1. 私と私のひとりごと。
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2025-11-29 25:23

話を聞いて欲しがる娘、話を聞いて貰えなかった私 #147

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#子育て #情操教育 #愛情 #親子 #小学生 #娘 #女の子 #会話 #対話
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サマリー

エピソードでは、子供とのコミュニケーションの重要性や自己の無価値感に気づく過程が語られています。特に、娘との会話を通じて、自身の感情や気持ちに向き合い、対話の意味を再評価する様子が描かれています。このエピソードは、親子間のコミュニケーションと感情の共有に焦点を当てています。母親が娘との対話を通じて自己の感情を見つめ直し、成長を促す様子が伺えます。また、娘の感情表現や成長が母親にとっての癒しとなる過程についても触れられています。娘と共に内面に関する会話が重要視され、自分自身の感情や価値観を共有する意義が語られています。親子の対話を通じて、無価値感が癒される過程も描かれています。

子供とのコミュニケーション
私と私のひとりごと。こんにちは、misaです。今回は、話を聞いて欲しがる娘、話を聞いて貰えなかった私っていうタイトルでお話ししていきたいと思います。
このラジオでは、願いを切る過程や、自己一致するためのヒントをお届けしております。
本日は11月の10日月曜日でございます。よろしくお付き合いください。
というのもですね、昨日から息子が発熱し始めました。おそらくインフルじゃないかなと思ってるんですが、
ちょっとまだ病院連れて行くにはぐったりしているのと、ちょっと仕事の時間の配分でうまくいくかず、
今日は連れて行けなかったんですが、明日行こうと思っておりますが、
それにより息子がダウンしてるから、娘ちゃんとずっと2人っきりというか、2人の時間がすごい長く取れて、
娘ちゃんがいっぱい、最近話はまだできてないから、いっぱい聞いて欲しいんだって聞いて、話したい話したいって言っててさ、
そうだなと思って、話す時間が取れてないということはないんだけど、
なんかこう満足する会話はできてないだろうなぁとは思っていたので、会話はあるけど対話がないって感じか、
なんかこう、なんかさ、あるじゃない、朝会さ、長い時間喋ってたらさ、ずっと天気の話とかしてたらさ、喋った感ないというか、
そうじゃなくて娘ちゃんが満足いく、なんかいっぱい聞いてもらえたなーとか、受け止めてもらえたなーとか、寄り添ってもらえたなーってなって、
気持ちが落ち着くような、私は対話と呼んでますが、そういう時間は確かに全然最近取れてなくて、
一緒に出かけたりとかしてたんだけど、出かけるとさ、逆にさ、外の意識が向いちゃうから、外側の話しかしないので、
逆に良くなかったかーとか思って、なので一緒にお風呂入ろうねーとか、一緒に寝よう、息子が陰風っぽいから隔離しなきゃいけないから一緒に寝ようねーって言って、
娘ちゃんとじっくり話す時間があったんですけど、昨日の夜。
無価値感との向き合い
なんかそれで思ったのよ、なんか話、いっぱい話したいとか話聞いてほしいから、ママとの時間が欲しいんだよねって、
もうすでに確保してる状態で言ってるんだけど、気づいてたから確保はしてるんだけど、
なんかそれをさ、素直に言えてることが、なんかなんと素晴らしいことかーと思ってさ、
というのも、なんか、いつもなんか娘ちゃん見ると自分の幼少期とね、なんか投影するんだけど、
いい意味でね、なんか、私そんなこと言えたこと一度もなかったなーと思って、
お母さん私の話聞いてほしいなんて、なんか怖くて言えなかったねーとか思ってさ、
でも聞いてくれる前提があるから、彼女は、娘はね、見えるんだろうし、
私も私で、なんかこういう会話じゃないんだろうなってわかってるから、
なんか、表面的にさ、会話する時間がない、お話を聞いてほしいって話しいなーとか言われてきたけどさ、
私は多分、私が言ったら、ほな話せばいいや、みたいな、そういうことじゃないじゃんねーとかが、
わかってる状態で、言えば多分伝わるだろうって思ってるところとかもさ、
