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私と私のひとりごと。こんにちは、misa.です。今回は、愛とは、感情じゃなくて、覚悟と技術だよね、っていう話をしていきたいと思います。
このラジオでは、長い生きる過程や、自己意識するためのヒントをお届けしております。本日は2月7日土曜日です。よろしくお伝えください。
というのも、私、結構前ですかね、子供が生まれたぐらいから、子供が離婚するやせんやぐらいまでですかね、特に濃厚にずっとこう引っかかってた問いが私の中にあったので、
自分の中に愛はあるのか、みたいなめちゃくちゃ不安だったんですよ。
言い換えると、私はちゃんとお母さんとしてやれてんのかな、みたいな感じだったかな、当時の恋でいうと。
この子たちをちゃんと愛せてるっていうのが、なんか全然自信がなくて、なんかとんでもなく不安で、この不安もしかしたらあんま気にしない人もいるのかなって気もするんですけど、
いや、こんなもんっしょとかって気にならない人もいたのかもしれないけど、私の中ではものすごい大事なテーマだったんですよ、ずっとね。
けど、今振り返った時に、ふと、なんかあれ、ここなんか疑問ってそのうちなくなってって、今結構しっくりきているなっていうところに気づいたので、
今ある愛の定義だったり、当時どういうところに不安抱いてたのかな、みたいなところをちょっと言語化していきたいなと思っています。
はい、で、昔はその当時は多分、愛っていうのがあるとかないとかで測るとおそらく思っていたのね。
愛っていう単語の定義がまず結構曖昧だったんだと思うんですけど、なんかこう浮いてくる感情、その赤ちゃん見てさ、かわいいなーとか愛しいなー、私がこの子を守らなきゃみたいな、なんかそんなんだと思ってたんですよ、おそらく。
当時、その後私離婚していくんですけど、それどころじゃないのよ、なんかかわいいなーとか言ってる余裕がないというか、髪振り乱してさ、育児してるわけだから、なんかそんな余裕があんまりなくて、もうなんかしんどいなーみたいなのが多分ベースにあったから、
こんなので大丈夫なのかなーみたいな、私ちゃんと子供に対する一般的な母性みたいな、母親としての愛情みたいなのが、もともとちょっとドライなところもあったので、なんかドライかもな、私みたいなのもあったから、なんかすごい欠損してるんじゃないかな、
ちょっと待ってね、愛が欠けているんじゃないかっていうのはね、私自身の欠損というのは割と折り合いはつけてたんですけど、なんかみんなみたいに、なんかあんまりその赤ちゃんかわいいみたいなのとか、子供がもうかわいくて自分より大事でみたいな、なんかこみっとしてる人たちとはちょっとちゃうなーみたいなのは感じてたから、そんなもんかな、なんか違う人種なのかな、みたいな割り切りはありつつも、
でもなんかこのまま子育てしていくことって、なんか子供にとって超毒なんじゃないかなっていう不安もあって、多分これがトリガーで議題に上がってきた感じで、それまでもさ、あんまり愛情薄い人間だなと思いながら生きてきてるわけだけど、そんなにでかいとにしなかったのは、なんか子供っていうのと母親の絶対性みたいなのをわかっていたがゆえに、これは問題かも、これで大丈夫かな、みたいな感じでちょっと不安になってくるんですね。
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そこでなんか疑問抱いてる時点でまあまあ愛情あるじゃんって気もするんですけど、当時はそういうのはわからなかったですね。
なんか多分でかく、この問いに答えを出していかなきゃなみたいな、ヒントにしたのはエイリッヒフロムの愛するということって本が、名著かな、皆さんご存知かもしれないと思うんですけど、そこのいろんなヒントが超あるんですけど、一番ぶっ刺さってたのが、愛は自動的な感情ではなく、自ら能動的に働きかける技術って書いてたんですよ。
技術と思って、なんかその、そうなの私ってその技術力不足なのねって思ったらさ、またこういう技術追いかけるタイプの人間だったっていうので、私がその技術不足なせいで子供たちに対してうまく愛情を向けられていないのかっていう、なんか私の問題なのねみたいな感じで結構ロックしたところもあって、なんかどうしたらいいのかなみたいなのがずっとありましたね。
