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2026/09/06 振起日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第二 5:1-10


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サマリー

この礼拝では、加藤満牧師がサムエル記第二5章1節から10節に基づいて、「万軍の神、主が共に」というテーマでメッセージを語りました。礼拝は、新しい季節を迎えるにあたり、子供たちや教会に来られない人々への祈りから始まりました。牧師は、第一・第二サムエル記を通して流れる一貫したテーマとして、「神は高ぶる者を退け、謙遜な者を引き上げる」という原則を強調しました。これは申命記の「命と死、祝福と呪いの選択」という教えにも通じ、神への従順がイスラエルの強さの源であることを示唆しています。 第二サムエル記の冒頭では、ダビデが王として徐々に力を増し、サウルの家が衰えていく様子が描かれます。後継者争いの中で、ダビデは軍事力ではなく、まず神に伺う謙遜な姿勢を取りました。この姿勢が神の祝福を招き、ダビデは敵対勢力の離反や暗殺といった予期せぬ出来事にもかかわらず、最終的にイスラエルの全部族の王として認められました。これは、神がダビデと共にいることの証であり、神の目的は人間の計算を超えて成就することを示しています。 メッセージの最後に、牧師は、私たちの人生における「嵐」や「厄介なこと」に直面した時、振り回されずに万軍の神に目を向けることの重要性を説きました。神の臨在こそが私たちの平安の根拠であり、神は謙遜な者を高め、共にいてくださる方であると語り、神中心の生き方を改めて呼びかけました。

祈りと新しい季節への備え
それでは、お祈りをいたします。 恵み深い天の父なる神様、私たち一人一人を今日も、死の御前へと招いてくださり、心から感謝をいたします。
新規礼拝を迎えております。 改めて祈られたように、ここからアドベントへと私たちは向かっていきます。
どうか、主が今日また新しい学期を迎える子供たちを守り、また私たちの心も震い起こしてくださり、新たな季節へと足を進めることができるよう、信仰を与えてください。
様々なものに揺らいでいる私たちです。世界が揺らぎ、そしてまた私たちの周りにも揺らぐことが起きております。
しかし嵐の中で私たちを引き上げてくださったあのイエス様のように、主よ、あなたは嵐の中でも私を見つめなさいと招き、あなたご自身が手を取ってくださるときに嵐が渚になること、私はすでに世に勝ったと言われる主の約束を知ることを私たちは知っています。
どうか礼拝のうちにあなたがご臨在くださり、御言葉を通してあなたを仰がしてください。私たちがイエス・キリストの十字架によって確かに許され、神のことされ、永遠の命が与えられ、永遠なる日と共に今生きているという事実を確かにさせてください。そしてまたどんな時にもあなたが共にいるという勇気を与えてください。
祈られたように、世界では災害が大きい、また戦争が続いております。その中で痛み苦しむ一人一人とあなたは伴っていてくださっています。どうか主が慰めていてくださいますように、お一人一人の命を、心を支えてくださいますように、お願いをいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えています。どうか主が帰りに来てください。この新規日から始まる新たな季節で、どうか主を一度でもお一人一人と顔を合わせ、共に祈る時が持てますように、私たちをまた使わせてください。お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます御言葉を開いてくださいますように、あなたに期待をして、イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
「ラリーデイ」の意味と教会の歩み
改めて新規日を迎えております。新規日と言いますのは修法にもおのせしましたけれども、英語ではラリーデイと言われるわけです。
