そうなんですね。意外と一つずつ長いですね、そういう意味じゃ。
それでもない?3年ぐらい?
3年ぐらい。
それこそ、この間平山さんが書いた記事と、
この間の大統領選がつながったりもして、
今日はお話しいただけないかなと思ったんですが、
これ配信が8月になるんで、この間といっても、
韓国の大統領選って6月の話なんで、
ちょっと前の話に、新聞的に言うとなるんですけども、
そのニュースを見てましたら、日本語で言うと公衆、
光るアメリカ大衆国の衆、
公衆で、今回新大統領になったイ・ジェミョン新大統領の
得票率がえらく高かったっていうのが気になりまして、
高かったですよね。
この間の選挙では、イ・ジェミョン新大統領が、
ジェンラ南東っていうところの地域で見ると、
85.9%の支持率を記録して、
ジェンラ南東での主な対抗派としての
イ・ジェミョン新大統領という方は、
8.5%にとどまっています。
特に公衆っていうところでは、
イ・ジェミョン新大統領が84.8%で、
ジェンラ北東では82.7%を記録しています。
すごいですよね。
本当にびっくりして、日本ではある地域で、
どんだけ自民党が強かろうと、立憲民主党が強かろうと、
そんなに80%の得票率とか、
少なくともゼロだったかどうかは別としても、
聞いたことがないと思って、
そんなことって韓国であるんだって思ったんですけど、
背景みたいな話が今日聞ければなと思うんですけど、
何事なんですか?
理由がいくつかあると思うんですけど、
理由の一つに、
甲州という場所で、かつて起きた民主化抗争というものがあります。
いわゆる甲州事件というものなんですけれども、
当時、1980年で、
40何年前?
今から45年前、改憲例の時から44年前、
当時まだ韓国は軍事政権下にあったんですけど、
民主化を求めた学生だったりとか市民も含めてだったんですが、
そういう人たちを軍部が武力を持って抑え込もうと、
鎮圧しようとして、結果的に多数の犠牲者が出たというものがあります。
その時の軍の呼び方が、改憲例というものに基づいて改憲軍と呼ばれるんですけれども、
まさに今回非常改憲というのが、昨年の12月3日に出されたということで、
すぐに非常改憲という文字から改憲軍を想像された方が多かったということだと思います。
なるほど。
去年の12月、これはみなさん覚えてると思うんですけども、
韓国の北海議事堂にあたるところに、
いわゆる武装した軍がゾコゾコ入っていって大騒ぎになったということはありました。
それみんな覚えてると思います。
実は45年前に甲州で改憲軍が出動して市民を攻撃したという事件があり、
45年前のことをその地域の方は覚えてるんです。
そういう強い思いもあって、結果的に投票率がこんなにも差が出るような、
去年の12月、あんなことした与党が許せないという世論になったという話になるんですよね。
なるほど。
今回それこそ当時韓国に、
ちなみにYouTubeをご覧の方は今、軍中の人がペンライトの写真が背景でしてるんですけど、
これ平山さんが撮った写真。
改変でしたよね。
平山さんが普段拠点としているのは草ですけども、この日はそれこそソウルに行って、
出張で行きました。
これはどこで?
ソウルの国会議事堂がヨイドっていうところにあるんですが、
そのすぐ目の前の大きな道路のところに市民とか国民の人が全国から集まって、
このペンライトを振ってコールをしている。
改めてすごいですね。この写真撮ったんでしょう?
怖くなかったですか?大丈夫だったんですか?
怖くはなかったですが、人が多くて全然動きができないのと、
あとすごく通信状況も悪いんですよ。
当然そうですよね。
人が集まりすぎて。
すごい大きいスクリーン、モニターみたいなのがあるんですけど、
そこで国会のライブ中継があって、みんなそれを見て投票しろとかいろいろ声を上げるんですけど、
私はその時まだ韓国語がしっかりわからなかった時もあって、
今どういう動きなのかとかがわからない。
何を叫んでいるのかわからない。
叫んでいる言葉とかはわかっても、今の国会の状況がどうなっているのかがわからなくて、
間違えて、何て言うんですかね、弾劾訴追案というものを投票する場だったんですけど、
違う議案もあって、その時に投票されたものだと思って、
一瞬その場を離れようとしちゃったりとか。
でもすごい自分なんかでも混乱してたんですけど、すごく大変な。
でもすごい経験になる。
ちなみにこれは道路なんですか?
