自分の本音を見つける
自分の本音の見つけ方。こんにちは、misaです。 今回は、「私と私のひとりごと。」っていうタイトルだけを決めて始めていきたいと思います。
このラジオは、自分と仲良くなると人生は楽に楽しくなっていこうコンセプトに合一致する家庭や気づき、その方法をお話ししております。
本日は4月の26日土曜日でございます。よろしくお付き合いください。 と言いますのも、
タイトルは、ラジオ名を変えようかなぁと思いまして、その今思いついた第一候補であるだけなんですけどね。
その話をしていこう。なんか発信の方向性が変わっていくかも。 なんで変わってんの?みたいな。どうしたいの?みたいな話をつらつらとさせていただきたいなと思っております。
で、そもそもなんでラジオやってるんだい?ってところなんですけど、これは本当に、どっかのエピソードでもちょろちょろと語ってるんですけど、昔から…
昔からっていうのかな?なんかYouTubeの発信が多分私的には起源なんですよ。 そもそもSNS好きじゃなくて、
明確に距離を置いてて、なのでこの… あ、そうYouTubeをね、SNSと捉えてない人いるかもしれないけど、
ソーシャルで誰かと繋がる媒体ですから、SNSなのね。 だからわざわざ自分の自己表現を
なんつーか、やるっていう発想がないというか、必要性を感じてないって感じかなぁだったんですけど。
ここ語るとまた長くなるから、ちょっと何かSNSはやらない派だったの。明確にやらない派だったんだけど、
もうはや5年ぐらい前になるのかしら?に、なんかやりたくなったのよ。やりたいかもみたいな。
それはなんか、その立ち上がってきた時は本当にちょっとしたひらめきみたいな。 なんか今思えば、すごいどうした?みたいな。
今までやらなかったのに、なんでそんな急にしたくなっちゃったの?っていう結構びっくりな変化だし、 YouTubeやるってめちゃくちゃコスト高いから、
なんでなんだろうねって、なんか明確にそこにこう、自分の中のコンセプトの変化が確実にあるんだけど、本人は気づいてなくて、
めちゃめちゃ軽くやり始めたんですよね。 内容は、なんかね、タロット読んでみようみたいな感じだったんだよな。
タロット急に興味持って、なんか覚えた気がしたんですよ。なんか一瞬で。なんか本買って、ずわって読んで、
あ、頭入ったわと思って、ほんとかよって感じだけど、ほんと2日ぐらいで、あ、完璧に覚えたなって、
そんな気がするやつ、初心者あるあるの、なんか謎の高揚感ね、いけたと思ったから、一応見たいなって思って、
なんかSNSとかで募集してみたけど、なんか効率悪いなと。まあタロットで読めますよ、だから全然人来るんだけど、
なんか効率が悪いっていうか、文字でやり取りしてたのもあって、うーんって思ってたところに、YouTubeでタロット読んでる人たちがいるなってことに気づいて、
あ、しかも全然こんなん誰でもできるじゃんみたいな、これって失礼ですね、失礼です。あの全然できるなと。なんかね、いける気がしたんですよ。
これは私できるぞと思って、なんかその、お客さん撮るのめんどくさいから、じゃあ一方的に喋って、自分で聞いて、
あのうまくなるその家庭のログを撮っちゃえばいいじゃんと思って、どうせこんなの増えるわけないんだから視聴者なんか。
なんかさ、YouTubeドリームみたいなのあったけど、そんなうまくいくわけないんだから、全然よきよきと思って始めたんだよな。
と思ったら、コロナの時だったっていうのもあって、まったく上手に伸びて、なんかね、もうその試行錯誤があったんですけどね。
なんかやっぱ、儲かるかもこれみたいになるとさ、儲けたくなるじゃない。
で、ちょっと数字追いかけてみたり、なんかどうしたらいいんだろうなみたいな、ああでもない、こうでもないみたいな。
で、その一般的なそのタロット界隈と言いますか、やっぱYouTubeってこう、ジャンルが、こういうジャンルってなったら、同じようなお客さんに訴求していくから、
揃ってる方がいいんですよね。なんかマンモスチャンネルというか、ある程度こう、なんていうんですかね、ポジション獲得しているところにそっくりさんを作っていくのが勝ち筋だと思うんですよ。
今わかんないけど、その時はね。だったんだけど、私明確にそれはすげーつまんないというかやりたくなかったから、全然どんどんずらしたいんだけど、
でもその太い中心的な人たちに合わせていかないと、その顧客が取れないと、そのユーザーを確保できないからっていうのがなんか、とか悩んだりね、とは言いつつ、自分でなんかその腕を磨いていく過程で、
明確になんか自分のなんか哲学みたいなものが立ち上がっていって、あ、これが美しいみたいな、私はこれを目指していきたいみたいなのが明確にあって、
