ラマッチーニさんは産業医学を確立したというか、
その話をし始めたんですね。
この人何がどうすっかかったかっていうと、
医者の仕事として、患者さんの職業についてですね、
ちょっと聞いたりすることっていうのは、
病気を調べる上では大切ですよっていうことを、
初めて言い出したという人なんですね。
すごい。そんな昔に。
その工夫というか、炭鉱とかで働く人とか、
あるいは陶器を作っている人とか、
石細工を作っている人たちの、
そういう仕事をしている人というのは、
特別な病気にかかるよっていうことを発見したというか、
そういうことを言うたってことですね。
それがそういう本を出し合ったということで、
有名になって産業医学の父と言われてるんです。
この時代はですね、
現代の近代医学ではまだないんですよね。
そうですよね。
その顕微鏡もないし。
200年以上前。
ようやく解剖学とかが進行してきていたけれども、
やはりまだギリシャ時代とかの、
ヒポクラテスとかの体液病理学とかっていうのが、
主に考えられていて、
それが医学の本流だった時代ではあるんですけど、
ちょっとずつ新しい医学が始まっている頃だったんですけど、
この頃に産業医学を確立したというか、
作り上げたということで有名だったんですね。
だからこの病気になるっていうこともですね、
体液のバランスがとかって言ってたような時代なんやけれども、
職業についても病気やなっていうことを言い出したってことですね。
すごい見てたんでしょうね、患者さんをね。
この時代は病原体、ウイルスとか最近もわかってないし、
いわゆる化学物質とかって言われることもよくわかってないような時代に、
そういうことを言い出したわけですよ。
ちょっと見ときたいと思うんですけど、
ラマッチーニさんはですね、いわゆる内科医だったんですよっていうか、
大学卒の内科医なんですね。
この時代、ヨーロッパでは3つぐらい医者の中では身分があったと言われてて、
一番上なのが大学卒で内科医っていう人たちがいてて、
この人たちはでも、一般の庶民の方は診察しないんですよね。
いわゆる上流階級の貴族とか、王族とかっていう方への治療を提供してて、
一般の方にはあんまり提供しないと。
一般の方が主に関わるのは下科医って言われてる方とか、
薬剤師って言われてる方だったんですよね。
その人らは大学には行かずに、師匠から教えてもらって、
世間で医療を行ってるっていう人たちがあったってことで。
職人さんみたいでしたもんね。
ラマッチーニはこの大学卒の内科医だったんですよね。
イタリアのモデナっていう北部の町でお医者さんをしていて、
そこで大学を作ることになって、教授にもなったという人なんですけれど、
主にこの人らもモデナの町の、そこにも宮殿もあったらしいので、
上流階級の人たちを主に診察するというのが、メインの仕事だったんですけど、
この人はなぜか、庶民の方、働く人も診察するようになったって言われてて。
自分の自宅の便装?お手洗い?
お手洗い?
お手洗いを掃除する作業員を見てたと、ラッチーニはね。
ほんだら、この作業員っていうのは急いで仕事を終えたというか、
あんまり長いお出入りがあったわけね。便装を掃除するのに、めっちゃ急いでてやったと。
なんでそんなに急いで、すぐここを立ち去ろうとするんだってことを聞いたら、
この作業員は、便装の中に長くいると目がひどく痛んで、視力を損なうことがあるからだって言ったと。
アンモニアとか、そういう化学物質の影響でいろんな障害が出るっていうことが、長年わかってたんやね、その作業員の方は。
じゃあ、この職業によって病気がなるんと違うかということを、ラッチーニはそこで気づいたと言われています。
彼はですね、ただ診察室で患者さんを待つんじゃなくて、実際に作業場所に入っていろんなことを調べたと。
いろんな職場では、いろんな病気があるんと違うだろうかと。
いろんな匂いとか、粉塵とかがあったりとか、あるいは特別な姿勢をずっとし続けるから、
筋肉とか骨とかを痛めるんと違うかとか、長いことそんな姿勢をとっているんと違うだろうかとか、
同じ仕事の仲間に同じような症状がないか、みたいなことを書いたわけですね。
で、調べて判明していたってことですわ。
例えば鉱山で働く人っていうのは、咳とか呼吸困難が多いよとか、陶器を作る人とか画家とかっていうのは、
鉛を使っていることが多いので、腹痛があったり、麻痺があったり、神経症状があるよっていうことをわかったりとか。
あるいは、金属加工、錬金職人の方とか、鏡を作っている職人の方っていうのは、水銀を使っているので、
手を震えたりとか、口の症状が出たりとか、神経障害があるよっていうことを見つけたわけですよ。
だから、彼の時代では、その原因が水銀だっていうことはわからなかったんやけれども、
だけれども、この仕事をする人にはこんな病気が多いっていうことがわかったって言われてて。
なるほど、症状が一緒ってことよね。
そうなんですね。だから、この仕事をする人にはこんな病気が多いよっていうことを見つけて、
じゃあ、こういう病気が出ないように治療とかしなあかんよねみたいなことを、
マラッジーには考えて書いたっていうことですね。
だから、この職業病っていうのがあるっていうことを見つけて、
それを治療しないといけないよっていうことを言ったという時代の方です。