なんか、いや良かったなーと思って、思っている、思っている。
ここまで、なんか今その結果だけ見て、あー良かったなーって思ってるけど、
割と道のりは長かったように思っていて、なんせ自分はさ、わかんないわけだから、
やってもらったことないから、でもこうして欲しかったなーがたくさんあるので、
少しずつ、そのしてもらいたかったことを周りにしていくっていうスタイルを私は取って、
コミュニケーションスタイルを確立させてきたんですが、
そうなる中で、なんか上手くなっていくけど、やっぱ満たされない自分みたいなのはずっと残っていたんですよね。
なんか、話聞いて欲しかったから、いろんな人の話聞いてあげようって思ってやってきたけど、
でもずっと私は話聞いて欲しいわけだから、みんなが満たされていくのを見て、
私はすごい消費されているように感じてきていて、なんかいいなーみたいな、ずるいみたいな、
私だって私にこんな風に話聞いて欲しいなーって、自分がして欲しいことを他人にするっていうのは、
自分が満たされていない状態でやっちゃうと激悪になっちゃうんだよね。
ずっこい欠乏感が、どんどん穴が開いていく感じというか、
なんかしてあげたくてしてるはずなのに、自分がどんどん削られていく感じ、消費されていく感じがあって、
なんかどんどんどんどん病になっちゃうのよね、それはそれで。
っていうのがあって、これじゃいかんなーみたいな。
で、なんかそれが結構底をつきそうになってきた時に、
なんか自分って本当は何がしたいのかなーみたいな、
自分の本当に、なんか行動原理みたいなものって何なのかなーって考えて探していたところで、
なんか、私の場合は無価値感を隠していたんですけど、自分にね、
自分は価値がないとずっと思って生きてきたから、
親ですらさ、話聞いてくれたわけだから、
誰も私に興味なんか持つわけないじゃんって思うじゃない。
自分の親が私に関心がまるで、マジでないなっていうのがよくわかっている状態でさ、
じゃあ他人なら私のこと見てくれるかもなんてどうでも思えなくて、
っていう状態から、でもそんなんで生きていくのはちょっと寒すぎて死んじゃうから、
それを隠して、自分にね、自分で自分の無価値感に気づいていることを隠して、
じゃあなんか誰かの役に立てば、その価値のある自分になれるかもみたいな、
価値のある自分になるっていうか、価値提供していれば大丈夫かなって、
居場所がもらえるかなって思ったのかな、みたいな感じでやってきたことだったんだなって気づいた時に、
なんか不思議とその今の感じだとさ、どんどん削られてなくなっていきそうなもんなんだけど、
自分のなんか提供しまくってる感じだったけど、それがね、すごい変わったんですよね。
なんかどっかのエピソードでも喋ってたけど、まずはすごいショックだったんですよ。
まずはめちゃめちゃショックだった。
あ、私自分に価値がないってずっと思って生きてきたんだみたいなのは、もうスーパーハイパーショックでびっくりしたんだけど、
まさか結構自己愛強めだったから、なんか頑張ってきたからだけど、
私はすげー頑張ってきたなと思って、私はすごい奴だなと思っていたし、
私はいい奴だなと思ってきたけど、
それってなんか自分の無価値感をラップして隠すためのハリボテみたいなもので、
それって本質的に私ではなかったのか?みたいに思うと、
なんか自分がバラバラになるような感覚があって、
え、じゃあ私って何なの?みたいな、
え、じゃあ私が今までしてきたことって、今まで良かれと思ってやってきたこと、
愛が起点だと思っていたことって、
愛じゃなくて無価値感を隠すためのポジティブな与えるっていう、本当にそういうものではなくて、
見返りを求めるような行動だったの?ってなったらマジでショックだったんだけどさ。
バラバラになるみたいな3日間を過ごしたんだけど、やばかったんだけど、
そうはいえ、なんかこのままバラバラになってたまるかという気持ちもあったので、
なんか待て待てみたいな、ちょっと他の視点はないのかと思って、
こう人事をガーって切り替えるような行動を色々してみて、
行動っていうのは思考ですけどね、色々考えてみたところ、
なんかこう、キーワードは私的には愛だったんだけど、
その愛でやってると思っていたこと、
みんなのためにと思っているのは愛だと思ってたんだけど、
自分のその無価値観を誤魔化すため、
