1. 名谷教会 podcast
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2023-09-03 46:27

2023/09/03:原点に帰る

2023/09/03 聖日礼拝(振起日礼拝)

加藤満牧師

申命記 -33


サマリー

今日の御言葉を聞かせていただきたいと思います。アドベントに向けて、イスラエルの民の原点とモーゼの遺言について考えます。神様の裁きは悔い改めへの招きであり、争いを経て和解へと導くことを目的にしています。モーセは一人ではなく共に歩む群れであり、教会もまた和解に仕える群れであることを説明しています。 モーセがイスラエルの民にアナク人の巨人がいると警告しますが、ヨシヤとカレブは神が戦うのであれば彼らを倒せると言い、モーセは彼らに過去の神の救いを思い出すように話します。信仰は過去が軸であり、イエスの十字架と復活を覚えながら現在と未来を見据えるべきだというメッセージを伝えます。しかし私たちは神様の救いを基としているんだということを思い出しなさいと言われます。主が圧倒的に私たちを愛し主が圧倒的に死に対して勝利をされたあの十字架を軸に私たちは生きている群れなんです。私たちはだから十字架復活を見つめ休んでいる群れなのではないでしょうか。

モーゼの遺言
みなさん、おはようございます。お祈りいただいて、ありがとうございました。
先週は、私は神戸大石教会でご報唱させていただいて、本当に私自身恵まれるひとときをいただきました。
また、教会には西名さない先生が来てくださって、また良いお交わりもいただけたことと思いますし、
また、そのことも何か分かっちゃっていただけたら嬉しいなと思います。
本当にお祈りいただいて、本当にありがとうございました。
一言お祈りをして、今日の御言葉をご一緒に聞かせていただきたいと思います。お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
9月の第一週を迎え、私たちは今朝、新規日の礼拝を迎えています。
暑さはまだ続きますが、しかし私たちは秋へと、またあなたが孤高端されたアドベンツへと向かって歩みを進めてまいります。
どうか、宮谷教会の歩みを、主が豊かに祝福してください。
あなたは教会のお一人一人を、いや教会を愛し、あなたはご自身の血を流してくださいました。
それによって私たちを贖い取ってくださいました。流された血潮によって罪が完全に許され、
それだけではなく、あなたがあの十字架の首から三日目に蘇らされたことにより、
私たちにも復活の命、永遠の命を与え、今なお主が私たちと共に歩んでくださる
恵みの世界へと私たちを招いてくださったことを感謝をいたします。
神様、祈られたように、私たちは心も体も霊も弱いものです。
あなたの憐れみを求めています。主が立ってくださり、御言葉を通し私たちを養い、
あなたの命で満たしてくださいますように、様々な戦いを抱えていますが、
しかしその中であなたは多く信仰を得ることができるように、この一時を祝福してください。
お願いいたします。家にいて礼拝を守っておられる方々、また施設にいて主を仰いでおられる方々がいらっしゃいます。
どうかお一人一人の命をあなたが支え、あなたが守っていて下さいますように、お願いいたします。
祈られたように、戦争がなおも続いています。多くの人たちが痛み、また命を失い続けています。
主が犠牲者たちに知恵を与えて下さり、戦争が長く続かないよう、どうかあなたが導き、平和を築いて下さい。お願いいたします。
御言葉を聞いていきます。語る者の唇を清め、あなたの御用のために役立てて下さいますように、
これからの一時を見てにゆだねして、イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
今朝は神機微礼拝をお迎えしています。
週報に少しだけ記載をさせていただきましたけれども、この日はアメリカの教会学校で始まった日なんですね。
英語で言うとラリーデイというそうです。ラリーという単語には、再び集うであったり、心を奮い起こすという意味があるそうで、
夏休み明けの子どもたちですね。ちょっとニュースでちらっと見て、やっぱり夏休み明けの子どもたちってすごくいろいろつらいことが多いですよね。
