京都の音の変化
どうも、小松でございます。このところですね、『音ってすごいね。』という、21年前に小松が執筆した本があるんですけど、
それの電子書籍化に伴いまして、それぞれの章ごとに自分の変化を言語化するという、そういうプロジェクトをやっております。
あくまでも自分のメモみたいなものなので、聞かせるというよりも、言語化するための素材として喋っていきますので、
もしお聞きになりたい時がありましたら、活用いただいてください。
2章なんだけど、京都市内の音のプロジェクトについて書いた文章なんですよ。
それで7項目分あって、それぞれがめちゃくちゃまた重たいんですよね、話がね。
そこをちょっと言語化していこうかなと思います。
まず最初のところ、一番目なんですけど、京都の街、音の高原学というのを書いたんですよ。
その時に2004年当時は京都の音が通送低音になっていると、バックグラウンドにある音というのは自動車の交通騒音でしたと。
それ以降、電気自動車の普及とか観光客の質の変化とか、インバウンドの回復、コロナを経て外国人の観光客たくさん来るようになりましたけど、
21年後の今、京都の通送低音はどのように変化したのかみたいなところなんですけどね。
明らかにディーゼルエンジンとかガソリンエンジンの車は少なくなって、EV車というか電気自動車とかハイブリッドカーがどんどん普及してきてますよね。
そういう音は他の地域と変わらずあるんだけれども、観光客が多くなってですね、
僕は京都の中心地に住んでるんですけど、とにかくいつも大通りとか辻通りも関係なくですね、
キャリングケースというかゴロゴロやるやつあるでしょ、そういう荷物を持ってですね、移動している外国人が極めて多いですね。
だから通送低音は外国人のキャリングケースのゴロゴロした音ですね。
夜中も聞こえるしね、ずっと聞こえてきますね。
しかも今年はめちゃくちゃ暑いんで、もうね、白人の方なんかもほんと火傷してるんじゃないかぐらいね、肌が赤い方が結構いらっしゃって、
それでもう歩けないなっていうふうな状況で日陰にね、隠れるというか避難して、もうね、しんどそうに水分補給されてる姿をすごく見るんですよね。
何のために観光に来てらっしゃるのかみたいな、明らかにこれね、日本がですね、観光的には行きやすいというか安全だし、
円安がどんどん続いてるし、すごくね、消費的に来てる方がめちゃくちゃ多いよね。
僕京都に周り、いろいろな場所行きますけど、有名なところはたくさん来る感じなんですよね。
離れたところ、一般の住宅街は観光地と比べるとそれほど多くないか、外国人の方が来られるのはね。
ただでも全体的にどんどん数は増えているので、周りと比べると本当にびっくりするほどお客さんは来てますね。
しかもね、地域というか京都から離れた郊外ね、岸賀とか京都で言うと丹後半島、稲町最近来ましたけど、
すごいやっぱね、オーバーツーリズムなんですよ。
もう丹後に行くね、電車とかバスほぼ満員ですからね。
結局メインのところ外してサブのところに行くっていう風にしていますけども、
もうそこで活動音ですね。人が喋っている声、歩いている声、そしてキャリングケースがガラガラしている声っていう風な、
そういうのが21年前の自動車の音と比べると増えたなっていう、逆転している感じですよね。
外国人がたくさん来ているという、そういう状況になっていると思います。
音声メディアの進化
そして2番目の京都音風景路上観察隊っていうのを作って、
京都の音の録音とかね、そういうのをちょっとやったところがあったんですけれども、
当時2004年はインターネットでも黎明期だったので、音をデータとして共有して、
それが他の人と繋がるっていうのが、インターネットを見て、SNSがその時ほぼなかったので、
その記事を僕は書いてたんですけども、学生と一緒に。
それを見た人たちが、NHKの方もそれで繋がったんですけども、そういう風なところがあったんですが、
今はもう本当双方向が繋がることができる時代ですよね。
SNSが日常となってしまっているので、これでどんな風に変わったのか。
