
・「主体性」は、渡すべきものを渡したうえで立ち上がるもの。与えない理由ではない
・「教える」は固定の方法じゃなく、その都度の選択(=「私が選ぶ」)。選ぶには「半歩引く目」がいる

🎙 Voicy「学びのセカンドオピニオン」
https://voicy.jp/channel/3708

📝 note(ゆとり教育者マガジン)
https://note.com/nozkoh

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00:00
リスナーのみなさん、こんにちは。ゆとり教育者ラジオへようこそ。 パーソナリティののざたんです。
ゆとり教育者ラジオ、今回で7回目となりました。 前回、前々回とですね、2回にわたって、そもそも学校とか教育とか、
そもそも学ぶってなんだっけ?という話をしてきたんですけれども、 今回はですね、その学ぶの逆になる言葉になるんですかね。
教えるということについて少し考えていきたいんですよね。 教えるっていうことは、まあ誰もが体験しているんじゃないかなとかね。
まあまあその教育者だけじゃなくても、 社会人で後輩がいたりすると何か教えるとか、
学校の中でも先輩後輩関係で先輩から何かを教えるみたいなところがあって、 いろいろこうなんだろうな。
経験上は経験しているからさ。
こういうふうにやろうぜ、みたいなのがあふれてきているのかなと思っていて。
やばいね、今見ていれば見るほど、 学校界隈では主体性に任せろとかね、
いやいや、ちゃんと一から教えるのだとか、 コーチングが大事なんだとかね、ティーチングが大事だみたいな。
まあ情報があふれていて、 教育界隈にいるとですね、結局どれが正解なの?みたいなのを、
教員もそうですけど、保護者もすり減っているんじゃないかなとか、 あっちの情報がいい、こっちの情報がいい、みたいになっていて、
そもそも教えるがよくわからない状態になっていて、 なんかみんな混乱しているというか、
あっち行ったりこっち行ったりしてるんじゃないかなというふうに感じているんですね。 そこについてちょっと触れたいんです。
そもそもですね、教えるの語源って何だろうなというか、 まあそうですね、エデュケーションという言葉がありますよね。教育の英語ですかね。
このエデュケーション、動詞がエデュケイトって言って、 これの語源をたどっていくと、
エキスディケアという言葉があって、外へ導くとか引き出すみたいな言葉で、 教育だというのがあったりするんですよね。
他にもエデュカーレですかね、という言葉があって、 これは養うとか育むみたいな別の言葉も同居していて、
この辺りが語源になっている。エデュケイトの語源になっているのかなと。 このエデュケイトという言葉が、引き出すとか育てるという両方があって、
そういった形の言葉なんだろうなと。そこから教育という言葉と当てはめて、 日本では教育エデュケーションみたいになってきた。
教育という言葉ができたんでしょうねという風になってくるんですよね。 結局、そのエデュケイトという言葉には引き出すもあれば育てるもあって、
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主体性に任せるとか、引っ張り出すんだ、コーチングだみたいなニュアンスもあれば、 育てるのだみたいな、ある程度やらなきゃダメなんだみたいなところも入ってるのかなという風に感じていて、
別にどっちでもいいんだろうなと思うし、どっちに決めてるわけでもないし、 どっちもあるよねっていうところなのかなという風に、
