音の変化に対する探求
小松でございます。『音ってすごいね。』という本を21年前に書きまして、それを電子書籍化する作業をしております。
それで、普通にするだけじゃなくて、今の段階での21年後の小松化ですね。
21年前のものを見て、どう反応するかというような変化をつけたいなと思って、その資料作りとしてこの音声を活用するということで、
ちょっとやっていきたいと思います。今日が4回目になりますかね。ということで、第3章の方へまいりますね。
第3章は、大学の教育の中の音の活動についての記述をしたんですけれども、自分の音遊びとか、あと音の地図作りとかね。
そのあたりの、普段の授業プラスゼミでの内容に近い話となってますね。
21年前に、まず一斉に着信音という遊びをしました。これはですね、携帯電話が出始めた頃ぐらい、まだスマホの前なんですけど、
音をみんなで一斉に出すっていう授業の中でやったんですね。それで、一応生の音ではない電子音なんですよね。
電子音をみんなで鳴らすことによって、いろんな気づきがあったということなんですね。
これは、21年前、僕は生の音の豊かさと電子音の在り方を対比したんですよ。
その生の音が育む人間本来の在り方というのを社会に取り戻すために、あえて音を鳴らしたという感じなんですね。電子音を鳴らしたというね。
そういうことを考えた時にですね、やっぱり思うのは、やっぱり機嫌の音、自然の音、その音そのもののね、例えば水の音が聞こえるとか、人の声とか足音とか、
そういう、素材そのものが鳴らす音っていうのがあると思うんですよ。それと、今言っているような電子音、つまりスピーカーからね、人工的に音を鳴らしていくっていうような、
その2つがですね、街の中に特徴的にあるわけなんですけども、今はね、どんどんスマホとかモバイル、個人的に使えるそういうものが増えることによって、
どんどんどんどんですね、スピーカーから音が流されてしまっている、つまり人工音がずっとね、存在しているっていうことになってきているわけなんですね。
しかも人工音であってもですね、再生環境の技術的な改良によってですね、本当にもうまるでその場所にいるかのような立体音響的なね、そういう聞こえ方がするようなスピーカーとかイヤホンもありますし、
限りなくですね、人工音であっても自然的な音源を忠実に鳴らすことのできる時代にどんどんなってきたんですよ。
ということは、人工音を聞いても自然の音だっていうふうに誤解というかですね、そこに紐づけて聞いてしまっているような状況になっているなというふうに思うんですね。
ただそれはすごくね、一つ危ないと思うんですよね。人工音の一番、ちょっと欠点ですね、というのは位置がわからないんですよ。
どこで鳴っているかね、スマホでもどこで鳴っているかっていうのがなんかわかりづらいじゃないですか。人の声とか足音とか生の音っていうのはどこで何が鳴っているかっていうのをある程度予測することができるんですよね。
でもですね、今は都市に行くと特に商業施設、公共施設なんかは人工音でもまみれているわけですよね。
そういうところで、位置関係、音の持つ情報としては、音が持つ位置とか場所ですよね。その空間的な情報っていうのをやっぱりちゃんと生かさないと、せっかくそういう機能というか特徴というのが音にはあるので、空間的な情報量ということで考えていくとですね、
本当に人工音がね、着信音を含め人工音が増えているっていうことは、一つちょっと問題になるのかなというふうなところがあるんですね。これはですね、エンタメ的な音でまみれている場合だったらいいのかもしれないけどね、エンタメで活用というか享受する場合だったらいいんですけど、人の命に関わる音って結構あるじゃないですか。
例えば交通音とか、危険を知らせる音っていうのはやっぱ空間的な情報を伴ってきますから、どこで何が異物、異音が出た場合にどこからやってきたのかとか、そういうことを本当に察知しないと命に関わるわけですよね。
そういうこの動物としての生存、生存のための大事な危険を察知するための音っていうのか、そのあたりっていうのが電子音では補えないわけですよね。そういうその場所が持つ起源としての地の音っていうのか、そういうものをやっぱりちゃんとこう察知するっていうことによって、
