1. 小松正史『耳の保養』
  2. 音の返歌⑦ -『音ってすごいね..
2025-09-03 29:53

音の返歌⑦ -『音ってすごいね。』から21年後のジブンデザイン-

21年前に上梓した自著『音ってすごいね。』を道標に、著者が自身の文章に「返歌」を詠むように語りかける。当時と今とで「音」の捉え方はどう変わったか。変わらないものは何か。音と自分を巡る思索の旅へ。

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サマリー

このエピソードでは、久保田が即興的な表現法や自身の身体と心の調和について振り返り、21年の時を経て変化したことと変わらないことについて語っています。また、環境音CDの制作や音の民主化について考察し、自らデザインすることの重要性を強調しています。音楽や音に関する個人的な探求と、文章作成における音声入力の重要性についても言及されています。さらに、身体と脳の関係や、自分自身の音を聴くことの重要性にも触れています。音楽のキャリアとその意味について考察し、自身の表現方法や音楽に対する姿勢についても語られています。

即興的表現の変遷
はい、小松でございます。シリーズになっております、『音ってすごいね。電子書籍化に向けての各章の変化を喋るという、そういう企画になっておりますけど、第6章まで行きましたね。
第6章は、表現映という内容なんですよね。
ちょっと読み返してみてね、やっぱり今と普遍的に変わらないものっていうのがあって、結局同じことを21年間やってるなということで、変にこう、当時青臭いと思ったけど、いや、そうじゃないなというか、漏洩してるなって感じしますね、自分の文章というか。
いや、なかなかね、先にそういうのを構築しちゃった人間なんだなと思って、そんなところを感じながらやっていきたいなと思います。
最初に、即興的表現法についての話をしておりましたね。
21年前、僕はMATSという即興的なあり方と、当時、ラーニングを始めたっていうことがあって、1999年からラーニングを始めたんですけど、今はちょっとしてないですが、そのラーニングという日々の実践が、自らの表現を支えているっていうふうに書いたんですよね。
この身体と魂の調律法というのが、21年間でどのように変化したかということなんですけど、基本的にはですね、いつ頃からか僕は走らなくなったですね。
いつだろう、今から10年ほど前?15年?なんかね、2010年頃まで走ってたような気がするんですけど、多分震災以降は走ってないということで、その分日々の通勤の自転車をすごく使ってて、片道10キロぐらいあるんですけど、
それの往復を自転車でやってるんですけど、それがちょっと近いなということで、相変わらずですね、階段があったら必ず僕はエスカレーターを使わないんですよ。歩いたりとかしてる階段を使っていたりしますし、できる限りですね、足腰を使いまくろうというところはやってますね。
そして朝と夜、特に朝なんですけど、割と激しめに近いようなストレッチとか腹筋運動をしたりしてるんですよね。だからね、身体的な意識っていうのはやっぱりね、自分の身体は楽器ですからね。楽器として活用していく、丁寧に接していくということをしたいと思ってますし、
その状況でですね、結局その身体の延長に脳があって、脳の延長に身体があるっていうことは変わらないので、その辺りの身体感覚っていうのは変わらずにね、温存してるなというふうに思ったりしますね。
そして最近だとね、タイパーっていうタイムパフォーマンスって言葉が使い古されてるような感じの印象が受けますけどね。そういうタイパーが求められる現代社会っていうのがあったとしたら、僕は真逆言ってるわけですよ。
待つとか時間かけるとか、効率的にしなきゃならないね、あのDoの仕事はもうね、ババババッとやっちゃうんだけど、それ以外のBの活動っていうのはできる限りね、時間をかければかけるほど良いなっていうふうに思ってるので、
そういうあえて待つというね、非効率的な創作スタイルをね、やっていくっていうことを今も変わらずやってるんだけれども、これもね、全てを待つような感じのゆっくりしたタイパーを完全無視したね、生活をしましょうよっていうわけじゃないんですよ。
