ハズレ音と自然音の変化
小松でございます。 今回も、音ってすごいね。の電子書籍化に向けて、自分の変化を
章ごとに伝えるということをしておりまして、今日は4回目になりますね。 この内容は、後で文章の一部分として、
素材として使うので、自分の独り言みたいな感じで、やっていこうかなというふうに、いつも思っておりますので、聞きたい方は、どうなんだろう?
こういう需要はあるんでしょうかね。 4章になります。
4章は、ハズレ音という歯の擦れ合う音について、あるいは、録音の方法とか、あとは、フィールドワーク、心理調査ですね、そのあたりのことを書いた
部分で、どんな反応があったかというのを、ちょっと伝えていこうかなと思います。 まず最初に、
ハズレ音の意外な功用ということで、歯の擦れ合う音っていうのが、日常的に聞こえるわけなんだけど、それをね、マスキング、
道路沿道のマスキングとして、活用できたらいいんじゃないかということで、薄論を書いたんですけど、 そのことについてですね、日本人特有の自然音への感性っていうのが、歯の擦れ合う音ってあると思うんですよね。
その在り方をね、深く見つめてきたんですよね。 その感性は、この21年でね、より豊かになったかどうか、失われつつあると感じるか、
ということなんですけど、結論は失われつつあるんじゃないかなというふうに思うんですね。 まず何かというと、
自然の環境の樹木とか、そうしたもの自体がなくなってきている、少なくなっているというような、植生の変化ってなりますよね。
今年は特に暑いですけど、地域温暖化に向けて、そういう状態で、植栽もその影響を受けてですね、あまり元気がなくなったりとか、どんどん開発されたりはしていますよね。
そういうことで、自然の環境の変化っていうのがまず減ってきたので、そういう聞く機会がかなり減ってきたんじゃないかなということで、まず失われつつあるかなと思いますね。
さらにですね、この本全体を通してですけども、自然とか感覚とか、そういうものを磨く機会がすごく減ってきたというのがありますよね。
なので、意味のある音に対しては人は結構意識向けたり、その価値を感じたりするんだけど、それ以外の音、周りの環境音ですよね。
そういうことに対する意識っていうのは、やっぱり価値が減っているっていうかね、あまりそこを大事にしようというふうには思わないことが結構あるので、そのあたりで感性としては両方の要因ですごく悪くなっているんじゃないかなというふうに思いますね。
音環境デザインの実践
そして、ハクロンでハズレ音で交通走をマスキングするという具体的なサウンドデザイン案を出したんですよ。このアイディアっていうのは、実際の街づくりの中で活かされたかどうかということなんですけども、
これね、美濃新町っていう美濃市の北部の山を開発したというかね、とどろみっていうところがあって、そこのダムを作ったりするところで山を開発してですね、そこに街づくりで、今もう25年経ってるのかな、美濃新町。
で、そこで使えていったらいいかなということで、まずは示したんですけれども、うまく活用されていると思います。一応大阪府に対してその提言をして、ある程度ね、植栽も配慮されたというふうに聞いているので、実際の街づくりの中で、実際に住宅が作られるときに、
沿道空間に擦り合うことを予定した樹木っていうのがある程度植わっているのかなというふうに思うので、そのあたりは問題はないかなと思うんですよね。ただこのアイディアっていうのが、別に研究するまでもなく、樹木のハズレ音を聞こうと思ったらですね、樹木を植えたらいいわけですよね、沿道空間に。
樹木の存在がですね、風が吹くことによって聞こえていたとしたら、それは別に僕が提言するまでもなく、もともと樹木そのものに内蔵されている音のポテンシャルじゃないかなと思うので、別にそれは僕が言わなくても、木は植わっているし、
葉っぱが風にたなびいたら音が出るっていうことなので、そこを感じれるかどうかですよね。何章かな、2章かなでインタープリターの話しましたよね。音に対してすごく興味を向けたり関心を磨いたりするっていうのは、仲間とか指導者とかそういう案内人がね、
存在しているわけで、その人たちの存在によってその価値が伝わるわけなのでね。そういう人たちがいれば、もともとあるものに対して光が勝者されるというか、価値が再認識されるんじゃないかなというふうに思いますね。
なので、壁というのはやっぱり価値観の認識、共有化っていうことでしょうかね。僕もそれを散々伝えてきましたけれども、そこが具体的に効力を成しているかどうかは、なかなか21年経ったけれども難しいかなと思いますね。
そして2番目、目で聞く音、そして耳で見る映像についてなんですけれども、これ僕は大学の4年生の時に稲町の漁師の聞き取りをやってですね、そこの奥さんがですね、旦那さんの船のエンジン音を聞いて、
