1. 小松正史『耳の保養』
  2. 僕が音楽の道を選んだ理由①〜..
2024-08-12 20:22

僕が音楽の道を選んだ理由①〜音への興味関心が無意識に刷り込まれていった幼少時代

乳幼児〜幼少期の頃、自宅には音楽が聞ける環境があったり、周囲の突発的な音に興味を持っていた頃の話。無意識に入り込む音の刺激は、その人の一生を左右するようになります。
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サマリー

音楽の道を選んだ理由などを話しながら、幼少時代から音楽に興味を持ち、先生や周囲の方々のサポートによって音楽の道を選ぶことを決めた。

音楽の道に進んだ理由
みなさんこんにちは、作曲家で大学教員の小松正史です。
今日はですね、ちょっと歩きながらまた大学行く時の、今通勤の途中なんですけど収録をしております。
今日からですね、何回かに分けて、ちょっと特集のような話題をね、喋ってみたいなと思うんですけど、
僕がですね、音楽の道に進んだ理由みたいな、それをね、自分自身はちょっと色々考えるところがあって、何でかなと思ったところにですね、
ちょっと他の方から質問と言いますか、もっと詳しく聞きたいというような、そんなメッセージ頂きましたんで、
この際ボイシーを使ってですね、自分の音楽に進んだ道とかその理由みたいなもの、それをですね、喋りながら明らかにしていくような、そんな雑談会をしようかなっておりますので、また本編聞いて頂ければと思います。
この放送では音や音楽についての様々な話題を小松がですね、毎日一つずつお伝えしていくという、そんなボイシーとなっております。
それでは本題へ行ってみましょう。
音楽の道に進んで、もうかれこれ早47年48年というね、そんな感じで捉えていくとですね、えらい大行なことをしているとか、かなりベテランだろうなとか思われるんですけど、
いや実はなんかもうね、これ結論です。偶然のご縁とか運とか、そういうものが積み重なって、多分音楽の道に進んでしまっているのかなというような、かなりね、たりき本願的な自分の意思で、最終的にはね、選び取ったりとか選択っていうのは自分の意思なんですけど、
それと関係なく気がつけば、なんか音楽やってるなとか、そして僕はピアノを弾いたり、そのピアノを使って作曲することが多いんですけど、それをやっていってるなっていうね、なんかそんな感じがしますね。
それで一番原風景というか、最初に音楽に触れた経験をね、ちょっと手繰ってみるんですけど、多分ね、生まれてからすぐぐらいかな、半年とかね、それぐらいの、すごく全然記憶にないところなんですけど、
父親がですね、もともと音楽がとても好きで、クラシックギターもね、家に未だにあるんですが、それを使ってポロンポロン弾いたりとかですね、あと音楽が好きだからクラシックをね、聴いてたのかなという記憶があるんですね。
それで僕が本当にね、さっき伝えた半年とかね、1年1歳ぐらいの時に木造住宅、木造建築の家だったんですけどね、実家、今はもう建て直せしまったんですけど、かなり古い家の2階にオーディオ装置かな、三菱のオーディオ装置だったんですね。
ステレオがあって、それを購入して、レコード版でですね、童謡とか、父親がモースワルドとかね、クラシックが好きなので、モースワルドと後、ベトベンよく聴いてたかな、その経験っていうのが最初の一番記憶にあるのか、親がそういう風に聴いてたよっていう風に言ったのか、ちょっとね、そこは自分の記憶かわからない状態なんですけど、
そんな風に、最初はもう家に何かしらの装置があって、そこで無意識のうちにね、曲を聴いていた時期があったのかなっていう風に、そんな風に思いますね。童謡のレコードもあったかな。
なんか童謡のレコードで、あんまりまたこれ覚えてないんですけど、7つの子とかっていう童謡ありましたかね。それを聴いてたような記憶がありますね。
まあね、ともあれも、レコードを使って音を聴いてたっていうのが最初の段階なのかなと思いますね。
それで、次僕が音の記憶があるっていうのは、音の音楽というよりも音なのかなっていう風に思うんですね。音だと多分周りの環境音とかね、その辺りに自然と耳が行ってたことは何となくありますね。
例えばなんですけど、雷の音がとても好きとかね、そんな話を思い出しましたね。雷ってすごく多くの方が嫌がるんですよね。かなり大きな音で突然やってくるから、かなりびっくりするような、そんな音だからね。
割と嫌がる人が多いんですけど、僕は好きだったな、かなり大きな音源で。それで突然にガーってなる、なんとも言えないスリリングな状態っていうのが僕は好きだなっていう、ちょっとおかしいですよね。
そんなことをね、楽しんでたような記憶がありますね。で、そのまだ前後かもわからないんですけど、これも年齢がちょっとわからないんですが、隣にちょっと道を挟んでね、斜め向かい側の木造建築のお家なんですけれども、火事になったんですよ。
