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スピーカー 1
当時、ニュートンっていうものとか、今でも伝説なデバイスありますけども、それを含めて40種類以上のですね、製品モデルがあったそうです。
自分の会社の、Apple社のメンバーが、うちの製品どんぐらいあるかっていうのが誰も全然わかんないというぐらい。
スピーカー 2
全部数から把握できない。
スピーカー 1
いろんなバリエーションがあったそうです。
なので、これを40種類あったものを4つに再編するということをスティーブ・ジョブズは始めます。
それから、社内の文化変革というのもやったみたいでですね。
残業めっちゃすると、立て直すんでめっちゃ仕事するぞみたいな感じですとか。
あと、なるべくタバコ吸わないようにする禁煙エリアを広くするとか。
スティーブ・ジョブズはベジタリアン、ちょっと特殊な食生活をしていたので、それに近いような食事をですね、食堂で出す。
主に豆腐料理だったらしいんですけども、そういうものを出すということをしたそうです。
スピーカー 2
ちょっと残業増えるのにタバコも吸えず、ご飯もパワー出なそうで。
ちょっと嫌ですけどね。
スピーカー 1
ええみたいな感じ。
スピーカー 2
ええみたいな感じですよね。ハンバーガーとか食いたいですよね。
スピーカー 1
なんかよくしたいよくしたい。
何回か前に、当時スティーブ・ジョブズの家はそんな大きくなくて、窓のそばでずっと朝から晩まで仕事していた。
メールを打ちまくっていたという話がありましたけど、まさにこの時です。
年収は1ドルということでやっていました。
この時にスティーブ・ジョブズはですね、正式なCEOにはまだ就任をしていないんですね。
ICOっていうiPodのiがCEOの前につく。
i商をですね、社員から募集して、自分はICOなんでっていうことで言ってたそうなんですけども、
本当のCEOじゃないということで言ってました。
これはですね、スティーブ・ジョブズとしては破綻寸前のアップル社っていうのが本当に立ち直れるかどうか、
俺の力でどこまでできるのかっていうのを見定めるための一定の期間が必要だったので、
中にいい社員がいるかどうか、あるいは外のいい人材をハイアリングできるかどうかっていうところをしっかりと見定めていたと言われています。
この時にですね、スティーブ・ジョブズがやった改革ですけれども、3つ代表的なものを紹介したいと思います。
1つはですね、もう財政危機なんですね。破綻寸前、お金がないっていう状況ですので、
深刻な財務危機からの脱出というのが1つ目、Priority Firstですね。
とにかくお金の散乱しなきゃいけない。
これはCFOという人になっていただかなきゃいけないと。
ジョブズができる仕事ではないんですよね。
それから2つ目がですね、これまで重要の予測っていうのがなかなかうまくできなかったみたいなんですね。
売れないのに作りすぎちゃったり、売れるのに全然作れなくて、オーダーを無駄にしちゃったりとかっていうことがありましたと。
これで1100億円分ぐらいですね、大損こいたっていうようなサプライチェーン災害っていうのも94年には起きたということで、
とにかくサプライチェーンの物流ですとか調達、製造、物流、こういったものが本当に弱々だったんですね。
なのでそこをしっかりとこのオペレーションっていうのを徹底的に見直す必要があるというふうに考えましたと。
もう1つがですね、40種類もわけわかんない製品作っちゃったんだけど、
やっぱりアップルってこれでしょうっていうようなイノベーティブな世の中の人がすげえって思うような製品を作り出すっていうことだろう。
なのでこれは当然プロダクトデザイナーが必要ですよね。
おそらくアップルにはいないだろうということで、デザイナーはめっちゃいい人を外部から所有しなきゃいけないなっていうふうに思っていたそうです。
なのでこの財務危機からの脱出、サプライチェーンの改革、それからデザインですね。
スピーカー 2
魅力的な製品のデザイン。これをやる人材を探して当てるっていうことをジョブズが改革として進めてきました。
スピーカー 1
今言った優先順位から言うと財務、お金の話なんですけども、ちょっと逆にしてですね。
まずは花々しいところでアップルらしい製品を作り出すというところ。