帰ってきたとか安堵を感じるみたいな、自分の家族の命を音から確認するっていうことを伺ったんですよね。それはまさに映像を見るような状況なわけですよね。
これは自分の大事な人が関わっている音を聞くことによって、家族の愛情とか経験っていうのが互換を結びつける人間の豊かなあり方として僕は感じることができたんですよ。
この耳で見るという感覚、これはね、僕は本当に小さな頃から当たり前にしてきたことでもあるし、僕が普段音楽とか演奏とか、あと調査ですよね、サウンドデザインの調査の中で、ここはもうなんか理論家とか意識をするかというよりも、
もともと備わっているものじゃないかなと思うんですね。それをあえて意識して作ってももちろんいいんだけれども、そういう意識的に愛情を込めてこの音楽を作るとか、そこの空間に対してそれなりのオーダーメイドの曲を作るっていうのは、
もちろん僕はそれはしてるわけなんだけども、それを具体的にどういう理論で音楽理論であるいはどういう言語化をして音楽を作ったり響きを作っていくかっていうのは、これはなんか無意識のうちにできてるんじゃないかなと思いますね。
ソフトな音を出すとかあるでしょ、演奏しているときに。それはそういう音をやっぱり僕は望んでるわけで、その望むところの理論家っていうのはね、なかなか厳しいというか、とにかく場所を例えば調律したいとか整えたいと思って出す音があるじゃないですか。
それはそういうふうに思ったときに結果として出てくるわけなので、そのあたりは卵が先か鶏が先かみたいな話で、もちろん両方だと思うんだけども、多分それをですね、もともとそういう音を出したいなって思ったことと、あとは
そういうサウンドデザインのご縁があったので、その都度その都度そういう気持ちで接してきたっていうことですよね。精神整備そこの対象に対して接してきたっていう、それだけじゃないかなと思ってますね。それは多分21年前と変わってないのかもしれないです。
そして話は変わるんですけども、その緑の歯の擦り合う音の話にまた戻りますけども、その緑の映像、音だけじゃなくって映像も視覚聴覚と見せることによって交通騒音の不快感が和らげられるって話をしたんですよ。
そういう実験結果は非常に具体的なデザインのヒントとして僕は書いたんですよ。この21年でこの知見を生かして関わった空間を具体的にちょっと伝えていくと、まず2007年に京都タワーの展望室ですね。
僕はとても好きな空間なんですけど、展望風景を見る場所じゃないですか、京都タワーって。そこに行くんだけども当時は音がガチャガチャして、なかなかゆったりと落ち着いて風景を楽しめない場所だったんですね。
アーケードゲーム機の音があったり、人の声があったりとかですね、足音があったりして、今日のわらべ歌がね、ヘビーローテーションで流れていたりとかなんかして、ちょっと気分が悪い状態になったということがあって、そのあたりをですね、たまたま提言をしたところ、2006年代にですね、リノベーションのプロジェクトをやるということで、
そこで音環境も入れてほしいというような、ボランティアでやったんですけどね。そういうふうにして、視覚で感じる風景を楽しむために音の調律をするというか、音の調整をすることによってですね、感じる風景、展望風景のQOLですね、クオリティがですね、すごく上がったっていう。
僕はそれを実証でエビデンス出したんですけど、そういうことができたっていうのはもうね、ひとえに白論をね、頑張ってやったこの手法をね、そのまま京都タワー展望室に生かしたっていうのがあったりしましたね。
あとはね、病院にしてもね、いろんな場所、あとブライダリウムにしてもそうですよね。視覚的なものをより引き立たせるために音楽作ったっていうのもあるし、あらゆるところでね、資料館、フリス単語共同資料館もあるし、ポーラ美術館もあるしね。
いろんな場所でね、やったという。これ、展示空間に結構ね、僕は応用しましたね。まずはこうね、コーズソーンだからリアルな性格空間でまずは考えたりとか、実践、白論でやったんですけど、そこからまずはエンタテインメントっていうのかな、展望室というところ。
録音のアプローチ
そしてまたブライダリウムであるとか、美術館みたいな、ちょっとお楽しみみたいなもんですよ。お楽しみというのかな、鑑賞系の施設ですね。あとは今も病院の音環境もやってますけども、それは最新の話をしたらPICUやってるんですけど、夜結構音が大きいんですよね、レベルが。
でも雰囲気的には暗いし、静かな状態っていうふうな視覚的な状況はあるんですよね。でも音を聞くと昼間と変わらないっていう、このギャップに対してどのように音を作っていくかっていうのは今の課題でしてね。
視聴覚が視覚はいいんだけど音の状態が悪いっていうこと。これ京都タワーと近いですよね。そこをどのように改善していったらいいのかなっていうのを本格的に研究をするご縁になりそうなので、この辺りを考えていくという。