この時期が本当に苦しい。でもその子たちが再びこの教会に集うことができるようにという願いであったり、
また場所によってはその教会に普段来られていない方々が再び来ることができるようにという願いであったり、
また私たちはこれから秋、そしてアドベントに向けてまた進んでいくわけですが、再び夏の暑さから心を奮い起こして前に進もうという、そういう時です。
暑さがまた続いていますけれども、無理なくでも徐々に私たちのペースで進んでいかせていただけたらと願っています。
さてですね、9月からアドベントにかけて私は礼拝で旧約聖書の新明記から聞いていきたい、続けて聞いていきたいと願っています。
新明記、いわばヨルダン川を越えて本格的にカナンの地に入ろうとする時、まさにヨルダン川を越えてこれから本格的に入ろうとするその前に、
イスラエルの民に語ったモーセの言葉、それが新明記です。あるところではこれはモーセの遺言と表現されます。モーセの遺言です。
この言葉に聞いていきたいと願っています。この今のタイミングで新明記を聞くことって少し意義深いなぁとも思うんですね。
私たちはこの夏に30周年の記念の時を迎えました。幸いな時でした。
生ける信仰という本当に大切なテーマを語っていただきましたし、それを胸に私たちは31年目を刻んでいくわけですが、
しかしですね、私自身7月からここにいる新山者なんですけれども、教会が31年目を迎えて進んでいくにあたり、ふと思わされるのは、何をするではなくて、やっぱり何を一番大事にしなければならないかということを問われているような気がします。
何をするではなくて、何を外してはいけないかということではないかなと思うんです。やっぱりそれを整理する必要があると思わされています。
コツコツと私たちはすべきことをしていきたい、でも何をするにしても大事なこの一点を外してしまったら、何をしても何か軸がずれたものになってしまう、そういうことがあると思うんです。
神明記というのは、ある意味でそういうことを年頃にモーセが語り続ける言葉なんです。
モーセの遺言と先ほども言いました、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、神明記の最後にモーセの死が記されるんです。
彼は神様の示しによってヨルダン川を渡っていけないんですよ。
でもこれから先もイスラエルのためはヨルダン川を渡っていかなければならない、モーセを残して。
でもこれから異郷の地、未開の地、戦いが多くある地、しかしそこに進んでいくにあたり、あなたたちはこれを忘れてはいけない、これだけはしっかりと覚えておかなければならない。
イスラエルの民あるし、エジプトから導き出したホントニリーダーモーセが年頃にまさに命をかけて語った言葉、それがこの神明記です。
何を忘れてはいけないのか、先んじて言ってしまいますと、それは神様の言葉です。神の教え、立法を忘れるなということです。
この立法というのが神明記では中心的に語られます。
その語り出しの最初、今朝読んでいただいたこの1章以降ですけれども、
モーゼと道路者たち
このモーセは不思議なことに語り出すにあたって、まず最初に過去を振り返るところから始めるんです。過去の解剖から始めるんです。
私たちはどこから救われ、どのように導かれてきたか、そういう民であるかということをまず確認をいたします。
それは言い方を変えるならば、まず進んでいくにあたり、私たちの原点はどこだったのか、私たちはどこから救われ、どう救われ、どこへ向かっていくのか、実はそのことを最初に確認をしています。
今朝1章、それ以降を少し読みながら、私たちは一緒に原点を確認させていただきたいと思うんです。
2つのことを確認していきます。
1つモーセが確認したこと、それはまず彼は、私は決して一人ではなかったということから話すんです。私は決して一人ではなかったということ。
そしてもう一つ彼が語るのは、私たちは神の救いをもとにして生きてきたよねということを確認するんです。神の救いをもとにして生きてきたよねと。
この2つのことをご一緒に、けさみ言葉からお聞きできてあげるとお願いしています。
さて、過去をイスラエルの民とともに振り返っていくモーセなのですけれども、最初に彼が思い出したことは何でしょうか。
