1. 鬼の目に木琴
  2. #15 僕の音楽遍歴
2024-08-21 1:19:14

#15 僕の音楽遍歴

・近況報告

・久しぶりの吹奏楽

・小学生の頃の金管バンド

・中学生の頃の吹奏楽

・高校の頃の音大受験対策

・大学の頃のサークルと音楽の授業

・社会人になってからの音楽

・そして、卓上木琴へ

・Podcast集合

・続く停滞感と紫式部

サマリー

このエピソードでは、音楽と楽器演奏の初期の思い出について語り、金管バンドや吹奏楽にまつわるエピソードが展開されます。特に、バスドラムやティンパニーなどの打楽器に焦点を当て、音楽との関わりを深く掘り下げています。音楽家としての道のりでは、ティンパニーやスネアドラムに対する情熱や、高校時代に音楽大学を目指した経緯が語られます。また、音楽だけではなく他の学問への興味についても触れ、教育学部に進んだ背景が説明されます。このエピソードでは、音楽に対する情熱や大学での学びを通じて成長した経験、そして社会人になってからの活動について語ります。また、音楽との再会や即興演奏の楽しさについても言及しています。自己のアイデンティティやセクシャリティに関する観点についても深く掘り下げ、葛藤や自己認識の変化が語られます。紫色部の『源氏物語』の創作過程を通じて、自身の創作活動や思考の指針となる経験を振り返ります。エピソードでは、アートや音楽における表現の難しさや、それに影響を与える外部要因についても語られています。

