サムエル記の背景
今朝はこの箇所から、心のすべてをもってという題で、読み言葉を取り継がせていただきます。
改めて、先週から私たちは続けてサムエル記を見ています。
今朝は特にこの7章を読みましたが、4章から7章を見てまいります。
前からサムエル記を読んでいますが、サムエル記の始めの時代はどのような時代であったか。
それは、シシキの最後のような横島な時代であったということを、先回確認をいたしました。
シシキの最後の時代というのは、本当にかつてないほどイスラエルが堕落した時代ですね。
しかしそのような横島に染まらず、主に祈った女性ハンナ、そしてその子供であるサムエルを通して、
神様はこの横島な時代からの回復の御業を始めていかれるのです。
それがサムエル記ですね。
そして、前回の復習になりますが、サムエル記の大まかな筋というのは、
ハンナの祈り、2章の1節から10節にあります、ハンナの祈りに示されています。
ハンナの祈りが語りたいことは、大雑把に言うとこういうことです。
神様は高ぶる者を退け、減り下る者を守られるということです。
これはずっとサムエル記を通して続くテーマです。
神は高ぶる者を退け、減り下る者を守られる。
そしてこのサムエル記は、この高ぶる者と減り下る者が交差するかのように描かれていくわけですね。
高ぶる者というのは、この祭司の方では、祭司エリの一家、特にホフニとピネハという祭司たちです。
そして減り下る者はサムエルです。
ペッシュがこのエリの一家に語ったことは、
私を重んじる者を私は重んじ、私を下げすむ者は軽んじられるという2章の30節の言葉でした。
いわば、エリの一家は神を下げすんでいるから下げられ、減り下ったサムエルが上げられていくというストーリーです。
神を重んじるというのは、まさに神の御言葉を受け止めることですね。
お話しください、しもべは聞いておりますという、そのような言葉がサムエルが語ったことでした。
死を軽んじたエリの一家、ホフニとピネハスには裁きが予言されていましたが、
実はこれが4章から実現していきます。
今日はちょっと4章から順に7章に至っていきますけれども、
まさに4章からはエリとエリの一家の滅亡が語られます。
ただそれは、突然神様がエリの一家を滅ぼすということではない。
神様を軽んじた結果、エリの一家はその当然の帰結として滅んでいくということです。
そもそも神様というお方はそのように下げすみ軽んじることのできるお方ではない。
そのことも5章以降に語られてきます。
少しご一緒に順に見ていきたいと思います。
3つのポイントで今朝お話をさせていただきます。
第一に、神の箱が助けてくれるという誤解があったということです。
少し4章を開いていただくと、ここにはイスラエルとペリシテの戦争が描かれています。
当時イスラエルにとって最大の脅威は、西側の海岸地域に住んでいたペリシテ人たちでありました。
そしてこの4章の2節にはさらっと書いていますが、
イスラエルはペリシテに敗北して4000人が打ち殺されるという、戦に負けるという記事がある。
3節を見ますと、イスラエルの長老たちが言うのです。
どうして主は今日ペリシテ人の前で我々を撃たれたのだろう。
どうしてと言うのです。どうして。
それは自分たちは神様の民で神様の守りがあるはずなのに、どうして負けてしまったんだろうということですね。
それに対する原因は明白でした。
彼らは神様に跪きもせず、見声に聞こうともこれまでしてきてこなかった。
3章の1節にあるように、主の言葉は聖女に稀であったというのは、誰も主の声を聞こうとしない時代だったということです。
思い出していただきたいのは、主の戦いというのは、神様が最前線で戦われる。
イスラエルの民がすべきことは、主の軍の将の前に靴を脱ぐということでした。
ヨシワキの5章の15節にありました。主の御前に跪かなければ勝利はないんです。
しかし、民の長老たちはその時そうは考えませんでした。
彼らは敗因は何かというと、ここに神の箱がないからだと考えるのです。
4節にありますけれども、3節の途中からありますが、
城から主の契約の箱を我々のところに持ってこよう。
そうすれば、その箱が我々の間に来て、我々を敵の手から救うだろうと。
契約の箱というのは、正式名称が4節に書いてあります。
