2022-08-14 26:41

#118平安、憐れみ、恵を祈る 22/8/14

ガラテヤ-18からの礼拝説教。2022年8月14日録音。いよいよガラテヤ人への手紙から学ぶのも今日で終わりです。パウロの締めくくりのあいさつと祈りから学びましょう。これは神様ご自身にガラテヤ教会の人々をゆだねる祈り、苦しみを知っているパウロだからこそ生まれた祈りす。また遠く離れていて自分では何もできないガラテヤ教会の人々を神様の恵みにゆだねる祈りです。その祈りは私たちを慰め希望を与える祈りです。また私たちが誰かのために祈る時の気持ちに通じる祈りです。新型コロナウイルスや世界と日本の今の不安定な時代を生きる私たちに必要な祈りです。その祈りから1.イエスの焼き印、2.「神の民の上に平安とあわれみがありますように」、3.「恵みが霊とともにありますように」、の3つの点を学びましょう。

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ガラテア人への手紙6章、16節から18節
この基準に従って進む人々の上に、 そして神のイスラエルの上に、平安と憐れみがありますように、
これからは誰も私を煩わせないようにしてください。 私はこの身にイエスの野菌を帯びているのですから。
兄弟たち、私たちの主イエスキリストの恵みが、 あなた方の霊と共にありますように、アーメン。
以上です。今日はこのところから、 平安、憐れみ、恵を祈ると題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。 日本ではお盆の最中でありますけれども、
また今日ちょっと台風一下で熱い日になりましたが、 8月の真ん中こうやって共に礼拝堂でまたオンラインで
礼拝できる幸いを感謝しています。 さて、いよいよ今年の2月から礼拝を取り上げてきました
ガラテア人への手紙が今日で終わりを迎えます。 今日はパウロの締めっくりの挨拶と祈りから学びます。
これは神様御自身にガラテアの兄弟姉妹を委ねる祈り、
そして苦しみを知っているパウロだからこそ真実な祈りとなった祈り、
また遠く離れて自分では何もすることができない、 そういう人たちに思いを馳せる神様に、そして委ねるという
その祈りです。 この祈りは私たちを慰めますし希望を与える祈りです。
また私たちが誰かのために祈るときに 心寄せることができるそのような祈りです。
まさに今は新型コロナウイルス第7波、なかなか冷めやらない中、
そして世界を見てもそして日本を見てもいろいろ揺れ動いている時代ですね。
そういう中で私たちに必要な祈りではないかと私は思うわけです。
いつものように3つの点から学んでいきます。 まず第一はイエスの夜勤、
イエス様の苦しみとひとつされたということを見ていきましょう。 もう一度6章17節読める方、
読んでみてください。 3、これからは誰も私を煩わせないようにしてください。
私はこの身にイエスの夜勤を帯びているのです。 夜勤を引っ張ってきましたが、まさにですね
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熱いものを家宿にじゅっとつけるわけです。 当時本当にですね人間に夜勤が押されていたことがありました。
それはよく出てくる奴隷に対してこれは主人のものだというその合図としての夜勤です。
パウロは私はイエスの下部だということでイエスの夜勤を身に帯びていると言っています。
じゃあそれ一体何か?それはですね パウロの体に刻まれた
鞭打ちや石打ちなど迫害の傷跡をパウロは言っています。 文字通り彼の体に刻まれていました。
これはですね パウロがイエス様の本当の弟子であり信仰な人であるということの証です。
十字架に従う道、それがイエスに従う道であるということの証がこの夜勤です。
決して安易な道ではありません。 ですから苦しみがあるとき私たちはこう考えることができます。
苦しみはイエス様の十字架を誇りとして歩んでいる証なんだと、そうやって苦しみを捉えることができます。
この考えはですね先週も学びました6の14の考えに通じるものですね。
読める方はちょっと読みにくいかもしれませんが、読んでみましょう。
しかし私には私たちの主イエスキリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架につけられて私は、失礼しました。世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
少し前後しますけれども、まずこのガラティア教会で彼が負った夜勤ということ。
使徒の13・14章にその様子が書かれています。ちょっと読みにくいかもしれませんが、
このエルサレムから彼はですねアンテオ家に行って、そこからバルナバと一緒にですね第一次伝道旅行に来ました。キプロス島に渡って、そしてこのガラティア地方で、
この手紙の宛先のガラティア地方で初めての宣教をしたわけです。
フィシリアのアンテオ家からイコニオムに入り、リステラというところに入って、ここをですね行ってきてということなんですが、
このリステラ、ある聖書訳ではルステラという町での出来事です。
彼はですね、街道で福音を述べ伝えて、そして多くの違法人もそれに耳を傾けたんですけれども、こういうことが起こりました。14章の19節から。
ところが、アンテオ家とイコニオムからユダヤ人たちがやってきて、軍手を抱き込み、パウロを石打ちにした。
彼らはパウロが死んだものと思って、街の外に引きずり出した。しかし弟子たちがパウロを囲んでいると彼は立ち上がって街に入っていった。
そして翌日、バルナバと共にデルベに向かった。これいずれもガラティア地方の街の出来事です。
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2人はこの街で福音を述べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオム、アンテオキアへと引き返して、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように進めて、
読める方は読んでみましょう。ここから3、私たちは神の国に入るために多くの苦しみをへなければならないと語った。
まさにこの出来事が記録されているわけです。
そしてパウロはこの時以外にもコリントの偽兄弟、パウロを貶めて、
そしてパウロを、あんなもの偽物の人だと言ったパウロの反対者たち、コリントの反対者も滑稽を誇って、
その人たちは迫害を受けたくない、そしてこの世のものを誇りたいということで滑稽を自分が受け、そして違法人にも施して、
そして滑稽を受けていない違法人を強いてあげた。そしてこの世的なプライドをいっぱい持っていた。
そういう人とパウロは野心を帯びた自分を比較して、第2コリントの11章から23節でこのように述べているんですね。
ちょっと長いですけども大事なので読んでみますね。
彼らはその偽教師たち、エバっている彼らはキリストの下辺ですか?
