大高地山荘の訪問
おはようございます、小松でございます。
今日はですね、先日オルゴール博物館に行ったって話をね、しましたけど、ゼミ生たちと。
で、その足でですね、嵐山の竹林をね、竹林の小道を歩きながら、もう夕方ぐらいだったですね。
それで、行ったね、2つ目のところの話をね、したいと思います。
ここは結構ね、1回では終わらないかもしれないな。多分終わらないと思うので。
そんな感じで長編としてね、聞いていただきたいなというふうに思うんですけれども。
その行ったところはですね、大河内山荘です。
ここはね、知る人と知るっていう、あの、嵐山のどんつきのところにあるんですよね。西の方というか。
嵐山の駅から、佐賀嵐山のJRから10分ちょっとぐらいで行けるんですけど、なかなかね、そこまでおいでになる人少なかったり。
ほとんどが9割ぐらいが外国人だっていうぐらいの場所だったんですね。
僕もね、この場所すごく行きたくて、今までね、全然行ってなかったというか。
僕は大学時代にですね、明治大学農学部だったんですけど、蔵園の方のね、専攻にいたので、僕の専門ではあるんですよ。
当時東京にいましたから、正確に言うとね、神奈川県のね、川崎市にあったんですけれども、幾多っていうとこね。
そこで6年間、大学と大学院で勉強したんですけれども。
京都、僕は実家が丹後半島なので、明治大学から帰るときにね、帰省するときに京都へ通過するわけですよね。
その旅ごとにですね、6年間ぐらいかな、ずっとね、庭園いろんなところへ行ったんですよね。
で、そこでね、なかなか行けなかったところがね、大高地山荘なんですよね。
それで京都に引っ越ししてきて、まあ今年でも25年経ちますけどね。
そこでも行こうかなと思ってね、行けずじまい、行かずじまいが今だったっていう、そんな感じなんですね。
で、いよいよ満を持して来たわけなんですけれども、そこでゼミ生とみんなで行ったというね、ゾロゾロと行ったっていう、もう夕暮れだったかな。
それで本当はゆっくりしたかったんですけど、まあ今日はね、みんなと一緒に行くっていうことで、大高地山荘のね、ちょっと見学のメモをしてきましたので、お伝えしたいと思います。
大河内伝次郎の人生
2階で住むかな、これ、やばいな。
で、その場所なんですけれども、まあ先ほど伝えたようにね、嵐山の竹林の小道を抜けた先にあるところ。
で、この作った方がですね、作ったというか、その作品のデザインというか、施術ですね。
昭和の名優の大高地殿次郎さんなんですね、そこの別荘なんですよ。
その殿次郎さんが30年の歳月をかけて、この方ね、俳優さんなんですね、後で伝えるけど、自らのギャラのほとんどを投じて作り上げた、約2万平方メートルの広大な俳優式の庭園なんですね。
で、これあの国の文化財としてね、いろいろな挫折もあって、まあすごい場所ということですね。
で、その大高地殿次郎の話をね、今日はしてみようかなと思うんですが、この方はですね、ものすごく売れっ子というか、カリスマみたいな感じですね。
映画の音声からね、昔トーキーの時、トーキーというのは映像と音楽、音と入るって言うんだけれども、その前のですね、サイレントムービーっていうのがあったんですね、サイレント映画。
で、そこからトーキーという、映像と音声が入るメディアの転換期があるんですけど、そこにですね、彼が先駆者というか、そこのタイミングで人気になったっていうことなんですよね。
で、この俳優さん、せいはたんげ、めいはザゼンっていうのは、たんげ、サゼン、ザゼンって呼ぶのかな。これのね、僕知らないんだけど、棒読みで悪いね。伝説の時代劇スターで、たんげザゼンっていうの、これサゼン。
で、片目、片腕のヒーロー役っていう感じで、独特のしわがれ声があるんですよね。これグラベルボイスっていうふうに書いてありますけどね。それと歌舞伎の用紙日々を取り入れた立ち回りで一世を風靡したという状況で、ものすごく素晴らしい方なわけですね。