ケルビムに挿しておられる万軍の主の契約の箱です。
ご存知の通り、契約の箱には2頭のケルビムが向き合っているものがある。
宿エジプト記を見るならば、ケルビムが向き合っている真ん中から神は言葉を発すると書いてある。
それは意味するところは何かというと、契約の箱というのは神様の王座なんです。
神様がそこに挿しておられる王座なんです。
ですから本来であるならば契約の箱なんか動かしません。
むしろ神の前に跪くべきものですね。
しかし彼らは王座の前に跪かず、王座を戦場に担いできて、
あたかもそれはこのお守りがあったら勝てると言わんばかりに。
彼らは神の箱を持ってきたのです。
我らの苦難を神なら助けると言わんばかりにです。
このことにはペリシテ人も震え上がりました。
あのエジプトを滅ぼした神が私たちに敵するんだと彼らは恐れました。
しかし神様が敵したのはペリシテに対してではなく、イスラエルに対してでした。
4章の10節から11節を読みすると結果が書いてあります。
こうしてペリシテ人は戦った。
イスラエルは打ちまかされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。
イスラエルの護兵3万人が倒れた。
神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニーとピネハスは死んだ。
3万人が倒れた。
この人数規模はこれまで見てくるならば、イスラエル軍のほぼ全滅です。
神の箱は奪われ、サイシホフニーとピネハスは戦死をしました。
神との関係の誤解
そしてこの後見ていただくと、サイシエリもそのことを聞いてショックで死亡いたします。
ピネハスの妻もショックで子供を相残して生まれてきた子供には
イカボデと名前を付けたということが21節に書いてあります。
イカボデというのはこれは栄光はどこにという言葉です。
栄光はどこに行ってしまったのか。
実はエゼケエル書を見るならば、後の南ユダが滅ぼされるときも
神殿から神の栄光が去っていって国が滅んだということが語られます。
神様のご臨在がなければ、小さなイスラエルの民はすぐに滅びるんです。
しかし主の栄光、主の臨在があったから彼らは立ち止まることができたけれども
それが去ったら国は滅亡していきました。
いわばこれは民族滅亡の危機に彼らが瀕したということです。
一体何が問題だったのでしょうか。
これは2章のエリの一家に対する予言の成就ですけれども
先ほども読みましたが2章の30節の言葉ですね。
私をおもんじる者を私はおもんじ、私をさげすむ者はかろんじられる。
端的に言うならば、彼らは神様をさげすんだ。
何をしたか言い方を変えるならば、
彼らは神を神とせず、自らの願望を神のようにあがめたのです。
そしてその結果、願望をかなえる道具のように神様を扱ったということでしょう。
もう一度申し上げます。
彼らは神を神とせず、自らの願望を神のようにあがめた。
そして自らの願望をかなえる道具のように神様を扱ったということです。
いわばこれはグッド崇拝ですね。
アメリカの教会が作っている動画に
神様は自動販売機ではないという動画が探したら出てきます。
God is not a vending machineという。
それはこういう動画なんですね。
自動販売機があって、いろんなクリスチャンの人たちがやってくるんですよ。
その人たちが言うんですね。
神様、あなたは本当に優しいお方ですし、私の願いを全てご存知でいてくださるでしょう。
私はあの車が欲しいんです。
神様、私は独身なんです。
でもあなたは私にとって素晴らしいパートナーを備えていてくださいますよね。
私はあなたにそのことを求めます。
神様、私はあなたのために賛美のCDを作りました。
これをトレンド入りさせてください、あなたの栄光のために。
そう言いながら彼らがボタンを押すんです。
でも何も出てこない。
でも何も出てこないと、彼らはだんだん怒り始めるんですね。
いい加減にしなさい。
どれほど私があなたに祈ってきたと思うんですか。
あなたは神の愛じゃなかったんですか。
彼らは怒り、訴え始める。
何かがおかしいということに、私たちは気づいていきたいと思うのです。
偶像崇拝というのは、現在に言い換えるならば、