ここはデザイナー、チーフデザインオフィサーというタイトルにつく人がいるんですけども、
皆さんお馴染みですかね。ジョナサン・アイブさんですね。
今でもサム・アルトマンとめっちゃ仲のいいジョナサン・アイブさんですね。
このジョナサン・アイブが中心になってプロダクトデザインを進めてきます。
ジョナサン・アイブ、どんな人材かというと、彼はイギリス人だそうです。
ロンドン生まれでお父さんは銀材区を作る職人さんで、それを大学でも教えるってことをしていたそうです。
本当に小学校、中学校ぐらいのところから物作りの英才教育みたいなことをこのジョナサン・アイブにしていたみたいなんですね。
かなり美しさへのこだわりがある、そんなお父さんだったようです。
ジョナサン・アイブ、高校時代めちゃくちゃ成績優秀で、イギリスの大学どこでも行けるっていう感じだったそうです。
オックスフォードもケンブリッジもどこに行くこともできたというぐらい。
性格もめっちゃ良くてっていう感じの、本当に勝ち組みな高校生でした。
今でも勝ち組みっぽい生き押しですけれども。
その時に彼が選んだのは、しっかりとデザインの勉強ができるということで、オックスフォードでもケンブリッジでもなく、
入科するポリテクニックっていう、ノーザンブリア大学って今は言うらしいんですけども、そこのインダストリアルデザイン専攻に進むというのを選びます。
デザインで俺は食っていくなっていうふうに思ってたみたいですね。
スピーカー 2
すごいね、オックスフォードでいけるんだねっていう話ですよね。
スピーカー 1
でも高校の時からデザインで賞をもらうとか、ハイアリング受けるとか。
この大学に行くのも、高校の時にうちのデザイン事務所に来てよって言って、RWC社っていう会社の社長からハイアリングを高校の時にされて、
その時に大学の学費払ってくれたら、僕卒業したら行きますみたいな感じで、大学のお金をそこに出してもらうみたいなことを知ったみたいですね。
そこの大学に行ってですね、ここでマッキン・トシと出会ってですね、なんて活かしたコンピューターだっていうふうに思うわけですね。
学生時代にいろんな会社でインターンをして、その時アメリカにも行ってですね、サンフランシスコでロバート・ブルーナーっていう人に会います。
その人はあるデザイン事務所を経営していた人で、お前なんかめっちゃ優秀だからうちにおいでよって言われたんですけど、
いや学費ちょっと払ってもらってるんで、僕ちょっとロンドンで仕事しなきゃいけないんでっていうふうに戻ると。
で、そこでサンフランシスコ、海外のインターン行ってロンドンに戻って大学卒業して、ファーストキャリアは学票を出してくれたRWG社というこれデザインコンサル会社らしいんですけども、そこに入社をします。
で、そこでちょっと揉めるじゃないんですけども、自分の可能性をもうちょっと広げたいということで、タンジェリンという同じくデザインコンサル会社に移ってですね、
そこの会社もデザインコンサルなんで、受注してデザインをして納品するっていう仕事やってたんですけど、そこでアップルの仕事なんかもちょっとやったそうです。
この時はロンドンで仕事してるわけですね。で、ロンドンで仕事をしているときにですね、さっきサンフランシスコでインターン行ったときにロバート・ブルーナっていう人に、
お前うち来いよって言われたけど、いえいえ行けないんですって断ってましたと。でもロバート・ブルーナはよっぽどジョラン・サワイブ気に入ったみたいで、3回目、もう3回目だけどもういいから来てよっていうふうに言った。
その時にロバート・ブルーナがいたのがアップルのインダストリアルデザイン部門だったんですね。
スピーカー 2
すごいな。
スピーカー 1
もう自分の会社を畳んでアップルにいましたと。で、ここで25歳のジョラン・サワイブはこのロバート・ブルーナの後釜になるというか、その部下のような感じで1992年にアップル社に入ってきます。
その92年に入ってきて、最初はアップルの製品作るんですけども、なんつっても社員がわかんないぐらいの数作らされるわけですね。40種類も。
俺何作ってんだっけみたいな感じで、なんかマッキントッシュ超良かったんだけど、なんで全然面白くないんだろうっていうふうに、仕事面白くないからもう辞めようと思ってたそうです。