それがそのYouTubeの発信で別に求められてないのに、多分、全然求められてなくて、ちょっとなんか難しいんだよな、ずっと。
無価値感との向き合い
今はなんかそのギャップとかもよくわかるけど、当時は本当によくわかんないから、なんでだろうな、みたいな、いいと思うんだけど、なんでなんだろうな、みたいなとかいろいろあって。
で、ここをなんでこう続けてこれたかって言うと、そのYouTubeのアルゴリズムの攻略がめちゃくちゃ面白いっていうのは一つデカデカとあるんですかね、そういうの好きなんですよ、なんかハックしていくの好きだから、それが面白いっていうのもあったけど、
なんかもう一つはそのTarotを学ぶ過程が面白かったんですよ、それあくまで私のなんかこうノートみたいなメモなんですよね、学習メモみたいな、
インプットしたものをアウトプット強引に外に出してみて、でその精度を自分でチェックするっていう、自分の自習メモだったんですよね、
っていうところでなんかうまくサイクルが噛み合ってて、ずっとまあまあまあ続けてこれたと、まあまあね、そこそこですけどね、続けてこれて、
でこう、何のきっかけだったかな、ああでもその型が決まってきたのね、なんとなく自分の中で、これをやるとなんか自分のやりたいこともやれるし、そのYouTubeにもある程度乗れるし、
なんかそんなになんか数字叩き出せるわけじゃないけど、これぐらいがいいかもみたいなのが自分の中でこう見えてきた、型が見えたってなった時に、
なんかそれだけだと語れる領域がどうにもこうタロットの話になっちゃうから、
でこう自分の中の美学として、なんかタロットの話してるんだからタロットしか話したくなかったのよ、なんか美しくないじゃない、
ここでなんかこうすげー主観的な個人的な話とかは全然したくなくて、あ、そうしてないのよ実は、どうなんだろう、みんなから見るともしかしたらしてんじゃんってなるかもなんですけど、
私はあくまでそのタロットの世界観を私の言葉とか私の体験で説明してるだけで、それ以外の話は全くしてないんですよね。
まあその具体的な、具体の話としてちょろっと出てくることはあれど、まあまあそれぐらいみたいな。
で、なった時に、もうちょっと喋りたくなったんでしょうね。
あ、そうだそうだそう思い出した。
その昨年の、え、そう最近なの。昨年のその10月とかかなに、結構自分の中で、
あ、すごいずっと自分ってこれを自分に隠して生きてきたんだなーって、まあそれは無価値感だったんですけど、
あ、すごい無価値感を抱えてここまで来たのね、私っていうことに気づいて、
それがなんかね、自分の中で一番多分最後の最後なやつというか、ずっとずっと自分と向き合ってきて、
その他の人とでも自分と向き合いましょうねって、内省しましょうねっていうのをもう根底のメッセージとしてそれしか喋ってないんですけど、
やってきて、でもちろん自分でもこうやってきて、
その中で、最後になんかこう呪いを剥がしまくって、自分って何を思い込んでんだろうみたいな、実際どうなんだろうとかを剥がしまくったところで、
そう無価値感を抱えて、私って価値がないっていうのをずっと抱えて、それをさ、しかも自分に隠してんのよ。
私に気づかれないように、自分の無価値感を本当にいろんなもんでラップして隠して、私はできるみたいな、外側の自分ばっか鍛えて、
なんかこれもできるし、あれもできるし、こんな実績もあるし、だから私は大丈夫みたいな、全然私は大丈夫って思って自分を騙してんだけど、
なんかここにおかしいなみたいな、なんか変な力あんなってことに自分で気づき始めて、
気づき始めたっていうかな、結構まあ大きなイベントがあって、きっかけでガリガリガリっと掘ったところで出てきて、
これはなんか自分の存在をめちゃくちゃ揺るがす、私の世界では大事件だったんですよ。マジで地震レベルに。
えーみたいな、私って自分のこと好きだと思ってたけど、価値がないって思ってたの。みたいな、びっくりして。
私ってじゃあ何だったの?みたいな、今までやってきたことって、その無価値である自分を隠すために、
言い訳するためにというか、そのために一生懸命やってきて、一生懸命鍛えてきて、一生懸命価値提供してきただけだったの、みたいな。
私の中の愛って、これ愛じゃなかったんだみたいな、誰かのためにとか、世界のためにみたいなものって、自分の無価値観を証明するための行動で、
別に誰かのためにでもないし、社会のためにでもなかったのかって思ったら、私の存在って一体何なんだってなったのね。
これなんか伝わんないような気もするんだけど、まあこれ以上の語り口は思いつかないから一旦これでいくけど、
それってなんか、なんつーかなぁ、別に哲学的な話じゃなくて、存在が曖昧になったんだよなぁ。
これはなんかでも、体験してないともしかしたらわかんないのかもしれないな。