私は消費者意識と言えるかなと思います。
神様の前で、まるで消費者のようにサービスを求める。
あなたはそれができますよね、と。
サービスを求めて、不満があればクレームをつけて当然だと私たちは思ってしまう。
消費者から当事者へ
でもその人の神様は、神様じゃないですね。
自分の願望なんですね。
このためにあなたがそれをしてくれないとおかしいでしょう。
でもそれはそもそもが間違っています。
神様は私たちを消費者にはされませんでした。
神様は私たちを御国を共に築く当事者として巻き込んでおられるんです。
私たちは消費者ではない、当事者ですね。
当事者はサービスを求めるんじゃなくて、主にサービスを捧げます。
主に礼拝をするんですよ。
神の民として神様を礼拝する。
ただ私たちはこのことが根っこからわかってそうに見えながら、
気づかない間にこのサービスする側からサービスされることだけを求める側へと、
気づかないうちに移行していくという心が、
イスラエルの民に私たちにもありますね。
ペリシテとの戦い
ただ私たちは消費者ではなくて神の前に跪く神の民であるならば、
二つ目のポイントです。気づかなければならないことがある。
それは神は恐るべきお方であるということです。
そのことが記されているのがこの5章6章です。
神の箱はペリステの地に運ばれてまいりました。
そしてペリステ人の神であるザゴンの神殿に置かれます。
戦勝国が敗戦国の神様の像を奪ってきて、
自分の神様の神殿に飾るというのは何かというと、
この国もこの国も俺たちの神の前に負けて跪いているぞということを示すためです。
しかし5章の3節から4節を読みします。
足どでの人たちが翌日朝早く起きてみると、
なんとザゴンは主の箱の前に地にうつ伏せになって倒れていた。
そこで彼らはザゴンを取り元の場所に戻した。
次の日、朝早く彼らが起きてみると、
やはりザゴンは主の箱の前に地にうつ伏せになって倒れていた。
ザゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、
胴体だけがそこに残っていた。
契約の箱の前でザゴンが倒れているというのは、
ザゴンが神を礼拝しているという光景です。
ザゴンが神を礼拝しているという光景です。
そして翌日、ザゴンは神の前に砕かれています。
神はザゴンよりも力ある神であることを目に見えて表されます。
そしてこれを皮切りに、神様はペリシテを激しく打たれます。
これは6章の17節を見ていただくと、
ペリシテは5つの都市からなっているということがわかります。
アシュドデ、ガザ、アシケロン、ガテ、エクロン。
ペリシテは5つの領主から並ぶ5つの大きな都市によってなっていますけれども、
5章を見ていただくならば、契約の箱が担ぎ込まれた5つの都市のうちの3つの都市が壊滅するんです。
神の契約の箱が運び込まれただけで、激しい疫病が起こり、そこに住む住人が打たれます。
これはまさに湿エジプトを彷彿とさせる恐るべき神様の力ですね。
いわば契約の箱を誰も扱い切れないんですよ。
しかしそれは言い方を変えるならば、神様ご自身が人が扱い切れる道具では決してないということを表しているんです。
そうではない。
神様は愛なるお方です。
しかし同時に恐るべきお方です。
神様は神々の中の神であって、王の中の王である。
神は誰にも扱い切ることなどできないのですね。
そして6章を見ていきますと、この未曾有の災厄のように見える契約の箱は、どうにかイスラエルの地に送り返そうと言ってフィリステ人の中で拡策をされます。
名主に神の箱を運ばせて。
神様ご自身が名主を導いて、イスラエルの国境の街ベテシメシまで契約の箱は戻っていきます。
しかしこの6章の後半に書いてありますけれども、ベテシメシの住人も契約の箱が帰ってきた。
バンザーイと言いながら、彼らの中で主の箱の中身を除いて討たれるという人々が出てきます。
19節にその方が書いてあります。
ベテシメシというのは、ヨシワキを見るならばこれはレビビトの街なんです。
神様の箱について一番扱いがわかっているはずの民族なのに、神の契約の箱に対する恐れもなく箱の中を覗いたというのは、
それほどまでに神様に対する恐れが失われているということが状態化していたということですね。
