1. 小松正史『耳の保養』
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2025-09-01 24:46

音の返歌① -『音ってすごいね。』から21年後のジブンデザイン-

21年前に上梓した自著『音ってすごいね。』を道標に、著者が自身の文章に「返歌」を詠むように語りかける。当時と今とで「音」の捉え方はどう変わったか。変わらないものは何か。音と自分を巡る思索の旅へ。

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サマリー

本エピソードでは、21年前に書かれた『音ってすごいね。』の電子書籍化の過程が話されており、音による自己デザインの重要性や、音が日常生活に与える影響について考察されています。また、当時と現代の音環境の変化にも触れられています。音の経験とそれに対する感覚の変化についても語られ、21年前の『音ってすごいね。』から現在までの時間を振り返りながら、音に対する憧れや意識の変化、さらには音の録音技術の進展について考察されます。

音の自己デザイン
今、21年前に執筆した、『音ってすごいね。もう一つのサウンドスケープ。』という本があるんですよ。
それがですね、めでたく電子書籍化になることになりまして、それで原稿を、昔の原稿を読みながら構成しているんですけど、
そこにですね、新しい考え方が生まれましてですね、21年前の自分の文章に対して、変化っていうのかね、
返す歌って書いて変化っていう言葉があるけど、その変化をちょっとつけてみようかなっていうことで、
まあこれでね、21年前の2004年なんですけど、ずっと思ってたこと、それが原石みたいなものがね、今あるのかないのか、そしてどう変わっていくのかっていうような、
変わるものと変わらぬものっていうような、その辺りをですね、ちょっと21年前の文章を読んでみて、どう変わっていくか。
それをですね、これ6章ぐらいあるんですけど、各章ごとにですね、ちょっとやっちゃおうかなということで、本来ならね、この本をね、文庫、文化なんかにして造作するというかね、そういうふうにしたらいいと思うんですけど、
せっかくなので、電子書籍という、割とね、編集とかがそんなに難しくないところがあるので、それをね、
逆手にとってというか、動きやすいね、柔軟性を持って、変化をですね、やっていこうかなというふうにね、思っています。
ということで、ちょっと詳しいことはね、今ね、中古でもほとんど出回ってないんですけど、踊ってすごいねという本がね、すごいタイトルですけどね、
なんでそういうふうに付けたかはね、その本の中に書いてあるので見ていただきたいんですけど、
それでですね、まずはプロローグなんですね。21年前に書いたプロローグがあって、それに対してですね、当時、みずみずしいね、文章だと思います。青臭いというか、
それが今54歳のね、延熟したかどうかわかんないけど、僕の視点から応答していくというね。
で、その応答した感覚というか、記述を今ちょっとね、まあこういうあの音声配信というにカコつけてね、
あのちょっと文章化をね、音声でね、あのやっていこうかなと思ってまして、まあ後々これをですね、あの文字、テキスト文字にして文章にしていくということですね。
でまずですね、プロローグ、これあの結構ね、臭いんですよね。僕あの一個ね、アイデザインマイセルフっていうふうに、あの自分デザインという、これ全部カタカナなんですよね。
自分デザインをね、あのやることがまず大事っていうことをね、あのまあもう21年以上前から、もう2001年から実はね、あの聖火大学入った頃からやってるんですけどね。
伝えてるんですけど、まあそれ今、今もね、自分にとって有効なのかというか、まあこれあの今回アイデザインマイセルフバイサウンズって書いたんですね。
音によって自分デザインしていくというね、はいこれどうなんでしょうかということで、もう全く変わってないですねこれは。
変わらぬ音の美しさ
原石そのものっていうか、音によって自分をリスすることもできるし、没入することもできるしね。すごい
やっぱり未だにメディアとしては僕はね、もう欠かせないというか、もう考えるまでもなく直感で耳からね、純粋に音が入ってきて、それにどう感じて、まあ自動的に感じることもありますけど。