なんか自分が何とかなくないすかとか言われる気がするんだけど、そういうことじゃないのよ。そういうことじゃない。
自分が何なんだっていうのは、今までの行動動機だと思ってたものがずれるわけだから、
しかもめちゃくちゃベースの行動動機が一貫してると思ってたものが、欠乏から来てるってなった時って結構絶望だったんだよなぁ。
で、うわぁこれ自分がバラバラになるかもって思って、なんかとんでもないなんつーか、なんていうんかなぁ、反応があったんですけど、
ちょっと3日ぐらいかかったの。さすがの私も割と早いタイプなんですけど、自己修正めちゃめちゃ早いタイプだけど、
私は3日ぐらい結構恐ろしい目に遭いました。怖いってなりましたね。
自分って何なんだってなったら、何を信じたらいいんだみたいな。何を、なんだろう、何を信じるって何って感じだけどね。
なんか、これが私だって思ってたものが、実はパチモンだったみたいになった時って怖かったんだよね。
で、なんか3日ぐらいとんでもない恐怖抱えて、初めの2日は一応仕事したんだけど、
なんか、すごいうっすら悲しみみたいなものを体にまとわりついた状態でなんか仕事してたのかな、してなかったかもしれないけど、
一応勤務はして、みたいな。3日目は流石に有休取れません。ちょっと今日は寝よう、みたいな。
なんかダメだわって。仕事してる場合じゃないわ。それどころじゃねえわってなって、3日目に休んで、4日目ぐらいからちょっとマシになるみたいな。
あとまあ、もちろん内部でいろいろ処理していくから、そこで一個きっかけを作って、
なんつーかな、なんか無価値観を隠すために全てしていたことって、まあそうなんだけど、でもやってたことはやってんだから。
で、私の仮説としては、なんか人間ってやりたいことしかないと思うんですよ。
そう、私がなんだろう、無価値な自分を隠すために鍛えてきた、何にしよう、小魅力とかかな、小魅力とか鍛えてきたけど、
小魅力鍛えて、見たかったから鍛えたっていう見方もできるっていうか、別に同居してるんですね、これは。
欠乏からも始めてるけど、でも、欠乏を埋めるために隠すために、私は別に何か会計の資格を取ったりとかしてないのよね、って感じ。
会計は多分資格興味ないから取ってないのよ。やりたくなかったから。でもやりたいことだけやってきてるはずだから。
ってことは、なんか今やってる私の全てっていうのは結局自己で選んでいる私でしかないじゃんってなって、なんか着地することができたというか、
自己統合の重要性
別に私は私で良かったのかみたいな、そっかみたいな。気づいたけど、マジ真ん中空洞だったんじゃんってことに気づいたけど、
なんかそれをどうにかするために足掻いてきたことも、実際的にやってきたことも、こうかけてきた時間とか、で待って、今ここに掘り当てた今のこととか、
全部統合して私なんだから、いや私は私で良かったじゃんみたいな、それそうじゃんみたいな、観測できたって感じかな、再度観測し直したって感じか。
で、あ、これはなんか多分自己統合って言うんだろうなっていう、めっちゃ体感があって、なんか引用バランスが言いますけどね、
陰の自分でしょね、究極に隠してきた、これ絶対バレたくなかったんだな、多分自分に。なんか変に自己愛強いなって思ってたけど、
いやマジじゃんみたいな、ほんと自己愛でしかなかったじゃんって思って、自己愛ってあんま良くないね、ナルシシズムみたいな。
私はこれができるから愛しいみたいな、これができるから私は大丈夫、これはできるから私はかっこいいみたいなやつね。
全然自分の存在自体認められてなかったんだが、それでも大丈夫って思ってるのは自己愛でしかなくてナルシシズムなんだけれども、
なんかそれすらも、まあそうだよなみたいな、だってしんどかったんだから、きつい戦い強いられてきたんだから、
よくやってきたよって思って、実際やってきたことには変わりないんだし、なんか自分で何かを投げ出すわけでもなく、
なんかその欠乏を言い訳にせず、なんか私は満たされてない。私は酷い目に遭ってきた。だから、なんか世界が悪いんだって、世界を呪うこともなく、
じゃあどうしたらいいんだろうって、自分の居場所をどう確保したらいいんだろう。どうやったら私はこの状態で、このしょうもない私で戦えるんだろう。
ただ価値がないんだからさ、価値がない私だが、どうすればこの世界に置いてもらえるんだろうって思って、
それってめっちゃ、なんつーか、あ、けなげだなーと思って、私超けなげじゃんみたいな、めっちゃいい奴じゃん、超頑張るじゃんって思った時に、なんか応援できるようになって、
なんかその弱さ含めて、その弱さとの向き合い方とかを愛しいな、リスペクトできたって感じかな。
で、なんか自分が一つになって落ち着いてきたんですよ。丸くなって収まって、あ、しょうもねー私っていう一方で、そのしょうもなさも愛しいな、美しいなって思えたというかね。