そこに言い訳するためにやってることだったのか?ってなってショックだったから、
私の愛って何なのかな?みたいに考えたら、
新たな自己の確立
結局全ての行動原理はいた置いといて、
でもやってることって結局いいことしてるわけですから、
非常に意地らしいなと思って、
なんか自分がさ寂しくて、
自分のことを見てる人が誰もいないなっていう中で、
なんとか生き延びようと思って、
そこでさ、なんかグレたりする可能性が高そうじゃないですか、
グレるほど期待が持てなかっただけなんだけど、実際のところは。
グレて本当に自分の居場所に殴らせたらやばいなと思って、
その生命の危機なわけだから、
親が関心を持ってないっていうのは命が怪しいわけだから、
その状態でグレて親がもっとがっかりしたら、
本当に生命維持が怪しいぞっていう生存の危機だったわけだから、
グレられなかったってだけなんだけど、
実際はグレずに、
良い人たれと自分で思ったわけよね。
自分をもっと良い自分に、
昨日より今日、今日より明日、
いい自分になっていくことで、
価値提供できるんじゃないか、
自分の存在っていうのを自分で守れるようになるんじゃないか、
みたいに思って、
そこってすげー意地らしくねーみたいな、
めっちゃ意地らしいじゃんって思った時に、
合同原理は恥ずかしい合同原理だなと思ったが、
やってること自体は全然何も間違ってないっていうか、
結局誰かのために困ってる人を助けるとか、
話聞いてほしそうで、
寂しい気持ちがわかるから、
じゃあ私が聞いてあげるね、
私練習してきたし、
上手くなってきたから、
あなたよりも私の方が余裕があるから、
やってあげるねってやってきた、
その行動自体はめっちゃ愛じゃんって思い直して、
なんかここで、
無価値観を隠している、
中身が空洞な自分みたいなところにショックを受けてたんだけど、
いや別に空洞ってわけでもねーかってなって、
ここでアイデンティティがバチとはまったんだよね多分。
結局私の行動は何も変わらなかったんですよね。
無価値観を隠していた自分でも、
無価値観を認識した自分でも、
結局人に優しくしていくこととか、
誰かに何か提供していくっていうスタイルは何も変わらなくて、
結局全然性格も何も変わらなくて、
ただなんかこう楽になったというか、
自分で自分に何かずっと隠さなきゃいけないってなかなかしんどかったから、
そういうのしなくなって、
余計なリソースを置かなくなって、
めっちゃ楽になったけど、
別に性格変わんないし、
やることも変わんないってなった時にさ、
なんかすごいホッとして、
ここからやること、
誰かに何かしてあげることは、
消耗戦じゃなくなったのよ。
別に消費しなくなった。
しんどかったらやめれるようになった。
無価値観を隠さなくてよくなったから、
誰かのために何かしてないと、
自分が保てないかもみたいに思う。
それは無意識ですけどね。
思ってると、
どこまでやればいいかってゴールが見えないけど、
そこらへんがクリアになったら、
ゴールは疲れない範囲で、
みたいな選挙が結構できるようになったから、
そうなると優先順位決めて、
一番は子供たちですよね。
一番は自分?どうだろう。
他人で言うとやっぱり一番は子供たちで、
親族との関係性
あとは子供の役に立つ元旦那が次に来るんですよね。
で、親族、親族怪しいな、親族怪しい。
会社の人とか、
一番私が近くにいて支えてもらっている人たち。
自分が貢献したいなと思っている組織とか、
自分が愛している順になっていくんですけど、
大事に思っている順が。
とかってなってきたら、
明確に選挙ができてきて、
疲れなくなってきたんですけど、
そうすると今までは誰かの話を聞くことが
すごい消費されている感があったけど、
全然そういうのなくて、
は?ってなったら終わらせるし、
こっちも終わらせるし、
子供たち、特に娘ちゃんなんかは、
コミュニケーションで愛情を確認できるタイプで、
同じようなプロトコルを持っているから楽ですし、
最優先してあげなきゃなって思うと、
おままに話を聞いてほしいって言われたときに、
何も反応もなく、
あ、オッケオッケ、あれね、みたいな感じになってさ、
改めて、ここら辺の呪いをうまく解いていなければ、
すごい腹立ったと思うんだよね、これ言われたときに。
え、わかるかな?伝わりますか?