今日の、ちょっと今日読んでいたところ、前のところを見ていきますが、1章の9節というところに彼はこう言うんです。
1章の9節。
私はあの時あなた方にこう言った。私一人であなた方を追うことはできない。私一人であなた方を追うことはできない。
9節を読みましたが、この9節から15節に書いてあることを見ていかれるとわかるのは、
これは出エジプト記の18章で書かれている、イテロが出てきてモーセに助言をした、その箇所が改めて書かれています。
モーセがこの何十万人というイスラエルの民をエジプトから導き出していきました。
そして最初、この何十万人という人々の課題であったり問題であったり、モーセが一手に引き受けていたわけですね。
しかしその問題を私はさばききれない。一人では全く無理である。
だから続けて13節を見ていきますと、あなた方部族ごとに知恵があり判断力があり、経験に富む人たちを出しなさい。
彼らをあなた方の頭として立てようとモーセは言いました。
まさに民の中からこの知恵判断力、経験に富んだ人たちを立てた。
いわばこれは言い換えるならば、モーセの道路者たちなんですね。
イスラエルの民を導いたと聞きますと、私たちはまずモーセの姿が思い浮かびます。
その次に浮かぶのがもしかしたら兄アロンの姿かもしれないし、その従者ヨシアの姿が思い浮かぶかもしれません。
けれども実は大切なのは実体はそれだけではなかったわけです。
聖書にはもしかするならば名前も残っていない、しかし数多くのモーセを支える人たちがいたわけですね。
そしてその人たちがいて、モーセはその人たちのことを忘れないわけです。
この何十万という、いわば神の民、契約の民なのですけれども、
それを受け止めていくために私は一人ではそれを受け止めることができないというところから、彼の過去の解雇は始まるんです。
私はそういうことができなかった。
あなた方がいたから、私はこの40年間、その民を受け止めて歩んでくることができたのだと彼はまず言うんです。
そして道路者の、この道路者たちとともにモーセが最初に向き合ったのは外部の敵ではないわけですね。
問題は内側というか、彼を悩ませたのは内側の問題も多かった。
モーゼと民の対応
十二節に書いていますが、どのようにして私一人であなた方の揉め事とおもにと争いを追い切れるだろうかと。
男性だけで60万人いたと民数記に書かれています。
ですから100万人以上いる民と考えていいんじゃないでしょうか。
ちょっとゾッとする光景ですね。
その民が一緒に歩んでいる、当然いろんな問題が起きてくるわけです。
けれどもそれをモーセは一人ではさばききれない。
これだけの集団になればトラブルも後を絶ちません。
ひっきりなしにモーセに持ち運ばれる問題を、
彼は一人では抱えることをせずに、同僚者たち、仲間たちとともに、
言い方を変えるならばチームで対応していたということを言うわけです。
加えてこの対応方法が16節から17節に書いていますけれども、
私は読みながら実に驚かされる内容だなと思います。
これは今も私たちに通用する知恵だなと思います。
16節、17節を読みますと、
その時私はあなた方の裁き人たちに命じた。
あなた方の同胞相互の言い分をよく聞き、
ある人とその同胞との間、また既留者との間を正しく裁きなさい。
裁判では人を偏ってみてはならない。
身分の低い人にも高い人にも皆、同じように聞かなければならない。
人を恐れてはならない。裁きは神のものだからである。
裁きと和解
あなた方にとって難しすぎる事柄は私のところに持ってきなさい。
私がそれを聞こうと。
孟瀬がここで言うのは、同胞相互の言い分を聞きなさい。
そしてまた民を偏り見てはならないという、
ある種私たちからするならば大事です。大事だけれども基本的なこと。
喧嘩の仲裁に入られた経験がある方はわかると思いますけれども、
片方だけの言い分で絶対事を済ませてはいけませんよね。
喧嘩は絶対に双方の言い分を聞いて、そしてそれだけではなくて、
その人が好き嫌いを超えたところで私たちは対応しなければならないわけですけれども。
ただもう一つこの歌詞を読んでいて驚かされるのは、
この人々の中に既留者という言葉が入っています。既留者。
既留者との間を正しく裁きなさい。
17節にも身分が低い人の言い分をちゃんと聞きなさいということが書いてある。