音楽収録の開始
鬼の目に木琴、始めていきたいと思います。
いかがお過ごしでしょうかね。
Spotifyを通じて収録をするということが、ちょっと面倒くさくなったんですよね。
なんとなく、ちょっとホックになりかけているところもありますけれども、
Stand-inも使うと、あっちは割とライブも配信できるので、手軽にできていたんですけれど、
ちょうど先週末に、9月にある日本ポッドキャスト協会の配信リレーのための収録をする必要があって、
そのために、ちゃんとした収録をする必要があって、
久々に録音をちゃんとして、
初めてオーダーシティというものを使ってみたんですよね。
編集ソフトを使ってみたんですけれども、
一回、アプリでにダウンロードして使おうとして、
なんかちょっとそんなに使い勝手が良くなかったんだったかな。
ちょっとあんま思い出せないですけど、
とにかくそんなにいいかなと思ってたんですけど、
改めてブラウザ版というか、パソコンで使ってみたら割と編集もすごく楽だったので助かりましたね。
それもあったんで、せっかくだからまた使ってみようかなと思って収録しております。
金管バンドの思い出
土日は結構…今日は水曜日なんですけれど、火曜日の夜なんですけれど、
土日は結構色々やることもあったというか、
土曜日にはすごいもう本当に10年ぶりくらいに水素楽に混ぜてもらって、
演奏してきました。
本当に水素楽も、そうですね、中学生の時から一般社会人…何年目かな?
3,4年…4,5年目くらいまでやっていて、
一番熱心にしてたのは中学校から大学生にかけてですけど、
本当にずっと活気してましたね。
本当ずっと打楽器で、中学生の時に一番最初に…
小学校の時には打楽器と合唱というか、打楽器っていう打楽器っていうよりは…
なんだろう…
ブラスバンド…金管バンドですね。金管バンドをやっていて、
小学校で新しく体育館を作ることになって、
新しい体育館を作る時にちょっと予算があったから、
その分で金管バンドを結成したんですよね、学校で。
で、その金管バンドが…金管バンドで…
金管バンドで結成がトランペットとトロンボーン、
それぞれ何人くらいだったんだろう?
結構いたんですよね。6,7人かな?10人くらいいたのかな?
少なくとも5人とかじゃなくて、10人弱くらいいたような気がするんですけど、
10人弱のトランペットとトロンボーン、あとはスネアドラムと…
スネアドラム2人くらいと…バスドラムだったかな?
ちょっと忘れちゃったんですけど、僕はバスドラムになったんですよね。
オーディションみたいのがあって、
希望する人…バンドを演奏希望する人たちの中で、
一応トロンボーンとかトランペットとかも吹いたりしたんじゃなかったかな?
多分少しやってみたりしたんだと思うんですよ。
実際やってみて、僕はその時にトロンボーンをやりたかったんですよね。
当時、ハメルのバイオリン弾きっていう漫画があって、
なんとなくそのキャラクターでトロンボーンが好きだっていうわけよりは、
トロンボーンっていう名前がかっこいいなと思って、
トロンボーンをやりたかったんだったと思うんですよね。
結果的にバスドラムになったんですよね。
その時もトレーナーさんからは…
確かトレーナーだったか、それとも音楽の先生だったか忘れましたけど、
リズム感がすごく大事だから、
リズム感のある人にお願いしたんだよ、みたいなことを言われたような気もするんですけれど、
今振り返ってもそうかもと思うんですよね。
例えばトランペットがいっぱいいて、その中の一人だったら多少吹けなかったりとか、
ちょっとうまくいかなかったりしても、まあまあなんとかなるところはあるけれど、
バスドラムがこれがダメだとまあまあダメだよな、みたいなところがあって、
確かバスドラム一人だったと思うんですよ。
バスドラムって言ってもマーチングでやるような、
ショルダータイプでお腹に抱えて叩くタイプのバスドラムだったんですけど、
マーチングだったら、本当にそのバスドラムの役割をする人が4人くらいいて、
それぞれちょっとずつ音程の違うバスドラムを持ったりとかすることもあると思うんですけれど、
一応スネアドラム…トムもあったかな?トムもある気がしてきたな。
スネアドラム2人とトム1人とバスドラムだったのかちょっと忘れましたけど、
でもやっぱバスドラムってすごく大事で、
どんどんどんどんってただ四分音符を叩くようなものだったと思うんですよ。
そんなに複雑なことを供給されたことはないと思うんですけれど、
いやでもね、だからこそというか、
その人の性格とかリズム感とか、
人間性とかっていうのがすごく大事になってくるんですよね。
本当にバスドラム叩く人がちょっと慌てん坊さんだったりとか、
あとはすごく周りに影響されやすい人だとか、
なんか欲を出すような人だとか、
どういうタイプかわからないけれども、
とにかくいろんな人間性が出ちゃうんですよね。
やっぱりきっと当時の僕はある意味では落ち着いていたんでしょうね、そのメンバーの中では。
バスドラムは確かに自分が指導者の立場でもちょっと迷いますね。
バスドラムが変な動きをしたらすぐバレるし、
次にやっぱりスネアダムとかトムとかが大事になってきますけど、
最悪管楽器はいっぱいいるからなんとかなるんですよ。
別にね、小学生の金管バンドなんで、
めちゃくちゃレベルを高いとか音程合わせるとかそういうことではないと思うんですよね。
ましてや初年度だったので、
その中で一番最初の時にバスドラム狙うんだっていうのは、
そこから僕の打楽器人生が始まっていくんですよね。
吹奏楽とティンパニー
そこから中学校に入って、今度は吹奏楽部に入るんですけれど、
そこは確か迷わず吹奏楽部に入りたいと思った気がしますね。
どうなんでしょうね。やっぱり小学校の時に楽しかったんでしょうかね。
きっとね、楽しかったんでしょうね。
あんまり苦にならないというか、やっぱりやりたいと思ったんでしょうね、吹奏楽を。
そこでもちろん打楽器に入って、最初にやったのがコンクールにまず出ることになるんですよね。
コンクールでやったのがシンバルとティンパニーだったんですよね。
確か課題曲がシンバル?バスドラムだった?
なんか多分シンバル…違ったかな?何かもう記憶が曖昧ですけれど。
シンバルだった?ちょっと忘れましたけど…
あ、違う!そっか、初年度…多分タンバリンかな?
複数楽器はやるってやったと思うんですけれど。
何か覚えているのは、タンバリンのロールっていうのがあるんですけど、
音が続いているように聴かせるやつですね。
弦楽器でいうトレモロみたいなね。
なんかそのロールってやつがあるんですけど、
そのロールもタンバリンの場合、大きく二つの方法があるんですね。
一つの方法がタンバリンを振るんですよ。
縦に振るっていう方法。
縦?横に?横に振るっていう方法。
もう一つが、そのタンバリンの皮の部分を指でこすって、
その摩擦の時に振動を起こして、ロールの音にするっていうものがあって、
曲の中でそのロールが確か出てきたんですよ。
そのロールができる、その手でやるロールができると、
なんかコンクール出られるね、みたいな。
言ってもみんな出てましたけどね、コンクールね。
当時でも大編成で密配というわけではなかったと思うので、