伝わんないかもしれないけど、
多分、嫉妬に似た感情というか、
異常な怒りがきっと噴出したと思うんだよな、
呪い解いていなかったら。
そんな気軽に、
私だって忙しいんだから話聞いて聞いてなんて、
言うんじゃないよ、みたいな感じになったんじゃないかな。
自分も話聞いてもらいたいくせに、
他人の話を聞いて消費されている状態だったら、
娘ちゃんの純粋な、私、
おままに話聞いてもらいたいという気持ち、
発言が、すごい反応したと思うんだよね。
そこへの反応がなくなってて、
おーおーって、そうだよねってなって、
浅い会話じゃなくて、
なんかこう、
共感をベースにした寄り添うような何かが、
欲しい、最近足りてないですっていうアピールなんだね。
むしろそのアピールありがとねぐらいの感じよね。
足りなくなったら私みたいになっちゃうわけだから、
ちゃんとちょっと減ってきましたっていうのをさ、
アラートあげてくれてるわけだから、むしろありがとねっていう感じよね。
って思えたのは、
なんか本当に良かったなーと思って、
なんかこのために頑張ってるよね、
自分の自己利害だったり、呪いを解いていくようなことっていうのは、
本当にね、このためなのよ。
自分が呪われてると、
子供たちに呪いを移していっちゃうから、
それだけはマジで避けたい。
だって自分が超苦しんできたから、
娘とのコミュニケーション
なんでこんなに生きづらいのか、
なんでこんなにしんどいのか、
なんでこんな寒いんだろうって、
ずっと孤独みたいなのが張り付いていたけど、
もう子供には絶対そんな思いをさせたくないと思ってるから、
じゃあどうすれば、
そうじゃない子供たちに、
こういう思いをさせずに済むのかなって思った時に、
まあ私みたいになんか自力で何とかするっていうスタイルでも、
まあいいかもしれませんが、
自分的には自分が加害者になることが耐えられないんだよね。
もう耐えられないよね。
自分がわかってるくせに、
自分がされてきて、
それが痛いってことがわかるくせに、
それをもう一回やっちゃうというのは、
なんかちょっと耐えられなかったので、
まずは自分でできる限り解いて、
彼らにもきっと別のところで痛みがいっぱいあると思うけど、
それに耐えられるような構造を育てたいなってすげえ思ってて、
そうそう、本当にそう。
娘ちゃん、ちょっと話どんどん詰めていったんでしたけど、
その中の娘が話してた内容でさ、
何の話しようかなって言ったから、
楽しい話するって言って楽しい話してたけど、
楽しい話は割とすぐ尽きてしまったので、
いっぱい喋ってるからさ、言うても。
もうちょっと深い話した方がいいんじゃないかなって思ったから、
逆に困ってることとか、苦しいこととか、
あんまり言われて、あんまり意識してないけど、
普段意識してないけど、実はちょっと困ってるみたいな話してみたらどうだいって言ったら、
ちょっと苦手な先生が実はいてねーみたいな話をしてきて、
そこからいろいろ言ってたんだけど、
なんかね、話し方的に、
あの先生はダメだっていう言い方は絶対しないよね、娘さんは。
その先生がいいとか悪いとかじゃなくて、
なんか言い方がちょっと怖いんだよねとか、
その言い方も、言い方が悪いっていう言い方をせずに、
先生のお話の仕方が私にとってはちょっと怖く感じるみたいな言い方をするのよ。
すごくない?好きなの?
なんか私の上位互換だなって思うんだけど、
その人のアイデンティティとその人の振る舞いっていうのを分離して捉えてるんですよね。
とか、いやすごいねあなたはみたいなところを話したんだけど、
なんかこう、こういうその人事の仕方みたいなのは絶対私を継承してるんだと思うんだけど、
これがあると、なんか怒られたり、なんか嫌な人が現れてもさ、
その人を否定しなくて済むんだよね。
その行動が合わないってなると、戦役しやすくなるし、
なんかこう、それ故になんか難しい、判断難しくなるときも私はあったけど、
私はあったけど、なんかこの人を嫌いだと言い切れない辛さみたいなのが私にはあったが、
でも、まあ私伴奏していけるから、そしたら多分大丈夫でしょうと思っていて、
なんかこういうこう、なんか、なんだろうな、愛情を与えるみたいなところもそうだけど、
