00:00
皆さんこんにちは、今日も明日も授業道、黒瀬直美です。
この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育について配信しています。
残暑が厳しくてね、それに私は先週すごく忙しくて、もうぐたーっと疲れて、今日半日寝てました。
山月記の紹介
今日はね、今取り組んでいる高校2年生の山月記という授業について語りたいと思います。
山月記というのは、優れた才能を持った李徴という途上人物が、自尊心の高さ故に苦しみ、
ついには虎に化してしまうという、そういう中国の人古伝というのにヒントを得て中島篤史が書いた小説です。
これは、高等学校の定番教材になっています。
これをね、教えたんですけど、私自身はよく生徒に朗読を直にさせるんですね。
ごめんなさい、私自身がするんですね。
読んでてね、感じたのは、まあこの漢文訓読帳の簡潔な、はぎれの良い力強い文体。
読んでて気持ちが良くて、自分の中に染み渡っていくような、そういうね、なんていうんだろう、心地良さを感じました。
やっぱり文章というものは、読むというものでもあるけれど、見るものだけじゃなくて、口にして体に染み込ませて感じるものでもあるんだなということを改めて感じました。
例えば、まさに何々数とか、なお何々のことし、ああいった漢文訓読帳って本当に体に心地いいんですよね。
ふと思ったんですけど、私はAIの文体が体に染み込まないんですよね。
読むのは読むし、簡潔に書いてあるからとてもいいんだけど、何かこう撥水加工したみたいに体に染み込んでこないっていうような、そういう感覚を持っていて。
それで、今回三月記読んでみて、なんでこんなに違うんだろうと思って、うーんって考えて、やっぱりこの漢文訓読帳っていう特徴が、採読文字っていうのはこうするじゃないですか。
まさにってきたら何々数とかね、そういう後のものを予想させますし、それが追句表現も、追句になってるからこうきたらこっちっていう風に、追になってるから後ろのものを予想させるし、
抑揚形とかあいう工法だって、ある程度のパターンがあるので、後の表現を予想させるっていうそういう特徴がありますよね。だから自然に次の言葉を待つ自分がいるんですよ。
それでついつい引き込まれていく。次から次へと読んでしまう。そういう文体になってるんじゃないかなと思って、AIにはこういう特徴はないので、やっぱりこういうね、漢文訓読っていうものの素晴らしさを感じました。
なので、ポッドキャストの台本をAIに書かせてみても面白くないのはこういうことだったなと思って、翻訳文体っていうもののマイナス点と言いますか、ある意味欠点を感じました。
だけど時代は流れていくので、こういう漢文訓読帳による豊かな文体と、やっぱりAIの書くプレーンで平板な均質な文体っていうものをたくさん読むということには、生徒は慣れていかないといけないんじゃないかなと思いました。
ちょっとこれは雑談っぽくなってきましたけど、いよいよ本筋に入りたいと思います。3月期を授業でいろいろ扱ったこといっぱいあるんですけど、大体、例えば疑問を出させて、その書読の疑問をいろいろと分けて、グループごとに担当して、グループ発表させて、それを共有していろいろと読み深めていくとか、
それから毎時間毎時間生徒に振り替えを書かせて、それを次に印刷して渡して授業通信として活用するとか、それから版書に工夫をして、版書でやりとりしながら深めていくとか、大体主にその3つをいろいろやってきましたけれど、何をやってもどういう方法をとってもどう切り込んでも、3月期っていう教材は魅力的なのでOKだったかなと思っています。
生徒の反応
一方、受け手の生徒の方なんですけど、これ高校2年生で習うんです。ちょうど自意識が芽生えてきて、自分というものについていろいろ考えを深めたりする時期なんですけど、
進学校あるあるなんですけど、これは自分自身を履帳と重ねるんですよね。よく書読の感想に、まるで自分のことが書いてあるようだ、読んでいて苦しいとかいうのが出たりするんですよね。
進路多様校なんかでは、この話を単純に面白がって、人間が虎になるっていう設定にすごい興味を抱いて面白がったりしてました。
でも次第次第に読み深めていくと、自分の中にも履帳がいるということを発見していくという感じだったと思います。
