2025-07-06 09:50

276 生活綴り方教育を思い出してみる。

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今取り組んでいる課題作文、「君たちはどう生きるか」。生徒の作品に感動しています。

自らの生活を振り返る、生活づづりかた教育について調べてみました。

※配信の中で紹介したのは無着成恭氏「山びこ学校」でした。訂正します。

#生活綴り方教育  #無着成恭 #君たちはどう生きるか #作文教育 #温故知新

Summary

今回のエピソードでは、生活綴り方教育の重要性が再考されており、特に自己を見つめ直すことの大切さが強調されています。論理国語における「君たちはどう生きるか」という課題を通じて、生徒たちが自己理解を深めている様子が描かれています。

教育における自己理解の重要性
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は、276 回、生活綴り方教育を思い出してみる、というタイトルでお届けしたいと思います。
私はいつもこの配信で、皆さんにいろいろと報告していると思うんですけれど、高校3年生の論理国語で、であることとすることの最終的な課題として、
君たちはどう生きるか。というタイトルで作文を書かせました。この内容が非常に良くて、とても私自身が生徒の自分自身を鋭く見つめ、えぐってくる作文に感動してしまって、
その感動が冷めやらぬうちに、何とか配信したいと思ってマイクを取りました。こんなふうな取り組みができるというのは、もう滅多にあることではないと思うんですよね。
大体が、シラバスに沿って教科書の内容を順番に教えるというようなやり方であったりとか、先生がテーマを決めて、それを考えてみようというように、興味関心を無理やり喚起させてやるとか、そんな感じで、
こんなに深く生徒が自分自身を見つめるというような単元に巡り合うということは、なかなかないと思います。私の長い教員生活の中でも、本当に数えるぐらいしかなくて。
一つ目は、定時制に勤務していた時に取り組んだ足跡という自分詞。これは本当に、全然学びに向き合わない生徒が、これでもかっていうぐらい作文用紙に取り組んで、必死に自分を吐き出した足跡という文集作りの思い出は忘れられません。
それから、総合学科の時に勤めた、その時に大単元に挑戦したんですね。古典と漢文を2年にわたって読み解いていくという、ナンバー2に学ぶという大単元。
これをやった時に作文を書いてきた生徒も、自分自身の悩みとか苦しみとか、まだ気づいていない自分自身の苦しみを掘り起こして、ナンバー2に学ぶというタイトルで自分の生き方を見つめ直して、さらに自分はこういう風に生きていこうというように再定義し直した。
そういう時も、本当に心を深く揺さぶられるような感動を覚えました。
それからコロナの時、コロナ時代を生きるという取り組みをやった時も、生徒自身の悩みや苦しみを新聞記事からどんどん沸き上がらせて、そして自分はこういう風にこの時代を生きていこうという、そういう取り組みをしたコロナ時代を生きるという取り組み。
そういったことぐらいしか思い浮かばないわけですけども、今回のであることとすることの取り組みの後の最終課題の君たちはどう生きるかというのもとても深く感動しました。
このことについてはまた別の配信で詳しく2回か3回にわたって報告したいなと思っているわけですけど、そもそも生徒がこんなに一生懸命書くという、これって一体何だろうという風に考えた時に、
自分自身の生活を見つめ直すという、この視点がすごく大事なんじゃないかなと思って、そういえば生活綴り方教育というのがあったなという風に思い出したので、今日の配信は生活綴り方教育、これをちょっとお話ししてみたいと思います。
生活綴り方教育の背景
私は大学時代におそらく国語教育概論というような授業で習ったと思うんだけども、生活綴り方教育というのが大正の終わりから昭和期に作文の取り組みとしてあったわけですね。
子ども自身の日々の暮らしとか体験を題材にして、それをありのままに綴ることを通して、自分自身を再認識して自己表現するとともに自己理解を深めるという教育方法で、一生授業と違って個々の生徒に当てはめることができる、いわゆる個別最適学習とのつながりが深いと思います。
なぜこういう生活綴り方教育というのが生まれたのかというと、時代背景が関係していて、おそらく大正デマクラシーを発端にした民主主義の教育ですね。
子ども自身を中心に据えて、子ども自身が生きていくための教育をしようという考え方が時代に広がっていたので、こういう取り組みになったんじゃないかと思いますね。
ということで、生活綴り方教育という名前が昭和に全国的に大いに広がったというのが、この生活綴り方教育だと思います。
戦争中に一旦途切れて戦後にまた復活したりするんですけど、有名なのは無着生協さんの生活綴り方という本だったかな。それが有名なんじゃないかと思います。
これがちょっと衰退していったのは、生徒の生活を暴くような感じになってしまって、生徒の家庭の状況やしんどい状況にどうしても踏み込んでしまって、それは暴くような取り組みになってないかと。
そして、生活綴り方ということが起点にありすぎて、生徒に自分の生活を見つめさせるという押し付けになってしまっているんじゃないかと。
そんな批判があった後で、最近もうちょっと見直していこうというような流れになっているようです。
ということで、生活綴り方教育って古い古い教育なんだけど、これこそ個別最適なんじゃないかと思うので、ちょっと今風にリメイクして見直してみてやってみてもいいんじゃないかなというふうに思いますね。
ということで、概要を語っていきましたけれど、この生活綴り方教育につながっていたのが、今回の君たちはどう生きるか、それだったんですね。
やっぱり高校現場って特に論理国語って、評論文読ませて、じゃあどう思いますかとか、どういう課題がありますかとか、そういったことが多いですよね。
例えば、インターネットの社会、情報化社会についてどう思いますかとか、どう捉えますかとか、どう生きていきますかとか、自分の身の回りのそういった具体的事例を共に一緒に書いていくとか。
それからあとは、やっぱり言語学と一緒に、自分自身の言葉のありようを見つめさせるとか、言葉がどうやって認識されるのかっていう言語学の分野で書かせるとかね。
それからグローバル社会を見つめ直させるとかね。そういったことでどうしても教材中心型になっていくので、教材を勉強して、自分の生活の中で具体的事例を掘り起こしてみましょうっていう感じになるのが大体なんだけど、
その教材とそれから自分の生活がかけ離れていると、なかなか難しいなっていうふうに思ってしまいます。
でも今回のであることとすることっていうのは、一見遠いようでいて、すごく制度に近い教材だったと思います。
きっとあのであることとすることって、ものすごく普遍的なものを持っているんだと。いつの時代やっても古みないものを持っているというふうに思いました。
生徒も最初は気乗りしないようだったけど、だんだん引きずり込まれていって、最終的には自分自身の生活とか生き方を見つめ直さざるを得ないような、そういった作文になっていったんじゃないかと思います。
ということで生活綴り方教育について語ってきましたけれど、もうちょっと古いもの、歴史の古くても全然若い人なんか知らないものを、もう一回掘り起こしてリメイクして、
本当に普遍的なものをその中からエッセンスを抽出して、今のこの現代にリメイクしていくっていうのは、古典をリメイクするみたいなね、そういったことで逆に新しいものを生み出す力になっていくんじゃないかなって思いました。
ということで、またこの君たちはどう生きるかっていう作文の取り組みについては配信したいと思います。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
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