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#06 そもそも、学ぶって何だっけ?
2026-06-19 16:34

#06 そもそも、学ぶって何だっけ?

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「ふつうの先生の、ふつうじゃない話を聴いていく番組」
ホストは、高知の現役教員で「会いに行けるセンセイ」という活動をする「のざたん」

※ 今回は「#教育系ポッドキャストの日」参加エピソードです。

第6回は、前回と対になる回。
前回「そもそも、学校って何だっけ?」を問い直したあと、もう一つ、問い直したい「そもそも」が残っていました。
——そもそも、「学ぶ」って、何だっけ?

学校は、学ぶための場所。なのに、肝心の「学ぶ」そのものをちゃんと考えてこなかった。
今回は、教育基本法 第三条を手がかりに、「ぼくらは、学んでいい」「学んでいれば、毎日が"はじめて"になる」という話をします。

▼ この回で話したこと
・「学ぶ」は、子ども・学生だけのもの?——そのイメージを一度ほぐす
・教育基本法 第三条「生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において」——学びは誰でも、いつでも、どこでも
・学ぶ理由は、試験でも成果でもない。自己の人格を磨き、人生を豊かにするため
・ぼくらは、学んでいい——大人も、教員も、堂々と
・学んでいれば、毎日が「はじめて」になる(同じ授業・再読・毎日の挨拶でも)
・ベテランほど「いつも」の中の「はじめて」が見える——ただし学び続けていることが条件
・余白・私が選ぶ・半歩引く目・しなやかさは、全部「学び続ける」ための装備だった

🎙 Voicy「学びのセカンドオピニオン」
→ https://voicy.jp/channel/3708

📝 note(ゆとり教育者マガジン)
→ https://note.com/nozkoh

#教育系ポッドキャストの日 #教育 #ゆとり教育者 #学び #生涯学習

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サマリー

今回の「ゆとり教育者ラジオ」では、「学ぶ」とは何かを掘り下げます。教育基本法では、国民一人ひとりが生涯にわたり、あらゆる機会にあらゆる場所で学習することが保障されており、それは豊かな人生を送るためであると述べられています。しかし、私たちは「学ぶ」ことを子供や学生のものと考えがちです。本エピソードでは、大人も子供も、そして教育者自身も、常に「初めて」の気持ちで学ぶことの重要性を説き、それが学びを深め、人生を豊かにする鍵であると結論付けています。