ラリーデイ。ラリーというこの英語の言葉は再結集するとか、再び奮い立つ、回復するという意味があります。
これはある種夏休みが終わって、新学期に入って子どもたちが新たに教会に集い、また新たに学校に集うことができるようにという祈りが込められています。
特に新学期9月から学校に行くのが大変な子たちがいることはご存知でしょう。また教会の子たちのことも覚えてお祈りいただきたいと思います。
そしてまた教会に来たくても集うことがかなわない兄弟姉妹、そのことも私たちは知っています。
よく皆さん訪問してくださっていますけれども、その方々もどうか一度でもいいから、このところにともとに強い礼拝ができるようにと、祈りまた関わっていただきたい、そのようなことを思います。
私自身もそのことを心がけていきたいと思います。
教会は新規一転、アドベンツへと向けてこの秋は進んでいくわけです。
サムエル記のテーマ:神の原則
礼拝では、私がここで語るときは、昨年に続き第二サムエル期を見ていきたいと願っています。
去年もお話ししましたが、サムエル期というのは聖書の中で第一、第二と分かれていますが、元は一つの書簡です。分けられていません。
なので、第二サムエル期を見るには、第一サムエル期からの順序というか文脈を確認してから進んでいくことが寛容かなと思いますので、
今朝はそのことをまず振り返りながら、今日の与えられている箇所で何を私たちに語っているのかを順に見ていきたいと願っています。
手法にも載せましたが、今朝は三つのポイントでお話をさせていただきます。
第一サムエル期からの流れを確認しますが、その中で一番心に覚えなければならないこと、一貫していること、それは何か。
一つ目のポイントです。神様は高ぶるものを退け、謙遜なものを引き上げるお方であるということです。
サムエル期には実は一貫したテーマが流れています。
そのテーマを語っている大切な箇所は実は第一サムエル期の2章にあるハンナの祈りです。
ハンナの祈り、第一サムエル期の2章にありますが、全部読むとちょっと長いので、また見ていただいたらと思うんですが、
第一サムエル期のこの2章、ハンナの祈りに何が謳われているのか、重たくて多分三つのことが祈られている。
説教用紙にも書きましたが、この三つのことは何かというと、一つは、神様は高ぶるものを退け、謙遜なものを引き上げるお方であるということがまず一つです。
そしてもう一つは、神様はこの世に悪がはびころうとも、ご自身の目的を成し遂げるお方であるということです。
そして三つ目は、神様はご自身の目的のために王をお立てになるということです。
この三つのことがハンナの祈りで謳われていることなんです。
申命記からサムエル記への流れ
特に先ほども言いましたが、一つ目の神様は高ぶるものを退け、謙遜なものを引き上げるというのは、
サムエル期、全部サムエル期もそうなんですが、実はこれはさらに高のぼって神明期からずっと同じことが繰り返し言われています。
いわゆる聖書学的用語で言うと神明期史観ということを言うんですけれども、
神明期から第二列王期までは実は一貫した神様の物の見方ということが通定しているというふうによく理解されます。
それは何か、私たちは思い返していただきたいのですが、神明期は一体何を言っていたでしょうか。
神明期は大雑把に言うならば、こういうことだったと思います。
孟瀬が振り返るわけですけれども、神明期で言われていたことは、神様はイスラエルの民を選び出し、契約の民となさり、立法を与えられましたよねということです。
そして、その神様と立法に忠実であれば祝福されて、神様と立法をないがしろにするなら呪われるということでした。
思い出していただけるでしょうか。
神明期の中で特徴的なのは、あなたたちの前には祝福と呪いの道がありますよということをよく語る。
あなたの前には祝福と呪いの道がある。もっと言うならば、命と死の道がある。
あなたはどちらを選ぶのか、あなたは命を選びなさいというのが神明期が語る一番大切な言葉でしたね。
神明期の30章の19節というところにその代表的な言葉がございます。
神明期の30章の19節というところにその代表的な言葉がありますね。
神明期の30章の19節。ちょっとお読みしますけれども。
神明期の30章の19節。
