嫌いな人の欠点って、妙によく見つかりません?
「あの人、やっぱり性格悪いわ」
……いや、ちょっと待って。僕、ただ苦手なだけちゃう?
検察官も僕。裁判官も僕。傍聴席で「そうやそうや!」って言うてるのも僕。
そんな脳内裁判を開いてまで、相手を有罪にしたくなるのは、いったいなぜ?
好きな人なら笑える冗談に腹を立て、嫌いな人のSNSをわざわざチェックしてしまう。
……それ、もうファンやん。(笑)
今回は、人間関係の好き嫌い、悪口、正義感に潜む、ちょっと都合のいい自分の心理について。
笑いながら考えていたら、最後には思わぬ方向から、自分に刃が向いてきました。
さて、あなたの脳内裁判では、今日も誰かが有罪になっていませんか?
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サマリー
嫌いな人に対して、相手の欠点を集めて「やっぱり嫌なやつだ」と証明したくなる心理について考える。好きな人の欠点は個性として見られるのに、苦手な人の欠点は人格の問題にしてしまう、自分の評価の都合よさが語られる。相手の行動への批判と、その人全体を悪者にすることは別であり、相性が合わないだけなら距離を取ってもよいと整理する。一方で、自分にも人を嫌う自由があるなら、他人にも自分を嫌う自由があるという受け入れがたさにも向き合い、嫌いな相手とその人の全体を切り分けたいという結論に至る。
嫌いな人を悪者にしたくなる理由
皆さん、嫌いな人っておりますか?
いや、おりますよね。おらん言われてもちょっと困るんですけど。
でね、嫌いな人ができたときって、なんかその人の悪いところを探し始めたりしません?
例えば、あの人って人の話全然聞かんよね。とか、ちょっと自己中心的すぎるんちゃう。とか、なんか常識ないよね。みたいな。
僕も結構そういうところあるんですよ。で、ふと思ったんです。
ん?僕、この人のこと嫌いなだけやったらあかんの?って。
だってね、別にその人は犯罪者でもなんでもないんですよ。
単純に僕がなんとなく苦手なだけかもしれへん。
それやのに、わざわざ相手の欠点を集めて、ほらこいつやっぱ嫌なやつやんって。
で、何をそんな必死になって証明したいんでしょうか。
もう頭の中でね、いつも通り裁判が始まるんですよ。
検察官も僕、裁判官も僕、傍聴席でそうやそうや言うてんのも僕。
そりゃ有罪なりますよね。
でもここでちょっと怖いことに気づいたんです。
もしかして僕らって誰かを嫌うときに、その人のことを悪者にせえへんと安心できへんのちゃうかなと思ったんですね。
今日はちょっとそんな嫌な話をしてみたいと思います。
ハオー!あなただけのゲイとも豆腐とウルフです。
この番組未定で結婚はまだ答えが出ていないこと、誰かに話すにはちょっと早いこと、でも本間はめっちゃ気になってることを、
僕豆腐とウルフが少しずつ言葉にしていくポッドキャストです。
今回も結論が出るかどうかはわかりませんが、よかったら最後までお付き合いください。
好きな人と苦手な人への評価の違い
さて、人を嫌いになる理由って色々ありますよね。
例えば嘘をつかれたとか、嫌なことを言われたとか、約束を破られたとか、もちろんそういうはっきりした理由がある場合もあります。
でもそうじゃないこともあると思いません?
別になんかされたわけでもなければ、悪い人でもなさそう、でもなんか苦手。
喋るテンポなのか、距離感なのか、それとも冗談のセンスなのか、別に相手が悪いことしてるわけちゃうんやけど、どうにも気が合わへん。
これ別に普通のことやと思うんですよ。
だってね、好きな人かてね、いちいち理由を説明できへんことってあるじゃないですか。
なんとなく好きとか、一緒におったら楽しい、気が合う。
それで成立するのに、なんか嫌いな人については、で、何が嫌なん?って聞かれたときに、ちゃんとした理由を提出せなあかん気がするんですよね。
イメージしてください。
あの人なんか苦手やねんなあ。
えー、でもええ人やん。
あー、まあええ人やねんけど、みたいなさ。
わかる?