今の実践的なアクションリサーチのサウンドデザイン、音環境デザインに直接活かされてるなっていうことで、過去の自分をリスペクトしたいなと思ってます。
そして録音のやり方っていうのもちょっと書いたんですね。野外録音、フィールドレコーディングのやり方なんですけども、すごく録音することを当時21年前はあんまり良くないんじゃないかなというか。
これ植物ね、プラントハンターと近いですよね。プラントハンターっていろんな珍しい植物を遠くに行ってそれを持ってきて展示したりとか売ったりするっていう商売ですよね。
それに近いところがあってね、綺麗な声のする滅多に聞かれない野鳥を聞いてそれを録音してそれを持ち帰ってパッケージにして商品として売るっていうことをよくやってますよね。僕は直接やってはいないんですけど、そういうことに対しては一種の自然の生態系を搾取して、別に汚したり怪我したりはしませんけど。
そういうことに対して結構録音行為っていうのは、窃盗とは言わないけどちょっとね葛藤が当時あったんですよね。それは当然の誠実なあり方だと思ったんですよね。その一方で今って誰もが一瞬で音を記録できるじゃないですか。スマホ使ったら、スマホのボイスメモ使ったら簡単に録音できたり記録できたりする時代じゃないですか。
その異形の念みたいなものはですね、どうなのかってことは僕は持ってるんですよね。あんまり録音しないんですよ。何なら最近はカメラとか持ってますけど、それで記録することも面倒くさいこともあるんだけど、実は何かそれを撮って記録して発信して、それはどやねんみたいな。何のこれ意味あるのかなみたいな。一瞬それでバズったりとかね。
フォロワーにそれが伝わったりはするかもしれないけど、どうせタイムライン流れるじゃないですか。そんなもの。綺麗なみたいなね。インスタがその咲いたるもので、それでどうなんみたいな。
でもデジタルマーケティングする人はね、それでそれを何度も撒いて撒いて撒いて定着させてみたいなことを言ってるわけで、それはもうすごくわかるんですけど、自分はその方向としてはいかないなっていう感じがね。
だから未だにその異形の念というかリスペクトしてるんですよね。周りのいろんなものに対して。それは変わってないし、むやみやたらにね、たくさん機材とか道具は発達はしたけれども、特に何かそれで別に異形の念とかリスペクトの度合いが減ったとは思わないなと思いますね。だから昔と変わらないなということなんですよね。
で、今また話をちょっと変えて、機材の話になりますけども、録音の仕方っていろいろあって、音源にマイクをギリギリまで近づけてね、やるっていうやり方をちょっと本で書いたんです。21年前ね。
で、今ね、こういう野外録音、フィールドレコーディングっていう本もあるように柳澤先生がね、お書きになった。すごくお世話になっておりますけど。若者、結構ね、日常的にフィールドレコーディングやる人増えてきたんですよ。
音との向き合い方
で、一つだけ録音のね、極意を伝えるというかなりシビアな質問なんですけどね。これをどうしたらいいかなみたいなね、具体的なアドバイスをするとしたら、まず録音する前に聞けって感じよね。録音は誰でもできるんだけど、まずはその音に対して自分がどう向き合ってるかというか、向き合い方よね。
向き合い方ってめちゃくちゃ抽象的なんで、たった一つだけ伝えると、音をまず聞こうやみたいなね。聞いてから録音しようっていうことかな。そうするとね、バッと録音する場合、僕もあるんだけど、やっぱり自分と録音の対象のその関係性って何かなっていうね。
周りくどくって何にもお金にもならない話だけれども、でもそこなんですよ。お金にならない以上のBをちゃんと深掘っていかないとダメなんですよね。ダメっていうのは、納得した録音とかフィールドレコーディングできないっていうことですよね。そのあたりが必要なんじゃないかなと思いますね。
そして最後、聞くことの危うさについてですね。人は聞きたいものしか聞けないという人間の差がというのがありますけどね。現代のフィルターバブルっていう問題があるわけですよね。フィルターバブルって何かというと、いろいろなものがネットを通して入ってきます、情報が。
それが何でもかんでも入ってくるというよりも、ちょっとバイアスをつけて入ってくる都合の良いものばかり入ってきたりとか、自分に興味のないものっていうのは、阻害というか入ってこれなくなるようなアルゴリズムがあるわけで、それによって禁止に情報って入ってこないんですよね。聞きたいものしか聞けないという。
これ本来の人間の意識のあり方なんですけどね。興味のあるものに対しては注意とか意識向けられるじゃないですか。その擬似的なその認知の古いわけみたいなものがですね、マーケティングの中でも実際に使われてるわけですよね。