「学ぶ」とは何か?教育基本法の視点
リスナーのみなさん、こんにちは。ゆとり教育者ラジオへようこそ。パーソナリティののざたんです。
ゆとり教育者ラジオ、今回で6回目になるんですけれども、前回の放送ではですね、そもそも学校って何だっけ?という話をしてきたんです。
どうしても教育ってなると学校ってくっつけがちなんだけど、本当はそうじゃなくて、
教育って別にいろんな場所でやってもいいよね?というところだったり、そもそも学校ってじゃあ何するところなんだっけ?とか、教員だけで責任を背負うものなんだっけ?みたいなね、そんな話をしてきたんですけれども。
今回はですね、じゃあもう一個そもそも教育。教育って言葉あまり好きじゃないので、学ぶって言葉にしたいんですけど。
学ぶって何だっけ?っていう。そもそも学ぶ場所って言ってるけど学ぶって何?とか定義決まってんだっけ?みたいなそんなところからお話ししたいなと思ってます。
学ぶって聞くとですね、これは身近に使うことなのかな?と思いますし、学習することでしょうとかね、習うことでしょうとか、いろんなことになったりするのかな?とは思うんですけど。
学校で教科書を開いて先生から教わるのも学ぶなのかな?と思うし、試験のためにやるとかね、テストのためにみたいな受験のためにもあるかもしれないですけど、それはそれとしてなんだけど、でもそれってなんか子供がやることみたいにも聞こえますよね。
でも実際はそうじゃないですよね。大人も学んでますよね。僕自身も学ぶことはたくさんありますし、日々何か新しいことをやると多く学んでるなとか。
後に子供と話をしてても、ああなるほどこんな見方あるんだなと思うとかね。この辺のことだって学ぶって呼んでいいんじゃないかなと思うわけです。
でもなんかね、よくわかんないけど、子供とか学生のものみたいなね、そんなイメージがちょっと強いのかなと思っているんです。
なんかちょっと改めてね、学ぶとか学習する?教育受けるとか、これってなんだっけなーっていうところをちょっと読み解いていくとですね。
前回、教育基本法というものがありますよという話をして、第3条というのがあってですね、ここにはね、面白いことが書いてあるんですよね。
第3条をまた読んでみますね。
第3条。国民一人一人が自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたってあらゆる機会にあらゆる場所において学習することができ、
そんな成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。
まあまあそういうことが書いてあるんですよ。
でもこれね、大事なのは国民一人一人がって書いてあるんですよね。
生涯にわたってなんですよ。
あらゆる機会に、あらゆる場所において学習していいんですよね。
まあまあ学んでいいんですと。
大人だろうが、子供だろうが、お年寄りだろうが、誰もが学んでよいのだと書いてあるし、その機会というものが与えられてよいのだし、
それに何でかっていうと、豊かな生活を送ることができるようとかね、
自分の人格を磨くのであると。
そんなことが書かれているわけですよ。
だから自分の人格、人柄とかそういったものですかね。
それを自分で磨きましょうね。
豊かな人生を送ることができるよう、自分の人生のためにかもしれないですね。
自分の人生を豊かにするために、さらに豊かにするために、学習というものを続けてよいのですよと。
まあ短期的に見たら、それが試験なのかもしれないし、就職なのかもしれないし、何かしらの評価なのかもしれないんだけれども、
本質的にはそれをもうちょっと時間軸長くとって、
自分の人生のためというか、自分の未来のためにかもしれないし、もうちょっと言ってしまっても、
国民の未来のためになるかもしれないですよね。
だからずっと学んでいいんだよと。
いろんな機会で学んでいいし、いろんな場所で学んでいいし、学校だけじゃないし、
一生の中でいろんな場所があって、いろんな機会があって、そこで学んでいっていいんですよということを、教育基本法というものが言っているんですよね。
というわけだから、まあまあ僕らというのは学んでいいんだということなんですよ。
学びに対する大人の意識と教育者の役割
これは当たり前のようで、でも油断すると忘れちゃうのかなと。
そんなふうに学校現場にいると感じたりもしますね。
大人になると学ぶことが当たり前じゃなくなるとかね、感じるところもあるわけですよ。
子供がやればいいんだよね。大人だからいいんじゃないかなとか、私はもういいんですみたいなね。
今さらやってもみたいな言葉があったりするんですけども、
まあまあそんなこと言ってないせさ、自分のためにやったらいいんじゃないのって。