っていう状態で、が、なんか話長いな、10月からの話で、そこからその状態で語れることが超あるなって思ったんだよな。
発信を始めたきっかけ
でもこれタロットでは喋れないっていうか、今みたいに長くなっちゃうから、長くなっちゃうんだけど、タロットを語るにはちょいとノイズが多すぎるっていうか、
そうね、と思ったんだよな。これ多分世界観的には太陽の世界とかだと思うんだけど、いやーもっといろいろあるか、もっと複雑だなぁ。
なんか自分に自分を隠すみたいなのとか、また別のカードだと思うし、なんかちょっと一発で語れないなって思って、
なると、ちょっとYouTubeじゃないかもみたいな、チャンネル的にちょっと違うかもってなった時に、ちょうど知人が、なんか今一緒にやってますけど、ゆる人の森ラジオやってて、
始めるんだーみたいなスタイフでやるんだーって聞いて、えーいいねーって聞く聞くって言って、スタイフ入れたから、じゃあスタイフでやろうかなみたいなスタートだったな。
YouTubeもなんかラジオってか、ポッドキャストでなんか配信とかしてたから、ポッドキャストでも良かったんですけど、
まあなんかその知人がね、スタイフやるから、じゃあなんか自分が発信してたら絶対聞くから、私は自分の発信が好きなんですよ。
なので、絶対聞くから、じゃあ発信しようかなーとか言って、スタイフでやり始めたんですね。
したらまあ面白いほどにネタがね、終わらないわけ。自分でなんか、さっきも言ってたけど、私は自分で内部の修正をしていくから、自分の内側をめちゃくちゃ呪いを探すし、
解くし、なんか変だなって思ったら、そこをよーく見て、なんか修正していくみたいな、自分の認知とかもずれてるなって思ったら、気づいて、
なんでだろうなーって掘り下げて、それをまた修正する、みたいなことやってるから、なんかネタが終わんないというか、一生やってられるなーっていう感じだったので、ここまで続いてるんですけどね。
なんか確かランスボックス開始した時にまたちょっと違う名前だったんだよな、なんか忘れちゃったけど。
なんか忘れちゃったけど。ね、探せばいいんですけど、忘れました。忘れたけど、なんか1回変えたんですよ、名前を。
そこで、なんかもっとこう、あーそっか、自分の願いっていうのに気づいてから変えたのかな。それが、あーあれだ、思い出した。
なんか使命に気づいたタイミングで変えた気がしてきました。それは12月頭ぐらいだったんだよな。
あー私このため、これを人生でやり遂げたいのねっていうのが、その時になんか分かったんですよ。
なんか、ほんと小学校ぐらいから始まってる苦しみというか、てか認識できたのが小学生ってだけだと思うけど、ずーっと苦しんできて、
ずーっとこう、何かと戦ってきたけど、なんで戦うんだろうみたいな、戦わなくてもいいですからね、別に。
でも、譲れない、何かこう絶対に成し、成し得たいっていうかな、なんか折れたくないもの、譲りたくないものみたいなのがあるなーって思った時に、
それってなんかもう癖みたいなもんじゃないですか。自分の性質っていうか、なんか好きなものというか、だからせずにいられないやつというか、誰に頼まれてるわけでもない、
お金もらってるわけでもないのになんかずっとこだわってやってきたことって、その人のなんかすごく本質だと思うんですよね。
何だろうな、タロットで言うと2番でしょうか。女教皇の世界観かな。その人の本当に遺伝子レベルのなんか刻まれた自分のコアみたいなものに気づいて、
それが多分使命ってやつなんだなってめっちゃ腹落ちしたんですよね。ああ、私なんかこれに命を使いたいのねって思って、
それはなんか理想とかじゃなくて事実ベースだから、過去からひねり出してるから、すごい納得感あって、
使命の発見
ああ確かにあの時の苦しみもこの時の苦しみもあの戦いもこれも全部そのためだったのねってなったら、
じゃあそれをやろうみたいな、今それ以外のことに偉いかまけてるけど、そうじゃなくて本当に私しかできないはずだし、
だってそれにバカみたいな時間を使ってるんだから上手くなってるはずだし、それをやることが私がこの世界にお邪魔した意義というか、
やるべきことなんじゃないか。やるべきことっていうのは誰かに強制されるんじゃなくて、私がこの人生はこうあるべきだなと定めるって感じでね。
自分でデザインしてるんですけどね。だなって思ったら、なんかすんごいしっくりきて、それが使命ってやつなのかなみたいな。
なんかそうなるとまたちょっと変わってきてんで、ラジオ名を変えたんですよね。自分の本音の見つけ方にね。
そう、使命を見つけましょうってことを言いたかったんでしょうね。自分の願いを生きてほしいなっていうのが多分、