言葉に触れていって調べてみると感じたんですよね。
これまで教育現場にいていろいろあるんだけどさ、
振り返ってみたら、教育という言葉というか、教えるという言葉でいろいろ感じるところはあるんですよね。
例えば今、総合学習とか探究という言葉の中でさ、探究活動とか、そこのプログラムでね、マイプロジェクトみたいなものもあったりするんですけど、
生徒の出してくるアイディアって言えばいいですかね。
生徒から出てくるアイディア的なものが、どうにもありきたりなものになることがあるんですよね。
それをですね、生徒の主体性が足りないからだ、みたいな。もっと主体的になってもらわないと、みたいな。
子供のせいにしてしまうというか。
そういう風にしてしまうのも楽なんですよね。
でもまあまあ、そうじゃないよねと。
いわゆる探究とか、自分の学習ですね、総合学習でもいいんですけど、
こういったときに、主体性が足りないよね、みたいなところとか、アイディアがありきたりだよね、みたいなところを触れていったときに、
放置するのは無責任だよね、というのをある方に返されました。
放置は無責任ですよ。教わってないものをできるわけがないのだと。
まあまあ、そうっすよね。そうなんですよ。
確かにそうだなと。
やっぱり引き出すっていうのは放っておくじゃなくて、いっぱい一回出してあげないといけないですよね。
一回このドア開きますよ、みたいな。この引きドアこうやったらガッて開くんですよ、みたいな。
それは外部からの要因で必要なのかなと思っていて。
どのいう前例があってね、とか。
この年代ぐらいの子にはこれぐらいのアプローチがいいんじゃないかな、とか。
こうやってやっぱり準備がある話なんですよね。
例えば小学生にこの引き出し開けてもしょうがないな、とかね。
06:02
高校生だったらこの引き出しは多分開けたことあるはずだから、引っ張り出さなくてよくて、
そこに何かあったんじゃない?みたいな声掛けでいいんじゃないかなと。
そういったことになってきて。
やっぱりバランスというか関与度みたいなものの塩梅がすごく大事で、
やりすぎてしまうとですね、要するに冷蔵敷きすぎてしまうと、
それはもうこの道路を綺麗に行きましょうね、みたいな。
この施設で行きましょうね、というはみ出ることを許さないような感じになるんですけれども、
一方で全部任せてしまうとやっぱり何もできないというか、
制限がないとやっぱりアイデアが生み出されないんですよね。
ある程度制限をかけた中で選択肢が…
逆に言うと選択肢が限られてしまうような状況を作った中で、
自由度を発揮するというのも一つの方法かなと思うし。
何て言うのかな?
でもそれでもやったことないものってやっぱり出てこないんですよね。
何だろう…書いたことない…例えば筆を使ったことがないという時に、
頑張れ!みたいな声掛けしてもしょうがないんじゃないですか。
筆っていうのはこういう風に使うんだよ、みたいな。
ああいうパターンもこういうパターンも、
Aパターン、Bパターン、Cパターンみたいなものがあるよって伝えておけば、
その範囲の中でやって、そこからだったらはみ出せるというかね。
そんなことができたりするんじゃないかなという風に思うんです。
だから放置しすぎるとやっぱり変だし、もちろん過剰なルールですね。
こういう使い方じゃなきゃダメなんだみたいなことをやると、
それはそれで何か言える苦しいなと思うわけです。
例えばそうですね。
もうちょっとじゃあ学習寄りにというか教科寄りにしていった時に、
数学の話です。二次方程式みたいなのあったでしょ?