この箱は誰も扱い切ることができません。
心のすべてをもって主に立ち帰れ
キリアテエアリムという祭祀の街の祭祀の家に移されて20年間、神の箱は動かすことができない。
それは6章の20節に書いてある通りです。
誰がこの聖なる神、主の前に立つことができるだろう。
あまりにも強烈な神の清さの前に、イスラエルの民は誰一人立ち往生せない。
いや、立ち直り方がわからない。
しかし彼らに必要なことは、まず必要なことは徹底的に悔い改めなければならなかったということです。
3つ目のポイントに進みます。
心のすべてをもって主に立ち帰れという言葉が今朝語られています。
心のすべてをもって主に立ち帰れ。
今朝読んでいただいたのは7章です。
この7章では再びペリシテがイスラエルに襲いかからんとする状況でありました。
すでに指導者は青年祭司サムエルでありました。
イスラエルの民は神を死体求めていたということが2節に書いてあります。
いつペリシテに襲われるかわからない危機の中で、主の見舞いに私たちは改めてどう立つべきなのかということを彼らは探しあぐねていた。
そしてサムエルは言います。
3節を読みしますと、7章の3節にサムエルはこのように言います。
サムエルはイスラエルの善下に言った。
もしあなた方が心のすべてをもって主に立ち帰るなら、あなた方の間から異国の神々やアシタロテを取り除きなさい。
そして心を主に向け、主にのみ使えなさい。
そうすれば主はあなた方をペリシテ人の手から救い出してくださいます。
思い出していただきたいのは、高ぶる者であったホフニとピネハスは、この危機の時に神の王座を我々の願いを叶えてくれる者として持ってこようとしました。
しかしサムエルは王座は動かしません。問題は箱がそこにあるかないかではなくて、私たちの姿勢が神の前にどうであるか。
主の前に食い改め、心を主に向け使えよとサムエルはこの時に導くのです。
彼らはバールやアシタロテを砕いたということが四節に書いてあります。
バールはアシタロテといいますのは、これはカナンの土着の夫婦神なんです。
バールというのは天皇の神様、アシタロテというのは法上の神様、女神様です。
これは何を言っているかというと、天気と豊作なんです。
この地域に住む人たちからしたら豊作というのはものすごく大きな願いです。
日本でも竜神様が祀られていますけれども、竜神はもともと蛇神で雨漕いですね。
でもそのように豊作がなるというのは死活問題なんだけれども、だからこそ天皇や法上というものが欲しいと願い、
彼らの願った願望がまんま成果物として現れるのが偶像です。
もとは人間の願望です。こうなってもらわなければ困るという。
それがバール、アシタロテでありました。しかしそれを砕けと言います。それを砕きなさいと。
いかにその願いが良いものであり、豊作も必要ですよ。だからそれは必要なものなんです。
しかしその願いがいかに良いもので必要なものであったとしても、自らの願望が神となってしまうならば、それは偶像です。
そして私たちはまことの神を自らの願望を叶える道具にしてはならないということを今朝語られている。
この願いを叶えてくれない神は間違っていると、私たちがどこかで思うならば、私はその願いには心から共感します。
そういうことは思って当然かもしれません。ただ私たちはその願いが私の偶像になってはいないかという危機感は持たなければならないでしょう。
そうなってはいないか。
神様は私たちの願いに無関心なのではありません。願っていいし願ったものは聞かれるのです。
ただそれを決められるのは神様。試験者は神様。
神様はバールとアシュタロテに民が豊穣を求める前から40年間日ごとにマナーを与えてきました。
食事を満たしたのはバールやアシュタロテじゃなくて神様です。
神様はこの後イカズチを持って雷鳴を持ってペリシテを打ったということが十説に書いてあります。
しかし雷鳴は元々はバールの象徴です。
でもバールがいなくなったとしても雷鳴によって私はあなた方を守ると神様はここで言われる。
生ける神があなたを守るんだということを語っている。
神はご自身の民を決して軽んじられないのです。
ずっと軽んじられることはありません。
そして神は神であります。
私たちの人生にはペリシテ人のような敵はいつでも出てきます。