私は今日あなた方に対して天と地を承認に立てる。
私は命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選びなさい。
あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、主を愛し、見声に聞き従い、主にすがるためであると書いてあります。
私たちも忘れがちですが、信仰というのは選択なんですよ。
どっちを選びますか、なんですね。
ですから、続くヨシア記で見るならば、神様はヨシアに応しくあれ、強くあれと言いますが、
ヨシアの前に主の軍の将がエリコの城壁を前に現れます。
主の軍の将の前にへり下って、神様が語られる通りに彼らが従う時に、エリコの城壁は崩れました。
神様に従う時に、あの高齢であるカレブですら、敵に勝利をすることができました。
ヨシア記が語ることは、イスラエルの民の強さ、神の民の強さというのは、若さに依存するのか、軍事力に依存するのか、そうではないということ。
ヨシア記が語ることは、イスラエルの民、神様の民の強さというのは、完全に万軍の主に依存している。万軍の主がおられるかどうか。
ですからヨシアは最後に言いました。私と私の家は主に仕える。万軍の主に仕える。それが私たちの全てだからということでした。
しかし、詩式に入りますと、ヨシアの世代は全て亡くなってしまい、彼の次世代が起こる。
詩式に入ると最初に語られるのは、ヨシアの代とは違った、神を知らない、ヨシアたちを知らない世代が起きる。
神様を知らない世代が起きた時に、イスラエルはどうなったか、神様と立法を知りづけるのです。
するとどうなるか。神明記の約束の通り、呪いが始まっていく。
まさにイスラエルの民は偶像礼拝をする民になっていきます。
結果、神様は時に応じて、救世主のような裁きつかさ、ギデオンであったりサムソンであったり、いろんな人を使わせますが、
最終的にイスラエルは偶像崇拝から離れられずに、スパイラル状に悪化していく。だんだんだんだん悪くなっていく。
カナンを出てカナンを取りなさいと言われた神様の言葉から始まる死式は、最終的にはイスラエルの内戦で終わります。
民族同士が愛争ってベニヤ民族が滅ぼされかけるということになっていく。
そのように罪と悪にまみれた最悪の形態のイスラエルになってしまうというのが死式の最後でした。
神の救いの始まりと原則
しかし神様は、ご自身の民、神の民を諦めることができないお方です。
最悪の中からでも神様はご自身の計画を遂行し、救いを成すことができる。
神は世の悪にまみれても神の目的を達成される。
それはどういう形で現れるでしょうか。
ルツキを見れば面白いです。救いは違法人のモアグの女性から始まる。
そして第一サムエル記の最初を見るときに、救いはどこから始まるか。
子供を産むことのできないあの女性、ハンナから始まる。
神様は最悪の状況からでも救いを成し遂げるお方です。
しかしそれはどこから始まるのか。
私たちの思いもよることのできない橋の橋のこんなところから救いがあるというような、そこから主は救いを始められる。
まるであの救い主イエス様がベツレヘムで生まれたように、主は小さなところから救いを再開される。
主の救いは最悪の中でも進むでも、それはいつも意外で小さなところから始まる。
そしてサムエル記に入るときに顕著になるのは、まさに神様に対し謙遜なものは引き上げられ、高ぶるものは下げられるという原則でした。
ハンナの子供サムエルは神様に従います。
一方、エリの息子ホフニとピネハスは神様をないがしろにします。
結果ホフニとピネハスエリの一家は滅び、サムエルが神様に用いられて栄えて強くなります。
そしてそれと同じようにイスラエルには初代の王サウルが立ちます。
しかしサウルの後にダビデが選ばれます。
サウルは神様をないがしろにするので、彼は王であるけれども全てがうまくいきません。
一方ダビデはサウルに拒絶され窮地に陥りますが、彼は滅び尽くされずに、彼は豊かに強くなっていく。
第一サムエル記の最後は皆さんご存知でしょう。サウルの命が奪われるところがあります。
サウルはダビデを何度も追い詰めますが、いかなる窮地でも主がダビデを守られた。
一方神様を退けたサウルは命を脅す。