この会話のイメージできた?
急にこっちがなんか悪いことしてるみたいになるんですよ。
で、そっから始まるんですよ。
理由探し。
あ、でも、なんかこないだこんなこと言ってたでとか、そういえばああいうとこもちょっとなあとか言うて。
いやもうええやんて、気が合わへん。
もうそれでええやんっていう話なんよ。
でも僕らって案外そういうことできへんのですよ。
なんとなく嫌いっていう自分の感情だけやと、ちょっと心もとない。
だから、相手にちゃんと嫌われる理由があってほしいと思うんですよね。
これね、よく考えたらなかなか失礼な話ですよね。
で、もう一つ気になることがあるんです。
それは、同じことをされても、相手によって腹の立ち方が違うことってありません?
例えば、ちょっとデリカシーのない冗談を仲のええ友達に言われたら、
もうまた何言うてんねんって笑える。
でも、嫌な人とか言われたら、はあ?ってなるわけ。
もう言うてることほぼ一緒やのに、はあ?ってなるんですよこっちは。
でも他にも、好きな人がちょっと自分の話ばっかりしとったら、
あ、今日はなんか疲れてんねんな、話したいこといっぱいあんねんなって思える。
でも、苦手な人が同じように自分の話しとったら、
こいつほんま自分の話ばっかりやん、って思う。
もちろんね、言い方とか状況によってその意味合いっていうのは変わってくるんですけど、
でもそれを差し引いたとしても、僕らの人間の評価って結構ええ加減なとこがある気がするんです。
好きな人の欠点は個性として見てあげられる。
でも、嫌いな人の欠点はその人の人格の問題になる。
まあ、なんか都合いいよね。
特に自分がすでに相手のことを嫌いやと思っとったら、
その人がなんかするたびに、ほーらやっぱりって思うんすよ。
で、たまにその人がええことしたら、今度は、
まあ、たまにはそういう一面もあるんやろうけどさ、とか言ってさ、
もう評価がめっちゃ渋いのよ。びっくりするぐらい評価が渋いのよ。
悪いことしたら原点、でもええことしたとしてもあんま加点はされへん。
何やったら、ええ人ぶりやがってとかって言い出したりとかするんですよ。
もうさ、そこまで嫌われたらさ、どないしたらええのって感じちゃう?
だって何しても負けるのが確定してねえもん。
でも、僕も時々他人のことをこういう見方をしてることがあるんです。
しかもね、恐ろしいことにね、自分の中ではその人たちのことを公平に見てるつもりやったりするんですよ。
でも最初から嫌いやと決めてる相手については、気になるところ、嫌なところばっかり目に入ってくる。
これってもしかすると、相手のことが嫌な人やから嫌ってるんじゃなくて、
自分が嫌ってるから相手を嫌な人として見続けてる部分もあるんちゃうかなって思うんですよね。
自分が悪者にならないための判決
そう考えたらこれってちょっと怖くない?
ここからもう一つさらに踏み込んで考えてみたいんですけど、
そもそもなんで僕らは嫌いな人を悪者にしたくなるんでしょうかっていうことなんですよ。
その人のことが腹立つからですかね。
それとも自分の気持ちをちゃんとわかってほしいからなんでしょうか。
もちろんそういうのは両方ともちゃんとあると思います。
でも僕の場合はもう一つありそうな気がするんですよ。
それは自分が悪者になりたくない、悪い人になりたくないっていうことですね。
だってね、これちょっと想像してみてくださいよ。
誰かが自分に親切にしてくれた。悪いこともされてへん。
でもその人のことなんか好きになられへん。
これちょっと居心地悪くない?