ほぼ全員出られてたんじゃないかなと思うんですけど、
でもそのタンバリンができるということで、
戦力になるようになったと思うんですよね。
タンバリン…そっか。確か課題曲が稲穂の波っていう、
内藤純一先生かな?の曲なんですけど、この年だったんですよ。
稲穂の波で確かにタンバリン出てくるんですよ。ロール確かに出てきますからね。
確かそうだね。
それと…そっか、それがタンバリンだけだったかな?
サスペンテッドシンバルももしかしてやったかもしれない。
稲穂の波だったらあり得ますね。
サスペンテッドシンバルとタンバリンとかだったかもしれませんね。
プラス、自由曲が同消しですね。
同消しをやって、それでティンパニをやったのを覚えてますね。
それが僕のコンクールレビューだったと思います。
だからティンパニーとのご縁っていうのがそこで始まったので、
ティンパニーっていうのは一つの…もちろんオーケストラで使うってこともあって、
自分にとっても一つのメインである楽器でずっとあったのは確かですね。
ただそれはやはり大学くらいまで…大学でももはやティンパニーだけってことはなくなるので、
いろんな楽器をやっていくんですけどね。
年を追ってどんどんいろんな楽器が増えてくるんですけどね。やる楽器っていうのは。
最初がそこで始まって、中学校時代にはそれでも鍵盤楽器をほとんどやったことがなかったと思いますね。
シンバル、バスドラムとかスネアドラムもほとんどやってないんじゃないかな。
だからやっぱりティンパニーと…ティンパニーはでもすごいいっぱいやりましたね。
アンサンブルで、アンサンブル曲で編曲もなんですけど、
なんだっけ…名前が出てこないんですけど、
アンサンブル、打楽器アンサンブルをやるっていう時に、
バスマリンバが用意できなかったんですよ、確か。
用意できないっていうのもあるけど、人数的にも80層にした時に、
それで僕がティンパニーでバスマリンバの最低音的なところ、
ベースのところをティンパニーでやったんですよね。
結構まあまあの無茶振りで、今思うと無茶振りなんですけど、
本当に数小節に1回ぐらい、次々にペダルで音程を変えなきゃいけないんですよね。
その音程を変えるのも2拍とか1拍とかしかないんですよ。
叩きながら音程を変えなきゃいけないっていうことが必要になるんです。
それはそうなんですよ。
バスマリンバの低音部分をティンパニーで再現しようと思うと、
どうしてもそうなっちゃうんですよね。
でも素晴らしいことに素抵があったんですよね。
やり遂げて、それなりの曲にはなったんだと思いますね。
なんかちょっと、悪魔のワルツじゃなくて、
それのラテンバージョンみたいなやつなんですよね。
ラテンアレンジのやつで、ちょっとラテンっぽいリズムの中に入っているもので、
だから結構テンポ感もある中で音程を変えなきゃいけないっていうね。
もちろん音程を変える上で、ある程度耳も必要だったりして、
僕は全然音程感覚に自信はなかったし、今もそんなにないんですけど、
当時は特にないですね。
音痴だったしね、今もそんな音程を取れないことはあるけど、
小学校の時とかは特に音痴だった記憶がありますね。
女の子はやっぱり音程の取り方というか、そういう感覚がわからなかったですね。
音程って結構ね、僕の中ではずっとわからないところがあって、
ティンパニーと仲良くしていたのも大きいと思うんですよね。
僕はティンパニーのチューニングがすごい好きで、
音程を合わせていく感覚とか、全体の調和を整えるっていうのがチューニングなんですね。
単に音程をある特定の音にすることっていうだけじゃなくて、
それもあるんだけど、そのためには革の張り具合とか、
全体のバランスとか、いろんなことを整えなきゃいけないんですね。
それを結構やるのが僕にとっては好きでね、その過程は。
だからそのためには倍音も全部聞いちゃうっていうか、響きを合わせるから、
特に太鼓って、管楽器ももちろんいろんな音があるんですけど、
ある特定の音を鳴らそうと思うと、同時にいろんな音が混ざり込むんですよね。
その混ざり込む音の内容によって音色が変わって聞こえたりするんですけど、
打楽器ってもちろんその倍音がめちゃくちゃ複雑なんですよ。
特に太鼓って音が複雑で、複雑な音を整える必要があるんですね。
その時に楽譜上にあるメインになる音っていうのがあるとすると、
それ以外の音もやっぱり大事になってくるんですよね。
それ以外の音も倍音と言ったりするんですけど、
その倍音を僕は大体聴くのが好きなんですよね。
倍音というか、そもそも何か音が出された時に一つの音だけでは聴かないというか、
ある一つの音というよりは、それよりもっと周りの音も含めての音の聴き方をするんですよね。
だから結構ね、歌を聴いていてハモったりするじゃないですか。
そのハモっている音も聴いちゃう方なんですよね。
だから音程を取るのが苦手というか、音程というものを単音で認識することが苦手なんですよね。
その傾向は鍵盤楽器をするようになってからは割と緩和されたというか、
少し整えられるようになったと思うんですけど、
でもやっぱり僕の感性はそこではなくて、
割と音色全体に行くというか、音全体に向かう傾向がありますね。
だからそういう風にしてティンパニーとかをやっていて、
打楽器への情熱
だからコンクールとかでも大体ティンパニーを演奏する。
大体そうなると、もちろん演奏会とか定期演奏会なんかになってくると、
あとアンサンブルとかそういうのになってくると、
多少他の楽器もやったりはもちろんしたと思います。
でもあんまり鍵盤楽器やスネアドラム、あとドラムセットっていうのはそんなにはしなかったと思いますね。
しなかったわけじゃないんだけど、そんなにはしなかったと思います。
中学校の頃までは。もちろんやってないことはないか。
やった記憶はあるけど、そんなに積極的にはって感じもあって。
それが高校生になって、高校生になってもバリバリ、
高校の吹奏楽って言ったらやっぱり結構熱心にやったりするものですけど、
そこでもね、まずなんかこうティンパニーとかって発想に行くんですけど、
もちろん先輩とかも言ったし、ティンパニーっていうのはやっぱり鼻形楽器でもあるから、
それ以外の楽器をやることもいっぱいあったんですけど、
やっぱり小物楽器とティンパニーって感じがメインだった気はしますね。
高校まではそうかな。中高はやっぱり小物楽器とティンパニーっていうのがメインですかね。
もちろん他もやるけれど、それがメインって感じですかね。
それが大学になると、一気に今度はやっぱり鍵盤楽器もそこそこやるようになって、
それでもね、すごくってわけじゃないけど、鍵盤楽器もするようになったかなと。
でもやっぱりティンパニーは多かったかな。
ティンパニーはやりたかったかな。
あとは他のバスダムとか、あ、シンバルか。
高校あたりにはシンバルも結構確かコンクールでシンバルやった記憶がありますね。
そんなのもあったりしましたね。
で、シンバルをやったりとか。
で、大学で、なんかはっきり言うとそんな変わらないか。
あ、そうそう、忘れていけない。
高校の2年生の時あたりに、音題に行こうかと思った時あったんですよね。
なんかこう、演奏、アンサンブルの演奏、僕が。
僕と4人で、先輩と同輩と4人でアンサンブルコンテストに出たんですけど、