もう辞めっぴっと思った時にですね、1996年スティーブ・ジョブスは帰り咲くということになります。
その時スティーブ・ジョブスはいい製品を作れるデザイナーおらんかねってことで、しゃあないを回ってるわけですね。
で、その時にたまたまこのジョラン・サワイブと出会って2人は一気投合して、2人ともシンプルを好んで、より少なくしかしより良くっていうモットーが2人とも一致していたんですけども、
どんどんどんどんですね、ジョブスが作りたいプロダクトのデザインっていうのをジョラン・サワイブは実現化していくというふうになってきます。
30歳の時にはデザイン担当上級副社長に昇格してですね、アップルの全製品のデザインを統括すると。
30歳ですよ。
スピーカー 2
30か、すごいな。
スピーカー 1
すごいですよね。
スピーカー 2
すごい。
スピーカー 1
なのでこの後はiMacが出て、iPod、iPhone、iPad、MacBookですね、ちょっと活かしたアップル製品っていうのはもう全部ジョラン・サワイブのデザインチームが作ってると。
スピーカー 2
あれ30歳の時の仕事なんですね。
すごいですよね。
すごいですね。
スピーカー 1
これもうすごいすごいって言うわけですよ、ジョラン・サワイブ超すごいって。
スティーブ・オーズニアックの辞典を見るとですね、ジョブスとアイブが作ったって書いてあるけど、ジョブスが戻ってくる前からiMacの企画あったんだよねとかっていうのを辞典にちょろっと書いてたりとかして。
スピーカー 2
なるほどなるほど。
スピーカー 1
みんな見るとこ違うんじゃないのみたいな感じののもスティーブ・オーズニアックと書いてあるとかするんですけども、いずれにしても全ての製品を統括してですね、
当時覚えてらっしゃるか、iPodですね、赤いバージョンのやつがあってU2のバーティコっていう曲が流れて、歌えないですけどもそういうCMがあったんですね。
U2のボノが出てきて、ジョラン・サワイブとやりとりして、でもU2のボノとジョブスが大喧嘩して、そんな奴らに頼みたくねーとかっていうふうにジョブスは怒ると。
その間を取り持つみたいなのをジョラン・サワイブがやってですね。
すごいこう、いろんな人間関係の構築も含めてやってですね。
そのU2のフロントマン、ボカルのボノがですね、ジョラン・サワイブ、ジョニーはスターウォーズの帯輪だと。
彼のデザインチームはジェダイの騎士団だと。利益より偉大さを追求するが故に好奇であり、利益は偉大さから生まれると信じている。
遥か遠くの偉大なものを追い求めて、目先の好奇を堅くなに見送ると。
自分が実現したいものを取るまでは、ちょっと手元でもお金でもどれもいいと。
もうちゃんと美女を見なさいっていうことだと思うんですけど、これをボノの言わせ占めると。
そんなエグゼクティブですね。
彼自身はですね、この後本当スティーブ・ジョブスと双子だって言われたり、もう本当一心同体だって言われるぐらいだったんですけども、
スティーブ・ジョブスが亡くなった2011年以降ですね、2019年までアップル社にいて、その後自身のデザイン会社、ラブ・フロムという会社を設立して、
そこでアップルのですね、仕事をこう住宅してやるというデザインもしていたようです。
それはもう2022年にアップルの仕事は全部終わってですね、
今年ですね、2025年の5月に世界を新観させたオープンAIと一緒にやると。
新しいデバイス作ると。
かつ、アイブが立ち上げたIOっていうAIデザインスタートアップ企業。
これオープンAIが65億ドルで買うと。
スピーカー 2
すごいですね。
スピーカー 1
いくらかはもう分からないですけど、もうすごい金力で。
株を発行したっていうことだそうです。
なんですごくイケオジでかっこよくて仕事もスマートでという感じ。
デザイン面でスティーブ・ジョブスを支えたこのジョナサン・アイブという感じですね。
気持ちよかったんじゃないかなと思います。スティーブ・ジョブスも。
こんな感じのって言ったら超かっこいいの出てくるっていう。
スピーカー 2
そこが合うのってめちゃくちゃ重要ですもんね。
スピーカー 1
多分おそらくそこの感性みたいなのが近かったんでしょうね、偶然にもね。
まさにそうですね。
スティーブ・ジョブスの評価としてアップルで最も重要な人物でデザイン部門を誰よりも信頼していたそうです。