相手は別に悪い人じゃない。
せやのにこっちは距離を取りたい。
なんとなく申し上げない。
いや、何やったら自分の方が嫌なやつちゃう?って思ってまう。
でもここで相手に何か一つ欠点が見つかったとしたら、
ああ、この人こういうとこあるから嫌なんや。
ってちょっと安心できる気がしません?
さらに、あの人他の人にも同じようなことしてらしいでなんていう話を聞いた日には、
ほーれ見たことかって、やっぱりって。
いや何を喜んでんねんっていう話なんですよ。
人の悪いところが見つかってなんでそんな嬉しいんやっていう話。
でもね、わかっちゃうんです。
だってそれで自分が正しい側に立てたような気がするんですよ。
僕がこの人のこと嫌なのは、僕の心が狭いからじゃないと。
あいつに問題があるから嫌って思えたらちょっと楽になっちゃうんですよ。
つまり誰かを悪者にすることで自分が悪者にならなくて済むんですよ。
そんなことを僕らは無意識にやっちゃってるかもしれないですよね。
でもね、ちょっと待ってほしいんですよ。
行動の批判と人格の判決を分ける
そもそも人のことを好きになられへんことってそんなに悪いことなんでしょうかっていう話。
別に全員を好きにならなあかんなんていう義務なんてないじゃないですか。
相性が合わへん。価値観がちゃう。一緒におったら疲れる。
それだけでなんか距離を取ってもいいと僕は思うんでしょう。
相手を悪者にせんかったとしても、あなたは悪い人じゃないと思う。
でも僕はあなたとあんまり親しくなりたくないです。
もうこれでええはずなんよ。
いやのになんでそれだけやったら足りへんのかなっていうこと。
ここまで話すと、いやいやでも実際に嫌な奴っておるやんとかって思う人もおると思うんです。
おるんよ。それはねおるんよ。
人を平気で傷つける人もおるし、嘘つく人もおるし、
こっちが嫌やって何回伝えてもやめてくれへん人勝手おります。
もうね世の中に嫌な人ばっかり。嫌な人だらけよ。悪いやつばっかりよ。
でねそういう場合にまでね、あなたが嫌ってるから悪く見えるだけですよなんて言われたら、
いやふざけんなよっていう話になってくるやん。
だからそこはちょっと僕は分けて考えたいんです。
実際にされたことが不当やったんか、その行動によって誰かが傷ついたのか、
それはちゃんと考えていいと思うんですよ。
人を傷つける行動については批判されるべきだと僕は思っております。
ただその人の行動が悪かったこととその人のすべてが悪いことは同じじゃないんですよ。
イコールで結びつかないんですよ。ここがね難しいんでしょう。
例えばですよ、誰かにものすごくあなたが失礼なことを言われましたと。
ね。腹立つよね。そりゃそうよ。
で、その人に対して、いやあの発言はないと思う。ひどいでっていうのと、
あの人がねっから性格悪いねっていうのではちょっと極端やけど意味がちゃうじゃないですか。
前者は実際に起きたことに対しての批判よ。
でも後者はその人そのものへの判決。人格者じゃないですよっていう判決を下してるんですよ。
これいつの間に裁判会になってるんですよね。
もちろん人には繰り返す行動の傾向もあるし、信用できへんようになるほどの出来事かってあります。
付き合ってればそんないくらでも出てきます。
そういう時に無理に相手を擁護する必要はないんです。
ただ僕が気付けた縁は、嫌なことを一つされた時にその人の過去とか未来とかも全部まとめて
こいつこういう人間やもんって決めつけてしまうことなんですよね。
なんかそれをやってしまうと、その人が変わる可能性も自分が見落としている良い部分も全部なかったことにしちゃう気がするんですよ。
だからといってその人と仲直りというか和解せなあかん?