そしてそれに対してどう自分が行動していくかっていうのもね、まあ視覚もそうなんだけど、やっぱりね、音ですね。音から変わるというかですね、行動の規範としているってことは変わらないですね。
で、まあ音をね、この基準としてね、道しるべにして公開を始めたというか、まあこれはもうちっちゃい頃からそうなんですけど、その自分がどこにいるのか。
それはね、やっぱり24年間、やっぱりDoが多かったですよね。自分がしたいというよりも、義務とかしなければならないとか、外的基準とかね、そういうものによって、まあ自分のもともとの純粋なものっていうのはあるんだけれども、やっぱり檻にね、それが溜まってしまったりとかね、あとはもう邪気にまみれてね、なかなかこう純粋な部分っていうのは、あのすごくね、
希薄になってきてるっていうようなね、まあそういう状態っていうのはやっぱりありましてですね。で、そういうところがね、やっぱりあの2004年の当時と比べると、まあかなりこう原石の周りに檻が溜まっている状態っていうのがある。でもね、あのそれを掃除したり磨いたりしていくと、やっぱりね、あの原石はあるんだ。全く変わってない。変わってないどころか、まあ新米にあった分ですね。
すごくね、純粋さのね、純度を増した状態であるんだなっていうのがね、感じられましたね。
まあそれでまあ当時と今とで、まあ生きるためのエネルギーというのがね、あると、音からね、得る方法はね、全く変わってないですね。はい、あのその当時から僕はピアノを弾いてましたし、まあ即興も弾いてますし、まあそれをね、あのまあ弾き方は変わった、変わっているかもしれないけども、まあ自分の内的なものから、内発的なものから音を出して、そしてピアノが鳴ってくれて、そのピアノの鳴ってくれた音をもう1回耳に
入れて、フィードバックして、それをまたこう元に何かこう考えたり、音を奏でたりするっていうことは全く変わってないですね。はい、なので当時と今とではね、生きるためのエネルギーはね、全く変わらず、むしろ純度が増しているっていうことが、結局、アイデザイン、マイセルフバイサウンズかなと思いますね。はい。
まあそれで当時ね、沈黙と耳鳴りの話を書いたんですね。僕は沈黙が好きだっていうふうにね、あの文章で書いてあるんですよ。で、この気持ちはですね、まあもちろん沈黙は好きなんだけど、まあ家族がね、あのまあできて、新しい、そしてね、あのまあ暮らしている中では、やっぱりね、あの身の回りのその家族から出る音、そして家族との繋がりっていうことをね、
やっぱり賑やかになったんですよね。で、賑やかさの中にまたこう、新しい感覚というか、生きるエネルギーも得たりもしているので、沈黙もあるんだし、その活気もあるというか、その触れ幅っていうのはやっぱりすごくあるなと思って。で、僕としてはその両方が好きですね。
沈黙も好きだし、あの活気がある方もすごく好きというか。まあ若い時ってやっぱりね、エッチというか尖ってるから、もうね、一人にしてとか沈黙好きだみたいな感じでね、孤独を好む傾向があるんですよね。実際時とかね、若い頃、特に青春とか割と青年期のあたりね。
それはそれでいいんだけれども、沈黙ももちろん好きだし、賑わいも好きっていうことが今の変化かなというふうに思いましたね。そしてまあ耳鳴りの話はね、これ耳鳴りって誰しも生理的な耳鳴りを持っているわけなんですけど、21年間の間に変化はおかげさまでね、耳鳴りの変化は変わらないですね。
しんどくなるとか大きくなったっていうよりも、左のほうが高くて右のほうがね、低いっていうふうに当時書きましたけど、あんま変わってないなって思いますね。まあこれありがたいことね、健康であるということと、そしてね、漢方薬をね、7年ぐらい前からね、あの、煎じているので、その影響があるかもしれないですね。
はい、ということで、まあ耳鳴りは友というか、当たり前に存在しているっていうね、生理的耳鳴りとしては、まあ定着しているなという感じがしますね。
そして、防音質に入るような極端な体験のことを書いたんですよ、その21年前。そういうのをしなくても、日常の中で体内の音とか環境音のありがたさをね、感じる瞬間っていうのは、これはめちゃくちゃ増えたんですよね。
これあの、むしろDoとBeの話をさっきしましたけれども、まあ自分にとって大事なものは軸としてBなんですよね。で、Bをより強く感じるこの媒体としてはですね、まあ体内の音、具体的には呼吸の音とかね、心臓の音とかね、あると思うんですよね。