身分の低い者、既留者、言い方を変えるならば、
いわゆる他の国ではこの人たちは奴隷として扱われてもおかしくないんです。
普通は同じレベルでは扱わない。同胞と同じように扱うことなどしません。
でも神様はここで、この偏ることなく裁きなさいと言われるのです。
これは当時の世界においては非常識でした。こんなことをやる国なんかないんです。
当時の世界において身分というのは絶対です。
通常、既留者同胞と呼ばれるイスラエルタの民と
既留者というのは身分が違いますし、
そして身分の違いがあれば、実は裁きって簡単なんですよ。
身分が高い人間が言ったことが正しいんです。
身分が高ければ黒いものも白くなるんですよ。
そういうふうに簡単に裁きを下せるにもかかわらず、
神様はここで偏ることなく裁きなさい。
面倒なことをモーセは指示をするわけです。
なぜでしょうか。
17節に書いていますが、
人を恐れてはいけない裁きは神のものであるからです。
神のものだからであると言われるんですね。
モーセのこの基準というのは、神様の基準で裁きを指示しているわけです。
神様の目から見れば、
イスラエルの民は大事なんですよ、当然ですよね。
けれども既留者も大事なんです。
身分の低い人たちも神様の目から見たら、
どんなに身分の低いものであっても大事なんです。
神様の憐れみの眼差しには、
一人一人の存在は本当に大事なんですね。
その存在を神に仕えているあなた方は、
決して軽んじてはならないということをここで言っているわけです。
決して一人一人の存在を軽んじてはいけない。
当然、片方だけを担ぐということも、
そして誰かを偏り見るということもしてはいけないという。
そしてこの17節の最後を見ていくと、
この裁きが実に丁寧に最後までされていることがよくわかります。
17節の最後を見れば、
あなた方にとって難しすぎる事柄は、
私のところに持ってきなさい。
私がそれを聞こうと、もう背がゆうんです。
私たちの世界でもありがちなのは、
難しい事柄というのは、
どこかで無理やり結論付けるということがあるわけです。
いや、お前が悪いと言ってしまう。
しかし、そうではない。
私のところに持ってきなさい。
私がそれを聞こうと、もう背は最後まで言います。
もう背は最後まで聞く姿勢を持ち続けました。
私はこの姿勢に、
実に神の器とされたもう背の姿が表されているように思うんです。
忍耐深いんですよ。
どこまでも忍耐深く、
その人の言葉を聞こうとし続けること。
その争いに付き合い続けるということ。
断罪するのは簡単なんです。
あなたが悪いと言ってしまうことは、もう背の立場からしたら簡単なんです。
でもそれをパッと言ってしまうのではなくて、
最後まで最後まで彼は引き受けながら、
民と共に簡単に裁きを下すのではなく、
その争いを一緒に悩み続ける。
でもおそらく神様の視点ってそういうところだと思うんですよね。
神様の視点はいつも争いを生み出して、
争いを断罪して分裂を生み出すというものではないんです。
これはエレミア賞のときによく語りますけど、
神様の裁きというのは悔い改めへの招きなんです。
裁くことを目的にはしていないんです。
民が回復をして、その分裂した民が和解をするために、
神様と和解をするために、実は裁きというものが聖書に書かれています。
神様の視点は断罪や分裂に目的があるのではない。
神様の視点はいつも争いを経て和解へと導くことを目的にしているんです。
和解へと導くということ。
モーセのこの詩辞の丁寧さを見るときに、
このモーセの中に一つのイメージがあるように思うんです。
それは、モーセは私たちは誰かを断罪するための群れではないということです。
そうではなくて、モーセは私たちは和解に使えるための群れなのだということを
彼は思っているように思うんです。
私たちは和解に使えるための群れなのだと。
いたずらに争いに油を注ぐのでもない、相手に無責任になるのでもない、
争いに和解が生まれるために苦闘する群れなんです。
イスラエルの民はそうだということを彼は言うのではないでしょうか。
神が愛する一人一人の存在をないがしろにせず、
公正に見つめ続ける群れ。
それがイスラエルの群れである。
これこそが私たちなのだと言わんばかりに彼はここで何かそういうことを言っているんです。
ここまでお聞きになられてお気づきかもしれませんが、