結構長らく何年も不安に思っていたように感じます。でも結局ここ私あんまり、なんかがっつり向き合うことはせずに、ほっといたんですよ。結局ほっとくことね。分かんなかったかな。どうやったらその技術が磨けるのか教えてくる人もいなかったし、なんかあんまりこの鍛え方とかも分からなかったかな。
これすればこう結果出ますとかあったら分かりやすかったけど、そういうのはなかったので、分からんな不安だなみたいなところで、離婚の頼んだとか仕事とかもしなきゃいけなかったかな、そっちの問題が目の前にあったので、それに取り組むっていう感じだったんですけど、だいぶ経って今振り返ったときに、なんかこれは、今私この疑問はないので全くなくなってるんですけど、このエイリフィフロムの愛とはその受動的じゃなくて技術だぜっていうのも、そういうことかっていうのがちょっと分かってきたから、この辺の話をしていきたいんですね。
その転換期になったのかなっていうのが、その愛ってなんかぼんやり湧いてくるものだと思っていたけど、当時忙しかったから、それどころじゃなかったから、湧いてこないんだけど大丈夫って思ってたんですね。
その定義が多分変わったんだろうなっていうのがめっちゃシンプルに思っています。
今、愛って何だいって言われたときに、私は人との関係性とか人とのつながりのことであると言い換えるのが結構しっくりきています。
愛っていうのは人間関係のことの象徴なんだろうなというふうに思っている。
当時その辺がよく分かんなかったから、好きって言葉と愛っていうのが結構ごっちゃになっていたんですけど、これも全然違うと思っている。
人間関係のスタンスを愛という箱に入れているんですけど、好きじゃない人との関わり方もあれば嫌いな人との関わり方もあるから、それも全部ひっくるめて多分愛なんだろうなっていうふうに解釈しているんですが、
でもちょっともっと落として解像度を上げていくと、好きでもない人とか興味ない人に対していかに愛するかっていう技術とか言ってたからさ、いかにどうやって愛していくかとかじゃなくて、
ちゃんとそこは境界線引いて大切な人を大切にしていくことっていうのが、私にとっては愛、つまり人間との関わりにおける定義、スタンスってところで結構しっくりきました。
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私はどんな人とどう関わるのかっていう定義が愛であり、その定義を実行するのが技術ってことなんだなって解釈した。
こういう人と私は関わりたい、こういう人とは関わらないっていう定義がまず必要、愛という箱の中には必要だし、こいつとは付き合うがこいつとは付き合わないって決めたんだら、それをうまいこと実行していくこと。
嫌いな人なのにちょっと遊ぼう遊ぼうとか、何かしよう何かしよう、あれしてこれしてって言われて、すみませんわかりましたやります、やだなとか言ってると、これは私は技術不足だと思うんですよ。
エイリヒフロムの言う、自ら能動的に働きかける技術っていうのはこれのことだなと思って、人間関係スキルの話をしてるんだなってところでめっちゃ不倫を落としてるんですよ。
このこいつとは付き合う、こいつとは付き合わないって決める、これはまず正しく正義しなきゃいけなくて、毒親とかあなたにとって毒な人たちを大事にする人って入れてると間違ってると私は思うのね。
それは各人が決めたらいいんだけど間違ってると私は思っていて、それを正しく定義するのにまずもう一丁技術がいるじゃない。
そこに自己肯定感とか自己効力感みたいな土台がまず最低限というかいると思うんですね。
適切な人間である、全然私にとって適切じゃねえ人間関係だなっていうのをちゃんと先引きするっていうのはまずそう。
自分に土台がいるし、この土台をまず私の場合めちゃめちゃ削れてたからここを回復させるっていうのもこれも技術が必要でしたし、ちゃんとまず土台を作ると。
で、この人は私にとって大事なんだ、この人は大事じゃねえんだって分かった後にこれを実行していくのがまた技術が超いるじゃんと思っていて、
この人なんか私を消費しないな、侵食してこないな、ちゃんと私のことを尊重した上で関係を作るっていうリテラシーがあるのみたいな人たちをつないでいくのはそんなに難しくはないんだが、