すべきところのね、Doでやるところはもうどうしてもね、人って必要なところがありますから、それはね、タイパーをね、もう本当に研ぎ澄ます形でやってですね、それ以外でできた時間をスマホのスクロールでやるんじゃなくって、自分の内面を旅したりとか散歩したりとか、僕でしたら音を作るとかね、ピアノに向かう時間を増やすとか、
そういうふうにしてパラレルで時間をね、費やしていくことがすごく大事だなというふうに思うので、両方ですよね、やっぱバランスがめちゃ大事っていうのをやっぱり21年後の自分はね、54歳にして感じるところでございますね。
環境音CD制作の意義
はい、そして2番目、錬金術としての環境音CD制作ということで、僕は卒業論文でね、稲町のサウンドスケープ調査やったんですよ。で、その後で94年の大学院生になった頃にですね、稲町商工会から依頼があって、そのフィールドワークで収録した音源ですね、当時DATだったんですけど、そのDATで録音した音を
作品にしてCDを作ろうかみたいな話を僕は言ったんだけど、それをしようっていう話になって、その制作の過中の話をちょっとね、書いたんですね。
当時はすごくCD作る、環境音の作品作るってほとんどなかったので、すごく情報が来たりとかね、いろんな新聞とかね、テレビとかいろんなことでちょっと取り上げられましたし、このCD制作をもとにですね、ヤンマー、学生検証論文って出したんですよ。
するとね、特別優秀賞をいただいたっていう、他にやってる人まだいなかったっていうところもあって、それで50万円のハトマジマトコーヒーをいただいたっていう、そういうところになるわけなんですけれども、その創作ですよね、それが本当に希少価値としてやってたっていうところも今思えばあるんですよね。
ところがですね、今って誰もが配信者になったりアウトプットとかできる時代になったじゃないですか。そうした今ですね、音の錬金術、錬金術ってちょっとね、当時から言ってましたけれども、民主化されたっていう風に言ってもいいんじゃないでしょうかね。
簡単に言うとね、録音もできるし、発信もできるしね、編集もできるわけですよ。こんな状況でちょっと守り続けたいとかね、音のコンテンツ作りの一線とは何かっていうところなんですけど、これね、やっぱりなんていうのかな、自分に納得した音を作る、響きを作るっていうような、万人受けするっていうところもやっぱあるんでしょうかね。
自分の中から湧き出たものっていうのを、鮮度を保ってですね、作っていくっていうような、そういうところが必要なんじゃないでしょうかね。他人軸じゃなくて自分軸としてものを作っていく、環境音を収録して制作していくっていうことが大事なんじゃないかなというふうに思いますね。
とはいえ、所詮人間弱いですから、いいねの数とかね、再生回数とか気になるわけですよ。僕もそうだけどね。そういうあたりはあるんだけど、自分はこれだっていうね、とりあえず自分として納得して作っていけるかどうかっていうかね、そのあたりの精査ですよね。そこをね、やっぱり逃げずにというかね、目を逸らさずに突き詰めたほうがいいんじゃないかなっていうかね。
言ったら5年とか10年とか20年後のね、自分に聞かせて満足、その音源が満足をさせられるかっていうことですよね。そういう自分がやっぱり満足しないとダメですからね。
じりりたっていう言葉があるけど、自分にとってのまずね、軸っていうのはめちゃ大事でね。まあそのことを結構この音ってすごいね、今書いてるから、いやもう先見の目ありすぎですよね。小松リスペクトだと思うよ、これほんとね。
まあということだと思いますね。そして3番目の映像音楽制作のからくりということで、僕初めて林由紀監督っていうね、今同僚じゃないな、他の大学の先生してますけど、林くんのですね、映像音楽を作ったんですよ、2000年に大学院生の時にね。
そういう時に色々とこう、ものを一緒に共同作業、コラボレーションをしてね、作るっていうことを初めてね、経験させていただいたんですね。でその他者との信頼感ある関わりの中からですね、自我をね、自分の欲とかあるじゃないですか、欲求ね、表現欲ね、それを削ぎ落としていく実践をね、学んだんですね。
その経験というのは、自分自身の在り方にめちゃくちゃ影響したというのは僕は言える、言えますね。で特にね、思ったのはね、環境音楽制作。やっぱりね、色んな場所、公共空間とか、不特定多数の方が使われるね、その環境に音楽たくさん僕入れてるわけですよね。