旧約聖書のイスラエルの民というものを見るときに
私たちはどこと重ねればいいのか。
これは教会と重ねてみていいと思うんですね。
聖書の流れを見ていくときに
イスラエルの民というのは教会の前身なんですよ。
教会の前身である。
モーセの言葉はそういうところで言うならば
今の教会にも変わらず語られ続ける言葉です。
新約聖書の中で教会について語られていると言われる
エペソ人への手紙というところには
そういう言葉があります。
ちょっとちらっと聞いていただけたらと思いますが
互いに親切にし、優しい心で許し合いなさい。
神もキリストにおいてあなた方を許してくださったのです。
エペソ書の4章の32節というところにこの言葉があります。
あなた方は互いに親切に優しい心で許し合いなさい。
神もキリストにおいてあなた方を許してくださったのです。
教会というのは明らかに和解に仕えているんです。
許し合いなさいと言うんです。
そしてその根拠はキリストがあなた方を許してくださったようにと。
私たちと言っていいのかしら。
私たちもまた和解に仕える群れです。
ある種それはこの世界の破れ口、もっと小さく言うならば
それは私の周りや私の中にある破れ口に対して
分裂ではなくて和解をもたらすために召されているということです。
そしてモーセのこの言葉を見るときに私たちが教えられるのは
それを私たちは決して一人で取り組むのではないということです。
モーセは私一人では無理だったと言っているんです。
無理なんですよ。
でもそうではない。
どんなに優れた指導者であっても一人でできることなど限られています。
しかしモーセが最初に振り返ったのは
いや、私は一人でこのことをしてこなかった。
あなたたちがいたということを彼は言うんですよ。
私は決して一人ではなかった。
40年以上のアレノのその旅の中で
あの争いもこの争いもモーセを思い返したら色々あったでしょう。
けれどもそのときに神は知恵を授けてくださり
そして何よりも支え助けてくれるあの人この人がいたと彼は言うんです。
それで40年以上歩んできた。
私たちもそうです。
私たちも30年教会を歩んできましたよね。
30年の教会の歩みのまさにその歩みがどのようなものであったでしょうか。
ただ私自身が思わされるのは
教会の歩みの至近跡となるのは
特別にあれをしたこれをしただけではないはずなんです。
いや、それ以上に大事なものはきっと
そのような記録にも残らない。
共に歩む群れ
けれどもあの人が痛むときに私たちは一緒に痛んできた。
あの人が苦しいときに私たちは共に祈ってきた。
そのような歴史の一つ一つこそが教会の至近跡なんですよ。
教会の原点とはそれなんです。
キリストの十字架に立ってキリストと同じように共に痛みながら
キリストと同じように下っていきながら
私たちは共に歩んでいく。
教会ってそうなんだということを私たちは思い起こすんですね。
知恵と判断力と経験に富む人たち
正直告白いたします。
私よりも皆さんの方がそういうところがあるなと私は思っています。
ぜひ教会は共に歩んでいく群れであるということを
ご一緒に覚えたいと思います。
そしてまた言うまでもありません。
国主夫妻だけでは皆さんを追うことはできない。
ぜひ共にコツコツと歩んでいきたいと思います。
大きなことではなくて
キリストが私たちと神の和解を築かれたように
私たちはコツコツと共に和解を築き和解に仕えていく。
私たちがあるべき31年目というのはそういうものではないかなと
私は思わされています。
もう一つのポイントを見て終わりたいと思いますが
もう一つご一緒に確認をしたいのは
神の救いをもとにとする群れであるということです。
私たちはこれを忘れてはいけません。
今朝読んでいただきました1章の19節以降ですね
孟瀬は一つの出来事を思い返していることがこの箇所を見ればわかります。
民数記13章以降に記されていますけれども
カナンの地への偵察隊の話ですね。
もう皆さんご存知かもしれません。
十二部族の代表者がカナンの地に偵察で使わされていくわけです。
カナンの地、それは孟瀬が召された時から
神様が与えると約束をされていた土地ですね。
だからそのところに孟瀬はイスラエルの民を引き連れて行くわけです。
しかしこの十二人行ったうち
帰ってきた人たちはまず言うんです。