まあそういう音を自然と聞く、自分の内側にある音をじっくり聞くっていう時間をやっぱり設けるようになりましたね。まあ具体的には朝と晩のベランダでね、ロングブレスをしたり、ストレッチをしたり、ヨガをしたりっていうのを日常的にやってるんですけど、まあそういう時にですね、体内の音を聞いてるっていうことをよくしてるので、特別に防音質に入っていないと体内の音が聞こえないっていうか、
特に若い時って外に対して意識が向いてることが多いじゃないですか。だからそういうことからはちょっと変化してるかなっていうね、何もしなくても内側を感じるまあ心の余裕と、心の余裕はそんなにないかもしれないけど、そういう心理的な傾向が出てきてるんじゃないかなというふうに思いますね。
はい、なので日常的にそういう瞬間はね、日々ねやっぱり限られた時間の中で生きてるわけだから、それをねあの感じることができてるのかなというふうに思いますね。
そして2004年の当時はですね、メディアがまあ垂れ流す音楽の洪水とかね、そういう事例としてちょっと書いたところがあって、
音環境の変化
CDとかテレビとかね、そういうことがオールドメディアですかね、今でいうところのね。そういうところからは音のカオス、混沌とした状態っていうのが出てきてるけれども、現代の2025年はストリーミングのサービスとかSNSとか、このスマホとかね、そういうモバイル、パーソナルメディアがすごく主流になってますよね。
その音のカオスの質っていうのがすごく変わったと思うんですよね。これ何かというと、空気中に不特定多数に対して出される音のカオスっていうよりも、もうね、何ならもうね外からの音はノイズキャンセリングして、ノイキャンしてね、
あの、遮ってですね。で、しかも自分が聴こうとしている曲とか音楽とかね、自分が選択して音の情報を取るってことしますよね。そういうのをね、メディア、特にパーソナルメディア、もっと言うとイヤホンでね、撮ってることが多いわけだから、不特定多数の
あの、空気の媒体を介して音が来るっていうよりも、自分の中で完結しているような感じですよね。そういう音によってですね、どんどんどんどんそれがね、押し寄せてくるわけです。これは押し寄せは変わらないと思うんですよ。
全く。むしろ今の方がその辺り増えてますよね。次から次へこう突っ込んできますからね。箇所分時間を。だからそういうことはますます増えてるし、それがあの空気というよりもそのイヤホンとかパーソナルメディアの中からのカオスがものすごく増えてるというか、むしろそっちの方が刺激が強いですよね。
そういう刺激の強さと情報量の多さっていうのが、やっぱり音のカオスの状態としては変わってきてるというか、悪化してるっていう風に言ってもいいんじゃないかなと思いますね。そして、聴感覚ですね。それのものをリセットする。そういう状態を、音の洪水、情報の洪水からね、やっぱり身を守らなくちゃならないじゃないですか。
そういうふうに当時から書いてるんですよ。今デジタルデトックスとか言ってるけど、当時からそれ言ってますからね。先端じゃないですか。今ならどんな言葉を選ぶだろうかっていうね。デジタルリセット、デジタルデトックスっていう言葉が、僕はそれ作ったわけじゃないけど、当時は僕はね、あの聴感覚をリセットしようとかっていう風に言ってるのは、
まあ、もうそれの前触れで僕言ってるので、変わらない。21年後の今はね、もう変わらないし、何をリセットしたいかなみたいな。これはもうね、明らかにデジタルのね、パーソナルメディアから来る情報をやっぱりね、自分であえて遮断しなくちゃならないというか、もうね、養分でしょ、今って。
メディアの養分、プラットフォームの養分にしてね、Googleちゃんがね、もうそこらへん吸い取ってるわけですから、まあそのあたりからやっぱりリセットしないと、まあ本当にもう奴隷になるんじゃないですか、本当に。奴隷になってる現代人はどうなのよ、みたいな感じでね。はい、これも怖いのが無意識にそうなっちゃってるから、意識的にリセットしないとそういう状況にはならないっていうのは怖いよね。
そして、またね、プロローグで書いたのは、稲の船や僕の故郷の近くで、その時に音を聞いたらですね、当時と同じように身体が音そのものに変換される感覚になるか、何か違うだろうかっていうね。