それを聞いて担任が、当時の1年生の時の担任が、
音題とか考えてみてもいいんじゃないって、
多分そんな感じのことを言ってくれたと思うんですよ。
それまで全然音題なんて考えてもいなかったけど、
一気にそれが自分の中ですごくキラキラ輝いてというか、
すごく励まされた気がして。
なんかその頃までに全然進度とかもね、多分考えたことなかったと思うんですけど、
音題っていいなと思ったんだと思うんですよね。
それで、親からはピアノと打楽器を勉強させてもらうことになったんですよね。
どれくらいの頻度で行ってたんだろう?
週1くらいで出たのかな?
ちょっと忘れちゃいましたけど。
あとスネアドラムも買ってもらって、
結構投資してもらったんですよね。
でも結局1年くらい経ってみて、やっぱり音題はちょっと厳しいかなみたいなね。
もちろん学転とかも、一緒に音題目指している、声学で目指している友達もいたので、
音楽大学を目指す過程
その子と一緒に学転をちょっとなんかね、
ソルフェージュとか音楽の先生に稽古してもらったりもしたけど、
でもやっぱり結局は僕の中ではあんまりその音題に行くために同校以上に、
理想学部で活動することの方が圧倒的に上だったんでしょうね。優先順位的には。
だから音題に行くための勉強って、またやっぱり部活をやることとはまた違うというか、
全然違う部分があるから、
音題に行くためにはある程度部活を犠牲にしなきゃいけないとか、
学習を犠牲にしなきゃいけないとかそういうところもあって、
でも僕は勉強自体もそんな嫌いじゃなかったし、
だから今一つの音題に向けてのシビアさってものを持つことができなかったんだと思うんですよね。
だからそれでもまあ何とか受けられるところ音題を受けようかみたいな話もありつつ、
結果的には普通に大学、一般の教育学部の大学を受けることになっていくんですけどね。
だから多分3年生の夏あたりには切り替えたんじゃなかったかな、多分。
うん、切り替えてましたね、多分ね。
3年生、多分おそらくだけど1学期中には音題ではなくて、
1年くらい実質音題を目指して一応ピアノとかも稽古をつけてもらったけど、
ピアノも全然ね、やっぱりちゃんとしないわけですよね。
まあ学校のピアノも使えたけれども、
それをすごく活かすこともなく、
家でもピアノないからね、ピアノをやることもなく、
でもそれでもねピアノ欲しいとか思ってた記憶はありますけどね。
うん、そうですね。
でもやっぱり音題受験する上でピアノもね、ちゃんと弾けないとダメなので、
まあそういうストイックさもなかったので、結局音題には行けなかったんだと思いますけどね。
でも確かね、いろいろ騙されたわけじゃないだろうけど、
担任とも話したりしながら、結果的にはどういう過程を経たのかはもう覚えてないですけど、
その教育学部に行けばね、
教育学部の特に初等教育、小学校の先生とかの家庭に行けば、
まあいろんな勉強できるわけですよね。
僕が覚えているのは、習っていた打楽器の先生の家で忘年会を開いたんですよね。
クリスマス会だったかな。忘年会という名詞だったかな。
まあ12月あたりね。
多分2年生の12月でしょうね。
2年生の12月あったような時に、忘年会を開いて、
その時に文化生というかね、かつての文化生とかが集まって、
OB、OGですよね。
集まって話とかを聞いてて、
その時に何か思ったのが、何か違うかもと思ったんですよね。
何か自分もうちょっと、
多分ね、先輩方と話していることとかが面白くなかったっていうのもあるかもしれないし、
あと何か楽しそうじゃなかったのかな。
とにかくあんまりポジティブになれなかったんですよね、話を聞いたりして。
打楽器を専門として学んで生きていくっていうことに対して、
あんまり魅力を結果的に感じなくて、
教育学部への進学
僕はどこかね、多分仲間が欲しいっていうのが常にあって、
すごく一生懸命打楽器をやっていて、
同じくらいのモチベーションを持って活動できる仲間っていうのが欲しかったんですよね。
で、音題に行けばそういう仲間がいるんじゃないかと思ったんですよね。
音題に行けば自分と同じくらいの熱量を持ってやる人がいっぱいいるんじゃないかと思って、
行こうと思ったんですけれど、
必ずしもそうではないのかもしれないなと思ったのかもしれないし、
あとはやっぱり音楽だけじゃちょっと自分嫌だっていうのもあったと思うんですよ。
やっぱりいろんなことを勉強したいなっていうのがあって、音楽以外のこと。
文学とかでも、当時は多分理系の科目が好きだったんですよね。
生物とかね、物理とか地学とか。
科目としてはね、授業では生物しか多分とってなかったと思うんですけど、
いろんなことを知りたい、勉強したい人だったので、
そういうこともあって、音楽も勉強できるし、いろんなことを勉強できるから、
教育学部はいいんじゃないってことになったと思うんですよね。
それが、たぶん3年生の1学期中でしょうね。
夏休みの時に、当時横浜国立大学に確か行きたかったんですよ。
なんでかっていうのはよくわからないですけどね。
どうなんでしょうね。いろんな先生方の誘導とかもあったのかもしれないし、
あったんでしょうね。自分では山形の高校生が横国のこと知らないですよ。わからない。
どこ?ってなりますよね。
だから、たぶん先生方の勧めとかあったんでしょうね。わからないけど。
横国の教育学部に行きたいって思ったのか思わされたのか、とにかくそれで、
確か夏休みの時にオープンキャンパスに行ったのを覚えてますね。
それであんまり記憶がそんななくて、ぶらぶらっとした記憶しかない。
授業をちゃんと受けた記憶もないし、あちこち汚いなと思った記憶がね。
当時も今もそうだけれど、国公立大学って基本的にあまり綺麗ではなかったりするので、
ちょっと古かったりもするから、こんなもんかなと思って帰ってきたような気がしますけどね。
一応、師大もちょっと考えたんじゃないかな。
師大で東海大の教養学部でも音楽ができたから、
当時チェロをすごいやりたくて、ちょうど東海大でビオラガンバーとか古楽を演奏できるところがあって面白そうだなと思って、
古楽もちょっと興味あったから、結構それをいいかなと思っていたのにね。
そういうところだと実技があんまりなかったんですよね。
実技がなくていけるところを、超音とかスルフェージとかがなかったんじゃなかったかな。
とにかく実技の負担が少ないところで考えてたのかな。
結果的にどこもそういう芸術系は受けてないんですけどね。
確か文学系とか国語ができたのかな。国語の点数というか学力があったのか、
国文学系とか文学系は自分が興味なかったのもあるかもしれないけど、他の学部ばかりね。
そういうところに行ったりとかしたんじゃなかったかな。
確かに師大の教育学部っていうとまたレベルも高くなっちゃう頃かな。
ちょっと覚えてないですけど。
結局それで大学もセンター試験終わって、とても横国なんて行けられないっていう感じだったと思うんですよ。
それで、もしかしたらいけるかもみたいなところで山形大学を受けたんだったと思います。
それと、師大で多分、定教大学と明星大学を受けたんじゃないかなと思うんですけど、
多分、今だったら明星大とか行ったらもうすごいレベル高くなっちゃったんですけど、