良い土地であると。カナンの地は神が約束された通り
アナク人の警告とヨシヤ・カレブの信仰
父と三つの流れる本当に良い土地である。
でもそのうちの十人が言うんです。
でもあの地にはアナク人が住んでいると。
だからカナンへ進むことをやめようと彼らは言うわけです。
28節ですね。アナク人を見た。
28節にその民は私たちよりも大きくて背が高い。
町々を大きく城壁を高く天にそびえている。
しかもそこでアナク人を見た。
アナク人、ちょっとだけ説明をしますと
アナク人というのはいわば簡単に言うと巨人です。
聖書の中に出てくる巨人。
民数記の13章の33節というところには
ネフィリムの末裔アナク人という説明がなされています。
ネフィリムというのは創世紀に出てくるちょっと謎の多い巨人なんです。
でもあの巨人、神の子なんですけど
ネフィリムの末裔であるアナク人があそこで待ち構えている。
だから私たちは勝ち目がないからやめようと十人は言います。
しかし二人だけ、ヨシアとカレブの二人だけが
神が戦われるのであればその地を取ることができるんだと言って
進もうと言います。
さあ、孟子はどう判断するでしょうか。
今日の29節から33節の言葉がそういう言葉なんです。
お読みします。29節から33節。
それで私はあなた方に言った。
おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。
あなた方に先立って行かれるあなた方の神主があなた方のために戦われる。
エジプトであなた方の目の前であなた方のためにしてくださったのと同じように。
またアラノではこの場所に来るまでの全道中
あなたの神主が人が自分の子を抱くようにあなたを抱いてくださったのを
あなた方は見ているのだ。
このようなことによってもまだあなた方はあなた方の神主を信じていない。
主はあなた方が宿泳する場所を探すために道中あなた方の先に立って行き
夜は火の中昼は雲の中にあってあなた方が行くべき道を示されるのだと
モーセはこのように語ります。
これはある種モーセの信仰の姿勢が詰まったような言葉ではないでしょうか。
彼はおののいてはならない。恐れてはならないと言います。
それはアレノのあの40年の全道中、神様はあなた方から離れたことがなかったでしょうと言うんです。
そしてあなた方に先立って戦い、時にあなた方を抱きしめ
アレノであなた方が休むための宿泳を探すため
神ご自身が昼も夜も先立ってあなた方を導いてきたでしょうと
そのような歴史を回顧いたします。
40年の間、民は変わり続けます。
時に都合のいい時には神様に私たちは従いますと告白をいたします。
しかし食べ物がない、飲み物がない、都合が悪くなった時に民はあのエジプトに帰りたい
神が私たちを殺すためにここに導いてきたのだと不平を言います。
しかし主なる神様は全く変わらなかったと言っています。変わらなかった。
その民に対して忍耐をし続け、哀れみを注ぎ続け
神様ご自身の恵みを決して絶やすことがなかった
その方が今もあなた方の前に立っているでしょうと言います。
そして32節の言葉はずきっと私たちの胸を刺します。
このようなことによってもあなた方はあなた方の神主を信じていないと
信仰を持たせていただきたいと思うわけですけれども
先々週でしょうか、私は信仰とは何を見ているかだというお話をいたしました。
その通りだと思います。信仰というのは何を見ているのかですね。
不信仰に陥るとき、私たちはこの10人の石膏たちのように
目の前の現実を見ます。ああ、アナクジンがあそこにいる。
あれがあるから、これがあるから、あんなことがあったから。
しかし、孟瀬の視線は違いました。
彼は現実を見るんです。彼は現実を見はするんですよ。
アナクジンに立ち向かわなければならないという現実を決して外しません。
しかしながら彼の眼差しというのは、現実だけに向けられているものではなかった。
じゃあ彼は一体どこを見ていたのか。
過去の神の救いを思い出す
30節に、今日中心にさせていただきます。
30節に彼はこういうことを言うんです。
あなた方に先立って行かれるあなた方の神、主があなた方のために戦われる。
エジプトであなた方の目の前であなた方のためにしてくださったのと同じようにと彼は言います。