それで本にして、お医者さんはその後、こういう本を勉強しながら、
産業医学の基礎を学んでいったってことになるわけですね。
これが18世紀の時代ですよ。
次は、この病気を見つけて治すっていうことだけじゃなくて、
病気を予防するためにはどうしましょうっていうことを考えた人がいてるんですよね。
それが、そこから100年ぐらい後の人です。
チャールズ・ターラー・サックラーさんっていうイギリスの先生ですけどもね。
この方が1831年に本を刊行します。
いろんな職業が健康と治病に大きな影響がありますよっていうことを書いて、
単にこの職業病のことを記載するんじゃなくて、
職場環境を改善することが大切ですよっていうことを言い出したんですね。
なるほど。
言われてみれば当然ですけどね。環境のせいでなってるんだから、環境を変えればいいやんっていうことだと思うんですけど。
この時代はですね、この時代はその時代の切迫した理由があったわけですよ。
何かっていうと、この1831年とか1800年代の始めっていうのは、
さっきのこのルイ14世の時代から130年ぐらい経ってるんですけど、
フランス革命の、初めのマリアント・アネットが殺されたフランス革命じゃなくて、
そっから3、40年経ってですね、もう一回フランス革命の7月革命っていうのが起こるんですけど、
だいたいそれぐらいの時代で、産業革命っていうのがイギリスでは没効して、
どんどん境になっている頃なんですよね。
イギリスではですね、すごく工場がどんどん作られてて、工場労働で働く人がめっちゃ増えてたわけですよ。
それで、イギリスの産業にフランスが負けて、
フランスが不景気になって、フランス革命が起こるっていうことになるみたいなんですけど、
そのイギリス側ですよ。国全体としては産業が起こって、工業製品をいっぱい作って儲かってはおるんだが、
中で働く人たちっていうのは、すごい過酷な状況で働いてたわけなんですよね。
なるほど。
全然その工場とかの環境とかっていうのは誰も考えてなかったし、
資本家は金儲けのためだけに工場をどんどん作って、
職がなくなった農民の方っていうのは都市に来て、
雇われて働いてたけれども、それの環境がいまいちだったっていうことだよね。
ちょうどその時代に、このサックラーは医者として勤務してたってことなんですね。
サックラーはですね、1795年にリーズっていうイングランド北部のヨークシャ地方の町に生まれました。
このリーズっていうのは、古くから木織物業で栄えた町だったんだって。
どんどんこの頃っていうのは工業都市に変貌していました。
サックラーが生まれた小さい頃っていうのは、まだ町がですね、のどかだったんですけれども、
どんどん大人になってくるにしたがって、煙突とか工場とか過密的な住宅だったりとか、
県ぶりに覆われた町に変わっていったっていうのを、サックラーは体験して見てたわけだよね。
サックラーさんはですね、16歳の頃に下界県薬剤師のブルックさんっていう、いわゆる職人としてのお医者さんの弟子になります。
この人は、この下界県薬剤師の方の弟子になったわけですよ。
大学には行ってないわけだよね。
16歳の頃に弟子入りして、そこでリーズの町で弟子業を続けていくわけなんですけれども、その中で、きっと優秀だったんでしょうね。
ロンドンに出て、解剖学とか外科学とか臨床医学を学んで、学位を取るんですよ。
大学で?
大学じゃなくて、ガイズ病院っていう大学附属の病院に行って、そこで外科医師界の資格を取得して、またリーズに戻るっていう感じです。
わりと弟子入り系のお医者さんの中では、結構上の方に行ったんよね。
ちゃんとした国の資格を取ったっていうことで。
この時代は、みんながみんなこの資格を取ったお医者さんばっかりじゃなかったので。
だけど、結局22歳の頃にはまたリーズに戻って、貧困層の方とかを診察してたみたいですね。
外科医研薬剤師として勤務してたりとか。
その中でも自治体とか給品制度に関係する外科医が出たっていうことなので。
自治体とかが貧しい人とか困った人たちを処遇する施設みたいなのを作ってたと思うので、そこの外科医として活躍してたっていうことなんですよ。
工場労働者とか貧困家庭の中とか病気とか不省で動けなかった人々を数多く診察して、
同じ工場とか同じ職種の人たちが同じような脊とか衰弱するよね、体が変形してるよね、消化器症状似てるよねっていうことに気づいて、
これもやっぱり職業病だなっていうことを治療している中で、36歳の時に本を発行します。
リーズで働く人たちの病気を出したりとか寿命を縮めたりとかってするのは、
工場の環境に原因があるんですよっていうことを書いた本を発行するわけですね。
例えば繊維業っていうのはイギリスのリーズでは有名だったみたいなんですけれども、
糞人とか高温とか湿度とか長時間労働することでいろんな病気になったりとか、
炭鉱で働く人っていうのはやっぱり糞人とか事故とか死生とかでいろんな病気になったりっていうことを発見して言うということですね。
100を超える職業とか職種で問題点を指摘したと言われています。
すごい細かく。
細かくですね。
この人は学校も作ったらしいです。
この人自身が作ったっていうか、この人が担がれてみたいですけれども、リーズの町で医学の学校も作ったみたいですね。