そんな時に自分の欲はこうだとか、こんな音聴いてくれみたいなね、そんなことしてるとそこで浮いちゃって終わるじゃないですかね。でそれが終わらずに続けられるっていうのは、やっぱ林くんのおかげだと僕は思いますよ。
その時にね、弾いたらね、ちょっと音が多いんじゃないとかね、もうちょっとシンプルにやってとかね、すごい言ってくるんですよね、割と。その時はね、なんなん、さっきもやったのに、みたいな感じでイラついたこともありましたけど、でもね、その削ぎ落とすことによって得られる新しい境地っていうのがあって。
そこはね、もう本当に一生ものの感覚だと思いますよ。これを字で言ってるのが坂本隆一氏ですよね。音数少ないし、本当に一応にいろんなものを込めてることが多いじゃないですかね、坂本さんはね。
まあそういうところ、足元にも及ばないかもしれないけど、そういうところのその弾き算の美学みたいなものをね、やっぱりそっち行こうかなと思ってね。今でこそ、たくさん演奏でワーッと弾く時もあるけど、めったに最近そういうことしないんですよね。
なんならね、最近PICUの曲作ってるけど、削ぎ落としてるよ。1時間耐久で即興でやるっていうね、まあそういうこともしてるので、やっぱこれってね、今掘り起こしてみたら林くんのおかげだなっていう、そういう感覚がしますよね。
だからね、信頼感ある関わり合いっていうのは、自分のその表現欲を落とすことによって、また別の新たな境地を出していくっていうことが言えてくるんじゃないかなというふうに思いますね。だからね、これは大きな経験だったと思いますね。
続いて、アイデザインマイセルフっていう言葉なんですけど、これあの僕がねメール出すときにね、あの著名で書いてるんですけどね、これ自分デザインというカタカナで僕はずっとね、自分をこれで交付するというか、ブランディングをね、ブランディング、今他人塾みたいな話だけどね、自分のための自分のブランディングしてることをね、やってました。2001年にそれを作ったのかな。
つまりね、自分も他人もね、ご機嫌にデザインするという究極のあり方なんですよね。自分でまずはね、他人塾じゃなくて自分でデザインしましょうと。で、まあこれがね、とても大事かなと思って。で、この21年間でね、この理想をね、社会にね、あの実装した具体的なプロジェクトね、もうこれね、たくさんありますよね。
まずまあ大学の教育の中で、自分の根源は何?軸は何?ってね、学生にそればっかり言ってますよ。他人塾で生きると卒業論文、卒業政策できないよって。4年間何のためにここ来たの?っていうことですよね。高い学費とね、時間を費やしてきてる中で、人の軸とかそういうお客さんじゃないんだからもう、大学ってもう自分で切り開いていかないと、まあ意味ないというか。
一応文科省的にはね、124単位取れば一応学士の卒業いけますけど、まあそれだけでいいの?みたいな。そうじゃないでしょっていうことをやっぱり伝えてる。それは自分のあの中でのね、Bを探せっていうことですよ。
その最たることがアイデザイン、マイセルフなんですよね。本当にね、繋がってるというか、小松のこのやり方っていうのはやっぱそうだよね。直感的にこれだってわかるんですよね。後で20年くらいやったところで、こんなことを自分は言ってたのだっていうね。
まあこれは別に自分をすごく価値を上げるわけじゃないけど、天才的な感覚ですよね。元々のものの才能をポンと出してる人だと思うんですよね。
音の探求
そこでですね、見えてきたものというのは、やっぱり学生がそれを見つけて卒業論文を自力で書いてよかったよっていう状態になるっていうことと、あとはね、やっぱ社会全体が監視社会だから今って他人塾で生きてるしかないんですよ。
で、そこに気づいてちょっと距離を置いたらどうかなっていうことをね、いろんな講座で、まあ今日も耳トレの講座したけどね、午後の3時、1時半からかな、したけども、それはもうね、普通のメソッドで耳トレやりましょうじゃないんだよ。それはもう本当にね、Doでやろうっていうことは言わない。
それもあるけど、やっぱりBであるところの自分の中の音を聞いて、自分とは何かみたいな対話したらどうですかっていう青臭いところに最後はね、やっぱ着地点を見出すっていうことをすることによって、受講者の方はね、なんか自分事として音を聞くとか探すというかね、自分ってそもそもこんな人間だったんだみたいな。