雪解きを求めなあかんわけでもないんですけど、嫌なもんは嫌やん。
嫌いなまま距離を取るために
じゃあここまでいろいろ話してきたけど、どないしたらええんやろっていうとこなんですけど、
僕は一つ思うんです。嫌いな人は嫌いなままでほっといたらええんですよ。
ものすごい当たり前のことをドヤ顔で言ってます。
でもね、案外これ難しいと思うんですよ。
嫌いなら嫌いでいい。無理に好きになる必要はない。
仲良くする義務もない。相手のいいところをわざわざ探しに行く必要もない。
ただ、その人のことを嫌いなことと、その人を悪者にすることは切り離して考えたいんです。
例えば、友達にあの人ちょっと苦手やねんなって話すのは別にいいと思うんですよ。
自分の中の鬱憤というか不満を聞いてもらうこと、気持ちを聞いてもらうことって必要やと思うから。
でも、そこからあいつってマジで嫌な奴やんな。そう思わん。
っていうふうに周りに同意を求め始めると、ちょっと話変わってくるんですよ。
だって僕が嫌いな人のことを、僕の周りの人までがみんなで寄ってたかって嫌う必要はないじゃないですか。
僕とは会わへんっていうのは事実。
でも、僕の周りの誰かさんは仲良くできるかもしれへん。
僕にとってはその嫌なところが目につく人やったとしても、
誰かにとってはその人のことがとても大切な人かもしれません。
その可能性まで僕が奪う必要はないんですよね。
とはいえ、実際は難しいんですよ。
自分が苦手な人のことを、友達があの人めっちゃええ奴やんなとか言われたら、
えー、どこが?ってなるやん。
分かる?結構あるんですよこれ。
えーってなってくることがよくあるんですよ。
友達が悪いわけちゃうよ。
でもなんとなく納得できへんのです。
自分が見てるその人と友達が見ているその人があまりにも違う時に、えーってなるわけよ。
ここで傷つくんです。
僕は自分の気持ちを分かってほしかっただけなんか、
それともその友達がそいつのことを嫌な奴やって認めてほしかったんかっていうところ。
この二つ似てるけど全然ちゃうんよね。
前者の僕の気持ちを分かってほしいっていうだけやったらもう僕の気持ちの話なんですよ。
僕だけの話なんですよ。
ただ後者になってくると相手の評価を変えようとしてるんですよ僕は。
だからね僕はそこをちょっと注意してというか混同せんようにしたいんですよね。
嫌われる自由も受け入れる
さてここまで嫌いな人ということでいろいろ話してきたわけなんですけど、
最後の最後にちょっと嫌なこと考えてみたいと思います。
まだ考えるんか言うて。
僕自身も誰かに嫌われてるかもしれへんよねっていう話。
当たり前よ。そんな当たり前よ。
だって全員に好かれるなんて無理やもん。
僕の話し方が苦手な人もおるやろうし、
冗談が合わへんってやつもおるやろうし、
こいつピーチクパーチクでうるさいなーと思ってるやつもおるでしょう。
声がでかいとかよく言われますよ。
声に関してはねもうどうしようもないんですよごめんね。
でもねその人たちから見た僕はどんな人なんでしょうかっていう話。
なんか苦手やねんなあの人ぐらいやったらまだいいんでしょう。
でももしその人が僕のことを嫌う理由を一生懸命探し始めたら、
もうねそれはね僕が何かを言うたびに、
ほらこいつのこういうとこ嫌いやねんって思われるんです。
僕が冗談を言うたら無神経やとか不謹慎とか言われるんですよ。
ちょっと黙ったら不手子とか不機嫌やとか言われるんですよ。
親切にしたらまたいい人ぶってるとか言われるんですよ。
もうどないさんええのってしんどいわー言うて。
何しても悪く見られるんやもん。
でも僕勝手嫌いな相手に対して似たようなことしてると思うんですよ。
そう思った時にちょっと怖くなるんです。
自分ではそんな悪い人間のつもりはない。
でも誰かの物語の中ではとんでもない悪者になってるかもしれへん。
それってこっちからはどうすることもできへん部分がありますよね。
だって人が自分をどう感じてるかなんて、
僕自身で完全にコントロールすることできないんですよ。
これ結構怖いことやと思いませんか?