だから本も書くし、実際診察もするし、教育を行うしっていう、できた人なんですよね。
サックラーがこの本を出した翌年か、翌々年か、2年後ですよ。
イギリスで工場法っていう法律が成立します。
これは労働の中では、労働環境を改善する上では画期的というか初めての法律で、
主に工場で子どもを働かせたらいけないとか、労働時間を決めましょうとか、
工場を管理する監督官っていうのをちゃんと設置して、無闇に働きさせないようにしないといけないよみたいなことを法律で決めるということなんですけれど、
これにも関わったというか、これが成立するのにこのサックラーの本とかも結構役立ったと言われています。
すごいですね。現代に通じる話ですね。
そうなんですよね。という方がいてて、ただこのサックラーさんはですね、そこから5年後か、
肺疾患、たぶん肺結核と言われているんですけれども、結構早めに亡くなっちゃって、
38歳で亡くなったって言われています。
今に残っている名前と業績の方なんですけれども、こんなに早く亡くなっているんだなということがでしたね。
産業革命が起こっている頃と、若干遅くやけれども、産業保険というのも進展したということになりますね。
だからこの労働者の病気というのも、個人の体質とか不摂生とか不運だったねということだけじゃなくて、
その方が働いている工場の構造とか空気とか、いろんな環境によって起こるんだから、
これは社会の問題ですよということを国もちょっと考え始めたということですよね。
社会としてもそうだなということで、やっぱり産業として、ただ金儲けと物品を尽きるというだけじゃなくて、
そこで働く人たちの健康も守らないといけないよねっていう認識が芽生えてきたということですね。
なるほど。
これが1800年代の半ばぐらいの話です。
今から言うと当然かなというか、みんなそうですよねっていうことなんですけど、この当時っていうのはこんなんやったってことですね。
これを制度にするのって大変だったでしょうね。
大変だったと思いますね。
つまりこれは、すごいつらい人がたくさんいてたんだということだと思いますよ。
そういうことだね。
ただただ人の善意でこんなふうができたんじゃなくて、これは困ってるぞ、どうにかしないといけないという人が結構束となっていてたと思うので、
それで社会が動いたっていうことなんやろうね。
その中の一人がこのサクラやったと思うし、もちろんこの人だけのことではなくて、多くの人たちが考えたことだろうなと思うんですけど。
まあでもこの問題って本当に社会を動かすことになるんかなと思うんですけど。
なるね。
大きな話で言うたら、よくわかんないけど、例えば資音主義のことですやんか。
この時代の資音主義がやりすぎというか、とんでもなく過酷だったので、共産主義っていうのが出てくるんかなと思うんですよ。
だから資音家のことだけで考えているようじゃ、もっと自民は不幸になってくるからということで、共産主義というのが出てきて、
そこから100年くらいこの2つの陣営は争うわけじゃないですか。考え方、どっちが正しいだどうだみたいなことを言うて。
共産主義というのは今の人類には合わんかったなということには、冷静な時代にはなるんだがっていう話ですよね。
例えばそういう大きな話にもなってくるし、そこまでいかなくてもこの産業の中でも、
やっぱり労働者っていうのは守らないといけないよねっていうのが、ここからゆっくり座ってくるんかなと思うんですけどね。
もう一段階進むことになるんですね。
これが徐々に進むので、誰がどうっていうことが言いにくいんですけど、
だいたい1950年くらいにILOっていう国際労働機関、国連の株組織があるんですけれども、
それとWHOっていうやつがあるじゃないですか。世界保険機構かな。
これによる産業保険っていうのをこうせないといけないよっていうことを決めたのが出るんですよ。
第一次合同委員会っていうのが1950年に出て、産業保険っていうのはこんなことをしないといけないですよっていうことを定義しますが、
それが一つの節目かなと思うんですけど、
これはですね、先ほどまで言ってたのは病気を治療して予防しましょうっていうことに加えて、
より労働者の健康を高い水準に保つために健康障害を予防することが必要ですよ。
予防をもっと起こる前にいろんなことを考えていきましょうっていうことを言って、
労働者の健康に適した仕事に配置しないといけないし、精神的な問題ですね。
人間として仕事に適応したものを与えないとダメですよっていうことを言い出したってことですね。
単にこの健康っていうことだけじゃなくて、
もうちょっとより高い健康を労働者に与えた方がいいですよっていうことを産業として考えていきましょうっていうことを提言するんですね。
そういったことで、産業医っていうのも企業はお金あげませんよっていうことを言い出しました。
これ1950年ぐらいですけれども、1950年っていうのは第二次大戦が終わって、
それこそ冷戦真田中の頃ですね、朝鮮戦争とかが起こってる頃ですよ。
日本ではまだ戦後5年ぐらい経って、混乱してる時期ではあるけれども、徐々に立ち直ってきつつある時代なんですけれども、
この時代に世界ではですね、労働者の健康をより注目していきましょうっていう動きになってくることです。