まあそうだろうと。しかし私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。なぜか。
老くしたことはずっと多く、老にいられたこともずっと多く、無知、打たれたことは遥かに多く、死に直面したことも度々ありました。
ユダヤ人から40に一つ足りない無知を受けたことが5度、ローマ人に打ち打たれたことが3度、石で打たれたことが1度、難戦したことが3度、一昼夜会場を漂ったこともあります。
何度も旅をし川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、違法人から受ける難、町での難、荒野での難、会場の難、偽兄弟による難に遭い、老死、苦しみ、度々眠らずに過ごし、上渇きしばしは食べ物もなく寒さの中に裸でいたこともありました。
首都パウロは今、偉大な大伝道者ですよね。たくさんの聖画が残されています。大聖堂の壁画となったり、ステンドグラスにもなっていますが、実は当時の彼の生き様というのは、このような老苦に満ちた、まさに大聖堂の壁画になるような人物では、この状況見た限りではなかったわけです。
それはそれとしまして、この自慢げな偽教師の教えは、まさに今話題になっているカルト教団とかゴリヤク信仰を標榜する偽宗教の教えに似ています。それはどういうことか。
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この宗教に入信すれば、問題は全て解決して幸せになりますよ。
おはようございます。空いてる席どうぞ。
あなたが苦しむのは、あなたに罪があったり、あなたの先祖や、またあなたの前世が罪を犯したからですよ。
そうして高いものを買わせたり、その教団の言いなりにさせる。それがカルトの浄土主だ。
苦しみを彼らは否定して、苦しみから逃れる餌を提供して信者をコントロールするのがカルトの浄土主なんです。
一方、本当の神の民であるクリスチャン、私たちは苦しみを受け入れます。パウロもそうでした。
私たちも狼狽するならば、それはパウロと同じイエス様の焼肉をこの身に帯びていることになるわけですね。
なぜなら、イエス様を信じて、もう新しい創造と救いは始まりましたが、まだ完成を目指している旅の途中にいます。だから私たちは苦しむ。
もう救いは始まりましたが、まだ完成していないという、この緊張関係を生きているわけですね。
しかし、その旅の途中で苦しみがあるわけです。
例えて言うならば、高く自然豊かな美しい山、それを眺めているには美しいんです。
パウロの偉業も遠くから見ている分には美しい、ああいう立派な伝道者になりたい、クリスチャンになりたいと思うかもしれません。
でも、実際登山には老苦が伴うわけですね。
頂上に近づけば近づくほど登山は過酷になります。
クリスチャンの旅路も似ているんです。その旅路は時に喜びはありますが、過酷な旅にもなるわけです。
なぜか、それは救いはもう始まっているんですけど、まだ完成していないその間を生きているからです。
これ、前にもこういうことを説明しました。
この同じ苦しみを知っているパウロだからこそ、ガラティア教会の人々、二世教師に苦しめられた彼女らを神様に委ねて真剣に祈ったんです、我がことのように。
そしてその祈りは私たちのための祈りでもあるわけですね。
2番目、その祈りはどんな祈りか。
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神の民の上に平安と憐れみがありますようにという祈りです。
読める方は読んでみましょう。6章16節3。
この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に平安と憐れみがありますように。16節ですね。
この基準に従って歩む人とは、さっきも言いましたが、
苦しみを受け入れてイエス様の夜勤を身に帯びている、そういう人たちです。
イエス様の十字架だけを誇りとしている。
そしてもうとまだの間を苦しみながらも完成を目指している私たちが、この基準によって歩む人です。
ここでですね、大事な言葉があります。
神のイスラエルの上に、という神のイスラエルとは誰ですか。
それは簡単に言うと、神の民の言い換えです。
神の民、神のイスラエルはですね、ユダヤ人に限らず、また国籍や民族に関係なく、
イエス様によって神の民とされている人たちを言います。教会もそうですね。
別の箇所、ガラテア3章では、信仰によってアブラハムの人となった人とも言われていますね。
実はですね、神のイスラエルという言葉とユダヤ人という言葉は違います。
私たちはユダヤ人にはなれませんが、私たちは神の民イスラエルにはなれます。
それはどういうことか。ユダヤ人というのは、イスラエル地方、その土地に生まれた人とか、
その地筋に生まれたという、民族学的な意味でのユダヤ人です。
神のイスラエルというのは、神の選びの民、神の民の通称として言われていますから、