このような神様の御計画や神様の御言葉の約束、神明記から始まっている御言葉の約束は第二サムエル記も同じものが続きます。
そのような視点で少し見ていくと第二サムエル記はよくわかる。
ダビデの台頭とサウルの家の衰退
じゃあ今日の歌詞に入っていきたいと思います。
第二サムエル記に入っていきますが、二つ目のポイント。
第二サムエル記で言われることは何か。
ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなったということです。
第二サムエル記の最後はイスラエルの初代の王、サウルの死で閉じられます。
そして王様が死ぬと何が起こるかというと後継者争いです。
最近タイガードラマを見ていますけれども、ご覧になられていますかね。
小田信長が亡くなった後、秀吉なのか誰なのか柴田なのかって荒れますよね。
その中で勝っていったものが次の後継者になるわけですけれども、同じことがイスラエルでも起きます。
第一サムエル記の一章に書いてあるのは、サウルの死を伝えた前例に対してダビデは死刑を宣告し、
サウルとヨナタンのために嘆く哀歌が歌われています。
サウルとヨナタンはなぜ死ななければならなかったのかとダビデは歌います。
しかしですね、嘆くのも束の間、まさに後継者争いが二章から始まってまいります。
後継者として挙がった候補は二人なんです。
一人はダビデ、そしてもう一人はサウルの血族で王の息子であったイシュボシテという人物です。
サウルとイシュボシテ。
そしてこの後継者二人の下にはそれぞれ将軍がいました。
ダビデ側にはヨアブ、ヨアブの弟アビシャイとアサエルがいます。
ヨアブとイシュボシテ側の将軍アグネルです。
この二人が将軍同士が正面から衝突して戦争をするというのが二章の十二節から始まってくるものです。
ヨアブとアグネルがそれぞれ若い人たちを出して戦争しようと言って戦争をするわけです。
ダビデの陣営は先ほども言いました将軍ヨアブと兄弟アビシャイとアサエル。
これはダビデのお姉さんの息子なんです。
ダビデからしたら老いっ子にあたるわけですけれども、このヨアブたちと相手のアグネル将軍が戦う。
これは司列を極める戦いでして、最終的にこの戦争でヨアブ将軍の弟のアサエルがアグネルによって殺されるんですね。
この敵の将軍アグネルによって自分の弟が殺されたということをヨアブはずっと根に持ちます。
いろんな沢山の人が現れるので混乱しないようにしていただきたいですが、円魂として残るんですね。
そしてそのような後継者争いは長く続いたと聖書は語ります。
3章の1節を見ていただくとこういうことが書かれています。
3章の1節。
サウルの家とダビデの家の間には長く戦いが続いた。
ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。
聖書はそのように語ります。
ダビデをこの時押していたのは十二部族のうちユダ族だけです。
残りの十一部族はイシュボシテについています。
でも聖書はダビデがますます強くなり、サウルはますます弱くなった。
軍勢的にはそうなんだけども、ダビデは強くなりです。
なぜでしょうか。
それはこれまで見てきた通り、それはこの後継者争いにおいても勝敗を期するのは軍事力によるものではないということを明らかにしています。
軍事力によるのではない。
戦いを分けるのは何なのか、それは番分の種がどちらについているか。
それだけなんですね。
なので番分の種に対し、ダビデとイシュボシテ、それぞれがどう向き合っているかが勝敗を全部分けているんです。
ダビデの謙遜な姿勢と神への信頼
ダビデはどうだったでしょうか。
あまりよく書いていませんが、しかし二章の一節二節というところをちょっとお読みしたいと思います。
まさにサウルとヨナタンの哀悼をした後に、ダビデがこれからに向き合わなければならない時、
ダビデは最初に何をしたか、二章の一節二節。
この後、ダビデはシュにうかがった。
ユダの町どれか一つへ登っていくべきでしょうか。
シュは彼に、登っていけと言われた。
ダビデは、どこに登ればよいでしょうかと聞いた。
シュは、ヘブロンにと言われた。
ダビデはこれから熾烈な後継者争いに向かっていかなければならない時に、
一番最初に彼がしたことは何だったのか、