彼は現実を見ると同時に過去を見つめるんです。過去なんです。過去を見つめる。
あのエジプトから民を導き出された、あの出エジプトの出来事を彼は見ている。
あのエジプトから民を導き出した神の救いの御手を思い出しなさいと彼は言うんです。
言い換えるならば、孟瀬は過去になされた神様の救いの御技を軸にしながらも、そこを軸にしながら現在と未来を見据えるんですね。
実は彼の信仰というのはそういうあり方なんです。
過去に軸を置きながら現在と未来を見据える。
あの救いを成し遂げた神は今も私を救うことのできる神であると。
過去が軸である。過去が軸である。
これはキリスト教信仰の理解においては本当に大事なことです。本当に大事な理解です。
このことについて水谷清先生という人が上手に説明をされるなと思ってある本で書いてたんですけれども、
こういう比喩的な表現がありました。信仰と聞くと私たちはどこを見がちなのか。
よくあるのは私たちは斜め上を見がちなんです。斜めを。ちょっと比喩的ですね。斜め上。
斜め上というのは何か。すなわち今の自分を見て私はダメだ。もっとこうならなければならない。もっとこうあるべきだ。
今の事柄に対してもっともっともっと私はこうならない。教会はこうならない。
斜め上を私たちは見て信仰ということを語りやすい。もしくはあそこに至れない。私なんか神様には愛されていない。
こういうことができない。こういうことすら許せない。私は天国に行くことができない。そう考えてしまう。
でもこれはキリスト教信仰においては明らかに間違った理解です。
信仰というのはそういうことじゃないんです。ではどこを見るべきなのか。
三谷先生が言います。私たちの信仰はいつも後ろ斜め後ろ。後ろ斜め後ろ。後ろ斜め後ろというか斜め後ろを見るべきだと言うんです。
じゃあ斜め後ろには一体何があるのでしょうか。そこにはイエスキリストの十字架の使徒復活があるんです。
斜め後ろにはイエスキリストの十字架の使徒復活がある。
私たちの救いというのは今の自分がどうあるかどうなれるかというところに基準がないんです。
そこに規定をされているわけではないんです。そんなことで揺らぐような救いですらないんです。そうじゃない。
私たちの救いはそして私たちへと向けられる神様の愛というのは2000年前のあのイエス様の十字架でのみ規定されるんです。
そこに全てが表されているんです。十字架を通し神様は限りない愛を私たちに示されました。
巫女を十字架に捧げても惜しくないと言われるほどに神様は私たち一人一人を愛されたんです。
そして私たちの罪を許し神の子としてくださり、それだけではない、死をも超越する神の力によって巫女をよみがえらせてくださいました。
私たちも神の子と呼ばれ、神に結ばれた命を今生きている、そのような恵みを私たちに与えてくださいました。
そして何よりも死で終わりではない、御国へと私たちを招き入れてください、その約束を与えてくださいました。
これは今の私たちがどうあろうと変わらない事実なんです。私たちがこの救いを消し去ることなんかできないんです。
信仰の軸としてのイエスの十字架と復活
どういう風に生きようとも、あなたがイエスを死と告白したあの時から私たちの救いを奪い去ることなんか誰にもできないんです。
私自身は実は意識的に礼拝の中で最初に祈る時に十字架の祈りを祈ろうとしています。
私たちの救いと信仰というのは十字架を抜いては我解するんですよ。
逆に言うならば、私たちはイエス様の十字架と復活から現在を見なさい、未来を見なさいと招かれるわけです。
十字架を見つめてなお、神の愛があなたから離れたと本当に思うんですかと私たちは言われます。
イエスを死からよみがえらせた神の絶大な力を見てなお、あなたは神は無力であると考えるんですかと言われます。
このようなことによっても、あなた方はあなた方の神死をまだ信じないのかと私たちは言われるような気がします。
もうせはこの後ですね、2章の26節から3章の7節というところには、新明記には
ヘシュボンの王シホンとバシダンの王オフを倒したという記述が出てきます。
カナに行く上で通る道の王様を倒したということが書いてある。
もうせはその戦いが終わった後に、3章の21節、22節になりますが、ヨシワに向けて書けた言葉があります。
新明記の3章の21節。
私はその時ヨシワに命じた。