で、そこで、その方がほとんどのギャラを使って叩いてここの3奏を作ったっていう、これ何でかっていうことなんですね。多分これはですね、俳優っていうのは本当に水物というか、すごく切なっていうことなんでしょうね。
本当にね、スターも栄光、聖水があるけれども、それも安定していないですし、人間の人生っていうのかな、身体もどんどん衰えていくから、歌方の存在っていうことですよね。
そういうもう消えて、あわっとなって、亡くなっていくという存在がすごくあったんじゃないかなというふうに思います。
映画をね、高知電治寮は手掛けてというか出ておられましたけれども、一瞬ですよね、映画とかそういう芸事っていうのはね。
その一方で庭というのはね、永久に残る芸術っていうふうに彼は言ってたようですけれども、やっぱり残る、永遠っていうことに対してすごく興味が湧いたんじゃないかなと思います。
なので、自身の出演量のほとんどを通じて、34歳から亡くなるまでの30年間の間にひたすら石を運んで木を植え続けたそうなんですね。
庭作りの哲学
これはですね、精神修行もあったんじゃないかっていう、そういう分析がありますね。
彼は熱心な禅宗の信者でもあったそうなんですよ。
なので、庭作りは単なる趣味ではなくて、自己を見つめる修行ということを考えられたそうなんですね。
僕も毎日家具、家具じゃないわ、家の家事をやったりとか、淡々とするっていうことが割と嫌いじゃないんですよね。
無になるっていうことだから。
だからね、その修行のような気もしますよね。
やっぱこう、修行というよりも何て言うかな、座禅に近い感じだよね。
だから庭を作る上で彼は座禅っぽいところがあったのかなっていうふうに思いました。
あと、ここのお庭を作る時の多程役者の一人なんですけどね、策定家がいらっしゃったわけなんですね。
策定家がですね、広瀬理平っていう方なんですよ。
その方との二人三脚でこの庭を作ったらしいんですよね。
それで、やっぱり大高地伝次郎って図面を引くタイプじゃない。もちろん俳優さんですからね。
僕は明治大学ではかなり図面引きましたよ、庭園作る時の。
実際はちょっとしか作らなかったんですけど、図画っていう授業があって、
ひたすらいろいろ描くんですよね、設計するようなね。
そういう図面を描いてたところが思い出されましたけども、
この庭禅はそうじゃなくて、自ら現場に立って、ここから見える比叡山はどうだとか、
この石の角度はどうだっていうのを多分理平さんと話をされたんじゃないかなっていうふうに思いましたね。
それが一番高台の方に上ると茶室があるんだけど、そこから見える比叡山と京都の市街はめちゃくちゃ良かったですね。
こんなふうに京都市って見えるのか、京都の盆地ってもちろん京都タワーも見えるんだけど、
こんなふうに、なんていうのかな、中腹なのでそんなに円形とかっていうわけはないんだけど、
なんかね、掴める感じなんですよ、手に。
で、その奥に比叡山とか大門寺山が見えるんですよね。
いやー、良かったなーっていう感じ。
それも多分ね、大高知氏と広瀬氏が話をしながらここにしようとかっていうふうに思ったんじゃないかな。
だからね、そういう対話が聞こえてきそうな庭なんですよね、彼らがね。
で、その30年の歳月を経て、やっていったっていうことなんですね。
それで、あんまり有名じゃないんですよね、この広瀬理平っていう方は。
名もなき芸術家っていうふうに言われてるんですけれども、そこでやりとりした情熱が凝縮された、
めちゃくちゃ得意な空間がこのね、大高知山荘なんじゃないかなっていうふうに思いましたね。
さらにこれ、来週、来週じゃない、次からはね、ちょっと広瀬理平の話をしたいなと思うんですけど、
今日はね、大高知伝二郎が作った、策定した大高知山荘の、まずは概要からお届けいたしました。