それはダビデはシュにうかがった。
ダビデはシュにうかがった。
シュよ、大変なことになりました。
でもこれから私はどうすればいいんでしょうか。
シュよ、私は今この嵐の中でどうすればよいのでしょうか。
彼が最初に取った姿勢はそれでした。
シュよ、私は今どうすればよいのでしょうか。
その姿勢がまさに神様に対する謙遜以外の何物でもありません。
シュに対して謙遜である。
これから戦っていかなければならない。
軍も増やさなきゃいけない。
でも彼が取ったのは、おっしゃ、やるぞじゃないんです。
まず、シュよ、私はどうすればよいのでしょうか。
ダビデは自覚を持っていました。
ダビデは大切な信仰を持っていました。
それは、イスラエルの王を決めるというところにあったとしても、
イスラエルの誠の王は一体誰なのか、
それはこれまでのサウルでもなければ新しくなるダビデでもない。
イスラエルの誠の王は神ご自身以外いない。
神様こそが誠の王です。
だからダビデは伺うんですよ。
シュよ、私はどうするべきでしょうか。
そのダビデに対してシュは答えを与え、
シュがダビデを強くしていきます。
ますますダビデを強くします。
勢いを増すダビデ陣営を見てどうなっていくか、
アブネルの裏切りと暗殺
イシュボシテ軍にいたアブネルが裏切ります。
イシュボシテ軍にいたアブネルは、
イシュボシテとちょっと言い合いになって、
持ち目になっているサウル一家を彼はそうそうと見限ります。
そしてダビデに近づいていこうとします。
当然敵軍の将軍アブネルが願えるというのはものすごく怖いことなので、
ダビデは自分の妻でサウルの一家にいたミカルを代わりにちゃんと連れてこいということです。
戦国時代も一緒ですね。
敵が願ってきたらお前の覚悟を見せろということです。
お前の子供を渡せということですが、同じことです。
ダビデはそのようにアブネルを招き、
アブネルは言った通りのことをするので、
アブネルとダビデは縮円を張ったということが四章に書いてあります。
四章の二十節に。
アブネルは二十人の部下と共にヘブロンのダビデの下に来た。
ダビデはアブネルとその部下のために縮円を張った。
ダビデからしたら計算があったと思います。
敵の軍、要は他の十一部族から信頼を得ている将軍アブネルが
自分の仲間になってくれるならば、
十二部族が一緒に一つの国になれるには早いかもしれないと思ったかもしれない。
ダビデはそう願っていた。
しかし、ここでヨアブが動きます。
問題が起きるのはヨアブがここで
ダビデはそんな簡単にアブネルを信用したのかと
ダビデの対応を批判し、
彼はダビデには内緒でアブネルをおびき出して
ヨアブはアブネルを殺害します。
暗殺してしまうわけです。
ただそれは国のことを思ってかといったらそうではない。
三章の二十七節を見ますと
三章の二十七節
お読みしますと三章の二十七節
アブネルはヘブロンに戻った。
ヨアブは彼と密かに話そうと彼の門の内側に連れ込み
そこで彼の下腹を刺した。
こうしてアブネルは彼がヨアブの弟
アサエルの血を流したことのゆえに死んだとあります。
何を言っているかというと
これは純粋に個人的な復讐だということです。
国のことではない。
支援に駆られて国の計画、王の計画を無視して
彼は個人的な復讐を果たす。
ダビデはそのことを受けて
ダビデの無力感と神の計画
三十九節、ちょっと飛び飛びで申し訳ないんですが
三章の三十九節でこういうことを言います。
この私は油注がれた王であるが
今日の私は無力だ。
セルヤの子であるこれらの者たちは
私にとっては手強すぎる。
主が悪を行う者にその悪に従って報いてくださるように
セルヤの息子たちというのは誰か
これはヨアブとアビシャイのことです。
自分たちの国の将軍でありながら
ヨアブは扱い切れないと言っています。
ヨアブは扱い切れない。手強すぎる。
そのようにダビデからすれば
実はこの王様になっていこうとする歩みの中で
予想外のことが起こります。
扱い切れない人間が自分の将軍としてそこに残り続けます。
やりづらいですね。
そしてこのアブネルの子は
イシュボシテの気力を挫きます。
自分の国の将軍がやられましたから
イシュボシテの気力を挫き
4章の前半で書いてあることは