その結果、見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かないっていうような状況になってですね。これはもうどんどんどんどんそのあたりが増えていってるんじゃないかなというふうに思いますね。
だから、好むと好まざるとに関わらず、意識をしっかりと自分の中に持っていないとフィルターバブル的なそのバイアス、情報のインプットについてのバイアスっていうのがものすごくかかってくるので、より21年前と比べるとそのあたりの分解というか客観化というかメタ認知っていうのが非常に重要になってくるんじゃないかなと思います。
それができてないから厄介になるわけで、そこはもうなんかできる人はできるし、ダメなやつはダメっていうことじゃないかなというね。
そのあり方っていうのはやっぱりもう流されないっていうことだよね。流されてなんとなくっていうよりも自分の足でこう耳でまず聞こうやっていう。さっきの録音することと一緒だけど聞いてみようやっていうね。聞いてどうなのみたいな。
そういう自分で情報を取っていくことが非常に重要かと思うんですけど、これもう喋ってると説教だよね。老害じゃない?小松老害だよもう55でね。だいたい若者ね、日常的に関わってるけど、もうね、おじさんもう老害だからね。話聞かなくてもいいやからまず始めますからね。
本当にね。だからこれは説教にしか聞こえないんじゃないの?21年前になんか出会うことないけど自分とね。よりフィルターバブル問題もあってもうきつくなってきてるからね。それぞれの認識を正そうよねみたいな。という小松自身が正してないかもしれないので、もう老害だってだけでいいんじゃないの?これね。
あと関連して、他社のフィルターを尊重しながらより良い互換環境をデザインするためにね。いろんなことをやった方がいいってことを当時も書いたんですけども、どのような具体的な訓練トレーニングをね、課してるかという。これあの僕のゼミ性がそうなんですよね。もうこれね、初め耳トレやるんですよ最初に。
もうイヤートレーニングをね、どれくらい?2ヶ月かけてやるのかな?なんかトークの音を聞こうとか、なきりを探そうとかね、足音を聞こうとかね。あとはサウンドマップを書こうとか、ディープリスニングをやろうとか、そういうことをもう散々やって。
その後で京都の大学なので近くに観光地があるじゃないですか。いいも悪いも、今はもう本当にオーバーツーリズムで静かじゃないけどね。うるさいばっかりだけど、そういうところに行って、話しがいと言い方も悪いな。話しがいするわけよゼミ性を。行っておいでみたいな。
で、行ってきて帰ってきてさあどうだったっていう時に、とてもね、すみません今ちょっと切れました。いい言葉を出すんだよね、そういう。だからね、なんていうのかな、話しがいをしながらいい言葉を出すというか、それですよね。
ちょっとね、初めに訓練というかいろいろやるんだけれども、それをちょっとね、なんていうのかな、突き放して、あとは主体制に任す。教えることは教えるんだけど、主体制に任せてやっていくっていうことがすごく大事なんじゃないかなというふうに思いますね。
まあそういうことによって訓練、トレーニングをするという。これは人に対していい距離感なんですよね。教えるってことは割と強制的に何か話しというか関わるわけですよね。
で、そうじゃなくて、それもあるんだけれども、ちょっと突き放して、それで主体制の目を広げて、それで分かち合いをするというね、足し算引き算みたいなことをやってますよね。それによってですね、全身性が自分のフィルターとかね、あたりを自覚して、他の人が感じる音の響きに耳を傾けることができるようになるのかなと思うので。
まあここはね、経験というか、なかなかこう企業秘密みたいなところありますけど、できてるんじゃないでしょうかね。すごくこれはもう自己満でもいいと思うんですけど、全身性がとにかく楽しんでますからね。
これはもう21年前と全然、もっと言えば2001年の大学で教えた時から変わってないのかなと思うので、僕は学生たちにすごく学んでるし、自分はそれに対して公平にというかね、同じ目線で投げかけてるしっていうことをできてるので、教育者っていうのはちょっと僕は嫌いなんですけどね。
偽、偽というか、自分のなんか経験ばっかり話したりとか成功話とかね、そういうことを伝えたりするっていうのがいるでしょ、そういうの。うさんくさくないですかね。僕は一応教育者になってしまってるけど嫌なんだけどね。僕は学ぶ人っていう感じかな。
勉強家って言いに金松よしひろさん言ってますけどね。Bの肩書きの金松ちゃんは。そうじゃないの。学び合うっていうことだけというか、何なら教えていただいてますからね。どちらが教員で学生なんやみたいな。僕お金もらって学んでますからっていうことかな。
はい、ということで、好きなことだけ喋ってみました。