道路です。
普段は車が行けるような大きい道路ですね。
必ずしもイコールじゃないんだと思うんですけども、
西日本新聞のある大丸の前には渡辺通りという大きな通りがありますけども、
そこにわっと人が集まっているようなイメージですよね。
そうです。
そういうことなんですね。
距離もすごく続いてて。
それこそここの場面ももちろんそうなんですけども、
一方でそれこそ平山さんはこの12月、いわゆる非常会議員が出された後すぐ、
今45年前にっていう話もされた公衆の新聞社を取材されてるんですよね。
社会部長みたいな方がちょこちょこ大通りまで出て、軍が来てないのかをチェックしに行って、もし来てたってなったらすぐにでも同僚の人たちに急げっていうことができるようにしたとか、
そういう行動だったりとか言葉の一言一言がすごくリアルに本当に海原軍が来るっていうことを恐れてたんだなというようなことがわかる取材になりました。
なかなか日本で僕らこうやって生活してて、実際問題想像しづらいんですけども、何か国内で大きな政治的な暴動みたいなことがあったとしたときに、
次の瞬間に西日本新聞社の社員として記者としてですね、自衛隊が西日本新聞にズカズカとやってきて何かやるっていうふうな想像ってなかなか僕らできない気がするんですけど、
韓国の公衆の新聞社は一番にそれを警戒しながら報道に当たったってことですよね。
私もそこが一番その話で聞いたとしてもなんか最初はリアルには受け止められなくて、この時は豪害を作ってるんですけど、12月3日の夜に海原令が出たので、その翌朝の新聞はもうすでに作ってしまってるんですよね。
なので豪害という形で新たに擦り直すっていう作業をしなきゃいけないんですが、もう皆さんもそれはなんか本当使命感というか伝えなければ、今伝えなかったら今後伝えることができなくなっちゃうという、そういうのになんか駆られているような感じの姿が印象的でした。
それこそ現場としては大げさな話でもなんでもなくて、公衆の新聞社としてはもうへたすら今回出す豪害が最後になるというとちょっとあれですけども、ある種そういう覚悟のある報道だったって話なんです。
そうですね。
そうなんですね。で、やっぱりそこには45年前というのはリアルにやっぱりその新聞社に、当時さすがにでもそうは言いつつ、当時を体験した記者っていうのがいるんですよね。
編集局には一人もいらっしゃらなくて、皆さん体験を直接はしてないんですよね。
幼い頃に聞いたという方とかもちろん聞いたりとか、自分のお父さんがまさに学生側で動いてたとかそういう話はあっても直接自分が記者として当時報道ができなかったという悔しさを味わった人とかは今は一人もいらっしゃらない状況で。
そうですよね。23歳で日本で言うと新卒で入って、その後45年経っちゃうと言ったらちょうど定年間の時期に差し掛かるので、ただそういう意味ではリアルタイムを経験した人っていうのはおられなかったんですが、それでもやはり単純に昔話ではない現実がそこにはあったってことですよね。
そうですね。
印象的だったのが公衆日報さんの編集局長さんがすごく今回の取材でもお世話になったんですけど、その時に公衆日報の前身の新聞社が、いわゆる45年前の公衆日報の時に改言語が来て報道できなかったっていう体験を経験をされている新聞社なんですけれども、
当時の記者の人たちがそういうすごく報道できなかったことを悔いているその辞表、結局辞表を出しているんですけれども、辞表文があるんですよね。その辞表文がまだ会社にも残っていて、それを私たち取材にも見せてくれたんですけど、すごく、これ読み上げてもいいですか。
私たちは見たって、人が犬のように引っ張られていき死んでいくのをはっきり見たという、その後にもちょっと続いてるんですけど、そういう辞表文があって、まさにその人が犬のように引っ張られていくような、そういう映像が今も残ってもいるので、すごくその時のひどさ、生産さと、
あとそれを目の前で見ながら、ペンを動かせなかった、記事を出せなかったということをすごい繰り返し繰り返し、この編集局長の方が言ってらっしゃったのがすごく印象的でした。
なるほど。要は45年前、それだけの事件が起こっていながら新聞社として、いわゆる報道ができなかったということを食いての辞表を書かれているということですね。
ありがとうございました。それこそなかなか、まだ8年目、もう8年目でしょうけど、これだけの事件の現場というか、そういった現場に居合わせるという経験っていうことになると思うんですけども、今回ある種一連の取材を通じて平山さん自身はどう思われたのかなというところを聞きたいんですけども。
やはり新聞社の取材でいくと、自分からするとちょっと大げさじゃないかって思えるほどのそういう記者の人たちの方々の報道の原動力が結局45年前のすごい悲しい事件のトラウマだったんだと、そういうトラウマに突き動かされている感じがすごく記憶に残っています。
やっぱり45年前でちょっと昔に思えるんですけど、今もすごく現地では深くトラウマとして残っているし、それが先ほどお話もしたんですけど、直接体験をしてなくても若い人に今も語り継がれて、そして若い人たちが自分のものとしているようなところがすごく印象的でした。
いや、そうですよね。今の45年前のあの時の公衆事件を体験したその時に報道の現場にいた記者はもう今はいないけれども、その動きだったっていうのは、いたからその動きだったということよりも何かこうちょっと僕も深いものがあるのかなとちょっと思いました。