なので本当に二子一というか精神的双子とかね、そんな感じになると思うんですけども。
これめっちゃ仲いい二人っていうイメージを持つじゃないですか。
スピーカー 2
でも我らがスティーブ・ジョブスはそんな簡単な人じゃないわけですよ。
スピーカー 1
デザインチームのところにスティーブ・ジョブスが行くわけですね。
みんなアイデア出すわけですよ、デザインの。
どんどんどんどんプロタイプのやつ作って。
それをスティーブ・ジョブスがアイデアをチェックして、これ良くない、これいい、これ悪い、超ダメとかっていうのをどんどん選別していくんですね。
その後でめっちゃいい、デザイナーが作ったやつですね。
これ俺作ったんだけど超いいでしょっていう感じで紹介すると。
あるいは自分がダメだって言ったやつもう一回持ってくると、これ超いいじゃないか。
俺の製品みたいな感じで出すとか。
よく部下の手柄は上司の手柄みたいな、昔の企業があるよみたいな酷い会社ありますけど、それをがっつりやってくれてたのがスティーブ・ジョブスだったみたいですね。
だからアップルにおけるアイデアの源っていうのはスティーブ・ジョブスだっていうのはみんなに言われると。
スピーカー 2
デザインのトップの自分としてはちょっとじくじたる思いがあって、それは会社として問題だなっていうのをジョナサン・アイブはインタビューで答えてたりとかもしてるそうです。
スピーカー 1
我慢強い人っていう感じですかね。
これが新しい製品を作るというところですね。
アップルらしい製品を世に放っていく。本当司法のようなNo.2。それがジョナサン・アイブでした。CDOを務めていたということになります。
スピーカー 1
この企業を再建するときにですね、やらなくてはいけないことの2つ目ですけれども、今度はサプライチェーンの改革っていうのをやらなくてはいけないです。
無駄がありすぎる状況でしたので、在庫が積み上がって必要なときにないですとか、そういうことが起きてます。
それを何とかしたいということで、スティーブ・ジョブスがその1996年とか97年にこんな人材が欲しいなと思ってたのは、当時デルコンピューターっていう会社が世界中を接見してたんですけども、
そこの創業者であるマイケル・デル。もうデルが欲しい。デル来てくんねえかなっていうのをずっとスティーブ・ジョブスは思っていたようです。
デルがダメだったら、じゃあ他のコンピューターメーカーでサプライチェーンをよくわかる人間がいないか。
それからトヨタが日本で生み出したジャストインタイム看板方式っていう非常に効率的なものづくりの考えがあると。
俺はそれ学んできたと。それわかるやつもおらんかねっていうので探すわけです。
そうすると当時世界一のパソコンメーカーってコンパックって会社だったんですけども、そこにいたCOO、ここでオペレーション担当のバイスプレジデント。
COOじゃないですね。コンパックでオペレーション担当のバイスプレジデントとして在籍していたティム・クックがそこにいましたと。
そこでティム・クックに声をかけてきてもらうってことになるんですけども、
コンパックというパソコンメーカーにいてスティーブ・ジョブズから最後声かかっていくことになるんですけども、それまでにティム・クックはもう何度も何度もアップルからお声掛けがかかったそうです。
なんで彼にかかってきたのかっていうと、彼はずっとコンパックにいた人間ではなくて半年間しかまだ勤務してない状況だったんですけども、
もともと彼はですね、これもちょっとジョナサン・アイブと似てるんですけど、めっちゃ優秀な高校生でしたと。
とにかく性格がいいっていう感じです。
お父さんは造船技術者で、お母さんは薬剤師のパートタイムで薬剤師をやるという感じの、日本で言ったらどこになるかわからないですけども、アラバーナワ州生まれで田舎町育ちというふうに辞典には書いてありました。
そこで育って、多分今でもかもしれないですけども、毎週日曜日にお母さんに、お母さん元気?大丈夫?っていうふうに電話かけるぐらい親孝行な息子だったそうです。
でも学校でも常に成績優秀勤勉で社交的人気者、知的で穏やかな性格だけど明るいところもあると。
彼のことを好きにならない人はいませんでした。素晴らしい性格の持ち主だったっていうのは同級生で言ってるぐらいですね。
この彼がオーバン大学という大学に行って工学を勉強します。