夜、ほんと深夜なんですけど、それも人が、親が行ったのかどうか、自分が覚えてるのかっていうのもまたわからないんですけど、夜中に母親に抱っこされて、トイレかな、トイレの窓から向かいのお家が、もうほんと炎と炎が燃え盛るように朽ち果てていってるような状態の時に、すごい音を聞いたんですよ。
バチバチとかね、メラメラみたいなミシミシっていうのかな。木が、わりと冬だったので、乾いた木が火がついて燃え盛るような音かな。それを聞いたんですね。
最初の音楽体験
すごい爆音みたいな感じで、それが実はどうだったのか、自分の記憶かどうかはほんと定かじゃないんですけど、そういう事実があったということで、そんな極端な音を聞いてたなっていう、そんな記憶をね、今思い出しました。
という感じでね、若い時というか自分が意識をしてない時に聞いた音っていうのはね、多分ですけど多くの方にとっても、かなり自分の価値観とか感性にすごく影響を与えてるんじゃないかなと思うんですが、そうした音を多分僕は極端な音を聞いたりしてたのかなっていう風に思います。
今思えばなんですけど、自分の住んでいた実家の周りがですね、かなり自然とか海と山が近いところだったので、そんな音をね、たくさん聞きましたし、家の周りにね、畑があって、そこに木とか竹林があるんですよね。
竹林が風で、かなり大きな風が吹くと、まとまって動く時ってありますよね。そんな時にすごく大きな音で、メラメラバシバシみたいな、そういう大きな音の自然音をね、たくさん聞いてたような、そんな感じがしますね。
そこからですね、特に音の印象とか音楽をするっていうわけではなく、小学校に入ったんですけども、小学校の1年生の終わりか2年生の最初だったかな、よく音楽の授業で宿題が出るんですよね。
どんな宿題かというと、鍵盤を弾きましょうみたいな、鍵盤で例えば蝶々を弾きましょうとかね、ドレミでチューリップの歌を弾きましょうみたいな、曲名まではわからなかったんですけど、そういう宿題が出てですね。
それで当時、今もあるのかな、教科書の後ろ側に鍵盤の写真があって、10度ぐらいの鍵盤の大きさだと思うんですけど、そこで自分が課題曲があってね、チューリップだか蝶々だったかな、それを弾いてた記憶があります。
真面目にどうしようかなと思って弾いたんだと思うんですけど、そこが多分最初の音楽体験の記憶だと思います。音楽としてね。自分が音楽を聴くんじゃなくて音楽をするっていう、そういう立場の記憶なんですけど、そこでですね、母親がですね、何か今弾いてる状態を見てたんでしょうかね。
うちの息子は音楽が好きなのかなとか、この子に音楽をさせたらいいんじゃないかなとか、そんな風な印象というか、そういう促しを母親が感じたんでしょうかね。
それでちょっとこう、知り合いとかですね、周りの人に聞いてですね、音楽教室があるかどうかみたいなね、そんなとこを探してたのかなというのが、一つきっかけというか、自分がやりたいとかね、自分がその音楽、ピアノを弾きたいとか、そんな風には思わなかったんですけど、母親がなんか動いてたなっていう感じがね、記憶として残ってます。
それでちょうど小学校2年生の時なんですけどね、同じ地区でピアノ教室とテクニトーンっていう電子オルガンですね、テクニトーン教室を同時に開設される若い先生がいらっしゃったというか、そういう情報を聞いて、それで最初だし、まだ始まったばっかりだけど、新しいからちょっと行ってみないかっていうような、
そんな促しが母親からありまして、僕あんまり今も昔もですけど、あんまり自分で選ぶ意思がないので、本当意思が弱い人なんですけどね、それでじゃあ行こうかっていうので行ってみたんですよね。
それがね、たぶん2年生の4月の上旬ぐらいだったかな、そこまで連れて行ってもらって、出会ったんですね、その先生と。当時その先生若かったですね、短期大学卒業後なので、たぶん20歳とかね、それぐらいだと思います。
僕が7歳なので、年齢差が13歳ぐらいですよね。そんな感じの、すごく話しやすいというかね、そんな感じの先生だと思うんですけど、そこに行ってからですね、自宅でも楽器が全くなかったので、
当時ナショナルのテクニトーンですね、電子トルガン買ってもらって、そして始めたのが音楽を演奏するというか、音楽を主体的に弾くっていう、そのスタートに立ったという感じなんですね。
で、そこの教室はですね、ピアノもやっておられるので、同級生、当時僕がいた小学校はすごく人数が30人ぐらいだったかな、一クラスだったんですけど、15人男で、ごめんなさい、15人男で、20人が女の子やったかな、35人クラスでね、そんな感じで。
そこの教室にですね、5人から10人ぐらい女の子が学んでましたね。なので同級生も出入りしてるっていう、そんな教室だったんですね。
で、30分ぐらいです。土曜日だったな、土曜日の午後の2時とか2時半ぐらいから3時までの30分ぐらいを練習するっていう個人レッスンなんですよね。で、僕のレッスンの前には同級生とか先輩たちがいて、僕が終わった後も同級生とか先輩たちがいるっていう感じだったんですね。
それで、そのお母さん、そこの先生のお母様がですね、小学校の先生をしていらっしゃって、そこでレッスンの前後にですね、学譜とか、今でいう学点ですよね、学点を教えてくださってた記憶があります。