イシュボシテはならず者に殺害されます。
いわば長く続こうとしていたサウル王朝は
ここで終焉を迎えるということが
4章の前半で書いてあります。
全イスラエルの王としてのダビデ
先ほど読んでいただいた5章の1節から10節というのは
このイスラエルの十二部族、全部族が
ダビデを王と認めたというそのような晴れの舞台です。
1章の1節から5節を改めてお読みしますと
こういうことを言っています。
イスラエルの全部族です。
イスラエルの全部族は
ヘブロンのダビデの下に来て
こう言った
ご覧ください、私はあなたの骨肉です。
これまではサウルが私たち
私たちはあなたの骨肉です。
これまではサウルが私たちの王であったときでさえ
イスラエルを動かしていたのはあなたでした。
主はあなたに言われました。
あなたが私の民イスラエルを牧し
あなたがイスラエルの君主となると。
イスラエルの全長老は
ヘブロンの王の下に来た。
ダビデ王はヘブロンで
主の御前に彼らと契約を結び
彼らはダビデに油を注いで
イスラエルの王とした。
ダビデは30歳で王となり
40年間王であった。
ヘブロンで7年6ヶ月ユダを治め
エルサレムで33年
イスラエルとユダ全体を治めた。
ここで晴れてダビデは正式に
全部族全部族
すべてのイスラエルの民の王となります。
万軍の神と共に歩むダビデ
そして6節から書いてあることは
その近くにあったエブズジンの要害
シオンの要害
南高フラクと言われた後のエルサレムですが
そこをダビデは攻め取り
自分の町にする
後のエルサレムです
これが後のエルサレムです
さて今朝はここまでの箇所を見ながら
私たちは一体何を受け取ればよいのでしょうか
3つ目のポイントです
万軍の神主が彼とともにおられたということを
私たちは覚える
それは神明記からずっと続いています
旧約聖書の広い範囲でそのことは語られます
神様に対して謙遜なものは引き上げられて
神様に対して高ぶるものは退けられる
ダビデが王様になった経緯は
先ほど見てきました
実はダビデの計算通りではありませんでした
彼は弱小の立場から始まって
どうやったら自分はその王になっていけるのか
わかりません
でも彼なりに計算はあったでしょう
特徴なのは彼はサウルの氏もヨナタンの氏も
ひどく痛みます
そして見ていただいたらわかりますが
将軍アグネルの氏もイシュボシテの氏も
彼は丁寧に痛みます
自分の敵でした
それはなぜか残りの十一部族の民族を
敵に回さないためです
自分たちが大事にしてきた王
サウル一族を彼は大事にしてくれたんだ
そのようなことで他の十一部族と
無駄な争いを避けるための
彼の政治的な判断だと思います
政治的な算段でしょう
しかし
ヨアブによるアグネルの殺害
またイシュボシテの暗殺は想定外でした
ダビデにとっては思ったかもしれません
願った通りの計算はしてるんだけども
神への信頼と平安の根拠
想定外な厄介なことが起きた
どうしたらいいんだろうか
しかしその出来事をしてなおも
ダビデは不思議なように
王になっていきました
この不思議な身技の背後に何があったのか
ダビデは常に
ここに神様がおられたということを認めるのです
4章の9節を見ていただくと
こういうことが書いてあります
4章の9節
ダビデはベーロテ人リンモンの子
レサブとその兄弟バーナ
これイシュボシテを殺害した二人ですが
彼らに答えて言った
主は生きておられる
主は私の魂をあらゆる苦難から
贖い出してくださった
この言葉を覚えがあるかもしれません
この言葉を第一サムエル記で
ダビデはどこで使っていたか
それはサウルに命を狙われた時です
でも彼はサウルに対して
自分で復讐はしませんでした
サウルが討たれた
主は生きておられる
神様はご自身の目的のために
王を盾になるお方です
そして神様はこの世に
どのような悪がはびころうとも
厄介なことがはびころうとも
ご自身の目的を成し遂げるお方です
それゆえにダビデにずっと
求められていたことは何かというと
それは想定外のこと
厄介なこと
自分の心を騒がせる
様々なニュースを見て嫌になります
でもそのような事柄が起こった時に
その中にありながらも振り回されずに
そのことに支配をされずに
万軍の死を仰ぐことでした
なぜならダビデを支配できるのは