その後リューク大学に移ってですね、そこでMBAを取得すると。
学生生活を送ります。
ファーストキャリアですね、ここでIBMという会社に彼は就職をします。
当時ですね、IBMは1982年から94年に彼はいたんですけども、当時まだIBMでもパソコンを作っていましたし、サーバーとかでっかいものとかも作ってましたし、いろんなパーツとかもありましたということで、そこでものづくりの工場に行って物流とか調達。
ここでトヨタのジャストインタイムっていうのも学んでいったんですね。
調達のディレクターをやっているところで入社して12年のときには調達のディレクターをやっていて、そこからですね、インテリジェントエレクトロニクスっていうベンチャー企業っぽいところに移って、そこではCOO、最高執行責任者っていうのを務めます。
なので、ものづくりの現場、サプライチェーンを実際に平社員として駆けずり回って、そこの意思決定者として見て、ベンチャー企業の経営者になって、最終的にこのインテリジェントエレクトロニクスっていう会社は、ジェネラルエレクトロニク、GEに売却されてなくなっているんですけども、そこで売ってですね、M&Aもやって経営者としての経験も積んで、
世界一のコンピューターメーカー、コンパックに転職したばっかりっていうところで、じゃんじゃかじゃんじゃかアップルからですね、ちょっと来てくれないですかっていうのが来ると。
スピーカー 2
当時のアップルはもう先ほどからずっと言ってる、倒産寸前のもうひどい会社ですと。かたや自分が勤めてるコンパックは世界一のコンピューターメーカーだったんですね、当時は。誰に相談しても絶対コンパックやる。
スピーカー 1
アップルとか絶対見た方がいいというふうに言われ続けたそうです。で、満を持して来るわけですね。スティーブ・ジョブズが登場して面接をするわけですよ。もう5分で引き込まれたアップルで働きたいと思ったそうです。
なるほど。
そこで不安とかロジカルに考えるとこうだとか、そんなのもう全部放り出してアップルに俺も行きたい、アップルにジョインしたいっていう想像の天才と、スティーブ・ジョブズですね、ものづくり、想像の天才と一緒にですね、仕事をするっていうのはもう二度とない、もうかけがえのない機会になるだろうって直感してですね、そこで入ると。
で、その時にですね、スティーブ・ジョブズが欲しいのはとにかくサプライチェーンのプロなわけですね。なんで今我が社こんな問題になってるんだけど君だったらどうやって解くっていうのをバババババババッとこうティームグループがあ、だとしたらこうやってこうやってこうやってやったら解決できますね、私だったらこうやってやりますっていうのが全部ぴったりだったんですね。
ジョブズがまさにやりたいっていうことを君できるね、しかも俺と同じ世界見てるねっていう感じでぴったりフィットしたわけですね。そこで1997年ですね、コンパクトをやめてアップル社に転職をすると。で、オペレーション担当バイスプレジデントということでサプライチェーンの責任者として引き抜かれていくことになります。
でも翌年にもですね、上級副社長になるという感じですので、どんどんどんどん成果を出していくと。どんな成果を出したかというとですね、在庫が積み上がっちゃって無駄になってるって話をちょっとしたんですけども、その在庫がですね、数ヶ月分の在庫があったそうです。これ5ヶ月分の在庫があるっていう本に書いてあったんですけども、それを5日分の在庫まで削減するということをやっていけたそうです。
でもこうするとキャッシュフローとか荒利率っていうのが急激に変わってくるという感じですね。それから今までは自社工場で作っていたんですけども、これを生産委託をするということで、いろんな意見というか考えがあるんですけども、中国のホックスコーンにですね、製造の委託をするということで、自社で作らないで中国で作ってそれを取り入れるというふうにファブレス化をどんどんどんどん進めていくということをしていきます。
先ほどのジョナサン・ハイブがプロダクトのイメージ実現していったというところで、このティム・クックはですね、会社のオペレーションをしっかり回すということをしっかりとジョブスのイメージ通りにやり続けたというのがこのティム・クックになります。
スピーカー 1
ティム・クックのイメージって、しだなさんどんなイメージをお持ちです?