これは僕自身もそう思うし、教員だってわかんないことは学んだらいいし。
というかね、僕はやっぱり思うのは教育者ですかね。
子供に何か伝える人、特に教えること、教育というものを伝える人ですかね。
まあやっぱり学び続けていてほしいなと思うんですよ。
で、なんかその姿っていうのが何よりも大事じゃないですか。
だってやっぱり教育現場で学校の教員みたいなことやってるとね、
先生がやってないのになんで俺らがやらなきゃいけないんだみたいなことを言われたときにね、ぐざーっとなったりするわけですよね。
ああ確かになーみたいな。大人になるまでにやってきたからいいんだみたいなこと言っても、
それはそれで何か違うわけですよね。大人になっても学んでほしいからみなさんに学ぶ方を伝えてるんだよーみたいな。
そういった話ができるようなこと自体の方が子供にとっては大事なのかなと思うし、
今こそね、対応にいろんな選択肢がいっぱいある中ですし、
その先が全然見えないというかね、どうなっていくのかよくわかんないよというような、
そんな中だからこそやっぱり学び続けるというその姿勢というか、真摯さというんですかね、そういったものが大切なのじゃないのかなと思います。
これは教員だけじゃなくて大人ですよね。身の回りの大人もやっぱり学び続けてもらえたらいいなと思うんですよ。
それは別に恥ずかしいことでもなくて、遅いことでもなくて、今からやったっていいじゃないかということなのかなというふうに考えてほしいなと思うんです。
「初めて」の感覚で学ぶことの重要性
でもこの学ぶって後ろめたい気持ちもあるしさ、今までやったことないしみたいな、新しいことやるなんてって思うかと思うんですけど、そうなんですよね。
学ぶって時はいつでも初心者じゃないですか。
僕自身も今、そうですね、例えば生成アイを使いながらホームページを構築するとか、ウェブのアプリを作るなんてことにチャレンジをしてるんですけども、
ただのね、いつも初めてな話なわけですよ。初めてだらけです。
なんだこれ?とかわからない言葉がいっぱい出てくるわけですよね。
やりながらもわからない。わからないぞ、わからないぞってなった時に、そうだった。これは初めてなのだったと。
だから別に初心者というわけじゃなくて、ちょっとやっても初めてなことがいっぱい出てくるわけですよね。
何回も何回もやってるうちに、あれ?これってなんだっけ?あれ?これは?どうした?みたいなことってたくさん出てくるわけじゃないですか。
だからそれは初心者のものではなくて、初めてっていうのは、みんな学ぶと初めてが現れるのかなと。
初めて何かに出くわすくなってことは多々あるんですよね。
それが生涯にわたってあらゆる機会にあらゆる場所において学んでいくと、毎日毎日初めてのものにぶち当たっていくような気もしているんです。
これ前にやったよねーって思うことでも、やっぱり日付が違ったりタイミングが違ったり。
そうですね。前に学んだことがあると見え方も違ってきますよね。
だからこそ、そういった気持ちで向き合うことっていうのが大切なのかなぁというふうに思ってるし、
だからこそ片肘張らなくたっていいんじゃないかなと。
だって毎回始めてたものと。
で、なんかそれを大人側が恐れてるんじゃないかなと思うところがあったり、教育者側が恐れちゃってることがあるのかなーなんてことも思うんですよね。
特に教育現場にいるとさ、授業なんてものは大体毎年同じようなことをやったりするわけですよね。
あまり変わらないというか、大きく変わるわけではないし。
何回も何回も同じようなことをやってるなぁと思うかもしれないんだけども、
毎回毎回目の前にいる子供たちとは初めての授業なわけですよね。
何年生かのとあるクラスで教えていて、隣のクラスでも教えているとね、
あっちのクラスとこっちのクラスでは同じことを教えているように見えても、やっぱり様子は違うんですよね。
やっぱり場面としては初めてだし、一回やった自分がもう一回やることも初めてじゃないですか。
なんかちょっとヘリクツみたいに聞こえるかもしれないんですけど、
何回もやってみたからこそ起きる授業みたいな、そういうのもあるわけでしょ。
だからそれでいいんじゃないのかなと、最近は僕は思うようにしていて、
毎回毎回やってもやってもうまくいかないこともあるし、進まないこともあるし、
うーんって悩むこともあるし、
それってなんだっけって言うと、やっぱり何でも初めてなんだろうなぁと、
そういうふうに考えることで少し気が楽になるんじゃないかなと思います。
そうだな、学校つながりで言うと、例えば子供たちの会話みたいなものもですね、
繰り返しの日常に潜む「初めて」と学びの深化
子供たちと何か会話している時に、たたたた朝あっておはようというだけでも、
毎日同じことを言っているような気はするんだけども、ちょっとずつやっぱり言い方を変えてみたりしているし、