面白かったのは、総合学科でスポーツが盛んだった学校なんですけど、スポーツ選手っていろんなことを割り切るじゃないですか。
ポジティブに捉えて、なんとか前進して明るい方向へ持っていくっていうパターンがスポーツ選手だと思うんですけど、
理長に説教したりなんかして、これもちょっと面白かったですね。
一番取り付く暇がなかったのは、やっぱりしんどい学校、全然生活体験が理長と違うので、なんでこの人悩んでるのっていう感じの、割り切ればいいじゃんとかっていうような感じの生徒がいたのもちょっと面白かったですね。
そういった中で教えてきたんですけど、私自身はこの3月期を一番やってきて読みが深まったなぁと思うのは、継承読みという手法を取った時でした。
書いてあるアイテムとか、素材とかに注目するという、そういう読み方です。
その一部を今日は紹介したいと思います。
継承読みではないんですけど、よく言われるのが、理長は自分自身のこと、自分は自分はって最初言ってるんですね。
途中、気分が高ぶってきて、感情的になると、俺は俺はって言い始めるんですけど、この変化に一つ注目させます。
自分は自分はって言ってる理長はどういった時の理長かっていうふうに尋ねたら、大体の生徒は理性的な時とか、自分自身を冷静に考えている時っていうふうに言いますし、
俺は俺はっていうと、この時はとても気分が高ぶっているとか、野生的っていうようなことを言います。
だからここらへんは、生徒にも答えやすい、理長自身の認証の変化による二面性が出ているところですから、これは本当にいい発問だなと思っています。
その次に、私がいいなと思っている発問、勝手にいいなと思ってるんですけど、
虎の姿になった理長なんですか。何で虎になったんだろう。もっと言うならば、虎という形になってしまった。虎という動物、虎というものになってしまったのはなぜなんだろう。
ライオンでも良かったんじゃないかっていうようなことを言いますと、生徒は大体じーっと考え始めて、
虎の持つ竹竹しさとか鋭さとか厳しさというのが、理長の性格とよく合致しているからというふうなことを言ったり、
それから別に手も挙がりました。
虎というのは単独行動をとるから、理長の他人と馴染まないところがよく合っているからというような答えを、生徒は言ってくれます。
それも本当に自分たちで気づいて、自分たちで読みを深めているから、本当にこの発問いいなと思うんですけれど、
私の用意したもう一つの答えは、虎というのは黄色と黒のシマシマ模様ですよね。
このシマシマというのが、先ほども言った自分理長と俺理長という理長の二面性をすごく象徴しているんじゃないかなと思うんですね。
自尊心と羞恥心が非常に複雑に絡みながら、自分自身の中で自己矛盾して葛藤していく理長の、
そういう理長の二面性をシマシマで表しているんじゃないかと思うわけですけれど、
ここまで到達する子はたまにはいますね。
私の思いつきのような解釈なので、押し付けるわけではないんですけれど。
でもね、今回教えてみて面白いことを言った子がいて、これは折りなんじゃないかということを言う子がいて、
この解釈も面白いなって思いました。
こんな風に継承から小説の解釈に結びつけていくっていうのは、読みが深まる一つのアプローチだと思うので、
私はこれをよく使うようにしています。
読みの深まり
それから、あんまりやったことないんだけど、読みが深くなってくるとやるのは三月記っていうタイトルについて考えさせますね。
これははっきりした解釈っていうのは自分の中で定まってないので間違ってるかもしれないんですけれど、
山と月っていうこのものに着目させます。特に月ですね。
月っていうのは、この小説の中でいろいろ分析してみると、
李徴が人間としての気持ちを戻している時期、
李徴が虎になった李徴が人間としての気持ちを持っている状態が月が出ている時だという風に読み取れるんですね。
その代わり、夜が明けて暁になると完全な虎になってしまう、人間の心のない虎になると、
こういう風なことが読み取れるので、
この月っていうのは虎の形をした人間の心を持つ李徴だと私は捉えています。
山っていうのは何なのかっていうのがいろいろあるんですけど、
経山明月に対しって書いてあるんで、