これ最近僕稲町に行ったんですよ、お盆の時にね、家族でちょっとご飯食べに行った時があって、その時も波音を聞いたんですよ。聞いたんだけど、波音自体は変わってないんだけど、稲町ですらね、オーバーツーリズムなんですよね。
外国人や日本人がね、やってくるっていう状況の中で、やっぱり周りは騒がしい、商業化されてる、そういうところのレストランがあるっていう、20数年前とはね、ちょっと信じられないような状況になってるわけですよ。
そういう中で、やっぱね、当時感じた、あるいは90年代に卒業論文で稲町の音をね、調査した卒業論文の音のフィールドワークでやったんですけど、その時に感じた音の深みっていうのはやっぱりね、残念ながらなかったなっていうか。
だから違う。水音そのものは変わらないんだけど、そこの地域コミュニティにあるような特性ですよね。商業的なあるいは観光的なもの、そういうのが増えてしまっているので、これ京都市も一緒ですけど、そういうね、深い音のね、感じ方にはならなかったっていうのが、ちょっと正直なところかなというふうに思いますね。
そして鳩間島のリーフの音っていう話もね、書いたんですけど、これ当時現実世界からね、帰りする感覚だっていうふうに書いたんですよ。
音の経験と感覚の変化
自分なりに音の経験を重ねた今ね、この感覚をどう受け止めるだろうかっていうことなんですけど、これはね、やっぱり僕は時間がなかなか足らないというか、ゆっくりと物事をじっくりしたためながら、自分の地ならしというのかな、魂おろしをしたいなと思うんですけど、なかなかそういう時間にならないんですよ、本当に。
それはもう業務がね、大学業務がとんでもなく忙しいので、そういうね、余裕すらない。次から次へといろんなものが押し寄せてきますから、そういうふうな状況の中でね、これは現役のね、社会人としては当然そういうふうになってしまうところはあるかもしれないけれども、
そういう現実世界から帰りできるような感覚っていうのは、残念ながらね、今のそのキャリアの中では難しいなっていうか、断片としてはそれできますよ、ロングブレスしてるときとかね、あとは自転車に乗ってちょっとだけは遠出に行ったりとか、大学のね、通勤自転車、通勤やってますけど、
まあそういう時にふと感じることはあるけれども、まあ20数年前あるいは大学時代の時のゆっくりした雰囲気の感覚で、それを感じられるかって言ったら全然そうじゃないなっていうのはね、あったりしますね。
そしてまあ21年という歳月、この2004年に音ってすごいねを作って、そして今ね、良きご縁で2025年ね、ありがたく、まあなんとか心身保ってる状態でギリギリ、その中で電子書籍家のね、あの話をねいただいたので、
まあそのあたりのね、2つの場所の音をどう変え、どういう風にね、変えていくかというか、21年という歳月、やっぱさっき伝えたように、人生のステージですよね、活動ステージが変わってきてるんで、
まあそのあたりから、やっぱり音に対するゆっくりしたこう、持続というかね、したためるように聞くっていう機会が減っているので、若い時のほうがそれは多かったなと思うので、いずれね、そういう風な音の聞き方にやっぱり変えたいなぁとは思うんですけど、
日常生活ではなかなかそういうのはうまく、そういう時間を保てない。もし保てるとしたらですね、僕はピアノをずっとやっぱりやめずに弾いているので、ピアノを弾いているときは、まあこれリアルな音というかね、楽器の音なんですけど、環境音とかね、自然音ではないんですけど、その環境音とか自然音に近い形でピアノの自分で出した音をね、フィードバックして、その余韻ですよ。
鍵盤で弾いた打鍵音と打鍵音の間にあるような感覚っていうのを、やっぱりすごく自然音みたいに聞いているところがあるので、時間は短いけど、そこを感じる感覚は全く変わってないなっていうのがね、言えることかな。
だから、音の気候を聞くための態度は21年前と変わってない。どころかもっとね、やっぱり人って不足があったりとか、なんかもう聞きたいけど周り忙しかったら、心をそっちに取られる場合もあるけど、やっぱりもうちょっと聞いてみたいとか、音に対しての憧れがすごくやっぱり出てるかなと思いますね。
そして、今ね、どうして音なのだろうっていうことも、このプロローグで書いたんですよね。今どうして音なのだろう。2004年にね、こういうふうに自分がね、問いかけた自分。2025年の自分は何と答えるかっていう、これは結構難しいよね、音。