リテラシーない側、めちゃくちゃテイカーな人たちとか言いましょうか、私から何かを奪いたい人たちなんだなってやつらにやんわりNOを言っていく、激しくNO言ってもいいんだけど激しく言うとトラブったりとかして余計消耗したりするから、
なんかおかしいなみたいな感じを向こうに抱かせる程度に断るみたいなのを私は結構鍛えたんですけど、この辺が超技術だしそしてこれはめっちゃ訓練だったなって思っていて、
今振り返ると当時よく分からなかったんですけど、エイリー・ヒューフロムの愛とは技術ですっていうのが。
なんならともすると私は興味ない人とか毒である人に対していかにその人たちを愛せるかみたいなことが技術なんかなってめっちゃ誤認してたんですよ。
これ怖くない?って本ちゃんと読んだらもしかしたら返せるかもしれないけど、当時私は大事なとこしか読めない、私だけじゃないと思うけどみんなそう思うけど、これが大事だと思ってるとこしか読んでないから、
なんかすげー誤認していて、今振り返るととんでもない間違いして、どうしたらいいんだろうみたいなことを言っていたなって思いますね。
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それでいくとさ、子供なんて超内側だしめちゃくちゃ大事だし、その技術もクソもないので、子供たちが私に侵食してこないから思う存分可愛がればいいのよね。
子供と絵の関わりっていうのが私にとっては一番愛に近いというか、分かりやすいものかなと思ってて、
なんか関わり方で言うとでも別に大したことはしてないんですよね。
ちょっと初め私はまあまあドライであるって表情してましたが、多分ちょっとドライ目なんですよ。
なんか子供の何してても可愛いみたいな人もいると、なんかいるのよ近くにママ友とかでも、もう子供が可愛くて可愛くて仕方ないんだろうなみたいな、世界の中心が子供なんだろうなみたいな人たちいるけど全然私はそうではないと思う。
まず自分の人生あって子供の人生って感じで切り分けているから、なんかそういう人たちにとると割とドライな方なのかなって思うけど、どう関わってるかっていうと、まず子供にはもう可愛いね可愛いねって伝えていく。
子供の話とか子供の世界に興味を持って話聞いていく。
なんかどんなことがあったのかなとか、その出来事だけじゃなくてどう感じていてどう解釈しているのかなとか、なんでそんな判断したんだいみたいな、その子供たちの価値観とかに、もともと好きっていうのもあって興味を持って話を聞いていったり、
たまにおやつ食べたり、ご飯だけじゃなくてちょっと悪いことをしてみたり、遊びを提案して一緒に生活するだけじゃなくてね、ちょっと遊びを一緒にしてみる楽しんでみるとか、そんなになんか激しいことはできないんですけど体力もあんまないので、
できることはたまには年一で旅行には連れて行くかとかも、子供が喜べばいいかなーみたいな感じで企画をするとか、でも私はその自分が疲れたり自分にマイナスに振るようなことはあんまり、なんだろう、子供のために自分の身を挺してみたいな判断は全くしないから、この辺がちょっとドライみな気がするんですけど、
とはいえ自分が削られない程度に子供の喜ぶ願いを叶えていくみたいな形を取っていったり、単純に子供との時間をなるべく取れるように、なんかもうそろそろちょっとね、親と遊びたくないみたいになってきましたんで、ちょっとあんまり工夫しないと時間を取ってもらえないんですけど、
ちょいちょいこう餌を釣りつつもちょっとずつ思い出ができるようなものを提案して考えていくとか、とはいえなんかこうやるべき、やったほうがいいんじゃねっていうところはちゃんと説明していくし、ダメなものはダメですと断言とした姿勢を示していく。
この辺の迷いますが、等身大を見せていくことが一番いい教育かなって個人的に思ってるから、なんか親である以前にただの人間なので、私なんてしょうもない生き物ですから、なんか間違えるし、その都度考えるし、ごめんこないだこう言ってたけど、やっぱそうじゃない方がいいかなってごめんけど方針転換させてもらうわ、こういう理由だみたいな話とかもありのまましていくし、