自分の命をつなげたり、周りの人の命を守ったりすることもできる可能性があるので、そのあたりの危険回避のための音っていうのをね、やっぱサウンドスケープの専門家としてはね、提唱したいというか、そのあたりを同時に聞けるような状況っていうのがとても大事かなと思います。
そういう意味では、周りの音も聞こえてターゲットとなるような人工音も聞こえるといったような、例えば骨伝導とかですね、関節音を聞くみたいな、そういう環境音も聞ける状態のイヤホンっていうのがちょっとずつ開発されてきてますよね。
そこらへんのこう、うまく活用、併用できる可能性として、耳にすっぽり人工音のみを入らせるんじゃなくて、環境音も同時に聞こえるような、その構造のイヤホンとかヘッドホンというのが、これからもどんどん増えていってほしいなというふうに思いましたね。
はい。そして2番目、サウンドマップの話。音の地図作りについてなんですけども、これはですね、本文の中で21年前、これ変わってないです。他の人と共に存在してるんだ、あるんだっていうのを、音を介在しながら感じ合えるような、そういう場作りとしてのワークショップなんですよね。音作り。
これはですね、本当に音作りの本質だと、音の地図作りとして本質だと思うし、他者の感受性を尊重しながら、共にここにいるんだっていうBですよね。Bであることだとね、僕は書きました。
その理想的な在り方Bなんですけれども、それを実現するために、この21年間、僕はですね、大学の中で、そしてたまには外でですね、講演させていただくことによって、ただあるだけじゃなくて、そこからどういうふうに社会を作っていくかというか、場作りですよね。
そのDoの方へやっていくための努力は結構してきました。そういう意味ではですね、具体的にはいろんなプロジェクトをね、大学にいるときにですね、大学の中でいろんなものを依頼がありました。
例えばね、公共空間の音作りが結構その間ですね、50ヶ所とか100ヶ所ぐらいのところの依頼とかアドバイスをさせてもらったんですね。例えば鉄道とか病院とか美術館とかプラミタリウムとか、あとはもう本当に限りない場所ですよね、公共空間。
そういう公的な部分の実践をですね、時には学生と一緒にやったこともあるし、あと二条錠、最近だと二条錠のね、Nakedさんのプロジェクトなんですけども、そこにエンタメ的に音を入れていく、フィールドレコーディングした音を入れていくということをやってきました。
そのときも一番大事なのは、音を感じて音を作り上げていく耳なんですよね、感性ですね。そこをより分かち合いをするために、やっぱり学生と一緒にやるときにはですね、そのあたりをまずは共有するために音の地図作りをやりますね。
サウンドマップを音のワークショップ、音をまずは積極的に聞くっていう段階の中で多用してきました。それによって音の空間性も分かるし、他の人はちょっと自分と違う音の感覚を持ってるんだっていうことも分かるし、何よりも自分が音を聞くポイントとか軸みたいなものも分かってくるわけなんですよね。
ただ、別幕なく音を聞くっていうよりも、自分は今音を聞いている真ん中にいると。それを視覚的に音の状態をプロットしていくことによって、音をより客観的にメタ認知ができるというかね、そういうためのサウンドマップなんですよ。
それを具体的にやっていくことによって、やっぱり限られた時間、大学教育の中ではすごく長いことできないわけですよね。長くても2年間、基礎的には1年間で全部ね、もっと言えば半年ぐらい、週1回でしょ、たった。その中で学生と一緒にいろんな場所に行ったり音のフィールドワークをしたりするわけですよ。
そこで個人の気づき、いろんなものがあったり共有するっていうのは限りがあるんだけれども、そこで音の地図、サウンドマップを作ることによって、そのあたりの共有化がすごく、つまり自分の在り方Bとして音を聞くっていうところをうまく周りの人と共有していくっていうBとDoの間ですよね。
いろんなデザインをする場合はDoになっていくわけなんですけれども、このあたりの橋渡しがかなりできるかなというふうに思っておりますね。
なきり遊びの重要性
そしてこれをもとにより良い社会を築くための共通感覚をどう作っていくかというね、これはもう一点ですよね。相手への配慮というか、相手の音環境の聞き方、捉え方っていうのは自分と違うんだっていうことですね。