当時はね、だんだん他の人と繋がるのが温かい媒体としてすごく可能性があるんじゃないかっていう風に思ってたんだけど、
実はそうじゃないっていうことですよね。
容易に繋がるし、過剰にいろいろなデータのやり取りもできるようになったし、
動画は普及したんだけども、使うやつがバカなんですよね。
バカになっているというか、ごめんなさい、もう本当に辛辣に。
本当にどこでも繋がっているから、それさえあればいろんなコミュニケーションとか、
ろくでもあることないことがどんどんやり取りできるようになってきているわけですから、
それが当時予想していなかったですよね。
ほぼほぼある程度指揮があって、連絡するのにもメールぐらいしかなかったですけどね。
今はプラットフォーム上で同時にやり取りをしているので、
可視化ができるっていうのが良いこともあるし、過剰なコミュニケーションのツールがあるので、
それによっての変化っていうのかな。
どんどんどんどんデータとしてはやり取りはできるんでしょうけど、
そこをゆっくり感じたりとか、
自分の感覚、ペースとして享受して感じ合えるっていうところはどんどんなくなってきているというか、
むしろ欲しい情報がどこにあるかわからない。書き分けるというかね。
そういう感じで目の前の情報の中の渦にまみれてしまっているっていうのが今じゃないでしょうかね。
だから当時は音っていうのはリアルな音じゃないわけですよね、録音した音っていうのは。
そのバーチャルなデータっていうのをいいふうに活用できたらいいんでしょうけれども、
本当に今は動画も含めてそういう視覚聴覚の情報をどんどんやり取りできるじゃないですか。
それが過剰すぎて何が価値があるのかというか、
そういうことが結構増えてきてるんじゃないかなっていうふうな感じがして、
結局人間のやり取りできる数というか、
その情報量というのはやっぱり限りがあるっていうことが言えるんじゃないかなっていうふうに思うので、
その情報量が多すぎることにすごく大きな問題。
サウンドデザインの未来
音って結構音声配信もそうだけど、時間要するじゃないですか、こういうのを聞くと。
僕がしゃべっていることを30分くらいしゃべるとは思うんですけど、
その中でデータとしては目で見た方が早いじゃないですか。
でも音っていうのは時間がかかるわけで、それを余裕を持って聞こうとするような、
そういう感じにはなかなかなってないんじゃないかなっていう実感がしますよね。
そして3番目のサウンドデザインの面白さについて書いたわけなんですけども、
21年前、偶然のなせる技というかね、
サウンドデザインって意図的にやる場合とそうじゃない場合、
特に自然音なんかはそこの木があることによって外れ音が出たりとかですね、
川があることによって川の音が出たりとか、
あと排水性舗装の話もしたんですよね。
排水性舗装っていうのは水とか雨水を通すものなんだけども、
そこに途中の間が空いてるので、
タイヤの走行の破裂音っていうのが吸収されるから、
5dBぐらい音が下がるっていう利点があるってことを伝えたんですよね、21年前。
これはサウンドデザインというか偶然の利点というかね、
音の不快感を減るようなシステムが発見できたっていうところがあるんですけれども、
21年後の今、同じお池通りを歩いてます、走ってます。
そこで思うことは、排水性舗装ってちょっとお金かかるんですよね。
だから、いい状態で保ちづらいというのを補修工事、改修工事して、
一部分は排水性舗装がうまく機能してないところも実はあるんですよね。
だからメンテナンスがあんまりできてない、結果走行音が大きくなったんじゃないかなと、
逆転というか、これデザインとしてかまわせてないので、
逆にそこが退化してるっていうのがちょっとあったりしますよね。
あとは音の切り口で地域というか、公共空間をデザインしていくっていうことが、
あんまりまだ進んでないというかね。
スピーカーから出されるプラスの音デザインというか、音サインはたくさんあるけれども、