誠の王神だけだからです
神様は高ぶる者を退け
謙遜な者を引き上げるお方であるから
神の民の勝利は
力や若さや軍事力にはよらないのです
ダビデ自身の計算や
見通しの確かさに依存をしているわけでもないのです
勝利はどこにあったのか
神の民の勝利は完全に
万軍の主に依存しています
ですから今日の中心聖句の5章の10節を読みますと
ダビデはますます大いなる者となり
万軍の神主が彼と共におられたと語るのです
ダビデはますます大いなる者となり
共におられたというのは
この因果関係をはっきり語っています
彼がますます大いなる者になったのは何か
なぜか万軍の神主が共におられた
それだけである
そしてここで興味深いことは
実は万軍の神主という言葉がここで使われます
実は聖書の中では
万軍の主という言葉が主に使われますが
万軍の神主という言葉で呼ばれるのは
実はサムエル記の中ではここだけです
それはなぜなのか調べてみました
するとそれは
この次の6章7章と関係しています
6章7章で何があるかというと
ダビデは神の箱を
自分のエルサーレムに持ってこようとするというのが
6章で描かれます
実はこの神の箱に挿されるお方
神様なんですが
6章の2節を見ますと
6章の2節
真ん中から2節読みます
ダビデはユダのバーラ
6章の2節ですねごめんなさい
ダビデはユダのバーラから神の箱を運び上げようとして
自分と共にいた全ての兵と一緒に出かけた
神の箱はケルビムの上に挿しておられる
万軍の主の名でその名を呼ばれていると書いてあります
ケルビムの名に挿しておられる万軍の主の名というのは何か
それは神です
だから万軍の神と書かれる
万軍の神と書かれる意識は何か
それは神の箱がもうこのダビデのところにあって
ダビデはそれを中心にするという意識がここで書かれていると
ある仲介者が書いていました
この後手のフックなんだということを書いていましたが
なるほどと思います
確かにその通りです
ダビデはこの後そのケルビムの上に挿される神様
その方をイスラエルのエルサレムの都の中に運び入れようとします
それは何を意味するのか
本格的に彼は神様中心の王国を建てようとしていくんです
神の箱が都の中心にある
なぜかイスラエルの強さは若さや軍事力に依存しない
神がいるから私たちは勝てる
そう彼は強く信じるからです
そしてそれこそがまさにダビデの時代戦国時代です
あらゆる外圧がずっと続きます
しかしそのような嵐の中にあっても
神がこの都の中心におられるということが
神の民にとって最も確かな平安だからです
それは私たちも同じです
神の箱は今どこにあるんでしょうね
実はもう分からないんですよ
神の箱はガビロン保守の後どこに行ったかよく分かりません
ただしかし神の箱神の臨済の場所
神がその上に挿されると言われたその王座がある場所
それはどこなのか
天の王座に主はおられます
しかし新約聖書が語ることは
その神が挿されるのは聖霊なる神によって
今私たちの内に挿しておられると語る
神は私たちの内に挿しておられる
その時に万軍の神主は今私たちとともにおられるんです
万軍の神主は今私たちとともにおられる
だからこそ今朝ご一緒に覚えたい
それぞれには嵐があるかもしれません
厄介なことが起こったなあということを
私たちは経験をいたします
しかし主が今朝私たちに語られる言葉は
雑魚ではますます大いなるものとなり
万軍の神主が彼とともにおられたです
神明記からずっと続くこと
その主がともにおられるならば平安なんであれば
勝敗を分けるのは今私たちの手元に
私たちの状況に何があるかではない
今私は神にどう向き合うかです
高ぶるのか謙遜であるのかどっちなのか
神様は高ぶるものを知りづけ
謙遜なものを引き上げてくださる
万軍の神様を仰ぎ跪きましょう
そのことは今朝ご一緒に覚えたいことです
神様が嵐の中に平安を与え
倒れそうな私たちを引き上げてくださる
唯一のお方です
私たちの平安の根拠はいつも
私の内に誘われる主にある
そのことを今一度覚えて
主に私は今どう向き合うべきかを
ご一緒に問われたいと思います
お断りをいたします
36:25

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