あなたはあなた方の神主がこれら二人の王に対して行われた全てのことを自分の目で見た。
主はあなたがこれから渡っていく全ての国々にも同じようにされる。
彼らを恐れてはならない。
あなた方の民に戦われるのは、あなた方の神主であるからだと。
もうせはヨシワにそのように告げます。
あなたは自分の目でこれを見たでしょうと。
これと同じように主はこれからも戦われるのだと。
私たちの信仰は過去が軸だと申し上げました。
過去が軸である。
もうせにとってそれは、あの出演出の出来事だったでしょうし、
そして私たちにおいてそれはイエス様の十字架と復活ですね。
しかしもうせはそのような神様がヨシワに見せてくださった新たな勝利に対しても目を焼き付けなさいと言うんですよ。
これをしっかりと覚えておきなさい。
それを軸にこれからを恐れずに見つめなさいと言います。
今度もあの時戦われた主が戦われるんだと言われる。
私たちは30年の歩みを祝ってきました。
イエス様の十字架と復活を信じ歩んできた30年であった。
そのようなことです。
しかしその歩みにおいても私たちにもまた主が戦って私たちの目に見せてくださった主の勝利ってあるんじゃないでしょうか。
教会の中においてもしくは私たち一人一人の人生の歩みにおいて主が戦い主が勝ってくださったという勝利を私たちも見ているんじゃないでしょうか。
主は今も生きておられるんです。
確かに私たちを救い死に勝利された神様は今も生きておられる。
だから安心して信じなさいと言われるんです。
私たちは目の前の現実を見るということにはとてもチャレンジがいりますよね。
ネットコミュニティの盛り上がり
しかし私たちは神様の救いを基としているんだということを思い出しなさいと言われるんです。
主が圧倒的に私たちを愛し主が圧倒的に死に対して勝利をされたあの十字架を軸に私たちは生きている群れなんだ。
私たちはだから十字架復活を見つめ休んじる群れなのではないでしょうか。
もうありますけれどもある教会の先生が正解説教でこういうお話をされていました。
夏の暑い日に教会に5年配の神徒の方々が平日草刈りに来られる教会の掃除にいらっしゃる。
先生はこうおっしゃるそうなんです。
お休みになられてもいいですよと体を無理なさらないでくださいねと言われる。
すると教会の方々から返ってくる言葉の多くは感謝ですという言葉なんだそうです。感謝ですと。
でも感謝ですという言葉に先生はすごく感動されたそうです。
当番票に書かれているから何か責任があるからそれをしているのではない。
私たちが報酬をしているそれは私たち一人一人がイエス様の十字架の死と復活を通し
ああ私が神のことを確かにされているんだという喜びがある。
そしてその神は今も恵み深く私たちとともに日々を歩んでくださっている。
そしてそれは御国に至るまで決して変わることがない。
そのことを知っているそのすべてに対して感謝ですという。
教会というのはこれだなということを先生が正解説教でおっしゃられていました。
恐れからではない神の愛への感謝十字架への感謝それだけがある。
それだけが人を動かしている。
大きな歩みではない大きなことではない。
しかし神の愛を感謝し歩んでいく一人一人の歩みに何か聖なるものがあると先生は正解説教でお話をされていました。
私たちは原点を確認をさせていただきたいと思うんです。
私たちはどこに立っているのか私たちの救いの根拠はどこにあるのか
私の今の信仰じゃないんです。
私の救いの根拠というのは
あらゆる意味深い神様の十字架と復活の御業です。
イエス様の十字架なんです。
そしてそこに立つがゆえに
私たちは31年目も
あああの十字架に立たれたイエスキリストが
あの神が私たちの教会の主として私たちを導いてくださるのだ。
そのことを見ることができるのではないでしょうか。
あなた方に先立って行かれるあなた方の神
主があなた方のために戦われる。
エジプトであなた方の目の前で
あなた方のためにしてくださったのと同じように
教会から十字架を抜かないように
私たちは祈っていただきたいと思います。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
46:27

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