一緒なんだじゃないんですよ。違うんです。違いがあることが当たり前で、どのあたりにその許容できるか、どこが違うのかっていうその部分集合を調べるというかね、自分なりに自己認識するっていうのがやっぱり大事で、それを促すのがサウンドマップ、つまり相手への想像力っていうのが必要かなというふうに思いました。
そして3番目、なきり遊びっていうものをね、今もやってますけれども、こういうブロロンとかビロンとかね、なんか音をね、手を叩いてその空間の音の響き方を調べるようなそういう遊びなんですけど、フラッターエコーを調べるやつなんですよ。
そのなきり遊びっていうのは、人のね、我々の心の奥底にあるセンスオブワンダーの感覚ね、子供心に目を見張る感性なんですけど、それをね、見つけるための遊びなんですよね。
で、これをね、起爆剤にして、いろんな音への関心、興味関心のトリガーとなる部分っていうのがなきり遊びにあって、これをね、ただ僕は教えるっていうよりも自分も楽しむんですよね。
自分の音の感覚を楽しみながら、教員とかね、そういう大人がね、なんかもうよくわけわからない中でやってるなと、なんか違和感があったり変やなと、でもなんか面白そうだから自分もやってみようかっていうふうに思うわけですよね、学生とか他の人でもね。
そこが一番大事なのかなっていうね、これ面白いな、子供心に遊び方を受けてるなっていう状態でしたら、自分も子供時代があったわけで、そこでやっていくと、これ面白いな、起爆剤になるなっていうことを、もう本当にこれ毎回ですね、一つのタームというかゼミでもやってるんですよね。
するとね、なんか開放感があふれてきて、なんか自分のこうバリアというかね、そういうのを取っ払って遊んでいく。もちろんね、ちょっと恥ずかしくってできない学生もいるけど、大体楽しいっていうふうに感じる学生が何人かいるわけですよ。
で、そこからやっぱりその面白さを、音から面白みを伝えていくという仕掛けですね。それをね、やっていく。それはまず自分が楽しむってこと以外何もできないというふうに思うんだけども、そうすることによってさまざまな場所でフィールドワークをしたり、何かこう自分で実際に音を作るってことも学生しますから、
そういう時にですね、現場の空間の音の特徴は何なのか、どんな特徴があるのか、響くのか、響かないのか、何か音に問題があるのかっていうのを、たったね、手を一つこう叩くだけでわかるわけですよね。
はじめはね、あの遊び心のセンスオブワンダーだったのが、今度はですね、その音を聞いてチェックになる、チェックというかね、確認ですよね。そこまでできるような、まあ、Doになっていくわけで、そのあたりにやっぱりすごく大事な音の要素があるんじゃないでしょうかね。
はじめはB発信、そして気がつけばDoになってるなっていうのが、やっぱ鳴き龍遊びの面白いところなのかなと思うし、それをずっとやってきて、まあ何ら人間は変わってないなというね、そういうあの普遍性も感じたりしたりしました。
そして最後4番目なんですけども、音釉っていう言葉があります。これ、擬音語、擬体語をただ言葉で示すんじゃなくて、例えば漫画とかイラストとか、その言葉の記号というよりもその記号のみならず、それを表すビジュアルイメージですよね。
それを含めた音釉、擬音語、擬体語のあり方っていうのは音釉って言うんですよ。音を例えるって書いて音釉ね。それがありまして、これ夏目久之助さんという漫画評論家の方が作った言葉なんですけどね。
ちなみに夏目久之助さんは夏目漱石さんのお孫さんですけども、その音釉についてですけども、我々がDoをする義務とか思考とかそれをする以前に、ただ世界を感じている存在であると。これがBなんだけども、その証っていうのが音釉なんですよね。
例えばシーンっていうことは、これ手塚治虫さんが作ったと言われてる音がないことに対する状況ね。音がないのにシーンっていうふうに書く。音がないのにあるんだっていうすごく不思議な音釉だと思うんですけど、そのシーンの書き方もいろんなパターンがあるわけですよ。
なんかすごく細い字でシーンと書く人もいれば、なんかぶっとい字でスーッとシーンと書く人もいれば、漂う感じで波のようにシーンと書くような人もいればね。その書き方によって静けさっていうのがそれぞれの漫画家さんによって違うわけですよ。