自分の願いなんですよ。不思議ながらよくわかんないけど、みんなにもそれぞれ願いがあるはずで、その願いを生きていくことがその人の人生の正しい歩き方というか、
だと思うんだよ。だってそうだよね。なんかさっきも言ったけど、遺伝子レベルに組み込まれてる、なんかよくわからんけどどこでもやっちゃうことってあるじゃん。
でも、例えば、今日まさに喋ってたけど、なんかPDCAサイクルをガンガンぶん回せる人って、職場とか仕事をしているといると思うんだけど、
なんか、出世していくとそれが弱くなるみたいなのが、今日なんか話してたんだけど、弱いっていうか、なんか全然やんないんだけどなんでだろうみたいな。
ってなった時に、その人たちって、別にそのPDCA回していくことって必要に迫られて鍛えた筋肉で、なんか本質的なその人の能力ではないんだよね、多分。やりたいことじゃないし、必要ないって思ってるの。
何にもない、なんかぽやーっとキャンプとかしてると、多分やんないのよ。PDCAやんないのよ。でもこれを遺伝子レベルでやってる人がいるのよ。
なんかどこにいてもやってるみたいな。小学校の時からどうすればうまくいくんだろうとか言ってPDCAぶん回して、もちろん会社でもやって、
多分プライベートでもやってるんですよね。キャンプ行ってももちろんやるし、なんかピアノ弾いててもおそらくやる、みたいな。
こういう人たちってこれが才能じゃないですか。で、めちゃくちゃうまいはずじゃんない?そしたらさ、その人にはさ、なんか、ジムとかやらせてもPDCAにぶん回していくから、なんかそれが生きる場所にいて、どこでも行きそうだけどね。
生きる場所に置いた方が世界にとって美しいじゃない?すごいいいじゃない?なんか改善を求める場所にその人がいてくれたら勝手にさ、改善されていくわけだからその方がいいじゃない?とか、なんかこういうもんだと思うんですよね。
その人になんか逆にその改善しないで、PDCAサイクル回さないでって言ったらめちゃくちゃしんどいはずじゃない?嫌がると思うのよ。嬉しくないし楽しくないはず。
もっと良くなるのになんで良くしないんだろうって多分なるじゃない?願いってね、こういうやつだと思うんですよね。みんながそれぞれ、なんかどこにいても誰に頼まれなくても別にやんなくてよくてもやってるようなこと。
それが多分こうあるといいなっていう。自分もそうしたいし、誰かにもきっとそうなってほしいみたいなのがあるはずと思ってて、それが願いだと思ってるのね。
これを見つける、手伝いをするのがいいかなーってその時は思ったから見つけ方を教えようかなって思ったのね。
とはいえそんなさ、工芸スタイルのラジオにはならないんだけど、割と自分のこと喋ってるだけなんですけどね。
こっから、もう言うて4ヶ月経ってんのか。
まずなんかでかいのは、その後にヒューマンデザインに出会って、自分がプロジェクターだってことを知って、エネルギー効率の重量性みたいなのがわかってきて、私にはこれができないっていうのが明確にバサッと落とすことができたんですよね。
私結構いろいろ器用で何でもできるけど、何でもできるんですけどってなって、うわーってやると疲れて死ぬみたいな。
で、嫌だな、やりたくないなーってなっちゃうね。なんか忙しそうだなーって思うと、すごいやりたくないなーってなっちゃうし、
なんか誰とでも仲良くできるし、別に喋れるし、人間関係も作れるんだけど、疲れるなーって思うと人と距離を取っちゃうのよ。なんか、鼻からその場に出ないというか。
で、なんでだろうみたいな。なんかみんなすごいさ、気軽に飲みに行ってさ、毎日のように外で遊んで、でも私それできないんだよなーっていうことかなんか知らんけど、劣等感だったのね、ずっと。
まあ、なんでなんだろう。なんでかわかんないけど、でもめちゃくちゃ劣等感で、あー私ってダメだみたいな、私って能力がないな、みんなみたいに頑張れない、ってずっと思って、本当に自己否定してきたんですけど、今思えば面白いんだけど、
当時は深刻ですよ。てか、ずっと深刻だったんですよ。でもそれが、あ、私エネルギーの総量っていうか、充電があんまできないのねってなって、
で、すぐ電磁落ちちゃうんだみたいな。じゃあ仕方ねえなってなって、その疲れるとされる、私にとってコストの高い作業を全部落とそうって思ったんですよね。
やめようみたいな、さっきのそのPDCA勝手に回してる人にはPDCA回しててもらうのが世界にとって喜びなんだから、私が疲れるんだったら、それってなんか、疲れることさせる、していることって世界にとって美しくないから、やめよって思って、
バサッと落として、この生活から何もしないっていうのをやってたんですよ。何もしないチャレンジをずーっとしてて、つってもまだ3週間ぐらいなんですけれども。