知性の面だったり、認知のね、認知する、メタ認知の力みたいなのって結局いるなと思ってるので、
なんかあったときにさ、自分でその問題を捉え直す力、よく見る力とか、
改善策をひねり出していくとか、どういう状況なんだろうって、
まず分析できる力って超大事じゃね?と思ってるから、
これはなんか子育てだけじゃなくて、教育の仕事もしてますが、
なんか一貫してその思考力を鍛えましょうみたいな、
メタ認知していきましょうっていうのって、
ずっと、なんだろう、教育のコンセプトとして持ってるんですけどね、
そこをしっかりやってるように見えると、めっちゃ評価するし、
そこ弱いなって思うと、ちょっと鍛えられそうならね、
鍛えていきましょうね、みたいなディレクションしていくところがあるんですけど、
母の成長
大事にしているところですね。
娘ちゃんはまだ小学校2年生ですけども、非常に強いから、
本当に大人の中に入れても負けないんじゃないっていうぐらい、
めっちゃすごいなと思うので、期待してますが、
そういう彼女の成長を見て、
なんかどこでも話したけど、なんか自分が、
もう一軸のような気がしてるんだよな。
私が正しく育っててもらえるというか、
欲しかった愛情とか、教えて欲しかったことを、
私は娘に教えてるんだけど、
与えて欲しかった愛情を娘には与えてるつもりなんだけど、
それを受けて、娘ちゃんが健やかに育っていくのを見ると、
なんか私にもこういう未来があったのかもしれないなって思うと、
なんかすごい良かったなって思って、
すごく満たされるんですよね。
娘の人生で自分の夢を叶えていくみたいなのは、
とはちょっと違うと思うんだけど、
多分違うと思うんだけど、
なんかやってきて良かったなみたいな、
娘が幸せそうにしている、問題なくトラブルなく、
みんなのことが大好きだと言えて、
ほんとちょっとしたことも楽しめるので、
そうやってなんか自分で能動的に生きてるように見えるんですよね。
なんか与えられた楽しみを消費しているようには見えてなくて、
なんか今ある小学校の環境とか、
友達の環境、その人たちのパーソナリティがあって、
それをもってすごく能動的に良いところを探したり、
楽しめるところを探して、
とっても子供らしく、
なんかちょっとしたことを面白がって、
これが面白かった、あれが楽しかった、
喧嘩しても、
なんかその相手の子が悪い子だとか、
嫌な子だとは言わずにさ、
多分こういう理由であの娘ちゃんは怒っちゃったんじゃないかなと思うんだよね。
ちょっと引きで見てさ、
上手に捉え直して、
間に挟まってみたり、でも子供らしく自分は嫌だなとか言って、
こんなこと言っていいのかなって悩んでみたりとかしてさ、
すごい順調に人生やっていってるなみたいな感じが見てて、
なんかすごい面白いよね。
ありがとうって気持ちになるね。なんか救われるね。
そうそう、救われるね。
それはやってきてすごい良かったなっていう気がめっちゃするね。
なんか不思議な感じですが、
なんか、
娘ちゃん見て、
あの時の自分がすごい消化されていくような思いもあるんだけど、
今大人の私として、
そんな娘ちゃんと話してて、
また別軸で癒されることがあるんですよ。
今のはちっちゃい時の私と、
ちっちゃい娘ちゃんっていう感じで、
対比させて消化させてるんだけど、
今の大人の私と自分の娘と喋ってて、
なんていうかな、
癒される時があるんだよね。
娘さんはママがしてくれて嬉しかったことはそのまま返すのよね。
これもみんなそうなのかなと思うけど、
子供ってそんなもんなのかもしれないけど、
たまにお喋りしたいって言って、
ママに話聞いてほしいって言うけど、
ある程度喋って満足してきたら、
ママは最近どうだった?とか言ってくれるのよ。
えーどうだったかなーとか言って、
一応考えるんだけど、
この感じもさ、
そうだし、ママ可愛いとか言ってくれるんだけど、
私が娘ちゃんに可愛い可愛いって言って嬉しいから、
とりあえずこれ言うとこんなに嬉しいっていうのを学んで、
私に言ってみるんだろうけど、
それがすごい上手くはまることがあるんですよね。
この間もずっともやーっとした週末を過ごしてたんですけど、
娘ちゃんがその流れで、
ママは最近どうだった?