そこはいろいろと工夫されてると思うんですよ。
ただそれは電気機器というか、音響機器を介してのデザインはできるようになったんでしょうけど、
もうちょっと面としての都市の在り方ですよね。
そこがうまくいってるとは限らないですよね。
むしろさっき言ったような観光客の多さっていうのにかなり影響を与えられて、
辻通りなんかでたくさん今は民泊とか、
個人個人の昔民家だったところが宿泊所に回収されてるところが結構出てきてるんですよ。
そういうところに外国人の方が来られてて、
結果住民の僕、住民の一人ですけれども、
音がかなりずっと聞こえてくるっていうか、そういう状況になったので、
そこまでは京都市なんかは把握できてないですよね。
ということで、なかなか当時いいなというふうなところを言ったんだけど、
それが現状維持をしてるか、ちょっと劣化してるっていう感じがしますね。
そして4番目なんですけど、大通りの交差点で、
桜ん状態のサイン音っていうことを伝えました。
いろいろな大通りの交差点は音響式信号とか、いろんなものがあってですね、
かなり乱れてる状態っていうのを発見したんですね、21年前。
それのもう1回デザインし直す、リーデザインということを伝えていましたけれども、
街を歩いて感じるのは、ある程度音響式信号ですと交互なきかわし的な感じで、
1つのところに音が出てるんじゃなくて、歩く障害のある方、視覚障害のある方が位置とか動線をちゃんとわかるというか、
確認できるようにするために交差点の横断歩道があったら、
始点と終点のところにスピーカーでちゃんと音を鳴らすと、
しかも交互に鳴らすことによっての線としての認識っていうのをしやすいようにデザインされているのはそれは素晴らしいなと思いますね。
それが定着している状況になっているんじゃないかなというふうに思います。
あとね、クラクションが鳴らないとあまり聞かれなくなりましたよね。
2004年とかその辺りぐらいは結構クラクションが鳴ってた記憶があるんですけど、ほとんど今鳴ってないですよね。
そこの辺りはね、音を作るというか利用者、車とかを使っている個人個人の運転手の話になりますけど、
その辺りの配慮はやっぱりどんどんできてるんじゃないかなというふうに思いますね。
なので人に優しくっていう意味では、ちょっとずつそういうのが個人個人で、
やっぱり周りの都市とか周りの環境、音環境に合わせて人って行動をそこに伴うというか、
影響を与えられる場合がありますよね。静かな場所だったら静かに行動しやすくなるしというような、
そういうものがあるので、そこの全体がちょっとずつ音的にはね、
公共空間的な音的にはちょっとずつデザインされつつというかね、洗練されつつあるのかなっていう感じがしました。
ただでも劇的な変化は全然なかったなというふうな感じになりますね。
まだまだ人に優しくなってないんじゃないかっていうのがね、現状かなと思いました。
あとは環境が育てる耳について話したんですね。
これは漁村の若者の耳の話をしたんですね。
21年以上前、もっと30年ぐらい前の調査ですかね、1996年ぐらいなんですけど、
漁村の若者の耳がですね、年化してるんじゃないかっていう傾向をね、音響実験でちょっとしたんですね。
その時はインターネットもないし、スマホももちろんなかったですよ。
それが今ね、2025年で隅々まで行き渡った今ね、
その土地、稲町だったら稲町、京都市だったら京都市ならではのローカルな耳はどうなっているのかっていうところなんですけど、
2つ要因があるかなと思うんですよ。
まず1つは今スマホとかその辺りでパーソナルメディアがどんどん発達してしまっているので、
周りの音を聞く環境がどんどんさらに減っていってるということがあります。
そしてね、住んでいる場所も木造建築じゃなくて、
新建材というか現代の建築を使っているお家が多いので、外からの音っていうのもどんどん入ってこなくなってるんですよね。
なので何気なく環境音を聞くっていうこともどんどん減っていると思いますね。
しかもね、イヤホンとかその一つ一つのパーソナルメディアから出される音っていうものが人工音ですよ。