答えようがないっていうか、人って互換の感覚で興味のある感覚ってあるでしょ。味覚は僕はすごくあるけれども、なんか惹かれるんですよ。理由ないんですよね。全意識で聞いてるからね、僕の音。
意識と全意識で聞くっていう、前の意識で全意識っていうふうに言いますけど、それはね、音の聞き方の癖は変わってない。フレームワークは変わってないので、もうこれね、理由はないんだけど、音なんですよ。本当に。
視覚的なものはそれはすごく、スマホとか画面を見るっていうのがやっぱり21年前よりかはやっぱり増えてるので、増えてるんだけど、やっぱり音っていう独特の吸引力のあるメディアっていうのが、通路が素敵なので、僕はそれは変わってないな。どうして音なのだろう。なぜか音に惹かれてしまうっていうところがありますよね。
そして、記録技術の発展っていうことも書いてあるんですね。それはね、当時とは比べ物にならないほど進んだと思いますよ。誰もが高音質な録音もできることになりますし、配信すらできるじゃないですか、このスマホとかね、iPadとかあれば。そういうふうに手軽に音の記録とか配信ができるようになった今なんですよね。
改めて音の世界を改良していくための知恵っていうね。これはね、人は退化しますよやっぱり。便利になればなるほど動物的な本能とか音をより分けるとか、これは良くてこれは悪いとかっていう、あるでしょ、善悪というかね、そういうもの。
それがね、やっぱりね、判断ができつつできない状態になっているんじゃないでしょうかね。だからこのね、知恵っていうのが衰えてると思います。情報が多かったり余裕がなかったりするから。
なのでね、ここはね、より意識的にそれを自分であの情報を取りに行く、遮断していくっていう主体的な覚悟がないと、これ波に飲まれるだけじゃないですかね。当面ね。100年後にね、こんなスマホがずっとあるとは僕は思えないけど、今は過渡期だと思います。人間どんどんバカになっていく。はい、アホになっていきます。
音に関する未来の考察
そこをどこまでアホになるかな、どういうふう、そこまでこうね、あのプラトンを作る人は騙せるかなっていうね、こう攻めき合いをしていると思うんだけど、まだもうちょっと続くんじゃないかな、10年ぐらい。はい、21年前のこれ話だけど、21年後までそれある、ギリギリあって21年後はちょっと人間賢くなってくるんじゃないかなと思いますね。はい。
で、最後にですね、小さな音をめぐるためにこれから共に出かけてみようっていうことを書いたんですよ。呼びかけました。21年経った今、新たにどんな旅に誘いたいだろうか。もうこれはさっき伝えたようなね、そう、もうね、その情報的な音、情報音とか、んー、タクミニプラットフォームが仕掛けてくる音、そういうものからいかにそこを断ち切って、
その別のところというか、それじゃない当たり前の身近なものっていうのが目の前にあるじゃないですか、こう生活とか、あのあとは何だろう、あのちょっとね、旅に出てもその場所場所でトチトチで聞こえるでしょ、その音をただ聞くだけでいいんじゃないかな、別に新しいところにそれがあるってよりも、
身の周りの音をとにかく、あのモバイルとかそういうメディアを1回やめるというかね、あのパラレルワールドでいいと思うんですよ、使わないモードの時をね増やして、あのそれを断ち切るわけじゃないけど、そういう時間を作って、それで身の周りの音をとにかく聞くたびにね、はい、生活の中の旅に出ていったらいいんじゃないかなというふうにね、思ったりしましたね。
まあということで、あの音の刺激がより強く、メディアからのあの垂れ流される音の刺激がより強く、それに巻き込まれる2025年の現代時に僕も合わせて、さあどう逃れるかというか、まあ当面逃れられないこのね窮地に立たされているんじゃないかなというね、そういう結論になってしまいましたね。
えーとね、今回は音ってすごいねのね、あのプロローグの変化をね、変化というか返す歌ね、それをちょっとね考えてみまして、ちょっと音声で入力してみました。これをね、ちょっとまとめて電子書籍にする時には、あの最初に持っていこうかなというふうに思っています。ぜひ楽しみにお待ちください。
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