自分が嫌いな人を悪者にするのは簡単やのに、
自分が誰かから悪者にされるのはたまったもんちゃうと思ってるんですよ。
勝ってよね。自分勝ってよね。ほんまにね。
ここまで考えてみて僕は一つ気づいたことがあります。
僕が誰かを嫌いになるとき、その人を悪者にしたくなるのは、
もしかしたら自分が悪者になりたくないからなんかも知れません。
理由もなく他人のことを嫌うなんて心が狭い。
あんな良い人のことを嫌うなんてお前の性格は悪い。
そんな風に思われたくない。
だから相手に悪いところがちゃんとあってほしいと思ってしまう。
僕が嫌うのにはちゃんとしたこういう理由があるんですって証明したくなる。
でもそもそも好き嫌いって誰かに許可をもらったりとか
認めてもらう必要があるものなんでしょうかっていうところ。
それは好きな人がおってもいいし、反対に苦手な人がおってもいい。
距離を取りたいと思う相手がおってもいいし、
そこには必ずしも善悪の判定っていうのは必要ないと思うんですよ。
ただ嫌いやからと言って相手を傷つけていいわけじゃないです。
そこはもう全くもって別の話なんです。
ここまで言うとなんとなくいい感じにまとまってきた気もするんですけど、
実はまだひとつ引っかかってることがあるんですよ。
自分には人を嫌う自由があります。
それはわかるんです。
でもそうやとしたら他の人にも僕を嫌う自由があるんですよ。
これはなかなか受け入れがたいんですよね。
だって僕別にそんな悪いことしてへんのにって思うじゃないですか。
でもそれって相手には関係のないことなんかもしれないですよね。
僕がどんだけ頑張ったとしても、どんだけ親切にしたとしても、
どんだけ相手のことを思って考えてたとしても、会わへん人とは会わへんのです。
その人に嫌われたからと言うて必ずしも僕が悪いわけでもないんです。
そんな風に考えられたら少し楽になるんでしょうか。
それとも逆にもっと寂しくなるんでしょうか。
僕にはまだよくわからないです。
ただ誰かに嫌われたからと言うて自分の全部を否定されたと思わなくてもいいと思います。
嫌いと苦手を区別する
そして自分が誰かのことを嫌いやからと言うてその人の全部を否定しなくてもいい。
それくらいの距離感で他人と関わっていけたらいいなと思うんですよ。
実際に嫌なことをされたらめちゃくちゃ腹立つんですけどね。
そこはそんなに悟った人間でもないんで腹立つんですよ。
でもせめて誰かを嫌いになったとき、
あいつマジで嫌な奴って言う前に一回だけ考えてみたい。
僕はこの人に何をされたんやろうと。
それともただこの人が苦手なだけなんちゃうかと。
この2つをちゃんと区別できる人でいたいと思います。
そしていつか誰かにあなたのことなんか苦手なんですよねって言われたら、
まあ傷つくでしょうね。
でもできれば傷ついたとしても、
そうなんや。
残念ですけどしゃあないですねって言えるようになりたい。
多分聞いてる人の大半が無理でしょうねって思ってると思います。
僕ももう無理かなって思う。
多分言われたら帰ってからもうめちゃくちゃへこんでると思います。
激へこみ。
でもそれでいいんですよ多分。
人を嫌う自由と人から嫌われる自由。
その両方を受け入れるって多分そんな簡単なことちゃうんです。
さて皆さんはどう思いますか。
嫌いな人を嫌いなままにしておくことってできますか。
それともその人を嫌う理由がないとなんか落ち着かへんでしょうか。
僕もまだまだ考えてみたいと思います。
だってこの番組は未定で結構ですから。
じゃあまた。
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