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でもそのなんか偉そうに言ってますけれども、しんどくて毎朝当たりしたりすることもありますし、でもその代わりその次ごめんって謝って、あの時はこういう理由でなんか疲れていて、なんか言われのない怒りをぶつけてしまいました、ごめんなさいみたいな、子供はいいよって言ってくれるもんね、優しいよね、私だったら許さないけどね。
とか、ありのままを見せていく、そう、ママはこれ以上でもこれ以下でもないですってありのままを見せていくことと、同時にあなたは世界の光であると、それを私は信じているっていうのをきっちり体現していくこと、この辺、結局この2つなんですけどね、私はこのまんまですっていうのを、あなたのお母さんは神ではないっていうのをそのまんま見せていくこと、間違えたり、私はこう思う、私にはこう見えてるが、それが真実かどうかはわからんみたいな話し方していくとか、
なんか、あなたはきっと幸せになるから、きっとすごい人になるから、それがなんかこう、すごいっていうのは出世とかじゃなくて、なんかきっとこう、あなたと話して、あなたと出会った人たちがみんな幸せになっていくとママは思うんだよね、みたいな、まじで、まあこれは本当に思ってるんですけど、すごい子たちだと思っているから、なんかちょっとしたことの失敗に一喜一憂っていうよりは、まあそれも旅の途中だよね、みたいな感じで見ていると言いますか、
なんかまあこれは私が親にこういうふうに見守ってほしかったなっていうのもありますけどね、っていうふうになんか自分なりに子どもたちの存在を認めていくことを、なんかこう真摯に向き合っていくことが、まあ私は愛だと定義しているんですね、ここは結構しっくりきていますね、なんかパラパラっとしてますけどね、
そう、でも一方で、これ今の聞いて愛情深いママじゃんって思われたかもしれないし、なんか大人みたいに接するんだなって思われたかもしれないですけど、ちょっとわかんないですけど、子どもたちはまた小学生なんですけど、あんまりこう、あんまり関係ないね、その2歳だからとかの時にも、なんかあんまりこう赤ちゃんみたいに思ってなくて、この人はすごい人だなみたいなのが、2歳の娘さんとかにも私にないものを大変お持ちの方なので、いやすごいなーってリスペクト。
持っているし、そういうのを自分が潰さないようにみたいなのもめっちゃありますので、なんかこうそんな感じで一人の人として、ただただ、なんか子どもだから未熟だからっていうこともなんかあんまりないと思うんだよな、結構ハッとすること言ったりするし、知識がないだけだったり、なんか当てはめる概念がちょっと足りてないっていうその知識不足だけだから、
なんか言ってるコンセプトとかポイント観点とかって大人と別に変わんないと思ってるから、その辺はリスペクトあるかなと自分で思ってますけどね。
なんだけど、なんか一方で割と愛のない人に見えているのではないかなと思う部分も多分にありまして、なんか言われたくその目の面と向かってあなた愛ないですねって言われることはないんだけど、なんかそのなんていうかな繋がりとか関係性超重視している人ではないから、どうでもいい人はどうでもいいなって思ってるし、なんか仲良くしていくことにそこまで意義をあんまり感じてないっていうのもあるので、
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なんかその関係性重視の人たちからすると超ドライに見えていると思うんだよなってところは、なんかね、あんまり関わらない人種を結構決めてるんですよ明確に。あんまりこう思考停止してる人とかね、なんかあんまりこう人生向き合ってないなぁみたいな人はね、もう全員切っていますね。私は関わる必要がないと思っている。
なんかこう惰性で生きてたり、逃げに転じて生きてる人たちは、結構あーってなると、そうか、頑張ってんだな、川で溺れているみたいにちょっと表現するけど、そういう、その溺れていること自体は何ら問題ないんだけど、手を差し伸べて引き上げてあげられるほどの体力がないし、別にそこにコミットする必要がないと思ってるから、それが私の仕事じゃないなって思うので。
でも子供とかになったらちょっと別ですけどね、なんかその辺のなんかバランスは考えるけど、でもおおむね、他人って考えるとまず全員切っていく感じだな。