イサクの子孫ですから、私たちイエス様を信じて、新しく神の民になった私たちは神のイスラエルだということができます。
ちょっとその違い、教養なんですけど覚えておいてください。
その上でパウロは、神の民のために平安がありますようにと祈っています。
平安はですね、皆さん聞いたことありますよね。シャロームという言葉。ヘブライ語とかアラブ。
それは平和、イスラエルの人たちが通常使う挨拶の言葉です。こんにちはとかさようなら。
その意味はですね、平安という言葉、シャロームには社会の秩序が保たれた平和な状態、争いがない状態をシャローム、平和と言います。
なぜか、実はイスラエルは、出エジプトの時代から始まって外国に従人されたり侵略されてきた国です。
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だから、いつもそういう外国の支配下にあって争いや略奪の中にあった彼らはですね、シャロームという時にこういう願いを込めていました。
今度会う時はこの地が平和でありますように、というそういう願いを込めて、さようならシャロームと言ったんですね。
シャローム、平和にはそういう意味もありますが、もう一個平安には体の健康への願いということもあるんですね。
ですから、平安がありますようにという祈りはですね、戦いや葛藤があっても神様によって安寧が与えられ健やかでありますように、そういう祈りの言葉でもあるわけです。
そして、もう一つの憐れみがありますようにという憐れみ、それはですね、約束は必ず実現するというただの優しさではなくて、神の誠実さですね。
約束は必ず実現するよ、実現させるよという誠実さの現れです。
いつも私、ささやかなエピソードを思い出すんですけど、私が小学校2年生の時にですね、あの時は男女隣に座ったんです。
隣の女子がですね、非常によく消える消しゴムを持っていたんですね。
モノ消しゴム、昭和40年代でもあった。
で、それ消えるからですね、感動してですね、すごい消えるねって言ったらですね、その隣の人がですね、じゃあ今度あげるよって言ったんです。
で、私も能天気ですから、そんなことは忘れて次の日学校行ったら、その人がですね、入ってくれたんですよ、消しゴム。
ちょっとびっくりしてですね、本当に消しゴムくれたんだと思って感動したのはですね、50年以上経っても覚えているんです。
そういう約束したことを必ず成し遂げるっていうのが、憐れみ、誠実ということと関係した言葉ですね。
またシャロムと似ていますけれども、開放とか回復を与える神の救いの宮沢もこの憐れみに関係していて、
優しさと誠実さが合わさった意味が憐れみ。
神は優しく誠実である、慈しみ深い、そういうことが合わさったのが憐れみという言葉です。
まさにですね、私たちの地上の生涯において、神様の優しさとか、神様の誠実さというのは、
よりどころになるわけですよね。
この祈り、平安と憐れみがありますようにという祈り、
先ほども言いましたが、イエスの夜勤を帯びたパウロだからこそ、心から祈れる、真実味のある祈りだと思います。
今、コロナで人と会えないと言っても、すぐSNSで連絡取れたり、今の礼拝でもズームで礼拝できたりします。
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でも当時、簡単に行くところが、手紙でさえ届くかどうかわからない。
そういう時代に、がらけや教会のことを心配しても、何もできないジレンマがあった。
そんな中だからこそ、パウロはですね、まことの神様の平安と憐れみがありますようにと、心から願ったわけです。
まさにですね、地上の旅路は苦しみが絶えないけれども、だからこそ、神の平安と、神の優しさと、真実さをあなた方が体験できますようにと、
そう心から祈ったに違いないわけですね。
そしてこの祈りと願いは、2000年たった今でも私たちのもとに届いているわけです。
それでは最後。最後の祈りは、恵みが礼と共にありますように。
最後の見方を読んでみましょう。
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストのお恵みが、あなた方の礼と共にありますように。アーメン。
この祈りですね、一番最後にパウロは、私たちと神様との関係に関わる、最も深い祈りを捧げているわけです。
感極まって、最後にこれ以上ないほどの真実な祈りを捧げているように私には迫ってきました。
先ほどのパウロのガラティアでの事件の時ですね、わかりにこのような出来事が記されています。
22節、23節。
パウロは弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように進めて、
さっき読んだ私たちは、神の国に入るために多くの苦しみを得なければならないと語った。
そしてここですね、読めるかと読んでみましょう。