幼少時代の音楽学習
例えば四分音符はどんな形かとか、四分音符が4つあったら1小節分あるとかね、4分の4拍子とかね、これは何の音かな、どうか、ミーかソーかみたいな、そういう学点の基礎の基礎みたいなものを演奏というか練習する前後で教えていただいてた記憶がありますね。めちゃくちゃお得ですよね。
30分以外でそういう学点があったりとか、あとはケーキが出るんですよ。すごいですよね。月1回ぐらいに、当時はすごく珍しかったかな、ショートケーキね、いちごの生クリームのケーキ、めっちゃおいしくて、紅茶もいただいてとかね、何しに行ってるんだみたいな、そんな様相になってしまっておりますけども、
そんな風にこう、しょうみのレッスン以外のお楽しみが結構あったっていうのが、今思えばすごい良いところだったのかなっていう風に思いました。
で、その肝心のレッスンなんですけど、すごいね、やっぱり結構厳しいんですよね。厳しいというか、めちゃくちゃ総先生丁寧なんですよ。かなり丁寧で、最後まで歌ってとか、最後まで丁寧に弾いてとかね。
で、終わるところのアーティキュレーション、呼吸感も、終わった後すぐブツッと切れるんじゃなくって、ちょっと残しておくとか、最初弾く時に、周辞でいうところの筆の収める始めのところですよね、そこもやっぱり気合というか、気を入れてとか、気持ちを入れてとか、そんな風に自分がちゃんと音楽と向き合う姿勢で持って演奏しなさいよっていうのがものすごいですよね。
すごく丁寧に教えてくれた先生ね。で、緻密なんですよね。音符とか譜面も手書きでも頂くことがあったんですけど、すっごくね、綺麗に書いておられますね。
いまだにそれ、僕は持ってるんですけどね。途中眺めて、自分適当にやってるわとかね、人生も適当にやってるわって思う時ってやっぱあるんで、その譜面見るとキュッとね、襟を正すっていうんですか、そんな瞬間になってくるなっていうような、そういう無意識のうちに音楽の道に進むっていうよりも、周りの先生とか見守ってくださってた方々がですね、
かなり真面目に丁寧に僕に向き合ってくれたんでしょうね。そういうのがあるので、やっぱそれって自分で作れないもんですよね。めっちゃたまたまのご縁とか運で、たぶん洋装巾の音楽の完成のところが養われていったんだろうなっていうふうな、そんなことを話しながら思いました。
その先生ね、本当残念なことなんですけど、2005年ぐらいかなに亡くなって、亡くなってからもう今20年経つんですけど、本当に若くて亡くなってしまってですね、本当にもうショックというか、残念なところがすごくあるんですけど、
当時はね、本当そこのことも全く将来わからない状況ではあるので、本当に毎週毎週学んでですね、高校の3年生の、いつかな、4月か5月まで学んでましたね。
だから小学校2年から高校の3年だから、かれこれ言うと12、3年学んでましたね。本当休むことなく、途中でね、辞めることなく、本当コツコツコツコツやってて、そんな感じですね。
途中ね、発表会とか、あとフェスティバルっていうのが割と当時からあったんですけど、先生のすごくお好みの映画音楽とか、あと換気音楽じゃないんですけど、すごくeasy listeningをものすごく演奏ね、これ演奏してみないとか言われて、
それがすごく、選曲が渋い選曲みたいな、映画界の真珠とかね、という曲が、小学校の3年ぐらい、2、3年で弾いたかな。それで地方の大会で優勝して、京都都市がの大会まで行った記憶があるんですけどね、テクニトンフェスティバルっていうのがあって、
そういう人前で演奏するっていう機会を結構与えてくださったという、今思い出したんだけど、教室内の発表会もありましたよ。クリスマスとかね、節目の時にお家のところで会場借りるというよりも、いつも習っているところをちょっと広くして、
それでお披露目をするみたいな、そんなこともあったりしましたね。なので、演奏を習慣化づけてくださっているっていうことを、本当はあまり意志がない、全くないので、なんか気がついたら、家の前、電子オルガンの前に、夜になったら練習するとか、もう習慣ですよね。
音楽への興味の深まり
そんな風になってたのが、小学校から高校時代の演奏だったです。最後の方は、僕がほとんど先生の曲も好きだけど、言ってくださるのも、自分でも曲を弾きたいなっていうので、当時大好きだったフュージョン系の曲を弾いた記憶があります。
スクエアとか、カシオペアとか、そのあたりの曲を弾きながら過ごしたという、本当に典型的な音楽野郎というか、どんどん音楽のことがやっているうちに好きになっていったというところで、まだこれでも音楽の道に行こうという趣味というか、クラブ活動の一環みたいな形でやってきたというところがありましたね。
ということで今日はちょっと、自分がなぜ音楽の道に進んだのかという前編ぐらい喋ったかなという、そんな感じでお届けいたしました。
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