なんかそっかってなって別に否定も肯定もしないけどそのままって感じ。自分からなんか行くことはまずないですね。
なんかわーわー言われても、もうすーって距離をとっていきますね。
あとはなんかその溺れてるとか溺れてないとかじゃないけど相互性がないなって思うと、これも私の対象外の人たちだなって感じで明確に線を引きますね。
相互性っていうのは私が何、なんだろう、その人が一方的になんかしてるだけの人。
なんか世界からの情報を全くインプットしてないなみたいな、会話にならないなみたいな感じですけどね、私から見ると。
あんまりなんだろうな、困ってるっていうのだけを喋ってる人みたいな。困ってる困ってるって喋ってて。
他の人がさアドバイスとかするじゃん。こうしたらいいんじゃないとかこういうふうなやり方はできないんかみたいなことを言っても、いやーでも困ってて困っててみたいな感じ。
受け入れて検討したり、まぁなんか思考停止っていう意味でもあってんのか。
いやでも本人なりには考えてるんだろうけど、あんまりこう他人のレスポンスとか世界のレスポンス全く見てないなって感じの人たちは関わっても仕方ないから、
なんかやってあげられることがないから、まだソロプレイしたい感じなんだなってところで、じゅーって距離を置いてますね。
これは結構見て、脇で見られてるとめちゃめちゃドライに感じられてるんだろうけど、
いやどうなのかな、でもなんかちょっと大人になってきて、結構この辺上手くなってきたから、そのドライだなってことはバレることがあんまり良くねってことが身に染みてるので、
なんかこの辺はちょっと上手く擬態しているような気はするんですけど、なんか本質的なところで結構線は引いて、
でも壊さないってところを優しさと壊さないっていうのは、その人たちがその人であること、今現時点でそれやってるってことは全然否定しないんですよ。
そっかっていうだけというか、川で溺れてるからそんなところで泳ぐんじゃねーみたいなことは全く言わないし、
泳ごれてるなみたいな、溺れたいんだなって感じでそのまま見てる。私からするとやめたらあとはちょっと私はやらないけど、
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そっかって感じで見るのを、優しいねと捉える人もいるかもしれないし、助けてあげないなんて冷たいわっていう人も多分いると思う。
でもその冷たいわとか言ってる人じゃあなたが飛び込めなって私は思うんだけど、私はやらないですって決めてますね。
これも愛がないとは自分では全く思ってないんだよな。むしろ適切な線を引くことってめっちゃ誠実じゃないって自分では思ってるんだよな。
なんか昔ねすごい高の性癖に至った経緯めっちゃ明確にあって、大学生ぐらいの時に自分がめちゃめちゃうつうつしい時期があったんですよ。
ガッツリうつだったんだと思うけど、別に診断とか受けなかったから分からなかったんですけど、
その時にすごい寄り添ってくれてすごい助けようとしてくれた友達がいたんだけど、結局私その人といることでうつである自分を自覚するだけだったんで多分。
ひどい話なんだけど、すごい感謝してるんだけど、結局立ち直るきっかけはバイト先の店長がなんかに、
何言われたか全く忘れたけどすごいショックなこと言われて、とにかくなんか病んでいたいなら一生病んでればみたいなそんな感じのセリフだったと思うんだね多分。
好きでやってんでしょってことを要するに。どうでもいいよみたいな感じのことを言われて、はぁってなって、そっか私別に病んでいたくないかもってなったら一瞬で元気になったんですよ。
回復して、こんなこともあるもんかと思って、私も結構その弱気に手を差し伸べがちだったので当時、でもそっかこういう人たちって救えないんだなぜならそこにいることにメリットがあるから選んでやってんだなみたいなとめっちゃ腹打ちして、
結局回復、その溺れてる状態の話ね、溺れている人って溺れたいから溺れてるだけで泳ぎたいんだってことをですね、
苦しい苦しい助けて助けてって言ってるけど結局そこにいたいわけだから、でもあれちょっと死ぬかもって川岸に登りたいかもって思ったら、
手がひでも登ってくるじゃんと、その登ろうとしている人にじゃあ手を貸してあげるよってことは全然できるんだけど、その辺が相互性ってところですけどね、手を差し伸べたらちゃんと掴んでくるのか、