また彼らのために、教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主に委ねた。
断食して、この教会のリーダーを選んだ後、断食して彼らのために祈った。
断食して、まさに信じている主に彼らを委ねたという、
彼のこの真実な感極まる思いというかですね、伝わってきます。
ではここで言うですね、霊とは一体何でしょうか。
これはですね、私たち人間の霊を言います。
あなた方の霊と共に、精霊の恵みがありますようにとでも言わんのか。
ある学者はですね、こう言うんですね。
人間の霊とは、人の内で神様の精霊と恵みが直接働く場所です。
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霊というものを私たちは見ることができません。
見えるという人がいたらですね、ちょっと疑った方がいいです。
でも私たち霊があるということは、クリスチャンであれば実感できます。
それはなぜか。
私たちが神様を求めるようになったり、
神様あるいは神的な存在に上階機を覚えるというのが、
私たちの中に霊がある証拠なんです。
神に共鳴するんです、私たちの霊。
ですから先ほども言いましたが、
人の霊とは、人の内で神様の精霊と恵みが直接働く場所です。
その霊、最も深い部分に恵みがありますように、
恵みとは何か。
それは、受ける価値がない人に与えられる神様の愛とよく言いますね。
そして恵みはイエス様の本性そのものである。
まさにこの受けるに値しない人に与えられる神の愛、
それを私たちは必要としています。
皆さんどうでしょうかね。
自分もそうですけれども、
私たちは様々なロークを追う中で、
今であれば文字通り熱い中ですね。
動くだけでも本当に息も絶え絶えになってしまいます。
そういう身体的なローク、精神的なロークを追ったり、
あるいは罪と戦う中で、
自分にはどうしようもできないこの無力さ、
そういうものを覚えることがあります。
だからこそ恵み、
すなわち自分はどうすることもできない、
神に対しては何も返しできない、
だからこそこの受けるに値しないものに与えられる
神様の愛、恵みというものを必要にするわけです。
私たちが知り得ない最も深い霊に
その神様の恵みが働いてくださる、
その働きが必要なわけですよね。
そしてその神の恵みは、
実は私たちの中に宿る精霊によって
私たちに施されるという。
この最後の祈りに込められた
神様の平安と憐れみ、
私たちの最も深い霊に届く神様の恵み、
この精霊の働きについて機会を作ってですね、
ぜひ思い巡らしてみてはいかがでしょうか。
そしてこの祈りをですね、
パウロが祈った祈り、
神の平安と憐れみが、
そして霊と共に恵みがありますよねという祈りを
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パウロのように自分のために祈ったり、
誰かのために祈ってみてはどうでしょうか。
また教会のためにこのような祈りを
捧げてみてはどうでしょうか。
ガラディアの手紙の学びは今日で終わりますけれども、
最後に別の箇所ですが、
精霊と祈りについてパウロが語ったところを
引用して終わりたいと思います。
ちょっと長いですので最初だけ読んでいますね。
それだけでなく、
御霊の発放をいただいている私たち自身も
懇にしていただくこと、すなわち
私たちの体が贖われることを待ち望みながら
心の中でうめいています。
同じように御霊も弱い私たちを
助けてくださいます。
私たちは何をどう祈ったらよいかわからないのですが、
御霊御自身が言葉にならないうめきを持って
取り成してくださるのです。
最後ここから読める方読んでみましょうか。
人間の心を探る方は御霊の思いが何であるかを
知っておられます。
なぜなら御霊は神の御心に従って
生徒たちのために取り成してくださるからです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロのガラテア人への最後の挨拶祈りから
学びました。
あなた御自身の平安と憐れみ、
また私たちの霊に届く恵み、
それが祈られました。
よく知った言葉ではありますけれども、
それを実感するのが時に難しいことがあります。
どうぞまさに御精霊様の助けによって
私たちがあなたの平安、あなたの憐れみ、
あなたの恵みを知ることができるように
どうか導いてください。
どうぞ私たちをまた祈る者とし、
この恵みと平安と憐れみのために
取り成す者として下さるようお願いいたします。
これらの言い尽くせない思い、
その思いを私たちの救い主、
主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて
それぞれその場で黙祷してください。
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