教養と自己の検証
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道ス黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は282 回、内面的精神生活、生徒が自己のあり方を見つめた言葉、というタイトルでお届けしたいと思います。
今回のこの言葉は、高校3年生の論理国語で教えている、「であることとすること」の一節になります。
このであることとすることを教えるにあたって、私は生徒の興味や関心を引き続けるために導入の工夫を行いました。
これはこの配信でも2回ぐらい語っていると思うんですけど、阿部工房の短い偶話、量式派というのを最初にやったんですね。
この量式派で例えられていることが自分たちの身近にもあるということで、すーっと量式派を終えまして、そのままであることとすることの冒頭部分を読みました。
そしたらこの冒頭部分の再建者、お金を貸したっていう、お金を取り立てることができるという立場に暗中して、ずっとお金を取り立てるっていうことをしないままでいると、
ついにはそのお金を請求する権利を失ってしまって、お金を黙って貸してしまった側に取られてしまうよっていうような出だしのお話だったんですけど、
これしっくりこないんだろうなと思って量式派を導入に使ったんですけど、そのおかげもあって、すーっとであることとすることにうまく接続して入っていくことができました。
そして、であることとすることを読んでいくたびに、自分たちの実生活とそれから書かれてあることと具体的事例と抽象的見解を行き来しながら、ちゃんと自分たちの生活でこれがどのような事例に当てはまるかということを節目節目に200字程度の短い作文を書かせて振り返らせて、
それを生徒たちにまたフィードバックしてっていうやり取りを繰り返しながら読み進めていきました。
なので教科書を読むと、いつも自分たちの生活を振り返るっていう癖がちゃんとついているようになりました。
言葉の重要性
そしてこのであることとすることの評論文は、最初にそうやって自分たちの権利を主張する、自分たちの権利を守る、そして常にそれを見つめ点検し、そして権利をしっかり守り続けることによって初めて自由が獲得できるっていう内容からであるっていうね、そういう価値観からするっていう価値観に移っていった近来の大きな流れを
説明し、その後徳川時代のである価値っていうものを検証して、そしてするっていうことについての問題点の分析に入り、そしてさらにであることとすることが大きく揺れ動く中でいつまででもである価値が根を張っているっていう問題を挙げて
最終的にするっていうことを歌いつつガラッとであるも大事っていう価値観のひっくり返しに突入するシーンが今回のタイトルにある内面的精神生活という言葉になります。ちょっと今の説明わかりにくかったかもしれませんね。
ということで生徒は常に現実世界でであるとするの価値観を傍観して自分たちがである価値観にとらわれするっていう価値観についてもっとちゃんと考えていかなきゃって言われたところにであるを見直せっていう風に来るもんだからちょっと混乱をしているところなんだけれども、でも生徒にとってはまさにであるとするっていうこのバランスを考えるそういう風なところだったと思います。
そして私が一番生徒に投げかけたかったのがこの内面的精神生活という言葉でした。ちょっと文章を読んでみたいと思います。
アンドレ・シーグフリードが現代という書物の中でこういう意味のことを言っております。
教養においては、ここで教養とシーグフリードが言っているのはいわゆる物知りという意味の教養ではなくて、内面的な精神生活のことを言うのですが、
然るべき手段、然るべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について自覚を持つこと、これが問題なのだ。
そうして彼はちょうどであるとするという言葉を使って教養のかけがいのない個体性が彼のすることではなく、
彼があるところにあるという自覚を持とうとするところに軸を置いているということを強調しています。
引用以上ではありますけど非常に難しい言葉ですね。
簡単に言うなら、今までするということをすごく重要視してきたし、近代になってするという、つまり成果を出すとか、それから効率よくやるとか、そういったこと、結果を残すこと、
そういうことを重要視する社会になってきたけれども、実はそうじゃなくて、まず自分がなぜここに存在するのか、
自分が自分であることを考えなくてはならないのではないかというひっくり返しにかかっているところですね。
で、結局その言葉が内面的精神生活といって、要するに自分のありようを考え続けること、自分はなぜここにいるのか、
自分について知り、自分と社会、自分と自然、そういうことについて考えるという、教養というものの大切さを言っているわけですね。
ここが生徒に2、3人ぐらいかな、すごく引っかかったところで、課題作文にも書いていました。
生徒の反応
ちょっと端緒っていうと、自分は今まで点を取ること、結果を残すこと、偏差値を上げることについて考え、
無駄かとか、無駄でないとか、そういったことばかりを考えていた。
なので自分は自分について知るとか、自分と社会、自分と自然ということについて考えてこなかった、
っていうふうに書いていたんですよね。
私は本当に受験期にあって、点数を取ることである、成果を残すことである、数値を残すことである、
そういうことばかりが先行して、自分自身はどうやって生きていくのか、自分自身は社会とどういうふうにつながっているのか、
あるいは自分と自然はどのような関係にあるのか、という教養の部分がついついおろそかになりがちで、
特に国語ではそういったところを大切にするし、そういったことを考えると、数値とか結果とかがどっかに行ってしまう科目なわけなんですよね。
でもこれが後々の自分の生き方にすごく関係してきて、将来にわたって大きく生きて働く力になると思って、
私は大事にしながら授業を形作ってきているわけなんですけれど、ここに鋭く反応した生徒が2、3人いました。
やっぱり現代文を教えている上での醍醐味というか、生徒の認識、確信が起こった瞬間に立ち会うことができまして、本当によかったなと思っています。
ただこういうことに仕掛けを作って生徒にハッとさせるっていうのは、そこに至るまでのかなり丁寧な耕しとか、かなり丁寧なフィードバック、それから言葉掛けなどなど、
日頃の地道な本当に地道な授業の丁寧な掘り起こしが必要なんだなと、
そういうふうなことでもって、生徒にその言葉を迎える準備をするっていうことが本当に難しいし、
多分この年になってやっとできたんじゃないかっていうような、それぐらい難しいというか、本当に奥深いというか、
逆に言うと今までもっとこういう授業を早くしたかったなって思います。
ということで今日は非常に何と言いますか、国語の授業、わかんない人にはなんだこれっていうような配信になってしまったかと思うんですけれど、
国語の授業っていうのは本当に奥が深いなっていうふうに思いました。
そして私がこういう言葉に反応してほしいなっていう願いを込めながら授業をした、その授業に反応してくれた生徒たち、
心から本当に尊敬したいと思います。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。