なんか角度が違ったりするかもしれないし、
あっちの子に言ってるけどこっちの子に言ってなかったなぁに気づくかもしれないし、
言う回数も違うし、それだけでもやっぱり何か初めてのものってあるんじゃないかなとか、
そういったところから初めての学びみたいなものにつながっていくんじゃないかなとも思うわけですよね。
あと何か何でしょうね、本を読むなんかもそうかなと思うんですよ。
本読むって言ったってね、1回読んだら終わりでしょみたいなこともあるかもしれないし、
1回目読む時は初めてだよねって、なんかわかりやすいかもしれないんですけど、
2回目読む時も新しい発見みたいなものがやっぱりあるんだなと思っていて、
2回目読んだ初めての出会いみたいなのとかね、
3回目読んだ初めての出会いみたいな、あと何か2年後、3年後に読んでみた、
その時は初めてなんでしょうね、やっぱり。
だから僕たちっていうのは実は初めてばっかりをやっていて、
何か繰り返しのようで、何ていうのかな、
それは何かルーティーンだよねみたいに思ってしまうかもしれないんだけれども、
実はルーティーンのように見えて、実は毎回毎回初めてなのだと。
で、何か初めてでいいんだって思ったり、これは初めてなのだって思うと、
やっぱり繰り返しの作業ではなくなって、新たなインプットがあるというか、
新しい気づきがあるというか。
逆にそうですね、初めてだと思ってそれに取り組むことで、
ああ、新しい発見があったというような感じで学びに繋がっていくんじゃないかなとも思うわけです。
やっぱり何かね、もう長いこと教員やってて、20年以上さ、教育現場にいると、
何かこう、ベテランだから大丈夫でしょうと思うかもしれないですけど、
意外とね、初めての経験みたいなものっていうのがあるんだなと思うんですよ。
むしろ、若い頃は全然わかんないわけですね。もう必死なんで。
毎日が必死すぎて多分ね、わかんなくなっちゃうと思うんだけど、
ベテランだろうと、本当に若手と言われる初めて教団に立つ人だろうと、
結局初めてやってるんですよ。
経験値があるかないかの違いであって、やること自体は初めてなわけで、
さっきも言ったけどさ、授業をやるときに目の前にいる子供たちはさ、
初めましてなんですよ、全部。
だからこうやって、初めてであるということを思って学んでいくというのかな、
初めてであるということに向き合うことで、非常に謙虚になって、
真摯に目の前のことに向き合えて、そして学びが深まっていく。
そんなことがあるんじゃないかなというふうに思ったんですよね。
「初めて」の姿勢で向き合うことの価値
やっぱり、そういう体制を作ることって大事な気がしていて、
そのためにはやっぱりね、これまで話してきたような余白であったり、
自分が選んでいる、初めてだからこうやってこっちをやろうかな、こっちをやろうかなって選ぶとか、
ちょっと引いてみてみるとかね。
何回もやってるから大丈夫じゃなくて、ちょっと一歩引いて、
今回の初めては一体何なんだろうなとか、
そういうふうに見ていけるといいのかなーなんてことを思ったりもするんですよ。
だから、やっぱり学校の先生を見ていると、教育者を見ているとかもしれないんですけど、
すごく子供たちの前だから失敗してはいけないとか、何回もやってるはずだからとか、
もう何年目なんだからみたいな言葉に囚われすぎてて、
いやいやいや、そんなことじゃなくて毎回初めてなんですよって。
その姿勢の方が大事な気がするんですよね。
目の前に見えるものが全部新鮮に見えてきて、
真摯に受け止めてうまく伝わらないことも、
ああそうか、だって初めてだもんねーっていう、
そういうふうに捉えていくことで、よりブラッシュアップができるというか、
自分の中でも良質なインプットができるというか。
日々トレーニングかなとかね、日々鍛錬かなとか、
日々学びだなというふうに感じられることで、子供たちに、
学びってやっぱり長く続くものだし、ずっと続くものだし、
この歳になってもやるものなんだよねーって。
でも失敗もいっぱいあってさーって、そういった形でね、
生涯学ぶことについて向き合っていけるっていう、
向き合ってほしいよっていうメッセージを大人自身が伝えていくことっていうのが、
大切なんじゃないかなというふうなことを思ったので、
そもそもの学びっていうのは、学ぶことですね。初めてに向き合うし。
そういった姿勢を作ることで、学びというものが深まっていくんじゃないかなと思って、
今日はお伝えをいたしました。
というわけで、第6回のゆとり教育者ラジオでした。
また来週お聞きください。
それではまた。
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