当時は明星大って多分そんな難しくないところだったと思うんですよ。
定教大もそんなでもなかったのかな。
で、確か一般受験とセンター利用で出したのかな。
一般受験が落ちて、センターが受かったんじゃなかったかなと思うんですけど、
だけど師大でどこかセンターが一般では全然受かんなかったと思うんですよね。
で、なぜか1個か2個、1個くらいかな。
明星が受かったんだったかも、それも全然覚えてないですけど。
とにかく、センター利用でどこかが受かって、
で、その後山形大学を受けて、
もしダメだったら、それもどこの段階の記憶かも覚えてないんですけど、
ダメだったら国立音楽院に行こうかと思ったんですよね。
国立音楽院って専門学校的なところで音楽の楽器を勉強できるってところですね。
入試も実質なくて、ほとんど絶対行けるみたいな感じなんですけど、
僕の中ではそれもいいなと思ってたんですよね。
結果的に山形大学に受かったので、行くことになるんですけれど、
話戻って言いますけど、
一時期は音楽大学に行こうと思ってた時期があって、
その時にやっぱりスネアドラムをしっかりやるんですよね。
それこそ入試でもスネアドラムを使ったりしたりするので、
今思うと、やっぱり打楽器で受験するっていうと、いくつか方法があって、
受験する予定だったのは東宝大なんですよ。
多分、先生、東宝大、武蔵?
武蔵の音台かな。
武蔵の音台か。違う、東宝じゃない。
武蔵の音台の先生だったので、
基本的にレッスンを受けた先生がどこの大学出身なのかって結構おっきいんですよね。
もしくはどこの大学で教えてるとかね。
だいたいそれで決まるんですけど、
確かレッスンを受けてた先生が、
どこか武蔵の音台でなかったかな、確か。
そんな気がしてきました。
そこに行くの出身だったこともあって、
そこを目指したんじゃなかったかな、当初は。
そこだとね、ティンパニーで受けられたりしたんですけどね。
今思うとね、無謀ですよ。
ティンパニー受験なんて、すごい環境が揃っているとしか受験なんてできないと思うんですけどね。
あとはやっぱり、多いのはもちろん、
木琴でね、マリンバで受験される方が多いと思うんですけど、
僕はもうマリンバができないしね、そもそもね、鍵盤書きほとんどできないし、
あとはティンパニーで受験することもできないってなったらね、
やっぱりこれはスネアドラムもやるしかないわけです。
あとは基本もスネアドラムだから。
それでスネアドラムを、もちろん打楽器の基本っていうこともあって、
スネアドラムを教えてもらうんですけど、
その中でやっぱりね、スネアドラムが叩けるようになってくると面白くなってくるわけですよね。
それで少しなんていうか、技術はついたかな。
でも全然まだまだっていうかなんだろうな、
全然その本当に基礎的なところだけしかできなかったような気がしますけどね、今思うとね。
ただやっぱりその基本的なことができるようになったことで、
ティンパニーのアプローチも全然変わったし、
大学時代の音楽体験
基本的なことができるからこそ、
いろんな楽器に対して模様ができたりするなって思うんですけどね。
なんかこう、人間ってやっぱり教わったものしか教えられないところがあるんですよね。
だからいまひとつ他の楽器を教えるってことはできないけど、
基礎を教えることは不可能ではないというかね。
でももちろんその基礎といってもいろんな流派があっていろんな教え方もあるから、
まあまあそういうことをやっていくのはまた至難の技というか、
独自にそれぞれの修練を重ねていくことが必要なんですけどね。
それで少しスネアドラムとかとも仲良くなったところで大学に入って、
大学に入ってやっぱりバリバリやるわけですよね。
でも本当に一生懸命な熱やる友達がいっぱいいたから、
大学に入っていろいろやっていましたね。
大学の時は本当にもう自由だから、
あとやっぱり自分も力があるからね。
力がある状態だったので、
わりと伸び伸びとやれましたね。
その中でわりとやったのが、
さっきも言ったけど、結局楽器でいうとそこまで変わらない。
でもあえて言うなら、
ラテン楽器とかですかね。
ラテン楽器は先輩とかと音楽家も大学だったので、
音楽家の先輩とかから教えてもらうことがいっぱいあったし、
一緒にアンサンブルとかやったりもさせてもらって、
あの時にもいろんな経験をさせてもらいましたね。
スネアドラムで演奏のアルバイトとか、
固定器材のアルバイトをやったりとかね、
編曲をしてみたりとか作曲をしてみたりとかもしたし、
いろんなことをやりましたよね。
当時から結構友達と、今でいうとフリーインプロデューサーションみたいなものをね、
やったりとかもしてたしね。
あとは式とかもね。
もちろん中学校、高校でも式らしきものをやってたんですけど、
大学でやたら式にこだわりのある大学だったので、
その式についても教えてもらったりとかやる機会もあったりしてね。
そんなこともありましたね。
社会人としての音楽活動
そこから社会人になって、
社会人になって水素学部の顧問とかもやるんですけど、
顧問だけどあまり指導とかはメインの先生がいたので、
そっちがその人がやってたので、
僕はあんまり指導にはあえて口出しないというかね、
すごく外部から指導者も来る学校だったので、
あんまり下手なこと言わない方がいいなと思って、
極力演奏面はノータッチでいたんですけど、
1回だとコンクールも式でBバンドというかね、
出させてもらったりもしてましたけどね。
ただ、演奏は全然基本、極力口出ししないようにしようと思ってたんですけど、
見守ることにして、いろんなことはね。
見守りがすごい大事な部でもあったので、
あんまり熱心にというか、
やっぱりあんまり僕が動いてはいけないな、
動かないほうがいいなということが多くて、
逆にいろいろケアすることとか、
いろんなところの見守ることがすごく大事だったりもしたので。
それこそ大学の、
大学で力がついたことの一つはピアノですかね。
ピアノは音題に行くための時にちょっとやってたくらいだったんですけど、
それでもね、
バッハの三世をやっている途中ぐらいで終わったので、
全然弾けるっていうほどではなかったんですけど、
大学で、それこそ教育学部で、
初等教育、幼児教育の課程も取ってたんですね。
音楽の時間ももちろんあったわけです。
音楽の中で、授業で、
演奏したい曲を、自由曲を演奏するっていうのがあったので、
その時に練習、トロイメダイをね、
シューマーのトロイメダイを練習したんだったと思うんですけど、
すごい好きでね、演奏したいなと思って、それを練習したりして、
それとは別に、和音っていうのかな、和音を、
コードとかね、和音についてもちょっと教わったんですよね。
なぜかというと、幼稚園の免許を取る授業の中で、音楽の中で、
伴奏をしなきゃいけないんですよ。
伴奏の種類もいろんな方法があるんですけど、
やっぱりコードで演奏すると楽なんですよね。
あんまり楽譜通りに演奏するっていうやつ、
初見でバッてやるのと比べると、
コードだけでなんとなくUse聞かせて、
コードでやるとリズムを変えたりとかしやすいので、
やっぱり幼児教育ではすごく使いやすいんですよね。
そういうコンセプトのテキストを用いて、
授業をやっていたので、
それでピアノもできるようになっていたので、