その証っていうのがやっぱりあって、これただそれを見るだけでイマジネーション膨らむなっていう感じで、つまりは静けさっていうことも生々しい感覚としてBの部分をより膨らませるというか、Bの想像力を音でもって膨らませるっていうのがやっぱり音釉だと思うんですよね。
これで新しい音の共通言語を作っていくっていう場合に、どんなふうに僕は作っていくかというと、あるシーンという音釉があるじゃないですか。自分が書くシーンもあるし相手が書くシーンもあるけど、そこから僕は音を作ったり作品を作ったりするので、
そこから例えば、病院の音環境を作る場合も、やっぱり人によっていろんな感じ方は違うんだけど、自分が今感じている病院の状況ってありますよね。その病院の状況っていうのをまずは書くことによって、より自分で客観化されるっていう。
その書いた音釉に対して他の人に見せたりとか、他の方も音釉を書いていただくんだけども、それによってここまで音の成り立ちが違うんだなっていうふうなところなんですよね。
音環境デザインの実践
その違いがある場所をやっぱり音のデザインをしていく。サウンドデザインの一番難しいところは、不特定多数の方に向けた感覚刺激としては、視覚よりもすごく多様性のある音の状態っていうのを伝えていったりとか、作っていかなくちゃならない。最小公倍数で音を作る必要があるんですよ。
そういう時にやっぱり音の感覚ってやっぱりわかりづらかったりとか人によって違うので、とりあえず自分の書いた音釉はこうですよっていうような新しい音の共通言語を示すわけですよね。これDoに近いよね。
で、それを見せることによって、あ、なんかこう同じシーンっていう音だけどちょっとギザギザしてちょっとこう殺風景なんだなとかね。音がないところなんだけど静かじゃなくってちょっと違和感がある病院の状態だなっていうのが例えばわかるわけですよね。
で、それを深く見ていくと、なんかあの呼吸、人工呼吸器の音があったりとか、患者さんを温めるようなファンの音があったりとかしてて、音がないんだけどその機械音っていうのがものすごくやっぱね影響を与えてるんだっていうのがわかってきますよね。
そうしたら、その機械音に対して音がないっていう状態なんだけど、それを目立たなくさせるような音を作っていく、環境音を入れていく、音楽をそこにね導入していくっていう話になってくるので、そういうね、あの単なるBの楽しみからDoにねやっぱ行く可能性があるんですよね。
そういう意味で、やっぱりこう今やってるあのサウンドマップは何なのかな、音韻は何なのかなっていうのをね、そのいろんなフェーズがあるわけよね。Bのフェーズ、BとDoの間のフェーズ、そしてDoであるフェーズ、それぞれにやっぱこうお役目があるわけで、最終的にはやっぱりね社会デザイン、音環境デザインとなるとやっぱDoになってきますからね。
そのあたりのやっぱ攻め合い、やり取りっていうのでより良い音環境になっていくし、僕はそれを今も使ってますよね。そういうふうなところで、僕はそれを理論じゃなくて実践としてやってるので、やっぱりね答えのない分野、終わりのない分野ではあるけれども、今でき得る自分としての21年後の最適解をそこで作り上げてるんだっていうね、そういうところがあるので、やっぱりあの継続してね、コツコツ。
やってきてよかったなというね、学生と一緒にやってきたこともあるんだけど、そこから美味しいものをいただいて、つまり学生の感覚って素晴らしいですから、そのあたりを僕の音活動に全部添加して応用させていただいてるっていうところがありますので、そのあたりのね、共有化についてすごくね、僕は感謝していますね。
自分のね、Bの在り方をね、Doの行動実践にね、伴うことができてるのもやっぱり、あの一筋縄では行かないですけれども、一つずつのワークショップね、着信音を出したり、音の地図作りをしたり、なきり休みをしたりね、音韻を書いたりかなんかして、出てきてることがあるかなと思ってるので、いやいや未来に向けた本当に自我音をね、その時は僕は21年前そこまでできるとは思わなかったというか、そんなに深い意味があるとは思わずやってたんだけど、
今で言うとすごいよね、Bを深めることによってDoができるっていうことやね。そのあたりをね、自分にリスペクトしながらね、変化をね、第三章への変化を書いて、書いてじゃないな、喋ってみました。