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はい、お疲れ様です。小松でございます。今日はですね、ちょっとあの街歩きをしてですね、
こちら、新京国じゃない、寺町通りですね。寺町通りを上がって、お池から下がったとこなんですけど、
浄土宗の天性寺、天の聖筆の寺と書いて、天性寺っていうところがありまして、そこにですね、よくあの標語、標語とか、
あの、貼ってあるやつありますよね。 それを見てね、今日これ喋りたいなと思ったんですよね。これあの今、写真撮ったんで、
えっとこちらのチャプター貼っておきたいんですけども、えっと三島っていうあの人が書いた、山の頭の碑って書きますよね。三島っていう呼び方合ってるのかな。
雨垂れの音も歳とったっていう、これあの、
俳句でもなし、何なんでしょうね。戦竜でもないのかな。雨垂れの音も歳とった。
535のリズム帯ですよね。これすごい、あの音響心理学やなっていうふうに思うんですよね。雨垂れ、雨垂れの音がおそらく雨が降ってくる時にですね、あの自分がいる
建物ね、これ歳とった人なんでしょうかね。それもですね、雨垂れの音も歳をとったように聞こえてくるっていう、まあそういう意味付けだと思うんですね。
ちょっとこの天聖寺ね、ちょっと入ってみましょうかね。なんかあの雨垂れの音ってあの皆さん感じることありますかね。
まあ最近ね台風が来たりとか、いろんなあのまあかなり雨のね強いところがあったりしますけれども、まあそこで僕もねよく聞いてますしね、あの
最近10日前、1週間前ぐらいだったかな、なんかすっごい雨降って、あの台風15がね来てましたけど、あのすごいあのたくさん雨をね、京都ギリラ豪雨だったんですけどね、すごかったなっていう
そういうあの時にもう雨垂れどころかブワーって降っちゃって、もうこれ過去最高ぐらいに降った記憶がね、10日ぐらい前なんですけどね。
まあそれであのいつもの建物をね、2寸でてそこで雨垂れの音を聞いてるっていうことはまあ皆さんもよくあると思うんですけど、その音は物理的にはそんなに変化しないんだけど、聞いてる感覚としては結構ですね、あのものすごく感じるもの。
ああ年取ったように見えるなみたいな、そういうあのところをね、30日は、まあ表現したかったのかなっていうふうに思うんですけど、これはですね2つぐらい多分要因があるんじゃないかなっていうふうにちょっと感じました。
まず一つはその建物自体が古くなった時にですね、やっぱりこう朽ち果ててくる姿って視覚的にまず入ってくるじゃないですか、視覚的にこう見て、ああなんか若い時にはまだまだすごくあの
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建物がまあ割と新しかったのが、まあ年を取るにつれてですね、結構朽ち果ててきたなみたいな、視覚的な影響によってその音がですね、なんか年取ったように見えるっていうね、そういうエイジングしてるなっていうふうにね、思ったんでしょうかね。まず一つ目なんですけど、視覚的要因による音環境の変化っていうね、聞こえてくる音はほとんど変わらないと思うんですよ。
まあよっぽどね、雨漏りがちょっと潰れるとか、錆びてちょっと途中がどっか抜けちゃったりすると、ドボドボドボみたいな変な音がすると思うんですけど、まあよほどじゃない限りはそういうこと僕ないとは勝手ながら、同じだっていうふうに僕は思うので、これ視覚的に変化したらですね、同じ音であっても視覚の相互作用、視聴覚の相互作用で音がですね、結構あのちょっと古く感じられるかもしれないですね。
聴覚情報が視覚情報に引っ張られるっていうね、まず一つそれがあるかなっていうふうに思いますね。そしてもう一つは、年取ったっていうのはまるで自分の存在ですよね。自分がね、あの若い時、10代の頃と、でこの三藤家が読んだ年代は僕知らないですけど、まあ60歳とかね70歳ぐらいになった時に自分が年取ってるっていう認識は絶対ありますよね、人って。
で、その自分が取った認識、あの年取ったという感覚が聞こえてくる音に影響を与えるっていうか、音は同じなんだけど、自分のその年を取ったプロセスというか人生を反映させて、あの音をですね、印象付けてるっていう感じなのかなっていうような気がしました。別にこれあの音響心理学って言わなくてもいいんですけどね。別にそれあの証明されるわけじゃないですけど、