李徴がよく山に登る山に登るって言ってるので、
ちょっと私のこれは勝手な解釈で間違ってるかもしれないんですけど、
形象読みの重要性
山っていうのは詩人の上位の立ちは、詩人として成功した頂点なのかなとちょっと思ったりします。
あと谷っていうのが出てくるんですけど、谷に向かって吠える。
これは山に対して谷だから、詩人を目指す人々とか、
まだ高みに登っていない詩人たちとか、そういった人たちを指す、あるいは俗人たちを指すという風に、
自分の中で思ってるんですけど、これを授業でまだ出したことはないです。
ただ月っていうのには着目させることがあります。
それからさらに、時に残月、光冷やかに、薄露は地に茂く、
樹間を渡る霊風は、暁の地下気をつけていたっていう、そういう部分があるんです。
ちょうど李徴が自分自身の内面を語った後で、場面転換というか、
小級詩のような風景描写があるんですけど、これについては、
生徒に投げかけて、こういう風景描写があるということで、どういう効果があるかということを問うんだけど、
大体場面転換という風に生徒は言うんだけど、残月ですね。
残月っていうのは、月っていうのを捉えさせた後なんで、
李徴の人間としての心が残り少ないことを指しているという風に答える生徒もいますし、
光冷やかっていうところでは、やっぱり状況が非常に厳しい、冷たい、
この後の悲劇をなんとなく予感させる表現でありますし、薄露は地に茂く、
薄露っていうのは李徴の涙ですね。李徴の心は涙で溢れているわけですね。
それから、時間を渡る霊風は、これはね、すごくこだわる生徒、読みの深い、
この間配信した国公立大附属の生徒なんかは読み取るんですけど、
時間、人と人との間に霊風、冷たい風が吹くから、別れの予感をさせてるんじゃないかっていう読みもできる。
あとは、暁の近きを告げていたっていうのは、もう当然先ほども言いましたように、
人間としての心が失われて、完全に虎になる時間帯が近づいてきているということを語っているという風に読み取れます。
こんな風に読んでいくと、どんどん生徒自身の中で、すごく説得力が生まれた読みになるので、
頭心と心に入っていくような印象を私は受けます。
そして生徒自身が一番発見して、一番読みが深まった瞬間っていうのが、今回、
李徴を呼ぶ声っていうのは何だったんだろうっていうね、そういう発問でした。
生徒はね、ここをあっさりサラッと読んでしまって、もともと不思議な話ですから、不思議なことが起きたんだろうっていう風に読み飛ばしてしまうところなんですけど、
生徒との対話
李徴が虎になるときに、誰かが我が名を呼んでいるっていう記述があるんですね。
その声に導かれて走っていったら虎になっていたっていう、そういうところがあるんですけど、
じゃあ李徴を呼ぶ声って一体何だったの?って発問したらですね、今回の生徒もシーッとなって考えて、
友達といろいろ話し合いをさせながら、いろいろ考えたら一人の生徒が手を挙げてくれました。
この子は日頃から人の話を素直に聞いてじっくり考えて、非常に目が輝いている生徒なんですけれど、手を挙げて、
李徴の頭の中で聞こえてきた声らしい、というのも周囲の人には聞こえていないようだ。
ただ李徴だけがその声を聞いているということは他人に聞こえないということは、李徴自身の頭の中から聞こえてきたということだから、
李徴を呼んだ声は李徴自身なのではないか、というふうに説明してくれました。
非常に理路整然と説得力のある、そういう答えだったので、周りの友達もシーンとして、
あっ!というような目が輝くような瞬間がありました。
この瞬間がやっぱり李徴の二面性というものを生徒がしっかりと形として捉えたシーンだと思います。
こんなふうにして小説というのは意外と論理的に攻めていったら、あるいは継承読みという表現を抑えて解釈していったら、
生徒も非常に読みが深まっていくし、説得力のある読みになるんじゃないかなと思います。
ということで、今日15分も語ってしまいましたね。
皆さんの山月記の取り組み情報もぜひぜひ寄せてくだされば幸いです。
まだまだ暑さは厳しいんですけどね。私も暑いのが苦手なんですけど、
ちょっと休憩しながらゆるゆると頑張りたいと思います。
それではありがとうございました。またお会いいたしましょう。