ある程度できるようになっていたので、
それで就職した時に、
ソロコンテストっていうのがあったんですよ。
生徒が一人ずつ演奏するんですけど、
伴奏者がやっぱり大変だったんですよね。
20人、30人とコンテストに出るんですよ。
全員が伴奏が必要なわけですよね。
ピアノ伴奏が必要なんですよ、基本的に。
大変ですよね。
それにちょっと協力したんですよね。
僕だから何人かしました。5人くらいかな。
勿論ね、部員の中でもピアノできる人もいるし、
友達でピアノできる人を連れてくる人もいたんですけど、
なかなかそういう人が見つからないっていう時とかの
子たちも何人かいて、
その子たちの伴奏を何人かしましたね。
僕もピアノをちゃんとできるわけでもないし、
練習時間をとれるわけでもないから、
結構大変だったんですけれど、
でも楽しくできましたね。
そういうのでちょっとずつピアノも
鍛えられたところはあるのかもしれませんね。
いずれにせよでも、
ピアノとかに集中できるような状況でもないから、
すごく技術が向上するってことはないけど、
爆発だけはある程度踏んでいる状況ですよね。
そんなのもありました。
そんなのもありつつ、
一般の団体に社会人何年目かな?
3、4年目くらいから入るんですね。
その社会人団体で、
少しこうやる時に、
本当に打楽器いなかったんですよ。
あるあるですけどね、社会人からしてみたらね、
何かのパートがいないっていうのは。
でも楽器はありがたいことがあったんですよ。
団体の楽器が。
あったので、
それの楽器を使えたので、
しかも一人しか打楽器いないって、
僕にとっては美味しいわけですよ。
美味しいところを全部できるじゃないですか。
だから打楽器、大体パートが3人はいるわけですよね。
3人分くらいはあるけど、
3人で演奏するとちょっと暇だけど、
3人でやる楽器を1人でやるってなったら、
どこを切り取るとか、
どれを演奏するかって考えると楽しいし、
そんなこともあって、
結構楽しかったんですよね。
自分で創意工夫してっていうかね、
ある種の編曲をするわけですよね、それを。
自分の頭の中で切り替えたりとか、
楽譜とかを見たりしてね。
打楽器って、
みんながそうなのかわからないけど、
僕は少なくとも、
他の楽器とかの動きを見つつ、
それに合わせて打楽器をコントロールするって面白いんですよね。
逆に打楽器が影響を与えることで、
編楽器が演奏しやすくなったりとか、
ついついつだれて盛り上がっちゃったりとか、
色んなことができるんですよね。
そういうのが楽しい、ある種のコミュニケーションが楽しいなと思って、
ずっと打楽器をやってるんですけど、
社会人の時に結果的にドラムセットをやることも多くなって、
そこでドラムセット結構やりましたかね。
それまでそんなにドラムセットをちゃんとやるっていうか、
そこまでいっぱいやる機会がなかったので、
それで結構ドラムセット楽しいと思ってね、
結構やりましたね。
そんな感じで、
ちょっとずつちょっとずつ色んな楽器を
できるようになっていくんですよね、打楽器って。
それで社会人が
教員を一回辞めた時に
音楽との再会と即興演奏
コロナ禍に入って、
その中で卓上木琴を手に入れて、
その卓上木琴で
遊び始めたというか即興演奏を始めたんです。
そこからがまた一つのクールっていうか、
別に本当にそこまでの流れで
鍵盤楽器ってそこまでずっと仲良くしてきたわけじゃなくて、
もちろんピアノをやったりとか、
色んな経験を重ねる中で、
別に鍵盤楽器をやるっていうのは
そこまで抵抗はないものの、
そんな得意でもないわけですよ。
初見でバリバリすぐ弾けるってわけでもないわけですよね。
ソロで何かやるってわけでもなかったものが
今はもう主軸になっているというかね、
すごく愛用している楽器になりましたね。
とは言っても別に本当に今はね、
ここ4年くらいやってきて、
最初は一部の家の部屋の中で
演奏をやったんですよ。
外でね、スタジオに行くって発想もなかったし、
そんな場所もほとんどなかったしね。
家の中で細々と小っちゃい音を出したりとかしてたんですね。
音もあるかないような感じでね。
そこでその後に、
ソロをやったりとか、
そこに即興演奏っていうものが
割と成り立つ。
僕の中では即興演奏っていうものが
割と自然にあったというか、
大学の時にもね、
友達と即興演奏で遊んでたっていうのもあって、
割と自然なものとしてあったものが
ジャンルとしてあるのかもなと思うようになってきた。
未だに自分がやっている音楽と
合致する音楽っていうのが
そこまでないんですけど、
でも自分としてはこういうような
音楽を好きだな、
音楽をできるなっていうのを
ずっとやってる感じですかね。
それをYouTubeで出し始めて、
でも本当に今は何ヶ月やってないんだろう。
半年以上やってない。7ヶ月くらいは。
全然叩いてないですね。
本当にそんな感じでやってますね。
1年に、だからここ、
最初はそれでも数ヶ月に1回とか1ヶ月に、
多くて1ヶ月に1回とかじゃなかったかな。
多くて1ヶ月に1回とかじゃなかったかな。
もともと間が空かなくて、
1ヶ月に2回とかいう時もあったかもしれないけど、
基本的に1ヶ月以上は間空いてて、
今では数ヶ月空いちゃってる感じですかね。
いろんな場所の問題とか、
いろんな理由はあるけれども、
いろんな場所の問題とか、
そこまでの気持ちがなかったかもしれない。
そこまでの気持ちがなかったかもしれない。
結果的に音楽は離れていったんですよね。
そんな中で本当に久々に
合奏というものに参加して、
楽しいなと思って。
アナリーゼの面白さもあるんですよね。
楽曲を分析するというか、
曲作りの面白さというのがあるし、
自分だけだとできない世界というのがあるから、
楽曲自体の面白さというのはあるし、
曲作りの面白さもあるし、
そこにコミュニケーションもあるわけですよね。
ここはトランペットと一緒だなとか、
ここはフルートと同じ音だけど、
僕はここをあえて消したほうがいいのかなとか、
いろいろ考えるわけですよ。
面白いんですよね。
いろんな音を鮮明に聴くというか、
その中でコミュニケーションを取っていくのが楽しいんですよね。
その中でコミュニケーションを取っていくのが楽しいんですよね。
本当にたまたま演奏してみないという感じで
お誘いいただいたんですけど、
もちろんずっとコンスタントに参加なんていうと、
今度はやっぱりできないだろうし、
楽器がないから、
楽器が木琴とかスネアドラムも実家にはあるから、
なんとかなるにせよ、
それを運ぶってことができないし、
それをいちいち運ぶのも大変だしね。
だからスタジオとかで楽器があるところに行って、
スネアドラムを弾いて、
楽器があるところに行って、
やるっていうことはしやすいけれども、
なかなか楽器の難しいところですよね。
なかなか楽器の難しいところですよね。
でもいちいちにせよ、本当に楽しかったんですよね。
それが、
先週の土曜日ですね。
先週の土曜日がそれがあって、
日曜日は、
日曜日は日曜日で、
ポッドキャスターさん達の集まりがあって、
一応ゲイっぽくくりだったんですけど、
一応ゲイっぽくくりだったんですけど、
でも僕もゲイっぽかって言われると、