そこが多分分かち合いができたんじゃないかなっていうふうに思うので、難しいというよりもそこが分かれば、あとからくりは楽なんじゃないでしょうかね。そんなに難しくないというか、いや意外と楽だよっていう、まあちょっと宗教にも似た感じかもしれないよね。
まあ教祖的な言い方になっちゃうかもしれないけど、そういうね、経典を僕は音からね、見つけてね、実践してるっていうふうに言っても過言じゃないんじゃないでしょうかね。
あと5番目、文章作成上達法っていうのをね、書いたんですね。これはね、タイピングの話なんですよね。自分の脳の延長としてタイプがあって、自分の思考ってすぐ動いたりとか早いじゃないですか。
で、それをタイピングが遅かったら、自分の流れるように、とろけるように出てくるような感覚みたいなものがやっぱりね、そこで滞っちゃうわけですよねタイピング。そうじゃなくて僕はピアノを弾いてますから、ピアノの指の動きっていうのがあると思うんですね。半音で練習したりとか。
そういう身体的訓練があるからこそ、そのタイピングでも結構ね、脳で考えたことをね、大阪のおばちゃんじゃないけどね、脳から喋りが直結するみたいなことをね、書いてる状況でこの音ってすごいのは書いたんですよ。
そういう感覚っていうのがとても大事なんだけども、人によってはタイピングが難しかったりとか、身体を使って言葉を紡ぐっていうことがすごく苦手な人が多いと思うんですよね。
言葉は言葉で理論的にしてそれを紡ぐっていうのは、身体というより頭だけ使って書いていけばいいんじゃないかみたいな、その書き方もあるけど僕はそれでは書けないですよね。なんか身体が伴ってないと文章にならないというね。つまり言葉というのはですね、音声とかね、喋りと直結してるっていうところなんですよね。
これはね、昔も今も未来も一緒だと思います。人々が失ってはならないと感じる、そういうね、頭から出たものをしなやかにアウトプットしていく方法というのがやっぱ大事だと思いますし、僕はですね、今もまさにやってるんだけども、音声、喋りですね。
頭の思考過程をより連動というかリアルタイムでアウトプットできるのはやっぱ音声なんですよね。それをタイピングだとやっぱね、体感的にはね、3割から4割遅いんですよ。頭で思ったことをね、アウトプット。
言葉はね、できる限り近いね。もうリアルタイムに近いっていうところがあるので、僕はこれ21年前はタイピングやってましたけど、今はですね、喋って文章を書いてるというね。これなんかまあね、21年前の小松がなんかそんなこと知ったら何してんだみたいなこと言われますけれどもね。言うと思いますよね。
でもね、よっぽどこっちの方が早いんですよ。もうほんと短期間で、これ今日で何回目?7回目ですかね。変化の喋り方ね。音ってすごいね。これね、できるのはやっぱりね、音声だからだと思いますよ。これで構成して、これはAIにまずぶち込むんですよね。
AIは勝手に文章化してくれるんですよね。文章というか、書き言葉じゃない、喋り言葉を記号化、文章化するんですよね。それをもとにまた編集をしていくっていうことになるので、これがですね、文章作成上達法っていうのは本当に音声入力っていうことになるかなという。これ当面こうなっちゃうかなと思いますね。
そして6番目、身体という感覚レセプターについてなんですけれども、身体は脳であり脳は身体である。さっきの文章上達の話にもそれ伝えましたけれども、その一体としての在り方というのはですね、僕の根幹となっているんですよね。
そうした哲学を僕は日々の研究とか教育活動の中で具体的なメソッドとしてね、他者に伝えていることはこれも伝えてるんですよね。これ最たるものがフィールドワークですよ。フィールドワーク行ってそこの場所の音とか五感とか感じるでしょ。
で、それを感じたのを自分でとりあえず違和感も含めてまず受け入れましょうっていうことを伝えてます。そこにフィルターとかね潜入感とかそのあたりは抜きにしてまずはインプットしろって。で、そこから自分なりにスループットね。スループットっていうのは半数ですね。半数して、それでまず自分の言葉でまず喋りでいいから出してみようと。
で、出した言葉に対して他のメンバーがどう感じてるんだっていうのをまた伝え合うというね。言葉中心、話し言葉中心ですけれども、そういうことによってですね、何かやりとりをする。そして本質が見えてくるっていうことをね、してるんですね。