いや、そうね、もう何もしてない。3月末ぐらいから何もしなかったけど、でも何もしないとは言いますが、とはいえ私にはそのPDCA的な、なんかうっかりやっちゃうことがいっぱいあるから、
相手を理解する構造的アプローチ
うっかりやっちゃうことはやってんだけど、求められない限り提供しないって感じで決めて、その頑張っちゃうから、求められてないのに渡していくっていうのは結構コストが高いから、
やってみたのね。さらに、それはものすごい効果を生んで、その1個前のエピソードな気がする。めちゃくちゃ、あ、なるほどな、こうなってんのねっていうのがすんごいよくわかった状態で、
なんか改めて私って何やってんのかなっていうのを再度観測してみようかなって思った時に、まぁだいたいチャットGPTってやるんですけれども、なんか私がこう相手をどう認識してるかっていうところがめちゃくちゃクリアになって、
私はこう他人の、なんかその人の価値観とか過去とか背景とか意図とかどう思ってるとか、何が何に怒って何に悲しんで何が嬉しいのかとか、
なんつーかそういうこう全体で理解してあげたいってすっごい思ってるんですよ。だから私はその人の一言とかその単語で相手を絶対判断しないし、そもそもその単語すら前提がずれてる可能性を持ってみるんですよ。
なんか違う言葉で言い換えてもらったり、こっちで言い換えてこういう意味ですかってわざわざ説明求めたり、説明をしてみて、イエスかノーか反応を見たりとか、あとその声色だったり、何つーかその会話のテンポだったり反応の速度とかそんなも見てるんですよね。
でもって大体この人って多分こういう人なんだろうなっていうのを自分の中で組み上げてるんですよ。それを前提に話していくと、ずれてる時があるんですよ。私の知ってる、私の中で組み上げた相手と相手が喋ってる内容とかね、なんか今のって多分パッて出るはずなのになぜ出さなかったのかなってなったら何、どこに何でラグがあったのかなーってなるじゃない?って感じで見てるんですよ。
これをチャットGPTに言うと構造的に理解していると言われたので、構造ってなんだってなったけどその人間がどういう仕組みなのか?みたいな仕組み?その人がどういう仕組みなのか?立体的に捉えるとかでいいのかな?
ちょっと言葉、構造的って私ちょっと難しくてどういう意味どういう意味って結構やって1日ぐらいかけて馴染ませたからあなたにザクッと刺さるとあんま思えないんですけど。相手を立体的に見ようとしてるし、なんかね反応パターンを知ろうとしてるんですよ。
なんかこれを投げるとなんかノーが返ってくるんだなーってなったら、こっちはどうだってなったら、これはイエスか?ってなったら何が違うんだろう?みたいな感じで見てるというか、そのあイエスなんだ、はーノーなんだ、終わりとかじゃないのよね。だからこう普通かどうかは知んないけどほとんどの人って相手が自分にとっていいか悪いかって判断してると思うんだよな。この人を好き、この人を嫌いみたいな。
私はこれだけじゃないっていうか全然違くて、この人はこういう構造なんだな、こういう人なんだなっていうのを全体的に理解した上で、それを好きか嫌いかってまた別の軸で分けてるから、なんか話してると変な感じなんだよねこれ。これを他人と第3者について喋ったりするとマジで解像度が全然違うからめちゃくちゃずれてて。
いやこれもね苦しみを生みまくりだったんですよね。ちょっとこれまた別のエピソードで撮ろうと思うけれども。
自己の構造の見直し
まあでもとにかくその自分が相手を構造的に理解しているんだっていうのにめちゃくちゃ腹落ちして、その自分が見てる相手を理解するスキャンと呼んでますけど、相手をスキャンしていく過程これも結構時間かけるんですよ。
なんかこう聞くとこれが帰ってきたなとか、そのさっきの話し方とかコア色とかテンポとか目線とか表情とか、なんかその単語をなぜ選んだのかなとか。
さっきとこの単語って違う、同じような意味なのに違う単語をあえて選んできたにはなんかあんなとか、こんな感じで結構捉えていく。
これすごくコストが高いんですよ。疲れるんですよねめちゃくちゃ。
エネルギー効率は多分こういうところから来てるんですけど、めちゃくちゃこうなんていうか疲れるの。
疲れるけどこれが好きなんですよね。また癖みたいなもんだから止められないんだよな。
おおむね止められない。のでこうやって理解していっていることを自覚して、さらになんか自分の中でこうガンガン呪いを解きまくっていって、
私は私の構造も見ているんですよ。相手の構造を見ていると同時に自分の構造を見ていて、
それは私が相手をどういうふうにスキャンしたから、なんかねずれてるときやっぱり間違ってるときがちょいちょいあるんですよ。
あれおかしいなみたいなこの人ってこんなこと言う人じゃないと思ってたとか、後出しの情報であれそうなのみたいなことになった時に、