ちょっと悩んでるとかちょっと苦しいことある?って言って、
さっき私が言ったそのまま言ってくれたんだけど、
普通にないけどなーって言いながら、
そういえばなんかもやってるなーと思ってちょっと考えたら、
思いつくものがいくつかあって、
そういえばこれでちょっと最近もやってるのかもしれないわーみたいな。
私そこ別に壁いらないから、
自分の中で整理できて、
内面の共有
これはあんまり考える必要がないのに、
処理してないから放置されてもやってただけだったから、
今意識感に挙げられてすごい助かったなーって思って、
それを娘ちゃんにそのままフィードバックして、
今そうやって聞いてくれたから、
今私放置してたぼんやりした問題、
今言語化できたから、
これについては考えても仕方ないことだから、
どうでもいいって処理できるようになったから、
聞いてくれてありがとう、すごいよかった、今助かったわー、
ニコニコーってして嬉しそうに貢献できたー、
みたいな感じで嬉しいのね。
そういうのもそうだし、
いつもあなたは私がしたこととか、
他の人にしてもらったことで嬉しかったら、
誰かにしてあげてんだよね、みたいなこと言ったら、
ご飯の時とかにも、
最近今日はどう過ごしてた?みたいに聞いたりするんだけど、
それが嬉しいから、私もママに聞いてるんだよって言われた時にさ、
それ私もそうだんだよなーと思って、
私もそう聞いてほしかったんですよね。
今日何があった?っていう出来事ベースじゃなくて、
今日はどんな風に感じてた?どんな風に過ごしていた?って、
内面について聞いてほしかったのよ。
出来事の話ってその会話になっちゃうから、表面的な、
今日何何した?とか、何々ちゃんがこんなこと言ってた?とか、
先生がこうだった?とか、そういう話って、
その辺で終わっちゃうっていうか、情報量少ないから、
でもそれに対してどう思ったの?とか、どんな風に感じた?って話は、
結構価値観に触れてくるから、対話になりやすいじゃないですか。
結局そういうこう、
しっかりこう、内面を共有していくことが、
私はなんか手応えある会話だと思っているので、
そういうのしてほしかったんですけど、
うちの親は全然そういうのできないから、
できないのかな?自分は喋ってるんだけど、
向こうは喋るけど、私にどう思ってるの?とか、
どう感じてる?っていう話はちょっと聞く人達じゃなかったから、
そういうのすごい寂しくて、
子育ての喜び
別に親に聞かれなくても他の人もよかったんだけど、
他の人もそんなの聞く人いなかったから、
そこは子供に問いかけていきたいなって思っていて、
それするとさ、自分のことそれこそメタ認知する訓練にもなるじゃないですか。
で、なんかどう感じてる?っていうのを出すことは、
全然悪いことじゃないし、
それについてみんなで考えることって、
いろいろこう、物事の良し悪しとかじゃなくて、
切り取り方っていっぱいあるんだなーみたいになるかなーみたいなのもあって、
なんとなくテーブルに出してもらって、
それについて、なるほどねーみたいな、
なんでそう思ったの?みたいな話したり、
あなただったらどう思う?とかいろいろ聞いてみたりする、
そこでも走りしてるんだけど、走りテーションして話聞いてるんですけど、
っていうのをずっとやってきて、
で、なんかしてほしかったことを娘にして、
で、娘はそれが嬉しかったから私にしてくれるって、
この循環がさ、なんかいいよね、いいよねでいいのかな、
ちょっともうちょっと語彙力ないのって感じがするけど、
たまーにね、ある子育ての手応えみたいなところだし、
なんともこう、
なんともこう、
変えのきかない大事な存在だなーって思うところですよね。
私も超癒されるんだよな。
娘ちゃんはなんか、ママいっぱい話聞いてくれたなーって思うと、
たぶん満たされると思うんだよね。
お母さんは私のことを大事に思ってくれてるっていうのが、
たぶん入るんじゃないかなと思うんですけど、
それを見て満足そうにしている娘を見ると、私もすごく満たされるんですよね。
私の存在が娘にとってすごくこう、
娘の気持ちを満たせる存在であるっていうのは、
さっき私なんか無価値感抱えちゃってるからさ、
その無価値感がちょっとずつちょっとずつ癒されていくんだよね。
なんか子育ての醍醐味ってこういうところな気がするよね。
その分さ、向き合うの痛みをすごい伴うと思うけど、
過去の自分の幼少期の自分から、
今の自分からめちゃめちゃ向き合う機会、
アホみたいに出てくるから苦しいってなるけど、私なんかは。
気にせず行く人は苦しくなるかもしれないけど、
そういうのはありますが、
たまにね、
その話を聞いてって言う娘ちゃんのと、
もうちょっとあるか、30分くらいお風呂で話してたんだけど、
の話ですが、いろいろ思うところあったよっていう話でした。
なんかちょっと結論が出てきたんですけど、
許してください。
そんな感じでした。
よかったら、感想、質問などなど、
概要欄にデータの方も置いておりますので、
お便りいただけると嬉しいです。
では、他のエピソードでもお会いいたしましょう。
じゃあまたねー。
25:23

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