これも僕は日々やってますよね。音声配信で最近は伝えたいタイミングでしか喋らないですけど、それをやることによってやっぱ自分なりにね、なんで音声配信なんかっていう話にちょっとなってきますけど、これは自分の整理するためにやってるんですよね。
人に伝えるっていうことはそれはあるんだけど、自分が何を考えているんだろう、どんなその感覚なんだろうっていうのを、やっぱ僕は最初から構築された理論とかそういうものがないってあることはあるんだけど、それ自体は何なのかっていう模索ですね、探すこと。
探すこと自体をですね、僕は音で声でやってるんですよね。喋っていくとなんとなく見えてくるところがあるというか、これね音声でやってない頃ってね、あの文章を書くときにちょっと時間かかったんですよね。文章を書くときに頭の中でああでもない、こうでもないっていうのはやっぱ反数あると思うんですよ。
そしてそこが出てきたらわーっと書くっていうところがあって、わりと時間がね、かかるときにはかかるっていう文章の作り方してたんですよね。ところがですね、こういう音声で喋ると、そこのあの実際に書き始める前のプロセス自体を喋ってるから早いんですよね。
あ、このワードが出てきた、このタームが出てきたっていうことでどんどん喋り始めてくるので、だからすごくね、あの表現しましたね、やっぱ表現として。これがね、すごいことやなと思っているので、まあそれにしてもですね、やっぱりあの音声で入力するっていうのはやっぱすごくハードル高いと。なぜかというと一人で喋ってるんですよ、こうして。一人で喋って、で出てきた言葉っていうのが頭の中で発想したものを口で喋ってるわけだけど、
これね、あの慣れないとねタイムラグが起こるんですよね。これね、あのピアノのあの、えっと、ハノンと一緒でやり続けないとこれできないんですよね。僕あの音声配信、まあ人前で直接見える人に対して喋るっていうのはずっとやってきましたよ、20年30年ね。
ただね、音声配信でこれ目の前に人がいない状態で僕喋ってるでしょ。でもそれがあたかも人がいるような状態で喋れるっていう違和感がね、やっぱりどんどん減ってくるんですよね。それになるまでにやっぱり3年とか4年、もう最近ですよこれ、スーッと喋れるようになったの。だからね、これね、やっぱり訓練がいるんですよね。
音楽の意義
とどこおりなく喋れるような感じで音声の入力で文章を作っていくっていうのは、わりとね、できたらそりゃあ当たり前にやっちゃってるけど、それするまでが結構時間かかるよね。しかも僕これ喋ってるのが自分だけの喋りとしてこうね、喋ってるっていうこともあるんだけど、誰かが聞いてるかもしれない、あなたが聞いてるかもしれないと思って喋ってるから。
その独特の甲と子の間ぐらいで喋ってるでしょ。このね、あの立ち位置っていうのもやっぱりね、やっぱり慣れないと難しいんですよね。これができるっていうのはやっぱり音声で、最近まで毎日配信をね、やってたよくも悪くも、そのフェーズは終わったけど、それがあったからこそですね、さすが小松よくやったな、毎日みたいな感じですよね。
だからそういう訓練を経て、身体という感覚レセプターを作ってですね、やっている。そのノウハウって全部今喋ってるし伝わってるから、やりたい人はそれでできるんじゃないでしょうかね。僕はその先駆的なことをやってます。
表現者として。そういうところで、その鳴りふりをやっぱりいろんなところで発信してるので、目の前の学生というよりも不特定多数の方が応用できるメソッドとして使っていけてるんじゃないかなというふうに思ったりしますね。
そして7番目、音楽することの意味について。くさい話だよね。21年前ですね、僕は音楽することの意味のなさの中に究極の在り方を見出したんですね。自分はその音楽やること全く意味ないって断言してるんですよ。でもその中にそれ自体を模索する、さっきの感覚と近いです。
それをやっていくっていうことで、それは本当に人からは見えない非常に高校な境地なんですね。その境地から小松はどのようにして他社とか社会に働きかけるという実践をやっていったのかということなんですけれども、これは好むと好まざるとにかかわらず、外からの依頼が来るんですよね。
今日の耳トレの朝日カルチャーセンターの方も僕を見つけたっていうのがね。いろんなところでも20年以上発信してるからそれは何か引っかかって2日か3日に1回ぐらい依頼が来ますね。だいたい断ってるけど。そういう感じで、依頼の御縁が来るんだよね。