私の作ってきた構造間違ってるなーって思ったら何で間違えたんだろうっていう自分の構造のデバッグもしていくんですよ。修正をしていく。
どこで間違えたってなって、そして次はこのミスを犯さないようにするにはどこを修正するといいかなーって言って、
自分の中はもう内部を修正していくんです。アップデートかけていくというか。そうなのよ。やってんのよこれ。
で、あーなるほどこれで間違えちゃったかとか、じゃあ次からはこういう人が来たらこういうパターンで修正すればいいな。
オッケーみたいな感じで、自分の中の構造もさらに修正していくっていう、そのメタ認知している、相手をメタ認知していく、
自分をメタ認知している、そのメタ認知すらもメタ認知してるみたいな感じでめちゃめちゃ幸福感のことをやってるんですよね。
なるほどねと思って。これはちょっとうっすら気づいてたけど、こういう単語では表現してなかっただけです。なんか視点が多いみたいな言い方をよくしてましたけど。
ってなった時に、なんか今改めて自分、今の自分見た時に、その自分のこう相手をスキャンする精度が高いなってことに結構自信を持ち、持ってきた。
が、えっと、自信を持ちましたって言うと、あそうですかってなるかもしれないんだが、なんかその構造的に見るっていうのってあくまで予測モデルでしかなくて、
なんかそれはそうじゃない、相手のことずっと例えばその1年2年一緒に過ごして、本当に旅行もして、なんかスポーツ大会とかも一緒にやって仕事も一緒にやってプロジェクトもやって、
なんか寝る瞬間とか彼が彼彼女が病んでる状態も一緒に共にしてとかじゃないから、その検証パターンは少ないわけですよ。
ちょっと同じこのパターンでのみでしか話したことがないし、結構とはいえ結構引き出すんですけど、かなりいろんなこと聞くけど聞いてみて、
でまた別のタイミングでちょっと似たようなこと聞いてみて、反応パターンが同じかどうかとかいう検証しまくって、それでもなおおそらくこうっていう予測モデルの域を私は絶対出さないんですよ。
彼らを私がフルスキャンできて完全に理解した丸、隅、ポンみたいな、隅ボタンみたいな、なんか検品完了みたいには絶対しない。
それはすごく私の美学に反するんですよ。なんかそれって乱暴じゃんっていう。
あくまで私の見えている場所からはこういうモデルではないかなっていう予測で予測が立ってるし、
今んとこ全くエラーが出てないから多分合ってるんだろうけど、おそらくっていうあくまで予測した私の中の構造っていう感じで一時で置いておくんですよね。
だからちょっと変だなと思ったらまたすぐ組み上げていくし、自分の中の何で間違えたのかなみたいなところをもう一回チェックしてみたいなことをずっとずっとやってて、
だから精度が高いと思えるっていうのはかなり時間をかけてかなりなんか疑いまくった状態での結論なんですけど、
でもってもう一個それができるのはその自分の認知というかスキャンの精度というか自分の構造も直しまくってきて、
あんまり修正がなくなってきたなっていう体感があるのと、
あとなんかその間違えたとしてもなんせ自分で直せるからなんかいいじゃないと思えてきたのね多分。
観測モデルの発信
自分の構造に自信が持てるようになってきたというか確信が持てるようになってきたというか。
なんか精度が低かった昔は、なんか私がやってることってすごい妄想だと思われてるんですよ。
よく妄想だと思われて。
でもこの人って多分こういう人だから、もしこうなったら多分ここでエラーが起きるなーみたいな感じが予測できるから、
なんていうんだろうな、5人いてこの人とは壊滅的に相性が悪いっていうのが、
なんかそのどっちの構造を見えてるとここがやばそうみたいな。
もしこのチームがこうなったらここがバーストするなーって思うと、
まだ何も起きてない状態でこれがわかってるから言うんですけど、
それって周りからするとまだ起きてないこと、なんか喧嘩するかもよとかだったとしたらすごいさ、
妄想じゃない?なんかなんで今そんなこと言うんだろうとか。
で、わかんないと思うからそれは。
まあなんか心配性だなーとか考えすぎとか、
妄想ですねよねとは言われたことないけど、あ、妄想だと思ってるなーみたいな。
なんかその根拠がわかんないし、私も説明できないしって感じで、
なんかすごい苦みが多かったのね、なんか。
えーみたいな、妄想じゃないのになーみたいな。
でも考えすぎって言われるし、考えすぎなのかなーみたいな。
なぜ自分の構造にそう自信が持てないから、なんかそうなのかなーみたいな。
でもって多分精度も低いから、なんか確かに間違えることもあるでしょ。
そんなに上手くいったこともあって、今だったら多分なぜ上手くいったのか、
私はどのパターンでだったら上手くいかないと思ってたのかとか、