引きずり下ろそうみたいな主役がなくて、本当にちゃんと自分と向き合ってて、人生と向き合っててやる気があるのかみたいなところを見極めない限りはそこに放流しておくしかないねって自分が救われる側みたいな溺れてる側になった経験があるからすげえよく見えるなって思っているので、
あんまここは疑ってないし、これが優しくないとあんま思ってないんだよな。
そうね、独白してあるかちょっとわかんないけど、カウンセラーとなりわいにしてる人たちとかってこういう人多いと思うんだよな。
溺れてる人を助けることに重きを置いていて、私とかがめちゃくちゃビシビシ切っていくから、えぇーみたいなリアクションされること多々あるけど、
そのスタンスの方が私は独だけどねってちょっと思うんだよな、私が病んでる時にそうだよね、辛いよねとか言ってずっと寄り添ってくれた友人は結局私にとっては独だったなって思うから、
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病んでる私に寄り添うことで何か得てたんだろうなって今は、今ってかな、元気になった直後にちょっと思ったね、私それしんどいもんね。
何のメリットがあってこんなことをやるんだろうって思ったら何かメリットがあるのかなって思うと、
なんかその、溺れてる人に、溺れていることに支援することになっちゃうから、それはちょっと優しくないねって私は思ってんだよな。
だからこう、でも溺れたいんだったら溺れてればっていう感じで別に否定も肯定もしないっていうスタンスは私は結構明確な基準だし定義としてスッキリしていますね。
全然愛がないとは思ってない。だから多分一生変わんないと思う。
一生溺れてる人が横でいてもまた溺れたいんだなって無視していく人生になると思いますね。特に違和感はないです。
一方で子どもたちが溺れ始めたらもうちょっと策を講じていくし、たぶん溺れる前に気づくし、入水しようとしている時点でもうちょっと話をしていくと思うね。
私の近くにいることがダメなら他の場所へ行くのもありだしって感じで、本当にいいことなのかどうかみたいな。
それがその人にとってベストなのかみたいなのはちょっと考えると思いますけどね。
ちょっと裏切りますがまとめていきたい。
私はこの子たちのことを愛せてるんだろうかみたいな問いが聞いた理由としては、それが愛っていうのが受け身な感情ではないとめっちゃ明確に定義できたことだったんじゃないかなと思いますね。
愛とは人と関わる上での覚悟と技術だなと思っております。
私はこの人に愛のある関わりをしていくって明確に決めること。
それをちゃんと変な人に関わるべきじゃない人に時間とか気持ちを使わずに大事な人にだけを選んでちゃんと与えたいものを与えていくっていうそのスキルを愛と呼んで定義していますね。
これは簡単ではないと思う。
めちゃめちゃ簡単ではない。
技術ってとこめちゃめちゃしっくりきますね。
その中で自己肯定感とか自己効力感とかまず自分が安定していることが超絶対条件だからそこは難しい話だなとは思っています。
だから難しいよねと思いつつも振り返って思うと私に愛はあるのかみたいな問いは全然丘と違いだったし、ありましたね、よかったねと思っています。
なので気づけば消えていたなというところでした。
何か役に立つかどうかは分かりませんが、なんかこの軸で振り返ったことなくてなんか言語化したことなかったけど、
なんか気づけばこの当時ぶっ刺さってたエイリヒフロムの愛するという本ですが、もし読んだことがなければぜひ読んでいただきたいなと思いますが、
愛は受動的な感情じゃなくて能動的な技術ですみたいな話がめっちゃでかい疑問だったけど、
今回振り返ってみて、あーなるほど技術って要するにこうすることかなみたいな解釈しできたのでそれはめっちゃよかったなって思いました。
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長くなりましたか?最後までご視聴くださりありがとうございました。
よかったら他のエピソードでもお会いできると嬉しいです。
また概要欄に質問投稿法も設けておりますので、よかったらご意見ご感想や質問などいただけると嬉しいです。
じゃあまたね。