一つの分析要因っていうことですよね。これ自分の持っているコンテクストですよ。あの自分が、まあ存在して、それでそれぞれの人生を歩んでいくわけなんですけど、自分独自の感覚世界というかそのライフヒストリーがありますよね。あの生活史みたいなもの。それが音に多分反映されてるんじゃないかなっていうことですよね。
主観的な面持ちが客観的な音に反映をしていくっていうような。それで結果的に、あの音がですね、ちょっと朽ち果てて聞こえてくるんじゃないかなっていう感じなんですよね。
まあこれあの特に先ほど言ったように音響心理とか言わなくてもそれは当然だろうっていう声は上がってくると思うんですけど、どうしてこう今聞こえてくる音が自分の心情を通してね、フィルター通して聞いてて楽しいんだろう、苦しいんだろう、暖かいんだろう、冷たいんだろうとかね、もうこれで怒りを覚えるぜとかね、そういうところもあるかもしれないですけど、まあそうした時にやっぱこう感情をね、あのダイレクトに湧き起こすのが音ですからね。
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音っていう感覚は耳からね、脳に伝わって、その脳のところの前頭腰のね、あの扁桃体にまずはこう当たって直撃するわけで、直撃というかね、その刺激が入力されるわけですから、まあそこで感情がうまく出てくるという、まあその感情は自分がコントロールできない、これあの自律的って言いますけど、自律的にそれが出てくるわけなんですよね。
そういうところがやっぱり音の不思議なところというか、視覚よりもね、やっぱり主観的なんですよ。すごく感情を揺さぶるっていう、なんかこうコントロールできないのが音なので、それがあの良くも悪くもあり、コントロールできないからこそ、何気なく耳に入ってくる、例えば音楽が面白そうだなと思って街歩いてると、そこで聞こえてきて、なんか広場でイベントやってるわっていうね、そうした時にイベントにちょっと参加してみようかと。
なっていうふうに思わせるじゃないですか。これあの音がなくて、ライトがね、あのエンジャーに当たっててですね、それであのピカピカしてても、なんかお祭りっぽいな、別に自分とは関係ないからなっていうような感じで、素通りすることが多分あると思うんですよ。
それが音が加わると、音楽特に音楽が加わると、なんか入ってみたいなとか、そこに参加してみたいなと思うわけよね。そういう音の吸引力っていうのがやっぱりあるので、音はやっぱり僕はいろいろな語感の領域の部分で面白いなっていうふうに思いますね。
しかもこう主観が強いですから、さっきの3等歌の言葉みたいに、言葉というかそのね、表現みたいに、自分が年取ってる、でもなんかこう、なんでそういうふうに雨どいの音をね、雨の音を古く感じるんだろうっていうような、そういうところに思いを馳せることができるので、結構ね、奥深いなと思いながらいるわけですよね。
今日もちょっとどんな喋りをしようかなと思って、ふらふら今日ちょっと用事があって、街中歩いてて、その代わりにここのお寺を見て、そしてこんな言葉があるなと思ってね、そんな感じでちょっと話をしてみまして、今境内の中に入ってきて、どなたもいらっしゃらないので、静かな環境で今ね、いい感じで収録をしているような状態ですね。
本当とはね、主観的な世界だからこそ、怖いけど面白いなっていう、それを客観的に見ていくことってすごく大事ですよ。これ最後のお伝えしたいことですけど、客観的にメタ認知で、今の心理的な状況は何なんだろうっていうのを見てあげるっていうか、見るっていうことですよね。
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研究はどっぷりそこに浸かるっていうだけじゃなくって、それを話して、対象と話して、研究、観察していく、他の何かの既存の理論と結びつけていくっていうことがめちゃくちゃ大事なので、そんな感じでですね、ちょっとまた門に行きましたけれども、天精寺って呼ぶのが天精寺かちょっとわからないんですけど、最後にもう一度その言葉を言って終わりにしましょうかね。
雨垂れの音も年取った三島か、ということでございました。 それじゃあ今日も聞いてくれてありがとうございます。バイバーイ。