それにね、自分のできうる範囲内で、そして興味のあることのみですけど、その反応をしていくっていうことをやってるんですよね。自分の能力才能がないことはわかります。ない才能に対してこれやってっていう依頼もね、来るわけでしょっちゅう来ますよ。
そしてそこで私わかりません、私できませんじゃないよ。そこからできないなりやってみましょうかねって感じで、僕はそこでノウハウとか技術とかやり方をそこで身につけていったわけなんですよね。
とりあえず張ったりでもいいからやりますって言って、それで合わせていくっていうタイプでね。堀江貴文さんはそんなこと言ってたような気がしましたけれども、そんなふうな形で他の人とか社会に働きかけるってことをやってきたんですよね。
しかもそれは僕が特殊に音楽作れる、音絡みで何かやるっていう才能というか技術持ってますよね。それに対して社会は他の人にはできないから小松に依頼するんだっていうことだから、そういうふうにやってきますよね。
そういうふうな感じで、もともと根源は自分が音そのものが好きでポロンポロンピアノを弾くとか音を聞くっていうだけの話なんですよ。それだけなんよね。ただそこからありがたく博士とかとらせてもらって、それで成果大学で働いて24年目ですけれども、
音楽キャリアの考察
そういうありがたいバックグラウンドをいただいたというところもあってですね、外からいろんな依頼が来たり、やってると実績になったりするから、こいつに頼めば失敗ねえなと思うんでしょう、人はね。それで依頼が来るわけですから。
そういうところで、やっぱり好きなことを僕は職業にするとかお金もらうとか一つも思わなかったですね。ただやってるとそういうふうなところになってですね、結果的に副業でお金もらうとかっていうのはありますけどね。
もらったお金はどうするかちょっと内緒にしておきますけど。そんなふうに自然とそういう回路が出てきたというのかな。そんなふうなところになってるので、意味はやっぱないんだよね。それで公共空間に音を作って人が幸せになったとかね。
なったかどうか知らないけど。それでまあまあ心地よくなったっていうのは結果論なんだよね。そこは僕あんまり興味がないとか、ああそうですかっていう他人事なんだけれども、音楽そのものを続けているっていうBのあたりは普遍的でしょう。絶対的なもんだと思うんですよね。
そこがあればまあ自然となんかなるんじゃないかなということで、人を深く追い求めることもしないし、基本的に人に興味ないっていうことですよね。そう本当にこんなことを言ったら身も蓋もないけどね。あんまない、全然ないかもしれないっていう。
えーって思われるかもしれないけど、まあそういうもので。しかもね、あのこの音ってすごいね見てるっていうかね、あの久しぶりに細かく読みましたけど、話がぶっ飛んでるよね。あっち行ったりこっち行ったりっていうね。このね、あの虹色配信ね、のぼけさんが言ってる小松の虹色配信じゃないこれ。変わんないよねやっぱりね。
なんでこんな話題飛ぶんだろうなんだろうっていう風なところを突き詰めると、やっぱ僕そういう人間なんですよね。何か一つを構築するっていうよりも、今日なんか感じたことをさーっとやる。エッセイ的なんですよ。これやったことをやるみたいな。ただやるっていう時にもうね、揺るがぬ確信があるんですよ。
それをもとにやっていくっていうことがあるから、まあそれが結果的に配信のコンテンツになったりとか、まあ配信の中でいろんな話題に飛ぶとかね、そういうことがあるけど、それは僕のあれじゃないかな、あのまあ通風口というかね、あの風通しが良いというか、まあそういうところを僕は求めてるのかなっていうね。
だからまあ、学問的に何か構築して細かくするっていうよりも、なんかなんとなく音絡みでいろいろやれますよっていうので、あのよろずやさんっていうのがね、あの僕には合ってるかな。今後もそういう感じだし、音に興味なくなったら音やめてますよ。本当。たまたまね、50数年間やってるけど、音にこだわりたいのかと思ったら、嫌やったらやめてるよっていうことだよね。
まあそんな感じで今日はね、割と深い話ね、第6章への変化をね、喋ってみました。あと後書きも最後ちょっとやろうかなと思ってます。ということはこのシリーズね、8シリーズになるよね。結構ビッグコンテンツになりましたね。ではまた。
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