それに解の公式なんてあったじゃないですか。
あれをじゃあ1から、1からというかゼロから、子供の中からですよ。
解の公式を生み出しなさい!みたいな。
無理っしょか。
それはさすがに厳しいわけですよ。
だから一旦こういう方法があるんだよみたいなののやり方を伝えてあげてですね。
じゃあここからどうしたらいいんだろうねみたいな。
こういうやり方があったよねみたいなところでやれていくのもいいのかなと思っていて。
それだけじゃなくても実はできるねっていうのに気づくかもしれないし。
これを使うといいんじゃないとか、これが使えるんだったよねみたいな話っていうのは大事かもしれないし、
それを伝えるために1回やってみようかみたいなのも大事だったりして。
09:00
そのあたりの1回やってみるっていうのは大人側からというか教育者側から提示する必要があるんだろうなと思っていて。
これだけじゃなくてもいいんだよが大事で、それを選んでいいのだみたいな状態ですかね。
そういう設置が大事かなと思うし、教育者側ですよね。
教える側もこれは1回目だったから全部言っておこうかですね。
だけど2回目になったら同じ言い方をしていいんだっけなとか、
前回言ったけど覚えてるみたいな言い方でもいいのかなとか、
そういったテンプレで喋っていくんじゃなくて状況状況に応じて選択をして
選んでいくというか。
毎回毎回問い直せばいいと思うんですよね。
このアプローチでよかったんだっけなとか、
このアプローチだと弱いからわからないんじゃないかなとか、
こういったところで自分で考えていくっていうんですかね。
そういうふうに思われるんですよね。
何でもかんでも手放しで彼らがやるのだっていう、
それで言い訳みたいに主体制ってね。
主体制だから手を組んですよみたいなこと言われちゃうんで。
そうではないと思うし、必要なものは渡した上で、
やっぱりこの道具があるからいけるでしょみたいな。
こういう方法があるよね。1回やってみたよねみたいな。
よしもう1回立ってみようかみたいな風にやる主体制とは
やっぱり別物だなと思うんですよね。
何て言うのかな。
例えばね、何も伝えずに刃物渡したでさ、
これを主体的に考えてみようみたいな。
使い方は主体的に考えるのだって言って何も伝えられなかったらさ、
ぶん回して怪我するみたいなことも起こり得るじゃないですか。
そういうことじゃないんだよね。
必要なことには触れなきゃいけないなとは思うわけです。
だけどそのやりすぎ、言いすぎ、
こちらの思想を植え付けすぎっていうのもまあまあまずいからさ。
このバランスみたいなものが大事なんだろうなと思っていて。
そのバランスには実は回答がなくて、正しさみたいなものはなくてさ。
何をやったら正しいのか分かんないわけですよ。
どれくらい言っていいものか、どれくらい手放していいものかっていうのは
両極端でもないし、これが正解っていうものもないし、
とにかく問い続けること。
これでいいんだっけ?って。
あれ?これでいいんだっけ?って。
これでいいんだっけな?これでいいんだっけな?
をずっと繰り返していくことっていうんですかね。
12:00
これって分かりづらいじゃないですか。
だって決めてもらった方が楽だし。
我が子に対してはどういうアプローチを?みたいな。
我が子にスマホを与えるのはいいのでしょうか?どうなのでしょうか?
みたいなのも別に答えがあるわけでもないからさ。
ただ、主体制だからといって渡して渡しっぱなしにも何か違うだろうし。
かといって厳しくこうやって使うしかダメなんですって。
それを守れなかったら取り上げるんですも何か違うじゃないですか。
でも何かそのバランスですよね。
放置したらまずいっていうのも何となく分かるでしょ?
ゼロベースで何もせずに渡してしまったらえらいことが起きそうだっていうのも分かるだろうし。
厳密にこういう使い方しか許さんみたいなことやったら、
脱獄して何かいろいろやるわけですよ。
だからこの与えすぎず話すぎずっていう状態だったかなっていうのを、
1日1日ですかね。
教育に携わる人、人に伝える人っていうのはそのやりっぱなしではなくて、
あれ今回良かったのかなどうだったんだろうねみたいなところを半歩引いて考えられたらいいんじゃないかなというふうに思ったわけです。
というわけで教えるっていうのはそもそもそのいろんな場面があってさ、
これが正解みたいなものがないんじゃないかなということが僕の中ではちょっと感じているところなんですね。
やっぱり気をつけて欲しいなと思うのはこれが正解ですみたいな。
こんな子にはこういうアプローチが正解みたいな言い方をしている人たちがやっぱり増えてきたと思うし、
そこに引っ張られて振り回されちゃっている人も多いのかなと思うんですけども、
そんなものはなくて、やっぱりその人その人伝える人が日々日々毎回毎回考えていて、
これで良かったんだっけなーっていうところに重きを置いてもらうことが最も大切な教えるのエッセンスじゃないかなと思ったので、
今日はご紹介いたしました。
というわけで今日の放送は以上となります。
また来週お聞きください。
ゆとり教育者ラジオのざたんでした。
14:23

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