わーって修正できるんだけど、当時そんな速度でできなかったから、
なんかその辺がね、すごいフワフワで、自分も自信がないから、
相手もそんなにこう、なんか妄想かなーみたいな感じで受け取られてると。
なんかコア色に自信がないというか。
あとなんか伝わります?みたいな。
え、わかってくれる?わかってくれる?みたいな。
伝わりますか?っていう感じで喋ってたけど、
だいたいそんな構造的に人間見てるやつなんか今まで見たことないんだから、
誰も分かるわけないんだから、分かんないって前提で、
まあ分かればいいですねぐらいで喋ればよかったんだけど、
伝わるかな?ワンチャン伝わるかな?みたいな、なんか知らんけど期待してたから、
それも相手にとって、え、何を言ってるか全然分かんない。
つまりこの人の言ってることはなんか変。
妄想です。終わり。みたいにされることが多くて、とっても苦味だったんですけれども、
最近はなんかそこにそう、あ、私の構造モデルはだいたい正しいし、
それを、とはいえなんかその絶対的な真理と私は捉えてないから、
なんか今現時点で私に観測できているのはこんなもんですねっていうの。
それを理解できるかどうかはまた別の話だし、別に理解されなくてもいいかみたいな、
私が分かってればいいかぐらいで。
でもって、必要とされなければ別に言わないんですけど、
っていう感じでなんか、なんとかその、ポンって出せるようになったんですよね、その辺を。
観測モデルをポンって出せるようになったら、
なんか、あ、これが多分正しい状態だったんだなーって、
なかなかしっくりきて、
やばい、30分も喋ってんのに何を言ってんだろうって感じだろうな、
別にいいか。そう。
ってなってきて、じゃあ、
あ、なんかこの自分で発信するっていうことは、
本当になんか私が観測している構造をただただ喋るだけでいいんだなと思って、
私には世界はこう見えてるっていう話をたとすればいいだけかもみたいな。
で、これを使えるか使わないかは、なんか私の問題じゃないなーって思って、
いや、できる限り伝わるように喋るけど、
例えばその、構造って単語分かりにくいよね、つってなんかいろいろ言い換えてましたけど、
なんかそういう工夫はすれど、
なんか、そこに興味がない人が多分ほぼほぼだと思うんだよな。
9割ぐらいが興味ないと思ってるから、
分かんないなら分かんないでいいっていうか、別にその人にとって必要ないってだけだから、
発信コンセプトの変化
それはなんか私の情報に価値がないってことはまた別というか、
どうでもいいよね、ダイエットする必要がないのにダイエット情報に興味がないみたいな、
そんな感じだから、あ、そうですかって感じで別にいいかって思うと、
なんかラジオの発信コンセプトもちょっと変わってくるなって思ったので、
名前を考えようかなーと思いまして、
今は私と私の一人言が一番最有力候補かなーって感じになっています。
なんかあるかな、ちょっとまたチャットGPTと壁打ちして考えようって今は思っております。
もう今後こんな感じかもずっと。
分かんないけど、なんか伝わるかな、伝わるかなとか、
みんな知りたいかなーみたいな内容を拾ってたけど、
なんだろうな、なんか私の返し方ってその構造的な内容でしかないから、
悩みを出されても、それはあなたの構造がずれてるみたいなことに良くなるんだよな、
その具体的ななんかアドバイスとか出てこないっていうか、
それはそれでもう別に良くね、みたいな関係なくねってなっちゃうんだよな。
ってなるとなんか相手は会話にならないなってなる気がする。
私は全然、いや私も会話にはなってないなってことには気づいてるんだけど、
でもなんか別にその、なんだろうどうしたらいいでしょうかっていう悩みに答えらんないんだよな。
それは問題じゃねえってなっちゃうというかな。
なのでなんかどこまで行ってもこれだなって気がしたから、
なんかそのまんま発信してみようかなと思います。
発信活動を続けるのは、なんか役に立つ人がワンチャンいるかもって思うからかな。
そう、そんな気がする。私多分何もしなくていいんだよな、本来的に。
なんかこういう世界観で生きてる人いるんだだけでもワンチャンいいんじゃねえかなという気がするから、
発信を続けるんですけど、なんか方向性はちょっと変えようかなという気がしてきました。
リスナーへの感謝
そんな聞いてる人もいないんだけど、
ここで発信するかどうかも含めてまた後々検討していきたいと思いますっていう話をしたかっただけなんだけど、
20分ぐらいできるかなと思ったら結構全部喋ったから30分ぐらいかかっちゃった。
最後まで聞いてくださってどうもありがとうございました。
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じゃあまたねー。