それは特定の人間ということかもしれません。
もしくは何かの事件何かの病気になったということかもしれませんし
私たちはその時に自分で解決を考えてこうなってほしい。
しかしそれが強くなってこうならなければ困る。
そういうところで進んでいくことがあります。
願いの委ね
心はそのような願いに満たされていきます。
しかしそこで心を主に向け主にのみ使えなさいと言われる時に
私たちが気づかなければならないことは
私の中にもしかしたら砕かれなければならないものがあるかもしれないということです。
願いが砕かれ主の手に委ねる時があるのではないか。
願い自体がというかこうならなければと
この道筋を決めてしまっている私の願い
私の思いが砕かれなければならないかもしれない。
一つのお話をしてもう終わります。
私を小さい頃から可愛がってくれた教会のご夫人
役員もなさっていた方にある女性の方がいらっしゃいました。
この方はご主人の都合で途中に関東に引っ越されて
引っ越された先で病気になられたんです。乳がんになられたのです。
乳がんの治療が向こうでなされて
久しぶりに舞妓の教会に帰ってきてくださって
共に礼拝をして
礼拝後に挨拶ということで去ってくださいました。
印象では体が本当に小さく細くなられたなという印象でした。
その時にこの方がこういうことをおっしゃられたんです。
私は乳がんになりました。
神様なぜですかと私は訴えました。
しかし祈りの中で示されたことは
神様は私が健康という賜物の
良き管理者ではなかったということを示してくださって
むしろ私は今悔い改めています。
そして今私の中には偶像があります。
私の偶像は乳がんです。
がんが再発しないかという恐れ自体が
私の偶像になっています。
けれども皆さんどうか私が最後まで
ただ神様だけを見つめて
礼拝し続けられるように祈ってください。
その時にそうおっしゃられたんですね。
大学生自分の私は正直言っている意味が理解できなかったです。
え?いやそんな神様がそう…え?
理解ができなかった。
でもそれはきっと私の信仰の幼さと
その方も持っている信仰の純粋さがかけ離れていたんでしょうね。
しかし今になったらなんとなく分かります。
ああこの人は本当に神様を恐れて
神様を愛している。
自分の願いを超えて私の存在のすべてももう
主にお任せして
最後まで私はただ主を礼拝できますようにと
祈られるというのは
すごいことだなと思います。
この方はがんが再発しました。
そして召されて参りました。
ただこの方の生き様は強烈に私の中に残っています。
ああ神を信じるってこういうことなんだなということを教えられました。
今になっても思います。
こういう信仰に私自身もたどり着けるのかな。
難しそうだなと思う。
けれども私たちが進む方向はこの場所ではないかなと思うのです。
神を神として恐れ
そのお方が私の人生を握っている。
そしてもっと言うならば
この恐るべき神が私たちには全く納め切ることのできない神が
私たちを愛すると決断して御子を十字架にまで捧げてくださった。
それほどまでに私たちを愛すると決定してくださった。
私たちは自分の願いがどうこうではなくて
この偉大な神がそれほどまでの愛を持って私を握ってくださっているという
その事実のうちに生きなければならないのではないでしょうか。
生産式をこの後取り行います。
神の愛と生産式
私は生産式のときに毎回ピリキッションの2章をお読みします。
キリストは神であられたのに神である在り方を捨てられないとは考えずに
十字架にまで従われた。
神はそういうお方です。
そうであるならば私たちは自分の願いがかなうかどうかだけではなく
神であるお方の身力と愛を信じ
委ねていくことができるのではないか。
この私の願いについても
あなたの恩命にかなうことをなさってくださいと
私たちは言えるのではないか。
今朝主が私たちに語られる御言葉は
心のすべてをもって主に立ち帰れです。
心のすべてをもって主に立ち帰れ。
心の中には願いがあります。
その願いは軽んじられるべきではないでしょう。
でもその願いを握っておられるのは主なのです。
そのお方の前に私たちは神御心への恐れと
神の愛の豊かさを取り戻したい。
悔い改めと許しの宣言がなされる場所が
生産式です。お祈りをいたします。