それがあるので、周りの音を聞くっていうこともやっぱ失われつつあるということは言えると思いますよね。
なので都会だろうが田舎だろうがその辺りっていうのは変わってないし、
都市化、耳の都市化というか、どんどんどんどんそれがね、進んでいってるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
ただ人によってはというかね、家によっては親御さんとかがですね、ちょっと遠出をして、いろんな経験ですよ。
音の価値
人生の経験としてね、いろんな場所に連れて行って子どもたちを。
それでこんなところにこんな音があるよっていうふうに伝えて、音の刺激をね楽しく感じるっていうところもあると思うし、
そういうものがね、人によるインタープリターというか親とか先生とかね、そういう人がそうした音への価値を持っている場合はね、
そういう音を聞く多様性っていうのがあるとは思うんですけど、ほぼほぼそういう人って少ないしいないからダメになったんじゃないかなっていう感じですね。
ちなみに小松ゼミは音に対する興味関心が極めて強い学生が来てるので、ちょっと外に連れ出すとね、やっぱすごくいいんですよね。
感覚で、パーソナルメディアももちろん使うんだけど、ものすごく周りの音を聞いて、これ面白いなとかね、いいなっていうのをよく伝えてくれてるので、
僕のゼミでは両方ですね、併用できてるなという感じがしますね。なのでこれも人によるんじゃないでしょうかね。
6番目は環境の記録プロジェクトをね、立ち上げたんですよ。2002年からやったかな。
未来への音のアーカイブを残していこうっていうことをちょっとやってですね、夢見ていた時代があったんですね。
そのプロジェクトっていうのは、それ以来、具体的に継続してやってるっていうよりも、学生それぞれの興味関心に応じてフィールドレコーディングをやってますね。変わらずに。
でもそれを定点観察、その当時はね、大通りがありましたね。四条からすまとかね、河原町お池とかありますよね。そういうところで朝昼晩と時間を変えて3回4箇所で調査して、合計345データを取ったってことを伝えたんですけども、
そういう風な定点観察を1ヶ月やるっていうよりもですね、今はなんかね、自分の撮りたい音を撮っていくっていうような、そういう感じのアーカイブの仕方をしてますね。
しかもそれを一応、今はねちょっとコンプライアンスっていうところもあるので、不特定多数というかね、そういうところで録音した音をむやみにアーカイブでアップできなくなったというのかな。これ社会的な常識というか、配慮というか、
そういう、それぞれの権利ですよね。そのプライバシーを保つっていうことで、アーカイブっていうのがなかなかこう、むやみやたらに公開できなくなってきているっていうことがあるんじゃないかなと思いますね。
なので誰でも使えるアーカイブをもし作るのであれば、やっぱり21年前にやったような大通り、辻通りのね、その交差点で調査をするっていうのをね、やっていけばいいなと思うんですけど、これもう20年以上やってないですね、それはね。
今度やってみようかなっていうか、ゼミでもこういうのね、ちょっと問いかけてみても面白いかもしれないですね。一応21年前のデータあるんですよ。これ本当に僕持ってるんですけども、それがどういうふうに活用できるか、また今後のこれは課題になりますね。ということで今はちょっとやってないなというね。
でまぁそこをね、保存アーカイブすることの新たな意味というのはね、やっぱり新たな意味というか続けることなんじゃないでしょうかね。比較して初めてわかるというか、それを継続することによってやっぱりこう都市の変化っていうのが見えてきますし、そういう動詞がね、必要ですよね。
身体と音の関係
そのことに価値を重んじて聴覚的な資源がね、めちゃ大事なんだっていうことを自覚する人が増えていけばいいんですけども、継続観察っていうのがやっぱりそこから意味が出てくるんじゃないかなというね。意味があるからやるというよりも続けて収録することによって具体的なこう意味とか改善点とか問題点が出てくると思いますね。