スピーカー 2
そうですね、ジョブスの後にしようになったというイメージで、優しいおじさんという感じじゃないですけど、すごい柔らかい人みたいな印象があったんで、実はここの部分知らなかったです。ゴリゴリのビジネス周りをやってきた。
スピーカー 1
とにかくですね、優しいおじさんというイメージは本当にその通りでして、以前お話したかもしれないですけど、個性を出さないとジョブスからおめえいらねくずだって言われるし、個性を出したらおめえ邪魔だって言われるっていうのすごい難しいんですけども、そこでも中庸を保ってですね、個性主張しないんですけども、ジョブスに完全に忠実な右腕として機能している。
とにかく表に出ないで支え続ける。痒いところに手が届くっていう感じ。さっきジョナサン・アイブが俺の手柄取られちゃってみたいな愚痴を言ったりとかってのがあったんですけど、そういうのゼロですね。
スピーカー 2
なるほどなるほど。
スピーカー 1
このティム・クックがなんで後継者になったのかというところなんですけども、これあのジョナサン・アイブが本当の後継者だねとかっていう意見もあるようでし、他の方も候補に上がっていたみたいです。ただティム・クックを後継者に選んだ、自分の次のCEOに選んだのはスティーブ・ジョブス本人だったんですね。
それは2011年にジョブスから変わったわけですけども、2002年のタイミングですね。98年に入社してそれから4年経ったあたりで、実はもう既にスティーブ・ジョブスはティム・クックを後継者にしようと考えていた節があります。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
今度営業の責任者にします。そこでもう変えると。あとハードウェアの部門長にするですとか、なるべく広い事業を見せるようなところにどんどん移動して昇格をさせる。
なるほど。
2005年にそのオペレーションのトップであるCEOに昇格させて、CEOの次全部見ろよっていう感じでCEOをやらせると。めちゃめちゃ気持ちいい感じでCEOの任をやってくれてるという。これがティム・クックです。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
すごい綺麗な感じなんですよね。ティム・クックの動きとか。
スピーカー 2
はいはい。
スピーカー 1
とがってぶつかって何かやるっていうよりも率なく完璧にこなす。ただのことなかれ社員とかではなくてチャレンジもするし成果も出すしっていう。
よく上司にしたいランキングとかだったら、本当のティム・クックの姿はわかんないですけども、少なくとも何冊か本人読んだ中では断トツにティム・クック上司にしたいと思うぐらいすごいですね。
スピーカー 2
根底にはやっぱり当時のナンバーワンだとコンパクトを辞めてきた時の上司に対する思いみたいなのがすごいあったのかもしれないですね。
そうなんですね。
そこの明らかな絶対的にパソコン業界を作った人と働くんだみたいなところがあって、こういうような形で仕事をしてたのかなっていうのがちょっと想像しちゃいましたね。
スピーカー 1
そうですね。この憧れの存在のスティーブ・ジョブズだから自分はそこに入って能力を発揮できたっていうところはあったでしょうね。
実は先ほどスティーブ・ジョブズがやった改革の中にもう一つ財政基盤をしっかりとするっていうのがあって、ここでCFOという役職が必要になってくるんですけれども、ここは多分聞かれてる方もほとんどご存じないと思うんですけども、ジョブズがアプリに戻ってきたときのCFOっていうのはフレッド・アンダーソンという方だそうです。
この彼はですね、多くは今日も時間がないので語れないんですけども、ティム・クックが控えめなナンバー2だったんですね。オペレーション回しまくって、ジョブズさんどうぞ行ってくださいみたいな感じでやってたんですけど、それよりさらに日陰に入ってお金回りを万弱にしていったのがフレッド・アンダーソンっていうCFOですね。
スピーカー 2
ティム・クックも相当地味だなと思ったんですけど、さらに地味でお金金銭面のところを支えたというのがフレッド・アンダーソンという方ですね。なのでちょっと名前だけでも聞いたことあるみたいにされるといいかなと思います。
スピーカー 1
アップル、スティーブ・ジョブズのナンバー2ということで、最初の方は遠隔とか企業概要をやったんですけども、ナンバー2人材としてはスティーブ・オズニアックがいて、創業の友達のときからのナンバー2ですね。あとマイク・マークラですね。資金提供をしてくれて、会社の経営とかマーケティングを教えてくれた父親のような存在。
それからデザインを具現化してくれたジョナサン・アイブ。アップル社のトップであるティム・クック。この4名に最後チラッと言ったフレッド・アンダーソンというCFO。この5名がですね、もちろん他にもたくさんいると思うんですけれども、スティーブ・ジョブズを支えたナンバー2って言っていいんじゃないかなと思います。