アイデンティティの葛藤
ちょっと自信がないというか、
あんまり僕自分のアイデンティティの中に、
あんまり僕自分のアイデンティティの中に、
ゲイっていう要素があまりないというか、
あんまり自信を持って言えないんですよね。
皆さんの佇まいと比べると、
皆さんの佇まいと比べると、
全然あんまり関心ないってことも多いし、
カルチャーとしてね。
カルチャーとしてあんまりゲイカルチャーに親しみがなかったり、
カルチャーとしてあんまりゲイカルチャーに親しみがなかったり、
まだに慣れない部分もあったり、
そこまでそこに関わっていきたいわけでもないかなみたいな。
あんまり離れるわけじゃないけど、
あんまり離れるわけじゃないけど、
でもそこまで近づくわけでもないなっていうのもあって、
カルチャーとして、
あんまりアイデンティティに縁がない、
関わってないっていうところがあるし、
自分自身の自己認識としても、
あんまり自分の色んな個性、 アイデンティティの中でも関係ないですよね。
あんまり自分の色んな個性、 アイデンティティの中でも関係ないですよね。
っていうのもあって、ゲイっぽいってやっぱりゲイであることとか、あとはセクシャリティとかっていうのがまあまあ中心にくることが多いというか、せめてまあ大体同じような話になっちゃうんだけど、
創作活動の思索
でもその自分がどういうふうにセクシャリティに向き合ってきたかとか、ゲイカルチャーに対してどういうふうに関わってきたかとかね、そういうことをお話になることが多いんですけど、僕は興味がないんですよね。
聞くのは面白いんですよ。聞くのは面白いんだけど、自分自身が別にどうかっていうと、まあどうでもいいなってなっちゃうんですよね。
別に話す内容と関わってくることでもないから、なんかちょっとこう…と思いつつも、一応GUAVAっていうクエアを評判するキュレーションサイトには入れさせていただいてるしね、
それはありがたくというか思うんですけど、他の番組と比べるとそこまで統一感はない感じはあるんですけど、
まあとにかくその刑法が詰まる企画というかね、そういうパーティーみたいなものがあって、そちらにちょっと遅れてね、用事が遅れていって、そこでいろんな方と関わってね、なんかまた面白いなと思って聞いてましたけどね。
でもなんか面白いなと思ってば、ポッドキャストのイメージと実物の実際の人のイメージってだいぶ違うところはあるし、なんかこういう人なんだと思ってね。
ポッドキャストの方がやっぱり接している時間が長い人が多いわけですよね。
そのポッドキャスト…ポッドキャスターさんとして接している部分っていうのがじゃあ嘘なのかっていうとそういうわけでもなくて、きっとなんかその人の非常に深い部分に触れているものとか、
たぶんパッとコミュニケーション、あたり障りのないコミュニケーションの中で現れないようなものがポッドキャストに当てるんですよね。
だから絶対そのパーティーの中でサッと話したこと以上に、ポッドキャストの中で語っていることの方がすごく深いし、どこかその人の本質に近いようなものとか大切なものっていうところに触れていくんだと思うんですよね。
だからそのポッドキャストで知っているところとはまた別の切り口のまた違った顔を見ることができるものだったのかなって気がしますね。
ポッドキャストもいろんなものがあるので、どちらがより本質なのかっていうところは単純には言えないところはあると思うんですけど、でも本当にSNS的に使っている人が多いというか、僕はそうなのでどちらかというとね。
まあそうでもないか。古典講義とかはバリバリ教材化してますからね。
それに対してこの雑談系の内容が一応3つ番組があるんですけど、そっちはもうどちらかとそれに比べちゃったらもうかなりもうちょっとザクバランなものっていうんですかね。
まあやっぱり職業柄というか、コンテンツ化するような時と、あとは雑談の時とっていうのはあるんですよね。
でもそれ切り分けているというよりはもうかなり緩やかに繋がっているっていうんですかね。
ところはあるんですけどね。
そんなものが日曜日にありましたね。
で、その後も今今日火曜日深夜なんですけど、もう2日間も何もしてない。
本当に。
なんか、そう、虎に翼と光る君へを見て、あとひたすらいろんな漫画読んだくらいですかね。
あとはずっと寝てましたね。ほとんど寝てましたね。
本当にやることないって本当になんか、どうなんでしょうね。
やる、なんか本当に早くバランスが取れるといいなと思うんですけど、
やっぱり中途半端に仕事を入れて、なんかちょっと身動きが取れなくなることもあれば、
前にもやることがなさすぎて、なんとなく動きが鈍っていっちゃうっていうかね。
なんかこう本当に動きが鈍っていくんですよね。どんどんね。
なんかこう、ポッドキャストを撮るわけでもなく、本を読むわけでもなく、何か文章を書くわけでもなく、
やれること、ちょっとやりたいことはいくらでもあるはずなのに、そのどれもに気持ちが向かわないって状況ですね。
だからこそ、何かちょっと仕事でも、
パードタイムの仕事でも何かしようかなと思う気持ちもないわけではないけれども、
なんかそれはそれで振り回されてしまうというか、
求職活動とバイトっていうもの自体に少なからずいろんな影響を受けていくわけで、
いかにそれが快適なものであるようにするかっていうのは非常に大事なんですけど。
なんかちょっとこう、焦りはするけれども、
かといって何かビジネスとして、
もうちょっとこれをやってみようかなって気力もあまりなくてね。
なんとなくね、もういろいろとりあえずね、いろいろ一通りやってみたよっていう。
やってみましたってくらいでね。
一回ちょっと疲れたなっていう感じはありますよね。
ブログをめちゃくちゃ書いてみたいよとかね。
文章を書いてみたよとか、
ホームページもいろいろ工夫してみたよとかね。
もちろんここで足掻くべきなのかもしれないけど、
足掻くにも疲れるんでね。
なかなか体力が必要ですよね、足掻くにもね。
なんかちょっと励まされたっていうか、
少しそうだよなと思ったのが、
光る君へでようやく先週、紫色部が源氏物語を書き始めたんですよ。
源氏物語を書くまでもいろんなことがあってね。
また源氏物語を書く直近のいろんな出来事にしても、
でもその中でね、やっぱり劇場の中で生まれるわけじゃなくて、
いろんなことがあることもあれば、
なんか穏やかな毎日というかね。
ただ日々を過ごしていくって毎日も相当あったわけで、
そんな中で紫色部があるきっかけっていうものを得て、
道永から言葉を得たりとか、それだけじゃないけど、
いろんなきっかけが重なった時に生み出すっていうね。
そこで自分が自分の道を見つけるっていうかね、
なんかこれかもみたいな。
日常の試行錯誤
自分は物語なのかもっていうね。
物にたどり着いた瞬間。
いやもう結構すごい震えましたよね。
どういう風にね、書き出しの時の場面を描くかっていうのは興味深かったんですけれど、
まず道永からいろんな話を聞くんですね。
一条天皇の話とか道永自身の話とかを。
それは両方あってそのことだと思うんですけど、両方を聞いて、
その上で書きながらハッとするんですよね。
ハッとした時の描写がね、やっぱりなんだろうね、