はい。そして7番目、これ最後になります。2章のね。
次の席の間のね、輪回転を探るっていうワークショップをしたんですけども、そんな話をね、ちょっとまとめていくとですね。
音っていうのは座ったり歩いたり走ったりっていうような身体の動きによって音の聞こえ方が全く変わってくるんですよ。
これね、ものすごく面白いなと思うんですけれども、今ってなかなかこうよっぽど暑いこともあるしね、あまり外を歩くっていうことがやっぱり家の中でいろいろな娯楽が完結している時代になったので、より外に行かなくなったんじゃないかなというふうに思うんですね。
このように、身体を動かす機会が減った現代においてはですね、このような身体性をね、伴った聞き方の価値っていうのはさらに重要になってくる。これはね、やっぱね、音の違い、こんな風に姿勢を変えるとこんな音の聞こえ方が変わるんだっていう発見ですよね。
そういう楽しみを、やっぱりその楽しみを知っている人が伝えていかなくちゃならないわけですよね。
僕はね、伝えています。日頃のこういう発信もそうだし、定期的に学生と鴨川も歩くし、フィールドワークするんですよ。そういう時に、やっぱりこう、いろんなポジションで聞くっていうことをしているので、そこに興味を持った学生はそうするんじゃないでしょうかね。
ただそのあたりを伝えるっていうのはやっぱり限界があるというか、どういうのかな、単なる音フェチに過ぎないな、そこから次の段階でね、いろんな身体の使い方をすることによって同じ音、同じ鴨川の音であってもすごく変化するんだっていうのは、やっぱり今のね、体を動かさなくても人工的な刺激とかね、
いろいろな資源が耳とか目とかから入ってくるじゃないですか。家にいるだけでほぼ完結できるんですよね。それで過ごしていると、もうそれだけの人生になっちゃうわけですよ。そこで終わっちゃうというか、終わるという言い方はよくないかもしれないけど、やっぱりね、多様性があることこそが人生のね、大きな幸せの一つですよ。
そういうね、多様性を感じるためには、例えば音を聞きに行くために外に出て、立ったり座ったり歩いたりしながら鴨川の音を聞くのもいいし、お友達と一緒にそこの沿道を歩いていってね、こんな音があるな、こんな風に音面白いなっていう風な、外に行くことが楽しいんだよっていうようなね、そういう機会を作るっていうのがめちゃくちゃ大事だと思うんですよ。
そういうことがやっぱりね、よっぽどまた意識しないとね、これ一生で言ったことと全く同じかもしれないですけれども、自分でそこをね、掴み取っていかないと、やっぱり大きな、やっぱりすごく刺激強いと思うんですよね、パーソナルメディアから来るものが。
そのあたりを、それをなくすっていうよりも、同時にいろいろなパラレルワールドで、同時にそういう世界も持っておくってことですよね。
ネットフィリックス見るのももちろんいいですよ、ボイス聞くのもね、音声配信もいいんだけど、それとともにやっぱり自分の体で一時情報をゲットしていくっていうね、そのゲットしていくトリガーとなったり、面白くしたりするスイッチっていうのが、
例えばさっき言ったような、座ったり歩いたり走ったりするっていうことで、同じ場所でも音の感じ方が違うんですよ。これやってみてくださいよ、実際。そこの違いをやっていけるかどうかっていうことがめちゃくちゃ重要になってくるかなって思います。
ということで、今回ね、今日の音の全7項目についてね、21年後の視点から語ってみたんですけど、これはあんまり世の中変わってないというか、パーソナルメディア的に人が孤立してるとかね、聞くっていう状況にどんどんなってる。そこが根強くね、影響を個人個人に与えてるなっていうのがわかったので、そこからどうしていくかっていうのはまたね、一人一人の課題になってくるんじゃないかなというふうに思います。
現代の音の体験
ということで、音ってすごいねの変化に対して、僕が第2章ね、ちょっと喋ってみました。