いろんな文章、いろんな紙が目の前にいっぱい落ちてくるんですね。
あそこを抽象表現にしたっていうのはね、やはりなんかいいですよね。
なんか具体的なきっかけがあって、いつでノーンときっかけ始めるんじゃなくって、
なんかこう抽象的なんだけど、多分なんかやっぱり全体が見えたというか、
なんかこう直感的なものと空間的なものっていうのが重なっているのが良かったですね。
実際その後に今度一条天皇に調査をしたんだけれども、
それでもまだ紫色木馬を書き直すんですよね。
書き直すというかもう筆を入れていくんですよね。
そこがね結構心骨頂だと思うんですよね。
やっぱり物語の書き手として、
どんどんもっとこうしたい、もっとこうしたいっていうのを遂行し始めるっていうね。
なんか急に生き生きし始めるんですよ。
それまでの紫色木馬にはなかったような生き生きとしたものっていうか、
そういうものが出始めるんですよね。
だからそこまでの経験等はもちろんありつつも、
なんか内在していたものっていうのがそこで花開いていくっていうか、
勢いづいて、それがまた周囲に影響を与えていくっていうのが面白いなと思ってね。
それに思ったら、いや自分も同じかなと思って、
とにかく僕はもうここ1ヶ月くらい特に何かもう何しようみたいな、
なんかこう何をしてもなんか違うなぁと思ったり、
毎日こう心がね踊らないんですよね。
でもなんかあるんだなぁと思って。
あがきつつも、でもなんかその、とにかくいろんなことを試しながら、
あがきながら、自分の中の違和感と向き合いつつ、
とにかくこう日々を過ごすっていうかね、
本当にこう1日中寝ているみたいなことを繰り返すわけですよ。
でもその中からやっぱ生まれるものもあるかもしれないとか、
そういうことで何とかしのんでいくしかないっていうかね。
でも本当それはもうここ数年、この4年間を振り返っても本当にこの、
やり過ごすとか耐えしのぶ、
耐えるっていうよりはそうね、
とにかくやり過ごしたり耐えしのんでいくっていうのが、
まあ必要なんだろうなっていうのはすごく思ってるので、
もどかしさを思いながらもね。
結構なんかまあね、だからちょっとこう、
決してこう良い状況ではないですよね。
エネルギーがある状況ではない。
すごくエネルギーは停滞していて、
もうなんかぐったりしている感じなんだけれども、
でもしょうがないのかなっていうね。
まあそれでやっぱあがいけばあがくほど疲れるしね。
で、あがきゃいいなんとかなるかってそういうことでもないんだよなっていうね。
そういうふうに思うわけですよ。
何度もあがいてきてるわけだけどね。
そもそもね、もうなんか、
その都度その都度でいろんなあがきをしてきて、
小さなあがきが日々続けているわけですよね。
まあこれだってこの、
ポッドキャストを撮ること自体はもはやあがきの一つですよね。
あがいてますよ、こうやってなんとかこう、
なんとかこう動かないといけないみたいなね。
このままずぶずぶと沼の底にひずんでいくのはつらいって思うんですよね。
まあね、ずぶずぶ沈んでいくしかない時もあるんですよね、きっとね。
なんてことを思いながらね。
でもまあありがたいことにそれでもなんとかまあ生きてるんでね。
生きるためにはやっぱりある程度エネルギーがあった方が生きやすいですよね。
回転している車をね、車輪で自転車みたいにね、
回転しているところで進んでいった方がエネルギーってやっぱ効率がいいんですよね。
ずっとこう重たく動かないでいるものを、
そのすぐちょっとずつ動かすことってやっぱりね、大変よく使うんでね。
結構大変だなと思うんですけどね。
そんなことを思いながら過ごしてますけどね。
なんかね、何かが起きないかなと思って、
何かが起きないと思って日々ツイッターを見たり日々本屋さんに行ったりするんですよね。
どこかに自分の今のこの停滞感を打破できるようなきっかけがないかと思って本屋に行くっていうんですかね。
本自体っていうよりは本屋ですよね。
本屋という空間の中に机を求めているところがありますよね。
それは漫画でもそうだしドラマでもそうだしね。
何か自分がとにかくインプットする、景色を眺めるとか海を眺めるとか空を眺めるとかそういうものと一緒で、
まあそういうものもやっぱり一緒なんですけど、
全てがねとにかく今の停滞して自分を打破できる何かに気づくために何とか足掻いているっていうことですよね。
結構ね、そういう時って人と話すのもいいんですよね。
誰かと話すのもいいんですけど、なかなかね、誰かと話すにもね、
まあ相当人となどのトランポリンとか行っても全然話すしね。
どんな人と話したりするし、話している中で何となく気が紛れることとか、
何か面白いなと思ったり、自分の中で気持ちがスッキリする時もあるしね。
でもやっぱりね、それだけじゃやっぱりダメでね、
何か集中的に語れる人と語るっていうことはね、必要ですよね。
普通はもう、何でやっぱり会う特定の誰かではもう絶対無理だって分かっているので、
何かもういろんな人といろんなことを少しずつ話すってことを、
とにかく重ねていくしかないんですよね。
それはまあ、足掻きですよね。
表現の難しさ
そんな現状でございました。
でもどうなんだろう、なかなかに苦しい時期がずっと続きますね。
でもまあ言うてもね、一応そうね、企業とか動き始めてから、
まだ4,5,6,7,8か、まあ5ヶ月、そうね。
まあまだ全然ですよね。
何かね、なんかちょっとこう、何かあるんですよね。
なんかこう、形になっていないもので、
だからなんかね、やっぱ、アートの世界ってそういうのあると思うんですけど、
なんか自分の中とか、まあそれが中なのか外なのか分からないけれども、
何かこう表現したいものとか、何かモヤモヤしたものがあるんですよ。
で、それをなるべく忠実にすくい取りたいと思った時に、
言葉にしたり、絵にしたり音楽にしたりするんですけど、
まあそこは難しいんですよね。
で、それが分かればね、また何か変わってくるかもしれないけど、
そうですね。でもそういうのも、あとは外部の力でね、
特にまあ、その、なんだろうな、精神的な、心理的なものだけじゃなくて、
なんか経済的なこととか、社会的なことってなると、
やっぱ外の動きっていうものにすごく影響を受けるから、
まあ外の動きってこれは自分ではコントロールできないんでね、
だからもう待つしかないんですよね。
とにかく待って、
耐えるしかないんだなと思うんです。
もう自分ではどうしようもないからね。
自分でできることはやってるわけだから。
なんていうふうに思ったりしておりました。
音楽ヒストリーの振り返り
ということで、そろそろ終わりにしましょうかね。
時間、20分ほどにもなるところでございますけどね。
大半が音楽ヒストリーというところですかね。
まあ、こんなふうに長く話すのもいいでしょう。
この停滞感の中でね、なんとか、
足掻いている一つの現れでございますね。
というわけで、お祈りにもお聞きいただいてありがとうございました。
ちょっとね、ところどころ音声途絶えましたけどね。
まあ、気にせず流すと思います。
ぜひまた聞いてやってください。
ありがとうございました。
01:19:14

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